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殺人犯を殺す殺人犯



「上がった遺体は杉本涼。三十九歳。竜慶会の構成員」


 聡は上がってきた情報に落胆を隠せずにいた。どう足掻いても結果は変わらないというのをまた思い知らされた。


「残り二人が行方不明というのを知っていたんですか?」


 聡が小声で訊くと、笹木は申し訳なさそうに頷いた。彼は独自でそこまで調べていたのだ。だからどう足掻いても結果は変わらないと聡に告げたのだ。


「暴力団同士のいざこざだろう」


 捜査員の誰かが呟く言葉にそれだけはないと思った。そう見せ掛けての殺害なのだろう。


「……自分の勘で物事を言っていいですか?」


 耳を澄ませないと聞こえない程の笹木の言葉に聡は頷いた。


「多分、あいつが殺してます」


 笹木の推理は聡が思っていることと同じだった。暴力団同士のいさかいに見せてユダは杉本を殺害したのだろう。

 裏で手を引くだけではない。自らの手も血に染めるのがユダのやり方なのだ。


「どうしますか?」


 聡は悩みながら口を開いた。


「僕が組みます。そして、話を引き出します。バックアップ、お願いします」


 聡がそう言うと、笹木は確りと頷いた。もうそれしか術はないだろう。この事件を追うというより、ユダの本性を誘き出す。それがやるべきことだ。



 紘奈は不甲斐なさに溜め息を吐いた。自ら志願して未解決捜査班に入った。それでも自分が出来たことはたかが知れている。捜査の役に立つことなど何も出来ていないのだ。


「辛気臭い顔してんな」


 笹木の物言いに紘奈は彼をちらりと見た。確かに自分より彼のほうが真実を探し出すのは早かった。でも、こんな口の聞き方をされる謂れはない。いっそ素性を明かそうかとも思ったがまだ許可は下りていない。紘奈は仕方無くすみません、とだけ呟いた。


「聡さん達の後を尾行する。決して見付かるなよ」


 笹木の言葉に紘奈は頷いた。待ちに待った日が漸く訪れたのだ。水嶋崇を恨んでいたのは事実だ。そして、そんな彼を殺した人間を更に恨んだ。彼らが水嶋崇を殺害してしまったせいで全ては闇に葬られたのだ。水嶋崇が犯した罪が世に出ることはなくなった。

 それが許せなかった。だから刑事になり、そして未解決捜査班に入れてもらったのだ。


「笹木さんこそ、図体大きいんだから見付からないで下さいよ」


 この機会をぶち壊すことだけは絶対にしたくない。


「随分と偉そうな口を効くな」


 紘奈はそれに対しては何も答えなかった。最初からこんな人だと分かっていたら、こんな気持ちを抱くことはなかっただろう。紘奈はそう考えてからその考えを脳から消した。余計なことは考えるな。目の前のことだけを考えろ。そう言い聞かせて二人の後ろ姿を見詰めた。




 美琴は溜め息を吐いた。頭が混乱している。今朝、聡から打ち明けられた全てが信じられなかった。そして今回は捜査に参加しなくていいと言われたこと。

 恐らく彼は三谷の真実を知っている。だから自分を巻き込みたくないのだろう。

 自分に出来ることは本当にないのか。そう考えても答えは出てこなかった。美琴はもう一度溜め息を吐き、自分の中のことを決着させる為に重たい腰を持ち上げた。




「桜木君も暴力団同士のいさかいだと思いますか?」


 聡の質問に桜木はゆっくりと顔を動かした。その顔はいつも通りにも見えるし、無表情にも見える。


「そうですね。杉本は下っ端ですし、その可能性が高いかと」


 桜木の答えに聡はそうですか、と頷いた。


「内溜め、見に行きましょう」


 聡が言うと桜木は驚いた顔をした。


「自分達は杉本の身辺の聴き込み……」


「いえ、遺体が発見された内溜めに行ってみましょう」


 聡は桜木の言葉を遮って告げた。その声色は聡のものとは思えぬ程に暗さを含んでいた。


「……そうですね」


 桜木は静かな声で返し、前を向いた。その横顔から読み取れるものは何もない。

 何を考えているのだ。今、何を思ってここにいるのか。絶対的な自信があるのか。それともやはり探し出して欲しいと思っているのか。そのどれもが聡には分からないことだった。

