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記憶をなくした殺人犯


 セーフだ。

 聡は電車に飛び乗るなり胸を撫で下ろした。今日は何とか電車に乗ることが出来た。毎日毎日タクシーではいつか破産してしまう。

 それは聡が必要以上に料金を支払うせいなのだが、それも敬語と同じ癖のようなものでやめることは出来ない。

 駆け込み乗車をした聡を数人の乗客がちらちら見ている。通勤ラッシュの電車に駆け込まれる程に迷惑なことはないといった顔すらしている。聡はそんな視線に気付かずに、車窓に目を向けた。

すし詰め状態の車内は身動き一つ取れない。足を踏まれても、肘で脇腹をつつかれても文句を言ってはいけない。そして、両手はきちんと上にあげなくてはいけない。

 それは聡が長年の電車通勤で培った知識だ。とはいえそれが活かされることは数少ない。


 香水に、整髪剤、制汗スプレーに体臭。車内では様々な臭いが入り雑じっていて、多少の気分の悪さを覚る。

 でも嫌いではない。聡はそう思いながら少しだけ息を吸い込んだ。

 人々がいる証。この逆らえない体勢も、踏まれる足も、きつい臭いも、ここに人がいる証。

 聡は窓に張り付くような形で目的の駅に着くのをただ待った。




「聡さん」


 吐き出されるように出た改札脇で呼び止められ、聡は顔を動かし声の主を探した。人が多く、目的とする人物はなかなか見付からない。


「こっちです」


 舌足らずな声が左側から、より明確に聞こえた。


「笹木君。おはようございます」


 聡は笑顔で近付いてくる笹木に朝の挨拶をした。


「おはようございます。今日は電車に乗れたんですね」


 笹木はからかうような口振りで聡の隣に並んだ。


「はい。予定より、二本遅いですけどね」


 聡の答えに笹木は笑いながら、でも上出来です、と告げた。聡はそれに「ですよね」と頷き、人混みの中を掻い潜り職場へと向かった。隣に並ぶ笹木は今日の暑さに参ったような表情をしている。

まだ春だというのに、今日の気温は初夏なみだ。



「おはようございます」


 聡が自身の席に着くなり、美琴と桜木に同時に挨拶をされた。


「おはようございます」


 聡はそれににこりと返してから、見慣れない顔があることに気付いた。長い睫毛は付け睫か、睫毛エクステンションかと思わせる。薄化粧に見えるがよく見ればしっかりと化粧の施された顔は美琴程ではないが整っている。ただしかし、少しだけ前に出た顎だけが残念だ。だがそれを気にはさせないくらいに、可愛い顔立ちをしている


「えーと……」


 聡は彼女に顔を向けながら声を洩らした。


「申し遅れました。私、本日付で交通課からこちらに配属になりました、神沢紘奈かんざわひろなと申します。辻木班の班員として、刑事としては未熟ではありますが精一杯努めさせて頂きます」


 彼女――紘奈はかなり大きな声で一気に告げた。その中で聡の耳が拾えたのは交通課と配属、そして神沢紘奈という名前だけだった。


「……まさか、昨日藤塚係長に言われたのに忘れられたんですか?」


 美琴が有り得ないといった表情を聡に向けてきた。だがそのまさか、だ。覚えてなどいない。何せ、夕べの記憶は曖昧なのだから。


「宜しくお願いいたします」


 紘奈は大きな声で言い、深く頭を下げた。


「こちらこそ、宜しくお願いしますね」


 聡は忘れたものは仕方無いと自分に言い聞かせてから、紘奈に握手を求めた。



「被害者は、泉川竜也さん、ですね。職業は大工で、奥さんと八歳と五歳になる息子さんがいる。歳は三十二歳……と」


 紘奈はいちいち口に出しながらメモを取っていった。聡もそれを聞きながらメモを取る。


「聡さんはメモらなくていいですよ。何処に書いたかも忘れちゃうんですから」


 それを覗き込んでいる笹木が口を開く。

 確かにその通りだ。記憶力に自信がない為、聡は耳にした事柄を逐一メモに取る修正がある。そしてそれは膨大な内容になるのでそのメモ帳はかなり分厚いものなので、思い出したいことを探すだけで一苦労なのだ。


