表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

美人過ぎる殺人犯


「うわー……」


 聡は眉を思い切りしかめた。隣では紘奈が吐き気を催したのか、口元を押さえている。それに気付いた笹木が聡よりも先に、下がっていていいと声を掛けている。だが紘奈は今にも消え入りそうな声で大丈夫です、と答え、その場から離れることはなかった。


「酷いものですね」


 美琴がさらりと艶やかな髪を揺らしながら言った。


「ですね」


 聡はそれに答えながら遺体を見た。

 聡の視線の先には列車に轢断された女性の遺体がある。既に線路からは出され、ビニールシートの上に寝かされているのだが、とてもそれは寝かされているとは言えない状態だ。

 走行中の列車に向けて思い切り突き飛ばされたと考えられる状態だ。だとすると自殺ではない。そういった経緯から、在庁中だった聡達の班が駆り出されたのだ。


「被害者は山本優香さん」


 聡は被害者のバッグから免許証を取り出し、その名前を読み上げはた。

 年齢は生年月日から計算するに三十歳。だが免許証に写る山本優香はそれより若く見えた。更新年は今年なのでこれはまだ新しい写真だ。そして若いだけでなく、美しくもある。


「こんな美人なのに……」


 免許証を覗き込んだ桜木が声を出した。聡は確かに、と頷きながら更に財布を探った。出てきたのはコンビニとレストランのレシート、様々な店のポイントカード、現金。どれもきちんと仕舞われているし、お札は向きも揃えられている。

 これらから被害者は几帳面な性格だったことが窺える。


「職業までは、分かりませんね」


 探る対象を財布からバッグに移しても、それが分かるものはない。


「兎に角、捜査会議を待つしかないですね」


 今は午後九時。十一時には捜査会議が始まるだろうか。それまでに出来ることは周辺の聴き込みくらいなものだ。




「うわー、見て下さい。こんなにきらきらになりましたよ」


 紘奈が両手を開いてそれを目の前に出してきた。笹木は綺麗にネイルの施された紘奈の指を見ながら、うん、そうだね、と答えた。

 紘奈は生まれて初めてネイルサロンを訪れたのかその出来に目を輝かせて感激している。

 笹木が話を聞こうとした相手――斉藤明里は、その間接客が出来なくなるのですが、と眉を下げた。なので一緒にいた紘奈のネイルをしてもらうのとにしたのだ。

 料金を払うのは一体どちらなのだろうか。笹木は有り得ない料金表に視線を向けながら思った。


「優香さんは厳しいところもありましたが、尊敬できる先輩でしたよ。引き抜きの話もあるくらい優秀でしたし」


 明里は使ったものを仕舞いながらそう言った。

 明里は大きな瞳に、長い睫毛、そして十代を思わせる白くてふっくらとした頬をしている。年齢は二十八歳ということだが童顔なのかもっと若く見える。


「誰かと揉めていたとか、ありませんでした?」


 笹木が尋ねると、明里はさあ、と首を傾げ、そのまま上目遣いに笹木を見た。そして、ピンク色の唇を本のほんの少しだけ開けた。思わずどきりとさせる表情。

 どうしたら男の気持ちが動くか分かっているのだろう。それを理解しながらも、笹木の動悸は速まる。明里はそれに気付き、目を微かに細めた。それにもまたどきりとさせられる。


「笹木さん」


 突然、紘奈の大きな声が耳に届き、笹木は我に返った。明里はその様子にくすりと笑い、再び手を動かした。


「お会計、一万八千円です」


 明里の甘い声に、笹木は自分の財布から一万円札を二枚取り出していた。その隣では紘奈が少しばかり面白くなさそうに、こういう人がタイプなんですね、と嫌味を告げた。



「恋人……なんですよね?」


 桜木の言葉に男は困ったような顔で頭を掻いた。


「ええ、まあ、はい……。あー、でも……」


 顔はまずまずなのに、はっきりとしない受け答え。桜木はそれに多少の苛立ちを覚えた。


「でも、何です?」


 すかさず聡が続きを促す。聡のいいところは些細なことで苛つかないところだろう。そのお陰でこんな男の聴取も進む。自分だけだったら早々に話を切り上げてしまっていただろう。