 ……――やはり、犯罪者の気持ち、特に殺人犯の考えていることは分からない。



 公園内にある内溜めは濁っていて、汚い泥色をしていた。ここの清掃業者が杉本の遺体を発見したのだ。死後三ヶ月は経過しているというのが監察の見方だ。皮膚は溶けて骨から剥がれかけていたが身元は直ぐに分かった。着ていた服に財布が入っていたからだ。IDの入れられた免許証から直ぐに杉本涼だということが分かった。

 全ての事件の発端は杉本涼が殺されたことから始まっていたのだ。最後に発見された遺体が最初の被害者だったとは。


「随分汚いですね」


 桜木は内溜めを眺めながら言った。


「ここに棄てられるのはどんな気分なんでしょうね」


 聡もその視線の先を追った。でもそこには何も見えない。


「嫌、なんじゃないですかね?」


 桜木はさらりと答えた。そんな考えが何処から出てくるのか。


「そうですね。どんな人でも、命を奪われる理由はありませんからね」


 聡はそう言ってから桜木の顔を見た。近くでは五月蝿い程に蝉が鳴き、夏の終わりを告げている。




「聞こえない……」


 紘奈が呟くと、笹木に肩を軽く小突かれた。それに軽く睨むと、笹木は自分の唇に人差し指をあて、し、と言った。

 とんだガキ扱いだ。紘奈がそれに剥れた表情を見せると、再び肩を小突かれた。聡達からかなり離れたこの場所は確かに見付からないが何を話しているかは全く聞こえない。ならこちらが声を出したって聞こえないはずなのに。

 紘奈は剥れながらも何か進展があり次第深水に報告出来るように携帯電話を握り締めた。ここから見る限りは話の内容は聞こえずとも、状況は把握出来る。今はまさに、聡と桜木が対峙している場面。上手く言い逃れをされるか、それとも認めるか。紘奈は息を飲んでその状況を見詰めた。




「殺されてもいい人なんて、この世の何処にもいないんです」


 聡は真っ直ぐに桜木を見た。そこに表情と呼べるものはない。


「……半々でしたよ」


 桜木は無表情のままそう言った。


「半々?」


 聡が返すと、桜木は苦笑いをしながら頷いた。


「ええ、半々でした。貴方がここまで辿り着けるかどうか。辿り着けないほうに賭けていたんですけどね」


 桜木はそれだけ言うと、大きく息を吐いた。聡はその顔を信じられないというように見た。頭では分かっていても、いざこうして認められると衝撃が走る。

 桜木は内溜めの淵にしゃがみ込んだ。


「この遺体は発見されない予定でした。まあ、仮に発見されても暴力団同士のいさかいに思われると考えてましたし。タイミングが悪かったですね」


 小柄な背中は殺人犯とは思えず、聡の脳裏にはキャリアとして真面目に事件に取り組む桜木の姿しか浮かばない。


「何故……ですか?」


 聡が尋ねると桜木は静かに視線を寄越した。やはりその目の中を読み取ることは出来ない。


「消したかったから、ですよ」


 桜木は顔だけを此方に向けたまま返してきた。


「僕の、ユダとしての過去を知る人間を全て消したかったんです。これからの人生を歩む為に」


 そんな理由で十一人もの人間を間接的にとはいえ、殺していった。いや、実際は一人自らの手で殺しているのだが。


「全部自分でやってもよかったんですけど、流石に十一人も殺したら足がつくと思って。二、三人くらいなら見付からずに出来るんですけどね」


 桜木の言葉の意味が聡には理解出来なかった。

 最初、ユダは直接を手を下したくないのだと思った。でもそれはただの思い違いだったのだ。ユダはそんなに単純な思想の持ち主ではない。


「ちょっと待って下さい。二、三人て……」


 聡の見解では桜木が直接殺した人間は杉本だけのはずだ。なのに彼は今、そんな言い方をした。


「田宮亜希子を殺したのは僕ですよ」


 桜木は真っ直ぐな目でそう告げた。


「ああ、名前だけ言っても辻木さんの記憶力じゃ思い出せないですよね。

あれですよ、原田と大野とで二股を掛けていた女です。本当に二股を掛けてたんですけど、僕が自殺に見せ掛けて殺しました。そして、大野の耳に嘘の情報を入れました。そんなのは金で簡単に出来ますから」