「そうなんですけど、書けばなんとなーく頭に残るんですよ」


 聡はペンを動かしながら返した。


「それなら何も言いませんけどね」


 笹木はそれだけ言って、顔を逸らした。


「記憶がない、というのはショック状態からくるものなんですかね?」


 桜木が静かな口調で疑問を口にした。

 殺された泉川竜也を発見したのは同じ職場の正田浩史という男だ。だが彼は発見当時の記憶がないと証言しているのだ。


「うん、それはあると思いますね」


 聡はペンをシャツの胸ポケットに仕舞いながら答えた。今日のシャツは薄緑色だ。


「同僚が殺されているのを発見したというのは、相当なショックだと思います。それで、記憶が混乱してしまうというのは頷けますね」


 泉川竜也は変死体で発見された。死因が毒物によるものだというのは既に報告に上がっている。使用されたのは青酸カリだ。だが現場から毒物の入った何かは見付かっていない。


「取り敢えず、話を聞きに行くしかないですね」


 聡はぱん、と手を叩いてから立ち上がった。




 かんかん、という音が耳に届く。被害者と発見者。この二人は今、現場で働くことは不可能だ。二人の大工を失った現場は、少しでも遅れを取らないようにと必死に金槌を奮ったり、鉋がけをしている。

建つのはそれなりの一軒家のようだ。


「たっちゃんでしょ? 誰かに恨まれてたりなんて、ないと思うんだよな。あいつ、凄くいい奴でさ、新入りの面倒なんかも率先して見てたし。ああ、ほら、たっちゃんが死んでるの見付けた浩史もさ、たっちゃんにはよく可愛がってもらってたよ?」


 現場責任者である初老の男は眉を下げたまま喋った。六十は過ぎているだろうに、その腕は逞しく聡の三倍の太さはありそうだ。


「そうですか。それは惜しい方を亡くしましたね」


 聡は深く頭を下げて言った。その時遠くから、おやっさん、と彼を呼ぶ若い声がし、彼はじゃ、とだけ言って去っていった。


「恨まれたりなんてしない人が毒殺、ですか」


 紘奈が大きく首を傾げながら言う。




「夫は……誰に殺されたんですか?」


 涙をぽろぽろと溢しながら訊いてくる姿に美琴は胸が痛むのを感じた。隣では桜木が何やらメモを取っている。


「お子さん、学校は?」


 手を止めた桜木が不意に口を開く。


「……小学校にも、保育園にも連れていきました」


 こんな時に? 美琴は狭い団地の部屋を見回しながら思った。

 夕べ父親が殺されたというのに、こどもを学校や保育園に連れていく親がいるのか。どうにも腑に落ちない。


「お子さんにもお話し、伺ってもよろしいですかね?」


 美琴は違和感を覚えながら泉川竜也の妻である小百合に尋ねた。


「え……ああ、はい。それは構いませんが」


 三十歳という年齢、そして母親いう立場にしては派手すぎる風貌。こんな時でもくっきりと目の縁を囲まないと人前に出れないのだろうか。




「親がいないところで話を聞きましょう」


 そう口を開いたのは桜木だった。


「そうね。それがいいと思うわ」


 美琴もそれに同意し、まずは上の息子のいる小学校へと足を向けた。少なからずこどもは親の前だと発言を選んでしまうものだ。そして、こんな時に学校に向かわせるような母親なら尚更。