「まだ、そんな正式に付き合ってるとか……」


 男はまた頭を掻いた。柔らかそうな髪が動いている。本当に歯切れの悪い言い方しかしない男だ。桜木は腹の中で溜め息を吐いた。

 如何なる時も冷静沈着でいるべき。それが桜木のポリシーだ。


「前の彼女との別れが決着ついていない、というか……。はあ、な

ので恋人かって訊かれると……」


 ならこいつは殺された山本優香の恋人(仮)でもういい。桜木はそう思いながらそれをそのままメモした。それを見た聡が上手いこと書きますね、と感心したように頷いている。


「それで、前の彼女とは?」


 桜木は苛立ちを抑えながら口を開いた。


「優香ちゃんの……同僚です」


 男は至極言いづらそうに口にした。

 そんな狭いところで二股を掛けるなんて、なんという男だ。桜木は絶句した。



「二股とか……」


 美琴が盛大な溜め息を吐いた。聡は焼肉弁当を頬張りながらその横顔を見た。

本来はいつもの居酒屋で飲みながら捜査状況の話をする予定だったのが、週末ということで空席がなかったのだ。なのでこうして仕方無く、弁当を食べながら缶ビールを飲むことにした。


「女性には許しがたいことでしょうね」


 聡は白米をビールで流し込んでからそう発言した。


「女性には、てことは、男性はそういうのを当たり前だと思っているんですか?」


 軽く酔いが回っているのか、美琴が随分と突っ掛かるような口調で言ってきた。珍しいこともある。聡はそんな美琴の様子を見ながらそう思った。

 美琴が酔うことも、こうして突っ掛かってくることも、どちらも珍しい。いや、珍しいというより今までそんなことは一度もなかった。

 何かあったのか。聡は美琴の美しい顔を見ながら首を傾げた。


「何とか言って下さいよ」


 美琴が詰め寄るように聡に顔を近付けてきた。


「いや、当たり前なんかじゃないですよ? 当然、許せないことです。ねえ、笹木君」


 聡は美琴から無理矢理顔を逸らし、笹木の方を向いた。


「はっ? だから、何で俺に振るんですか?」


 笹木は吹き出したビールで濡れた口許を拭いながら言う。


「どうなの?」


 美琴は今度は笹木に詰め寄っている。


「や……そりゃ、許せない、ですよ?」


 笹木は間近にある美琴の顔に耳まで真っ赤に染め、しどろもどろに答えている。それを見ている聡と桜木は顔を見合わせてにやけた。笹木の気持ちは誰から見ても一目瞭然だ。


「……笹木さん、今日聴き込み先の人にうっとりしてましたよ」


 そこに水を差すように口を挟んだのは紘奈だ。紘奈は割り箸をふっくらとした唇に押し付けたまま、続けて口を開いた。


「まあ、確かに美人で、独特の色気がある人でしたけどね」


 紘奈の口振りに聡は閃くのを感じた。桜木も同じ考えに至ったらしく、再び聡と顔を見合わせた。


「ちょ……神沢さん」


 笹木は焦ったように声を出した。それに紘奈はそんなことは知らないとばかりに弁当を頬張っている。


「こんなこと言っちゃあれですけど、何か面白いですね」


 桜木が小声で言うのに、聡は小さく頷いた。

 人を好きになるというのは、どうしてこうも他人から見ると滑稽に見えるのだろう。でもそれは確かに温かく、人として大切な気持ちなのだ。


「あー、やっぱり男って美人てだけでいいのね」


 美琴は笹木から離れ、缶を口に付けた。これ以上飲むのは止めるべきか。聡は美琴の様子を見ながら考えた。でも、飲みたいなら飲ませてやるべきか。


「美人で、損したことあるんですか?」


 うんざりとした表情で髪を掻きあげる美琴に桜木が尋ねた。


「損したこと? そんなの、山程あるわよ」


 美琴の意外な答えに聡は少し驚いた。

 美人は得することはあっても損をすることはないと思い込んでいたのだ。現に、過去にそう言う女性がいた。