 聡は頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。そんな、まさか。その言葉は口から出ることはなかった。確かに、自らの手を汚すタイプの殺人教唆であることは予想がついていた。でもそこまでのことをしているとは流石に思っていなかったのだ。そして、自分が全員を殺していいと考えていたなどとも思いもしなかった。

 聡はあまりの衝撃に足元が崩れる思いがした。立っているのが精一杯、まさにそんな気分だ。


「人って、簡単なんです。ちょっと背中を押してやれば、いとも容易く人を殺す。人間は元々殺人ということに否定的な考えは持ってないんですよ」


 だから自分も人を殺すんだ、とでも言いたげな言葉。


「そんなことは……」


「あるんですよ。だからこの目論見は成功したんです」


 桜木は聡の言葉を遮って言った。


「それを、倫理だ道徳だと抑え込んでいるだけなんです。だって、一度戦争という形でそれを許可すれば平気で殺すじゃないですか。どの国も。日本だって、殺人が罪だという法律がない時代には何の躊躇いもなく人を斬り捨てていたんです」


 桜木の話が理解出来ないのは知能指数の差などではない。人間としての考え方がまるで違うのだ。


「ああ、話が逸れましたね。これでは僕が狂った人間みたいだ」


 みたい、なのではなくそのままだ。聡は急激に喉が渇くのを感じた。喉は今にも張りつきそうな程に渇いている。


「別に人殺しが面白いとか、そんなことを考えているような狂った人間ではないです。僕だって、人殺しは駄目だと思ってるんです。

以前、言ったじゃないですか。人殺しを野放しにしちゃいけないって」


 そうそれは最初の事件の時の言葉だ。


「いけないとは理解してますが、自分にとって邪魔な存在なら消しますよ」


 桜木は言いながら立ち上がった。いつも見てきた彼が平気な顔をして事件について語っていく。恐ろしい状況は聡から冷静な判断を奪っていった。今自分がどうするべきなのか考えられない。


「どうしますか? このまま此処で話を続けますか? それとも続きは取調室で聞きますか?」


 桜木はこの期に及んで逃げようだとかは思っていないうだった。逃げられるはずがないと諦めたのか、それとも端からそのつもりでいたのか。


「……取調室でお聞きします」


 聡は漸く動いた脳で考えた答えを口にした。近くではまだ蝉が鳴いている。



 二件目は泉川に虐待を強要した。

 三件目は山本にネイルサロンのスタッフの振りをして引き抜きの話を持っていった。

 四件目は通り魔事件を自ら起こした。

 五件目はネットに悪口を書き込んだのが桜木だった。

 六件目はケーキのアイディアを磯間に使っていいと吹き込んだ。

 七件目は被害者のストーカーを横田の振りをしてしていた。

 八件目は浜山に柳川の住み処を知らせた。

 九件目は浮気メールを偽造した。

 十件目は牧村を監禁した。

 それらが桜木が事件を手引きした全ての内容だった。そしてそれは全て笹木が調べ上げてくれたことだった。これらと、そしてユダが水嶋崇の殺害を教唆したという話が出なければ立証することは不可能なのだ。なのでこれに関しては奈美が全てを知っていたことに救われたとしか言いようがない。

 水嶋崇殺害に関わった十一人全員が殺されてしまったら、その証拠は何処からも挙がらないところだったのだ。


「今になって思えば、殆ど貴方が解決に導いてましたね」


 取調室で自分の部下と向き合って座る気分は何とも言えないものだった。いつもは此処で犯人と向き合い、その事件についての話を聞く。いや、今だってその状況は同じだ。ただ相手が自分の部下だというだけの話で。