 真っ昼間の団地は異様に静かで、大勢が集合して生活しているようには思えなかった。



「……覚えてません」


 正田浩史は俯いたまま呟いた。聡と紘奈はそれに顔を見合わせた。紘奈の凛とした瞳は長い睫毛が影を作っている。


「辻木君っ」


 その瞬間、怒声にも似た大声が取調室の一室に響いた。部屋の入り口に顔を向けると、そこには背の高い四十歳前後の女が立っていた。


「姫野さん」


 聡はその女の名前をぽつりと呼んだ。


「姫野さん、じゃないわよ。あのね、捜一だからってあまり勝手な行動しないで頂ける? 彼の聴取はあたしの仕事なの」


 姫野遥子は声を荒げた。彼女は今回の事件の捜査本部が立つ所轄の刑事だ。そして、聡の所轄時代の先輩でもある。


「すみません、聡さん。足止め失敗しました」


 姫野の後ろからひょこっと顔を出したのは笹木だ。


「どうしても、直接話を伺いたくて。すみません」


聡の悪びれた様子もない笑い方に姫野は軽く目くじらを立てた。


「ルールは……」


「守って捜査をする、ですよね? 嫌だな、それは流石に覚えてま

すよ。姫野さんから耳にタコが出来るくらい聞きましたから」


 聡はへらへらとした笑いを崩さずに言う。姫野はそれに更に腹を立てた様子で、白い壁をばん、と勢いよく叩いた。


「分かってるなら、今すぐ出てくっ」


 聡は姫野の怒鳴り声にそれは出来ません、と暢気に返した。その目の前では、正田ががたがたと身体を震わせている。そして何やら口の中でぶつぶつと呟いているのだ。


「姫野さん、ちょっと静かにして下さい」


「あのね、あたしに指図……」


 聡は先程とはうってかわって真剣な表情で、唇に人指し指を当てた。そして耳を澄ます。正田は譫言のように、ごめんなさい、とひたすら繰り返している。


「……笹木君、彼の過去を調べて下さい」


 聡の言葉に笹木は威勢のいい返事をし、部屋を飛び出していった。



「本当に何も、覚えていないんですか?」


 落ち着きを取り戻した正田はゆっくりと頷いた。取調室には聡と紘奈、そして姫野がいる。


「昨日、財布を事務所に忘れたのを思い出して取りに行ったんす。そこまでは覚えているんですけど、泉川さんの苦しそうな姿を見たのは覚えてなくて。気が付いたら、此処にいました」


 聡はメモを取りながらとんとん、と指輪を叩いた。

 正田は遺体の第一発見者であると同時に、重要参考人として警察で身柄を拘束されている状態だ。


「事務所に入ったところは、覚えてますか?」


「……手を、掛けたところまでは」


 正田はぼそりと答えた。そこから先の記憶はない。聡は指輪をもう一度叩いた。



「辰起君、よね?」


 美琴の呼び掛けに黒いランドセルを背負った少年はぼんやりとした目で振り向いた。


「お姉さんたち、お父さんが死んだことについて調べているの」


 美琴の言葉に桜木が小さく咳払いをした。笑いを堪えているのだろう。

 どうせ三十歳を過ぎている、所謂「お姉さん」と呼ぶには微妙な年齢だ。美琴はそれに多少の苛立ちを覚えながらも無視を決め込んだ。例え三十二歳でも、自分はまだ「お姉さん」と呼べるわ。美琴は自分にそう言い聞かせながら、辰起に向かって微笑みを浮かべた。


「最近、お父さんに何か変わったことはなかった?」


 辰起は美琴の言葉に無言で首を横に振った。今日は春にしては暑いというのに彼は厚手のトレーナーを着ている。しかもタートルネックだ。


「暑くない? お兄さんが袖、捲ってあげるよ」


 桜木はいつも以上に柔らかい口調で辰起に手を伸ばした。すると辰起は咄嗟に手を引っ込め、桜木に腕を触らせまいと隠そうとした。だが桜木は美琴に目で確認をしてから、半ば強引に辰起のトレーナーの袖を捲った。



「……本当に覚えてないんです」


 正田はまるでこどものような口調で訴えてきた。聡の手元にある写真は泉川竜也の遺体のものだ。俯せになって倒れているもの。


「気が付いたら、此処にいたんです。本当に何も覚えてません」


 正田はその言葉を繰り返した。


「彼に話を訊くより、被害者の周辺を洗ったほうがいいんじゃないの?」


 姫野はそんな様子の正田を見ながら溜め息混じりに言った。紘奈はその隣で手持ち無沙汰にしている。


「今日はこの辺にして、また明日お伺いしましょう」


 聡はそう言ってから、正田の身柄をこのあとどうするか姫野と話をした。紘奈は自宅に帰したほうがリラックスして思い出せるのではないかと言い、姫野はまだ容疑者リストから外すわけにはいかないから警察で預かると言った。