 ――美人であるだけで得なのよ。それなら、私はそれを存分に利用するわ。

背筋を伸ばしたようなその性格に惚れていた。遠い過去のことに聡は苦笑いした。


「男なんて、見た目しか見てくれないの。美人だから、それだけでいい。皆口を揃えたように言うのよ」


 美琴はそう言ったあと、ふう、と息を吐いた。確かに、そういうこともあるかもしれない。

でも女性もそうなのでは、と思う。かっこよければそれだけでいい、と考えている女性もいるだろう。


「ちょっと気が強いからって、美人なのに……とか言われるし。正直、そういうのはうんざりなんです。見た目じゃなくて、中身を見てもらいたんですよ」


 初めて聞く美琴の本音。こんなことを悩んでいたとは全く知らなかった。


「でも、そうではない男の人も、勿論いますよ」


 聡は空になった缶を片付けながら言った。そんな男ばかりだと思われては、自分も男なので空しくなってくる。


「ね、笹木君」


 聡は片付けを手伝う笹木に視線を向け、にこりと笑った。


「だから、何で俺に振るんですかっ」


 笹木はやはり慌てて答える。

 要らぬお節介かもしれないが、協力してやりたいと常々思ってはいた。でも、そこに紘奈も絡むとなると少しばかり状況は変わってくる。一体どうしたものか。


「へえ、笹木君てそうなんだ」


 美琴は鈍いのか、それともわざと誤魔化しているのかそう言い、缶ビールを飲み干した。


「美琴さんも、なかなか鈍いですからね」


 聡がその様子に苦笑いすると、隣で桜木が小さく吹き出した。そして、一番鈍いのは辻木さんですけどね、と言ったのだがその言葉は聡の耳には届かなかった。




 聡は鳴り響く携帯電話の音で目を覚ました。

 寝起きの頭に着信を告げる音は不快以外のなにものでもない。聡は手探りで携帯電話を探し通話状態にし、それを耳に押し当てた。


『おはよう、聡君』


 その声に聡の脳は一気に覚醒した。


『まだ寝てたの? 事件、起きてるんじゃないの?』


 電話の相手はくすくすと笑いながら言った。鈴の音をもう少ししっかりさせたような女性の声。


「まだ……て、今は五時だよ」


 聡は目覚まし時計に目を向けて答える。


『私にはもう、なのよ』


 相手は眠気など少しも感じさせない声を出す。


「そうだろうね。何の用件?」


 聡はベッドから起き上がりながら訊く。


『んー、ちょっとね』


「情報なら流せないよ。それに、貴女が食い付くような事件ではないと思うけど?」


 言っている最中に大きな欠伸が出る。昨夜はあのまま日付が変わるまで飲んでいた。

 すっかり酔いの回った美琴を桜木に送らせ、全く酔っていない紘奈を聡が送り届けた。美琴を笹木に送らせなかったのはそれでは紘奈が可哀想だから、という聡の気遣いからだ。


『美人ネイリストが殺されたことじゃないわよ。聡君、未解決の捜査班に知り合い、いたわよね?』


 久し振りの電話がこんな用件だとは。聡は小さく苦笑いをした。自分達の関係にそれ以上のものがあるわけはないというのに。

 心の何処かでまだ期待でもしているというのか。


「深水さんのこと?」


『そうそう。彼のこと、紹介してくれないかな?』


 電話の向こうではざわめきが聞こえる。時間的にもそんなに余裕はないはずだ。


「出来ないよ。ばれたら不味い」


『あら? そんなこと気にする聡君じゃないでしょ?』


「もう時間ないよね? 切るよ」


 聡はそれだけ言い、電話を切った。耳にはまだその声の余韻が残っている。

 その後聡は携帯電話を軽く放り、CDプレイヤーに手を伸ばした。そして再生ボタンを押す。

 爆音で流れ出すロックミュージック。歌手名も楽曲名も知らない。単にこの曲が好きだというだけで、それ以上の情報は何もいらない。誰が歌っていて、誰が作っていて、どんな名前がついているのか。