「気付かれないようにはやってましたけどね」


 虐待を発見したのも、ネイルサロンの名刺を持ってきたのも、通り魔ではないのではと言い出したのも、全て桜木だった。だけどそれには全く気付きはしなかった。

 自分の愚鈍さに嫌気がさす。桜木が上手だったわけではない。よくよく考えれば分かりやすいものばかりだ。となると自分に洞察力が足りなかっただけの話。現に笹木と深水は自力で桜木に辿り着いたのだ。

 聡は心の中で溜め息を吐いた。目の前では桜木が微笑んでいる。まだ聞くべきことがある。そして、それが一番重要なことなのだ。

 手が震える。いや、手だけではない。心が震えているのだ。

 いざ真実を目前にして何も思わない、感じない人間などいないだろう。聡は大きく息を吸った。向かいに座る桜木の顔は、つい今朝まで見ていたものと何も変わらない。

 この状況を何とも思っていないのか。全てを語ることに抵抗はないのか。だからこんなにもいつも通りの顔をしているのか。

 冷静沈着。

 桜木はまさにその言葉がぴたりと当てはまるようだ。


「他に何が訊きたいんですか?」


 桜木は少しだけ首を傾けて言った。訊きたいことなら、知りたいことならまだ山のようにある。でも今はまず訊きたいことがある。


「……何故、水嶋崇を殺害させようと思ったんですか?」


 全ての始まりはこの事件なのだ。この事件が起きたからこそ、この連続殺人事件までも引き起こされたのだ。

 全ての発端を一番知りたかった。そこに、何があるのか。それだけは調べられなかったのだ。確かに、桜木も水鳴教と関わりはあるが、でもそれは水嶋崇を殺害するということには繋がるには少々薄い。

 聡は下唇を軽く噛みながら桜木の端整な顔を見た。桜木は見つめ返すかのように、聡の目をじっと見てきた。何が言いたいのか。自分はそこから何を読み取れるか。聡は気を引き締めた。


「そこに理由なんて、ない。そう言ったらどうしますか?」


 桜木は淡々とした口調で言った。表情がないのか、それとも作らないのか。だがそこに、他の殺人犯のような恐怖は感じない。そこに、理解出来ない怖さは存在していなかった。


「嘘……ですね、それは」


 桜木の黒目がちな瞳を見ながら聡は口を開いた。噛んでいた唇から微かに血の味がする。軽く噛んでいたつもりだったが、相当歯を立てていたようだ。


「理解してくれるんですか? それとも、いつものお得意の勘ですか?」


 桜木は言ってから、視線を自身の手元に視線を落とした。つい先程まで殺人を何とも思っていないかのような態度をしていた人間と同じには見えない。


「最初の事件の時の僕の言葉……覚えてないですよね」


 桜木は苦笑いをしながら顔を上げた。眉を少しだけ下げ、何とも言えない表情をしている。


「すみません」


 どう頑張っても思い出せる気はせずに、聡は軽く頭を下げた。こうしていると本当にいつもと変わらないようだ。


「家族にこそ、知られたくないこともある」


 その科白は確かに初めて聞いた気はしなかった。


「僕の父親は水鳴教の幹部でした。そして、行方不明になったことになってます。でも、本当は生きています」


 桜木はぽつりぽつりと語った。常日頃、冷静沈着を掲げている彼とは思えない姿だ。


「彼は今、水鳴教の教祖をしています。勿論偽名ですよ。でも僕はあの宗教を憎んでいました。沢山の人間を操り、死に至らしめる。そんなことがあっていいのかとずっと思っていました」


 こうして話す桜木が桜木であって、桜木でないように見えた。自分が混乱しているのか。それとも桜木の全ては偽りだったのか。


「だから、水嶋崇を殺害する方法を考えていました。あの宗教がなくなれば、残りの人は救われるんじゃないかと思ったんですよ。そして、あの掲示板を見付けた。流石に自分で殺すのは怖かったんです。だから、殺させました。でも状況は何も変わらなかった。違法薬物だって、表に出てないだけで使用され続けているんです。意味もなくこどもを殺させることもしてるんですよ」