「では、姫野さんに従いましょう。今回の本部は姫野さんの所轄すからね」


 聡はにっこりと笑ってから、そのあとのことを姫野に任せた。正田はその話を不安そうな面持ちで耳を傾けていた。



「虐待……ですか」


 聡は美琴と桜木の持ち寄った情報に頷きながらウーロンハイを口に含んだ。


「はい。長男の辰起君の体には火傷や殴打によるものと思われる無数の傷がありました。次男の辰巳君にはありませんでしたが」


 桜木はまるでお手本のような箸の持ち方をしているが、その隣に座る紘奈はそれとは正反対に握るようにして持っている。自分はその中間だろうか。聡は二人の箸の持ち方を交互に見てから、自分の箸の持ち方を見た。

 チェーン店の居酒屋の個室。この店はいつもこの班が飲み会の為に集まる場所だ。全員、アルコールにはそれなりに強く、誰も酔った姿は見せない。


「あ、そうだ。紘奈さん、初日、お疲れ様でした。すみません、すっかり忘れてしまって」


 聡は斜め前に座る紘奈へと視線を固定して言った。


「え、いえ、こちらこそお役に立てなくてすみません」


 紘奈の声は少しばかり甲高く、よく響く上に大きめだ。個室内にはそんな紘奈の声が響き渡った。


「とんでもないですよ。明日も、よろしくお願いしますね」


 聡が微笑んで言うと、紘奈は可愛らしい笑顔を浮かべてはい、と返事をした。


「うちの班は、美人と美形ばかりですよね」


 笹木が全員の顔を見渡しながら、やや不満そうに洩らした。


「笹木さんも素敵ですよ?」


 それにすかさずフォローを入れたのは桜木だ。


「いや、そこそこでも、桜木さんと聡さんと並んだら霞みますからね」


 聡はそう言われて苦笑いを浮かべた。確かに他よりも顔の造作はいいほうだとは思う。若い頃は散々女に言い寄られたし、何度も称賛の言葉を浴びてきた。だがそれで得をした覚えもないし、聡自身、人の容姿には特に拘らない性格なのだ。