 それは聡には興味のないことだった。重要なのは中身なのだ。

 全ての準備を終え、音楽を止める。そしてテレビを点けた。


『おはようございます、桐嶋玲良です』


 テレビ画面の中では美しい女性キャスターが丁寧な仕草で頭を下げた。隣にいる中年の男性アナウンサーも同じように頭を下げる。聡はそれを眺めながら牛乳を飲んだ。

 毎朝朝食はこれのみ。こんなに早起きしたのだから今日は予定の電車に余裕で乗れるだろう。



 聡は渋滞の列に潜り込むタクシーの姿を見ながら溜め息を吐いた。間に合うと思っていたのに。結局、電車には乗れずにこうしてタクシーで出勤する羽目になってしまった。


「おはようございます」


 丁度出勤してきた桜木と鉢合わせた。


「おはようございます」


 桜木は聡の隣に並びながら、今日はタクシーなんですね、と柔らかい口調で言う。


「今日も、ですけどね」


 聡は整った顔に苦笑いを浮かべながら答えた。


「今日は涼しいですね」


 桜木はどんよりと曇った空を見上げながら口を開いた。確かに今日は涼しい、というよりむしろ寒いほうかもしれない。パーカーを羽織ってきて正解だったな、と思いながら足を進める。



 デスクに着くと既に全員が出勤していた。

 美琴は聡の顔を見るなり、昨夜の非礼を詫びてきたが聡はそれに笑って返した。酒の席のことだ。その程度の失態は誰にでもある。

 美琴は最後にもう一度、本当に申し訳ありませんでした、と付け加えた。

 今日もこうして、捜査が始まる。



「そういえば、優香さん、恋人出来たみたいでしたけど」


 明里がきちんと口紅の塗られた唇を小さく前に出しながら言った。


「恋人……」


 それは既に知っていることだと、笹木は腹の中で溜め息を吐いた。そしてその男と別れの決着がついていない女がいる。笹木はその相手は彼女ではないだろうな、と思った。

 理由は彼女の美貌と仕草だ。

 確かに殺された山本優香も美人ではあった。でも明里のほうが美人だ。それなら彼女が男をとられるわけがない、と思えてならない。

 明里は笹木の視線に気付いたのか小首を傾げ、彼を見た。やはりどきりとさせる表情。こんなに男の心を簡単に揺るがせられるのに心変わりされるはずがない。


「山本さんて、この中で親しい人、いましたか?」


 笹木は明里から視線を外して訊いた。大きな目で見詰められると思考が止まってしまうようだからだ。


「さあ……。優香さん、一匹狼、て感じでしたから」


 女性にその表現を使うのは珍しいと思いながらも笹木はそれをメモに取った。


「斉藤さんは、彼氏、いらっしゃるんですか?」


 紘奈が唐突に口を開くので、笹木は思わず手を止めた。開店前の店内は意外にも騒がしい。ネイリストがそれぞれ準備と本日の予約者の確認をしているからだろう。


「います、よ? 最近、あまり上手くいってませんけど」


 明里はそう言ったあと、視線を紘奈から笹木に移し、軽く微笑んだ。柔らかそうな頬が微かに動く。仕草この人も美琴同様、美人過ぎて損をしているのだろうか。



「絶対に腹いせですよ」


 紘奈の不機嫌さが露になった口調に聡は思わず笑いそうになった。それを寸でのところで堪えたのだが、どうやら桜木は堪え切れなかったらしく笑ってしまっている。


「え、何で笑うんですかっ?」


 自分の気持ちが露見しているなどと微塵も思わないらしい紘奈は不思議そうな顔を桜木に向けている。当の本人の笹木もどうやら紘奈の気持ちには気付いていないらしく、紘奈と同じような表情だ。