 桜木の話に全身に鳥肌が立った。水鳴教の内部は落ち着いたように見えても実状何も変化していないのだ。まだ沢山の人間が被害にあっているのだ。


「でも、流石に殺させた後は怖くなりましたよ。僕のことを幾ら知らない連中とはいえ、嗅ぎ付けられる可能性はありますから。だから、刑事になる道を選びました。幸い、水鳴教の悪事は世間的には露見してませんから」


 桜木はずっと聡と視線を合わせることなく喋っている。


「刑事になって、彼らを消そうと思いました。直ぐに取り掛からなかったのは下準備です。掲示板にいた十一人の現在と性格を調べました。どうしたら、彼らを死に追いやれるか、身辺も探って、周到に練りました」


 だからこそ、成功したのだろう。


「杉本だけは周りにそういった人間がいなかったんです。本当に暴力団でいさかいを起こされても困りますしね」


 聡は口を挟まないのではなく、挟めなかった。ただ聞いていることしか出来なかった。桜木が全てを吐き出したいようにしか見えないからだ。桜木は時折、呼吸を整える様子を見せたが、その呼吸が乱れているようには見えなかった。何処までも偽るのが上手い男なのか。


「そして、この班を見付けました。警察内部を調べたのは、何処の班なら動きやすいか知るためです。それが、ここでした。

貴方も新さんも、笹木さんも水鳴教と関わりがあった。もし、誰かがこれらの事件の関連性に気付いても、疑いの目が真っ直ぐ自分に向くことはないと踏んだんです」


 それもその通りに事は動いた。現に、それのために随分と悩まされ翻弄された。


「彼らを消すことを決めたのは、父親にばれないようにです。何だかんだ言っても父親ですからね。ばれたら、僕は殺されます。何せ、彼が敬愛してやまない水嶋崇を殺したんですから。