「僕は、笹木さんのほうが背が高くて羨ましいですよ?」


 桜木は上品な仕草で漬物を口に運んだ。桜木は確かに上背はない。


「はいはい、下らない誉めあいは終わり」


 美琴がいい加減にしろと謂わんばかりに口を開く。それもまた、自分の容姿に自信があるからだろう、と聡は考えた。


「美琴さんは美人ですからね」


 聡がぽつりと言うと、美琴は目を丸くした。何か変なことでも言っただろうか。聡は箸を唇につけたまま、全員の顔を見た。


「え、僕、何か悪いこと言いましたか?」


 しん、とした空気に耐えきれず聡は自ら答えを求めた。


「いや、聡さんがそういうこと言うの珍しいなと思って」


 最初に答えたのは笹木だ。それに対して美琴と桜木が同時に頷く。


「僕だって、綺麗な人は綺麗だな、とか思いますよ?」


「そういうの、興味ないと思ってました」


 今度答えたのは美琴だ。


「綺麗だとかかっこいいということに興味はありませんが、素直に綺麗だなとかは思いますよ」


 聡の言葉に紘奈を覗く全員が小さく頷いた。自分は彼らにどれだけ変わり者だと思われているのだろう。聡は全員の顔を見回しながらそう考えた。

 確かに他の人よりは変わってはいるかもしれないが、そこまでではないと思っている。だがそれはあくまで聡個人の見解でしかないのだ。



「疲れたでしょう」


 笹木の言葉に紘奈は首を横に振った。


「いえ、主任のあとをついていただけですから」


「あ、聡さん、主任て呼ばれると照れるらしいから、他の呼び方したほうがいいよ」


 紘奈はそのことに驚き、目を丸くしてそうなんですか、と返した。

 捜査一課の主任は皆、独特の雰囲気を持っていて近寄り難いイメージがあるが、確かに聡はそれと違っていた。


「じゃあ、変えます」


「そうしてあげて」


 引っ越しをしたばかりで道が分からないと言った紘奈を送る、と真っ先に言ってくれたのが笹木だった。

 所詮交通課上がりの女。見下されることを覚悟で異動に臨んだが、そんな心配はいらずに安堵していた。

 これならやっていける。配属された班に恵まれた。紘奈は素直にそう思った。

先程笹木には疲れていないと言ったが、それは嘘だ。確かに体力的にはミニパトで駐禁を取り締まるほうが今日よりはずっと疲れる。でも今日は初日ということもあり、緊張による精神的なもののほうが疲れは感じる。

 つい先程までの飲み会の席から軽い頭痛に襲われ、今でも頭全体が痛い。道が分からないので送ってもらえるのは有り難いが、正直リラックスは出来ず、頭痛は増すばかりだ。


「ここらへん?」


 笹木の言葉に紘奈は我に返った。先輩に送ってもらっているというのに無言なんて、非常識にも程がある。辺りを見回すと見慣れた景色が広がっていた。


「あ、はい。ここまで来れば直ぐです」


 紘奈は頭痛を堪えながら頭を下げた。取り敢えず非礼を詫びなければ。


「すみませ……」


「はい、これ」


 紘奈の言葉を遮るように、笹木は右手を紘奈の前に出した。紘奈は笹木が何をしているのか分からず、ぽかんと口を開けたまま彼を見上げた。


「よく効く頭痛薬。これ飲んでゆっくり寝て」


 笹木は歯を見せて笑い、手を挙げて帰っていった。

 優しさ、だろう。あの場にいた全員、紘奈を送ろうとしていただろう。でも、聡は一応主任という立場から紘奈が一番緊張する相手だ。美琴は女性とはいえ、凛としたただずまいから聡の次に緊張してしまう。桜木は物静かな雰囲気から緊張というより、自分から話し掛けなては、と思ってしまいそうだ。

笹木ならそのなかでも一番気が楽なのかもしれない。飲み会の席から自分の体調に気付き、配慮してくれたのだ。紘奈は笹木に手渡された薬を握り締めて、アパートまでの道を小走りに進んだ。




 笹木は調べあげた事柄を見て溜め息をついた。

 過去の記憶が顔を覗かせる。虐待されていた被害者の息子。そして、虐待を受けていた加害者。

 この繋がりは笹木に過去を思い出させるには十分なものだ。記憶を払拭する為に熱いシャワーを浴び、ベッドに転がると同時に携帯電話が着信を告げた。表示に視線を落とすとそこには美琴の名前が出ている。


「どうしました?」


 笹木はなるべく明るい声を出し応答した。


『もう寝てた?』


 電話の向こうから聞こえる騒音で、彼女がまだ帰宅していないことに気付く。


「いえ、起きてました」


 悟られたくないと思いながらも、気付いて欲しいと思う矛盾。


『……笹木君は、職場の聞き込みを辻木さんと代わってもらって。

辻木さん、正田の聴取を続けるだろうから』


 やはり気付いていたか。笹木は小さく苦笑いをした。


「もう大人なんで平気ですよ。それに、姫野さんが聡さんと組むのを了承しないでしょう」


 情けない思いもあるが、嬉しくもある。


『……そういうところが心配なのよ』


 美琴は呟くような声で返してきた。


「交代が必要なようなら、聡さんが言ってくるはずです。それまでは、自分の仕事をしますよ」


 笹木は部屋中に響くような声を出した。


『分かったわ。でも、無理だけはしないで』


 そういって美琴からの電話は切れた。

 自分の過去を知っているのは聡と美琴の二人だけだ。実の親から執拗に繰り返された虐待行為。それを感じさせずに生きていくのは容易ではない。油断をすると直ぐに記憶は脳と心を支配する。