「いえ、何でもないです」


 桜木は無理矢理笑いを止めて、軽く頭を下げた。余程ツボに入ったのか、まだ微かに肩と顎が震えている。


「んー、でもどうかな?」


 そんな状況など興味がないと言わんばかりに静かな口調で言ったのは美琴だ。


「どうしてですか?」


 紘奈は首を傾げながら美琴を見た。聡もその発言は不思議に思い、同じように美琴の美しい顔に視線を向ける。

 今日も居酒屋は満席で、こうして捜査会議の繰り広げられる部屋で缶ビールを飲んでいる。


「直接会ったわけではないので、想像でしかありませんが」


 美琴はそう前置きしてから言葉を続けた。


「斉藤明里は美人なんですよね? それも、とても。笹木君がメロメロになるくらいに」


 その言葉に笹木は慌てて、なってません、と口を挟んだ。


「ちょっと黙ってて」


 美琴の叱咤に笹木はしゅん、と肩を落とし、すみませんと呟くように言った。

 確かに手元にある写真の中の斉藤明里は美しい。それも度を越えて。目鼻立ちが整っているのはもとより、その雰囲気もだ。

 童顔のわりに艶めかしさがあり、軽く持ち上げた口の端はまるで男を誘う小悪魔のようだ。自分の魅力を分かりきっている女性。

 斉藤明里の写真から聡はそう感じ取った。


「こういう女性は、男をとられたことを悔しいと思わないはずです。次の男を探せばいいだけですから。それに、探さずとも順番待ちのようにいるでしょう」


 美琴は明里の顔写真を指でつついた。


「乗り換えられた、そうなったら早々に見切りをつけるはずです。自分の魅力を理解出来ない男に用はないでしょうから」


 それはプライドが高いが故の意地だろう。自分より他の女を選んだ男にしがみついていたくなどない、という見栄。実際に何とも思わないわけではないが、そんな姿を見られたくない。そう考えるのだろうか。


「でも、彼氏は決着がついていない、という言い方をしてましたよ?」


 桜木がピーナッツを摘まみながら言う。


「それは、自分が別れたくなくて、別れを言い出せないだけだと思う。そんな美人な彼女なら少しでも長く付き合っておきたいんじゃない?」


 どうやらこの面子では山本優香と二股を掛けられていたのは斉藤明里で決まりだということになっているみたいだ。聡は目の前で繰り広げられるやり取りを見ながらそう思った。

 実際、自分もそうは思っている。山本優香に恋人が出来たみたい、と証言したのは自分は二股の事実など知らないというアピールなのだろう。だとすると、やはり彼女が犯人だということか。

だが、美琴の意見を聞く限り動機が見当たらない。腹いせで殺害するなど、それこそ彼女のプライドに関わるだろう。

 自分を捨てようとした男が選んだ女。それに詰め寄り、責め、詰る。だが逆に見下され、勢い余って殺害。

 脳に浮かぶシナリオは斉藤明里の人物像に当てはまらない。聡は自身の指に嵌められた指輪をとんとん、と叩いた。定期的に磨いてなどいないその指輪は少しばかりくすんでいる。


「それは、美人過ぎる美琴さんの経験談ですか?」


 桜木の言葉に聡は指輪から視線を外した。

 美琴は五年前のあの時から恋人はいないはずだ。もしかしたら自分が知らないだけかもしれないが、聡はそう認識している。


「そうね、経験談かも。悔しくて怒るより先に、笑顔が出てきたの。お幸せに、なんて言葉まで一緒に」


 美琴が振られるということ自体、聡には考えにくいことだった。誰が見ても美しいと思える顔立ちに、凛とした姿勢。さっぱりとしてはいるが、女性らしい性格。他の女を選ぶ要素など何処にもないように見えた。