これが、家族にこそ隠したいことなんですよ」


 そこで桜木は漸く顔を上げた。その表情は嘲笑に似たものが浮かんでいた。


「お話出来ることはこれで全てです」


 桜木はそう言い、聡に向かって深く頭を下げた。


「……探して欲しかったんですか?」


 聡が口にしたのは、ユダという存在を知ってからずっと考えていたことだ。

 探して欲しかったから、こんなに分かりやすく道筋を残したのではないか。探して欲しかったから、自分の元に来たのではないか。

 桜木が語った内容は全て衝撃的で、想像の範疇を越えるものだった。しかし、その想いだけは消えることはなかった。


「……分かりません」


 桜木は頭を下げたまま、震える声で言った。


「でも……でも自分は、水嶋崇と何ら変わりはない人間だと思えてきたんです。人に人を殺させ、死ななくていい人間を死に追いやった。……同じ、なんですよ、結局」


 聡はその言葉には何も言わずに、桜木の丸めた背中を見た。

 彼は、何処で何を間違えたのだろう。いや、人生に間違いなんてないのか。全て、決まってしまっている道なのか――……。




「お疲れ様です」


 取調室を出るとそこには背筋を伸ばして立つ紘奈の姿があった。


「ああ、お疲れ様です」


 聡が力なく笑うと、紘奈は勢いよく頭を下げた。


「極秘任務とはいえ、身分を偽ったこと、大変申し訳ありませんでした。遅くなりましたが、ここにお詫び致します」


「ええ、いいですよ。仕方のないことじゃないですか。頭、上げて下さい」


 紘奈は何も好き好んで身分を偽っていたわけではない。なのでそれに関して紘奈が謝ることなど一つもないのだ。


「本当に申し訳ありませんでした」


 紘奈はもう一度言ってから頭を上げた。彼女が実はキャリアだというのだけはまだ信じられない。


「お疲れ様です、主任」


 紘奈が漸く姿勢を戻したところで笹木が現れた。


「だから、主任は止めて下さい」


 聡はそれに苦笑いをして返す。


「いえ、今回だけは主任と呼ばせて下さい」


 笹木があまりに真剣な声で言うので聡はそれを承知した。


「お疲れ様でした。何の役にも立てず、すみませんでした」


 続いて美琴が姿を見せた。相変わらず美しい顔立ちだ。


「いえ、そんなことですよ。これらの事件の解決に沢山貢献してくれたじゃないですか」


 聡の言葉に美琴は小さく笑った。

 彼らがいたから、自分は今立っていられる。桜木が全ての元悪だったことは確かにショックだし、そんな程度の言葉では片付けられない。でも、部下は彼だけではない。この目の前の彼らもそうなのだ。