笹木は紘奈に渡したものと同じ頭痛薬を飲み、ベッドに潜り込んだ。夢の中に逃げてしまえばいいのは幼い頃と何も変わっていない。



「今日もこっちに来たの?」


 軽く笑う聡に姫野はあからさまに嫌な視線を向けてきた。


「今日もこっちに来ちゃいました」


 その後ろには紘奈が控えている。


「正田さんの様子はどうですか?」


「昨日と何も変わらないわ。ただ覚えてませんの一点張りよ。今日、そっちのほら、誰だっけ? あの美人の……」


「美琴さん、ですか?」


「そう。彼女達が正田の部屋を捜索するようじゃない」


 姫野は長い腕を胸の前で組みながら喋った。美琴と桜木が正田の部屋を家宅捜索するのは毒物の類がないかどうか調べる為だ。


「まだ、思い出せませんかね?」


 聡は正田の顔を覗き込むようにして言った。


「……はい」


 正田はそれから顔を逸らすようにしている。


「……貴方は実父から幼少期に虐待を受けていましたね? 科学者であるお父様から、執拗に、繰り返し」


「僕の頭が……悪かったから」


 聡は正田の話を聞きながらも後方にいる笹木の反応を気にした。だが笹木は少し表情を強張らせてはいるが、呼吸が乱れている様子はない。それを確認してから、聡は再び口を開いた。