 だがしかし、恋愛は理屈でするものではない。感情が動くもの。だからこそそういったこともあるのかもしれない。

 でも聡には恋人がいるにも関わらず他の誰かに気持ちが動く理由が分からなかった。目の前にいる人を本気で愛しいと思うなら、他の女性の入る隙など少しもないはずだ。

 それが重かったのだろうか。聡はふと込み上げる自嘲を抑えた。


「取り敢えず、明日、斉藤さんに恋人の話を聞いて下さい」


 聡が言うと、紘奈が妙に張り切って返事をするので、それに対して桜木がまた笑い始めた。



 美琴は帰り道、溜め息を吐いた。

 送ってくれる、という桜木の厚意に甘え、夜道を並んで歩く。本当は笹木が送りたそうな表情をしていたが、敢えてそれには気付かない振りをした。笹木の気持ちにはとうに気付いているが、それに応える気はない。

 自分には好きな相手がいる。過去のことなど忘れさせてくれるくらいに。でもそんな彼は自分のことなど眼中にはないようだ。


「美人でも、意味ないのよね」


 美琴は愚痴るように呟いた。


「恋愛では、ですか?」


 桜木が柔らかい声で尋ねてくる。


「桜木君は鋭いわよね」


 美琴が言うと、桜木は苦笑いをながら首を横に振った。


「皆さんのこと、いつも見てるだけです。そうすると自然に分かります」


 自分はそんなに態度に出しているだろうか。美琴はやだ、と手を頬に当てた。なるべく態度には出さないようにしているつもりなのに


「大丈夫です。態度には出てませんから」


「ならいいんだけど」


 美琴は頬から手を外して前を向いた。

 空高く月が輝いている。




「二股……ですか?」


 明里は唇を少しだけ開けて紘奈の顔を見た。女の自分でもつい色っぽいと思ってしまう表情だ。紘奈はそのせいで次の言葉を一瞬見失った。だが直ぐに言うべき言葉は頭の中に舞い戻ってきた。


「そうです。貴女と、山本さんは同じ男性と付き合っていたんです」


 もう少し念入りに化粧をしてくればよかった。紘奈は明里の顔を見ながらそんなふうに悔やんだ。

隣にいる笹木の様子を気にするが、今日は彼女に見いられてる様子はなく安堵する。


「知ってましたよ」


 明里がさらりと答えるので、紘奈は拍子抜けしてしまった。


「彼に、他に好きな人が出来たのは気付いてました。それが優香さんだと知ったのは、優香さんがなくなってからですが」


 明里は嘘をついているのだろうか。紘奈は明里の表情の変化を見逃すまいと目を凝らした。だがそこに、感情、と呼べるような表情はない。いつも美しくいようとする表情にしか見えないのだ。


「……悔しく、ないんですか?」


 昨夜の美琴の話を思い出し、それを尋ねた。


「彼が優香さんとのほうが幸せになれると思ったなら、それでいいんじゃないですか?」


 明里はにっこりと笑った。

 そんな男には用はない。まるでそういっているかのような表情だ。

 どうやら美琴の考えは正解だったらしい。だとするとやはり振り出しに戻ってしまうのか。紘奈は耳朶を指で摘まみながら笹木の横顔を見た。するとそれに気付いた笹木が紘奈のほうを振り向き、視線が交わる。