 こうして彼らが支えてくれるから、こうして少しでも笑うことが出来るのだ。聡は彼らに心の中で感謝した。

 一人だったら、この事実を受け止めることは出来なかったかもしれない。いや、出来なかっただろう。今日中に辞表を出していた自信さえある。


「皆さん……ありがとうございました」


 聡は三人に向かって深く頭を下げた。

 本当に、彼らがいてくれてよかった。


「ちょ……聡さん、止めて下さいよ。何なんですか」


「そうですよ、お礼を言われることなんてないです」


「お礼を言うのはこちらですよ?」


 三人の声が次々に耳に入る。聡はもう一度、本当にありがとう、と言った。




「そう、捕まったんだ。水嶋殺しの犯人」


 三谷は冷めた目を美琴に向けてきた。


「でも、話すことは何もない。俺は君に分かってもらおうと思ったことはただの一度もなかった。

絶対に、こんな薄暗い自分は知られないようにしていたしね。だから、そのことを悔やむのはもう止めてくれ」


 美琴は喋る三谷の顔を見てはっとした。誠実そうな顔に一筋の涙が溢れている。


「頼むから、もう俺のことは忘れてくれ。君は君だけの刑事としての人生を歩んでくれ」


 三谷の言葉に美琴も涙を流した。そして、小さく何度も頷いた。彼からお願いをされるのはこれが初めてだったから。




「戻るのか?」


 笹木の声に紘奈は荷物を片付けながら振り向いた。


「深水さんからは戻ってくるように言われてるので」


 紘奈の答えに笹木は煙草をくわえながらそう、と言った。

 興味ないなら聞くなよ。紘奈はそう思いながら顔を逸らした。


「ま、あっちでも頑張れよ」


 笹木の言葉に紘奈ははい、とだけ答えた。此処で働くことはもうないのだろう。紘奈の中に寂しさがほんのり芽生えた。



 お洒落なバーでは既に玲良が待っていた。聡はその姿を見付け小走りに近付く。


「お疲れ様」


 それに気付いた玲良が振り返る。


「気分晴れやか、てわけじゃないみたいね。流石に」


 玲良の言葉に聡は苦笑いをして頷いた。それは仕方のないことだ。時間が経つのを待つしかない。それは既に理解していて、どうにかしようとは思わなかった。


「本当にありがとう」


 玲良はそう言って聡に微笑んでみせた。

 玲良は漸く初音のことから解放されたのだろう。それは聡にとっても喜ばしいことだった。今度は聡が玲良に笑顔を向けた。


「ね、次の非番、いつ?」


 玲良は身を乗り出して訊いてきた。爽やかな香りが鼻腔を擽る。


「明日……だけど」


 これは今回の功労を賞してというのもある。


「明日は土曜日。番組ないから、よかったら出掛けない?」


 玲良の誘いに聡は年甲斐もなくどきりとした。


「え……と」


 聡が戸惑っていると、玲良は顔をぐっと近付けてきた。


「ね? お願い」


 聡は上目遣いの表情に思わず頷いた。


 「じゃ、約束ね。明日、今回の水嶋殺しの件について詳しく取材させてもらうわ、ありがと」


 玲良はにっこりと笑って一気にそう言った。聡はその豹変に面食らい、言葉を失った。


「だって、警察内部の不祥事だから表には出さないんでしょ? 桜木が過去に殺人教唆をしたということしか」


 そうなのだ。それが警察が決めたマスコミへの発表だ。連続殺人事件としては決して発表しないらしい。


「それは無理」


 聡は慌てて言い、首を横に振った。漏らしたのがばれれば、最悪警察手帳を取り上げられてしまうだろう。


「何よ、けち」


 玲良は言ってからカクテルを一気に飲み干した。


「ま、それは冗談。ゆっくり食事でもしましょ」


 聡が頷くと、玲良は再びにっこり笑った。

 明日からまた、いつも通りの日常に戻るのだ。



「これ、お釣りはいいです」


 聡はに、と笑いタクシーの運転手に五千円札を渡した。

 秋近くの空は気持ちがいい。聡は空に向かって大きく伸びをして警視庁への一歩を踏み出した。

 世の中にはまだ沢山の犯罪者予備軍がいる。そしてそれは誰にでもあるのだ。彼等が犯罪者に身を落としてしまった時、彼らを探し出すのが自分の役目だ。そのために今日も警視庁へと足を向ける。


「またタクシーですか?」


 建物に足を踏み入れるなり美琴が隣に並んだ。小柄で美しい彼女はまるで女優のようだ。


「ええ、やはり時間配分が……」


「出掛けなきゃいけない時間にアラームをセットしてみたらどうすか?」


 笹木の舌足らずな声が耳に届く。


「ナイスアイディアです、笹木君」


 聡が言うと、笹木はでしょう、とにやけた笑いを浮かべた。

 聡と美琴。そして笹木の三人は他愛もない会話をしながら捜査一課殺人犯係へと進んだ。部屋に入り自分の席を見るなり、見慣れた姿があることに驚いた。


「あ……」


 笹木もその姿を見付け声を出した。その人物は立ち上がり敬礼をしてみせる。


「未解決捜査班から異動になりました、神沢紘奈警部補です。今後とも、どうか宜しくお願いします」


 紘奈ははっきりとした声で三人に告げた。


「宜しくお願いします」


 聡は紘奈に向かって右手を出した。


「うわ、最悪……」


「宜しく」


 笹木と美琴がそれぞれに発言をする。


「追っていた事件は解決したので、未解決捜査班にいる理由がなくなりました」


「だからって、うちかよ」


 笹木の発言に紘奈はにっこりと可愛い笑顔を向けた。


「笹木さん、階級、上ですから。ああ。肩、痣になったんですけど、それについては問わないことにしますね」


 随分と逞しくなったのか、それとも彼女は本来はこういった性格なのか。聡は分からない二人のやり取りを見ながらそんなことを考えた。

 ともあれ、自分の好きな仲間たちがこうして集まっている。それだけで十分だ。

 聡が微笑みながら彼らを見ていると、勢いよく扉の開く音がした。


「殺人事件だ」


 藤塚の野太いがよく通る声が部屋の中に響いた。聡達は一気に身体に緊張を走らせた。

 今日もまた、新たな事件が発生したのだ。





「殺人犯を殺す殺人犯マーダーキラー完結」




この作品はあるとき友人に「一話完結に見えて実は全て繋がっている、黒幕がいるミステリードラマのような作品を書いて欲しい」と言われて考えたものです。

しかし、ミステリー作品は2つしか書いたことがない私にそんな大層なものが思い付くわけもなく、彼女に沢山のアドバイスとアイデアを頂きました。

そんななかで書きながら思ったことは、話の大筋(黒幕も含め)を知っている彼女を如何に楽しませることが出来るか。

そう考えながらプロットを綿密に練っていきました。

なので私一人でこの作品を作っていたら決してここまでのものは出来なかったと思います。

とはいえ、まだまだ未熟なところも多い作品ではあります。でも、書き終えたあとにこんなに満足したのも初めてでした。

ここにその友人へ感謝を記します。

ありがとう、みつき様。


そして、最後までこの作品を読んで下さった皆様も、本当にありがとうございます。



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