「貴方はお父様を恨んでいましたか?」


「いえ……悪いのは僕ですから」


 正田は本当に小さな声で答えた。集中して聞かなければ聞き逃してしまいそうな程だ。


「質問を変えますね。泉川さんの息子さんが虐待を受けていたことはご存知でしたか?」


「……知りませんでした」


 聡が正田の目の動きを見落とさなかったその瞬間、取調室の扉が開いた。そこに現れたのは美琴と桜木だ。


「見付かりました」


 美琴は言いながら、ビニール袋に入った小瓶を正田の前に置いた。正田はそれを見て一瞬、目を見開いた。


「泉川の奥さんからも話を聞きました。主に虐待は奥さんが行っていたそうですが、身に覚えのない傷も幾つかあるそうで、それは泉川がやったのではないかと証言しました」


 桜木は抑揚のない口調で告げる。


「え……あ、知ってました。でも、許せないとは思いましたけど、殺したかなんて……。何も覚えてないです」


 正田は途端に声を大きくした。


「本当に、覚えていないんですか?」


 聡は自分の指に嵌められた指輪をとんとん、と叩きながら正田に質問をした。


「貴方は最初、泉川さんの苦しそうな姿は見てない、と仰いましたよね?」


「……はい。見てないです」


 聡はそこで深く息を吸い込んだ。


「何故、苦しそうだと? 警察の最初の発表は変死でした。それからここに身柄を確保された貴方に、泉川さんが毒殺だと知る術はなかったはずです」


 正田は息を飲み、聡の顔を見た。


「それは……泉川さんの……顔、顔です。倒れていた時の表情は覚えてます。その顔が苦しそうだったから、それで……」


「無理なんですよ」


 聡は正田の言葉を遮った。そして一枚の写真を正田の前に置いた。それは泉川竜也が絶命している姿だ。


「泉川さんは、こうして俯せに倒れていました。貴方はそれには触れずに救急車を呼んだんですよね?」


 取調室にはしん、とした空気が漂っている。


「こうして俯せの状態では、顔は見えないはずなんです」


 正田は聡の話を聞いてから、ゆっくりと口を開いた。


「……許せなかったんです。あんな可愛いこどもを。でも泉川さんがそんなことするように思えなくて、奥さんに話を聞きました。すると、自分だけじゃない、て言われて……」


「それで、お父様の研究室から青酸カリを盗んだ」


 聡の質問に正田は小さく頷いた。


「殺されて当然の奴を殺して、罪に問われることが嫌でした。だから、覚えていないと言いました」


 正田はそのあと、よくしてくれていた泉川が息子を虐待していると知り、裏切られた気持ちにもなったと証言をした。


「悪いことをしたとは思ってないです。これで、あの子たちは救われたんですから」


「ふざけるなっ」


 正田の言葉に声を荒げたのは笹木だ。


「他人に……お前にこどもの親を奪う権利なんてないっ」


 笹木は正田の胸ぐらを掴み、今にも殴りかかりそうな勢いで怒鳴った。


「笹木さん」


 止めない聡と姫野を気にしながらも紘奈が声を出す。


「こどもにとって、例えどんな親でも、親なんだっ。それを他人が奪うな」


 笹木は最後には消え入りそうな声で言い、正田から手を離した。聡はそれを見ながら、笹木から聞いた過去を思い返した。

 大切なことは忘れない。それが聡ができる唯一の記憶の保持かもしれない。

笹木は幼少期に虐待を受けていたが、近所の人の通報により児童養護施設に保護された。だが笹木はそれをよしとはせず、救われたなどと思うこともなかったそうだ。

 理不尽に両親と引き離された。笹木はずっとそう思ったまま生きてきたのだ。

幼少期はどんな親だろうと親は親なのだ。大人になれば親の方が理不尽だったと理解するのだろうが、今度はそれと葛藤する。親が間違っていたのか、離れたくないと思った自分が間違っていたのか。

 そんな悩みを聡は笹木から直接聞いているのだ。


「……すみませんでした」


 正田はぼそりと本当に小さな声で言った。聡はそれを聞いて、ふう、と息を吐いた。

人を殺すことは悪いこと。人はそれを分かっていて、何故それを犯すのだろう。分かっているのに、何故人を殺してしまうのだろう。




「申し訳ありませんでした。つい、熱くなってしまって……」


 笹木は思い切り頭を下げ、聡に向かって謝罪をしてきた。


「ああ、気にしないで下さいよ。僕だってそういうこと、ありますから」


 聡は慌てて立ち上がり、笹木の肩を軽く叩いた。人に頭を下げられのはどうも苦手なのだ。


「以後、気を付けます」


「本当に気にしないで下さい。ね?」


 聡の言葉に笹木ははい、と力なく返事をした。


「辻木さん、私、泉川竜也の職場に報告に行ってきます」


 そのやり取りが終わると同時に美琴が口を開いた。今度の事件は被害者も加害者も同じ職場。報告はしておくべきだろう。



 金槌が釘を叩く音が耳に響く。

 ずっとこんなところにいたら耳がおかしくなりそうだ。美琴はそんなことを考えながら現場責任者に事の顛末を説明した。するとおやっさんと呼ばれる男は、残念そうな、悲しそうな顔をした。


「たっちゃんが虐待なんて、信じらんねぇな。あいつとは十年以上の付き合いだけどさ。ああ、十年前に少し様子が変な時はあったけど、それ以外は本当に真面目に仕事もしてたよ。奥さんとはほら、できちゃった結婚で夫婦仲ははまあって感じだったけど、息子は本当に可愛がってたからなあ」


 おやっさんは白髪頭をぽりぽりと掻きながら言った。美琴と桜木は顔を見合せ、そうですか、とだけ答え、その場を去った。



 聡はビールの入ったジョッキを高く持ち上げた。


「では皆さん、お疲れ様でした」


 聡がそう言ったあと、全員がそれに次いでお疲れ様でした、と声を出した。


「皆さんの協力があったからこそ……」


「詰まらない挨拶はいいわよ」


 聡の言葉に口を挟んだのは姫野だった。姫野は事件解決の打ち上げの飲み会に混じっているのだ。


「はい、では本当にお疲れ様でした」


 聡はそれに反論することなく、腰を下ろした。


「二度とあんたとは捜査したくないわ」


 班員がそれぞれアルコールを楽しんでいるなかで、姫野が愚痴るように呟く。


「そんなこと言わないで下さいよ。僕は、姫野さんとまた捜査したいですよ? 教わることも沢山ありますから」


 聡の発言に姫野は苦笑いをした。


「そうね。また、いずれね」


 姫野は小さく言ってから、ビールを一口飲んだ。聡もそれに倣い、ビールを飲む。


「聡さん、飲み過ぎないで下さいね? 記憶をなくしても、いいことなんてないですから」


 耳に届いた笹木の声に、聡は了解です、と返してまたビールを口に含んだ。飲み過ぎで記憶をなくすことはあまりないが飲み過ぎないに越したことはないだろう。聡はそう考えながら、ビールをゆっくりと飲んでいった。





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