 少し吊り気味だが優しそうな目で、思わず心臓がどきりと鳴る。紘奈はそれを隠すように視線を逸らした。


「貴女は引き抜きの話とかはないんですか?」


 笹木が突然口を開くので、紘奈は驚いてしまった。笹木の顔は他のスタッフに向けられている。


「ええ、特には。私はこのお店が気に入ってますし」


 明里は小さく微笑んで答える。

 そうか。彼女は見栄を張ったり、嘘を吐くときに微笑むのだ。となると、彼女は会話の殆んどを偽っているのではないだろうか。

 紘奈は明里の担当のテーブルの上に置かれた一枚の名刺を見付けて確信を持った。



「目撃情報出ました。目撃者はその日から旅行に行っていたので、情報を得るのが遅れました」


 桜木の冷静な声に、明里はふう、と艶かしい溜め息を吐いた。

 任意の事情聴取で明里を引っ張ってきたのは三十分前だ。重要参考人として、という言葉に明里は笑ってみせたらしい。

 聡は目の前に座る美人過ぎる女性に視線を合わせた。明里の顔は本当に美しい。ピンク色の唇から漏れる息すら相手を虜にしてしまいそうだ。


「彼をとられたから、ですか?」


 聡の言葉が取調室に響く。それを聞いた明里はまさか、と大袈裟に口を開けてみせた。


「あんな男、どうでもいいのよ」


「なら、何故ですか?」


 聡は明里の大きな瞳を見た。人を一人殺しているというにも関わらず、澄んだ瞳。罪悪感などこれっぽっちも感じていない証なのだろうか。


「引き抜き、ですよね?」


 聡は一枚の名刺を明里の前に出した。

 日本で一番人気のある高級ネイルサロンの名刺だ。明里はそれに視線を落としてから、また息を吐いた。少しだけ気だるそうにするのがまた男をそそるのだろう。


「私のほうが実力も人気もセンスもあるのに」


 それで殺害現場である踏切付近で言い争っていたのだろう。それを目撃されていたのだ。

男をとられるのは構わなくても、仕事で抜かれるのは許せない。それが彼女のプライドということなのだろうか。


「口論の末、激情して殺したんですか?」


 実際、こんなふうに誘導するような聴取はするべきではないのかもしれない。

でもどうしても腑に落ちないのだ。それに、斉藤明里という女はこうして糸口を作らないと自らは語らない。やはり罪悪感がないのだろう。


「違うわ。そんなことで殺さない」


 明里は真っ直ぐに聡を見ながら言った。やけに無垢な表情だと思うのは気のせいだろうか。


「じゃあ、何故?」


 聡は明里の様子に薄気味悪さを感じ始めていた。今まで対峙したことのないタイプの人間というのはここまでおぞましく感じるものなのだろうか。


「欠伸をしたから」


 明里は髪の毛先を指で弄りながら答えた。その瞳は何処を見ているのかまるで分からない。


「え?」


「何であんたのほうが引き抜かれるの、何かしたんじゃないの、て大事な話をしてたのに。

あいつ、欠伸なんかするんだもの」


 だから迫ってくる電車に突き飛ばした。聡は背筋がぞくりと凍るのを感じた。

 欠伸をした。ただそれだけのことで相手を死に至らしめたというのか。


「……残念ですけど、山本さんに引き抜きのお話なんてなかったんです」


 聡の言葉に明里はえ? と小首を傾げた。ふんわりとした頬は動かない。


「その名刺からは、それを持ってきたうちの桜木君と、山本さんの指紋しか出ませんでした。これを山本さんに渡した人はいないんです」


 恐らく、自作の名刺、というところだろうか。


「へえー、あいつ、下らない見栄張ってたのね」


 明里はそう言った後、ふふ、と笑った。彼女の思考を理解することは不可能だ。


「私が彼女を殺しました。それでいい?」


 明里の言葉が聡の胸に刺さった。むかつきや苛立ちとは違う。聡は連れていかれる明里の後ろ姿を見ながら、胸がいたくなるのを感じた。

 殺人を犯して、こうも堂々としていられるものなのだろうか。




「美人て、性格悪いって本当かもですね」


 紘奈が両の腕を擦りながら呟いた。


「喧嘩売ってる?」


 美琴がそれにすかさず反応をするので聡は思わず吹き出してしまった。桜木も聡の隣で笑っている。


「いえ、とんでもない。美琴さんは完璧ですから」


 焦るかと思ったが、本心なのか紘奈はさらりと言った。美琴もその反応に驚き、そう、と小さく返しただけだった。


「恐ろしい人もいたものですね」


 聡は一人ごちて窓の外を眺めた。事件が解決してすっきりしたことなど、ただの一度もない――……。




――――――――――



HN:ユダ



皆さん、お久し振り。

如何お過ごしですか?


過去の出来事は、全てお忘れになれましたか?

忘れることなんて出来ない、なんて思っ

ていたりします?


早くお忘れになることをお勧めしますよ。




――――――――――――




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