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会いに来ない殺人犯




「紘奈ちゃん」


 その声に紘奈はゆっくりと振り返った。


「お疲れ様です、深水さん」


 紘奈が言うと、深水は唇の端を少しだけ持ち上げた。深水のあまり表情がないところは紗江子と似ていると感じる。


「どう? 首尾は?」


 紘奈は深水の問い掛けに首を横に振った。


「駄目です。そう簡単にはいきません」


 紘奈の答えに深水はそっか、と呟くように返した。賑やかで古い居酒屋は深水のイメージには合わない。でも彼が指定してくる店はいつもここなのだ。深水に似合うとしたら、もっとこう、こ洒落たバーのような店だろう。


「でも、笹木さんが何か嗅ぎ取ってるみたいです」


 深水はそのことには特に興味がないようにふうん、と言いながら煙草に火を点けた。煙が立ち上るなり、鼻に届く煙草の匂い。


「深水さんは、どう思ってるんですか?」


 目の前に揃えられた割り箸に視線を落としながら尋ねた。


「どう……て。正直、どうでもいいよ。上からの指示じゃなきゃ興味ない」


 深水のこういったところが好きになれなかった。自分には興味ない、自分はどうでもいい。本心など全く見せない男。


「でも、私のことまで偽る必要はあるんですか?」


 紘奈は割り箸から深水へと視線を移した。そこには無表情に近い深水の顔がある。


「それは仕方無いだろ。極秘扱いだし」


「極秘の意味は分かりますけど、混乱を招くだけです」


 本来、目上の者にこんなふうな口の聞き方はしないが今回だけは別だった。


「それはタイミングを見て俺から話すよ」


 深水は深く煙を吐いてからそう言った。紘奈はお願いしますよ、とだけ言ってさして食欲のない胃袋に食べ物を入れた。





聡は目の前に並べられた事柄に驚愕した。



「……本当なんですか?」


 聡の力ない声に笹木はしっかりと頷いた。


「深水さんが一枚噛んでるのは確かです」


 確かにそれも驚いたが、驚きべきはもう一つのことだ。


「まだ黙っていて下さいね」


 笹木のお願いに聡はでも、と言い掛けたが直ぐにそれを制された。


「今どう足掻いても結果は変わらないんです。なら、確実な証拠を掴むべきです」


 笹木は真っ直ぐな目で聡を見てきた。それはその通りだと思う。既に手は下されているのかもしれない。だがやはり、でも、と思わずにいられないのだ。


「聡君。笹木さんの言う通りだと思う」


 隣で玲良が細い声を出した。ここには、玲良がずっと追い続けた結果があるのだ。それでも彼女はその決断を選んだ。なら自分もそれに従うべきなのか。


「……分かりました。このことはくれぐれも口外しないようにしましょう。深水さんには僕から然り気無く話を聞きます」


 笹木は聡の言葉を聞いて頷いた。そして、ゆっくりと唇を開け、言葉を紡いだ。


「自分は、水鳴教の施設で十年育ちました。だから、内部のことはよく知っています。

自分はあそこが嫌で、あの場所で育った自分が嫌でした。だから、少しでも人の役に立ちたくて、警察官になる道を選んだんです。そして、聡さんに出会いました。そこに、何の偽りもないことだけは分かって下さい」


 普段と全く違う表情を浮かべて、笹木は低い声で言った。その言葉に嘘はないと聡は強く確信した。


「信じます。だから、一緒にユダに繋がる証拠を掴みましょう」


 聡が言うと、笹木は強い意思を持った瞳で頷いた。彼はユダはではない。聡はそう思いながら笹木の彫りの深い顔を見た。すると笹木は途端にいつもの表情に戻り笑った。


「俺、聡さんの元で刑事やれて、本当によかったです」


 いつも通りの明るい声に聡は胸が軽くなるのを感じた。


「やめて下さい。そんなこと言われたら照れるじゃないですか」


 聡は苦笑いをしながら返した。だが純粋にそう思ってくれていることは嬉しかった。隣で玲良がよかったわね、と言いながらアルコールを飲んでいる。とはいえ、全てが解決したわけではない。まだまだこれからなのだ。



 遺体で見付かったのは牧村恵子。死後一ヶ月は経過しているようで腐敗はかなり進んでいた。身寄りも友人もいない彼女の遺体はある女性の部屋で発見された。古いアパートから異臭がするとの通報があり、近場の交番の警察官が発見したのだ。


「殺したのはあたしです」


 その部屋の住人である吉川奈美は悪びれた様子もなく聡に告げた。いや悪びれた様子がないのとは違う。まるでそれが当たり前かのように言ったのだ。

 牧村恵子は掲示板に名前があった残り二人のうちの一人だ。足掻いても結果は変わらない。笹木の言葉が脳に浮かんだ。確かに一ヶ月も前に殺されていたなら結果は変わらない。どんなに彼女を助けようとしたところで無意味だったのだ。


「……何故、殺してしまったんですか?」


 それなら訊くべきはそこだ。何故、奈美は牧村恵子を殺すに至ったのか。ユダに、どのようにして殺害するきっかけを作られたのか。

 今までの事件は被害者の考えや心を利用した単純なものばかりだ。今回も同じなのだろうか。聡は奥二重の奈美の瞳を真っ直ぐに見た。

 奈美は二十五歳ということだがそれよりもっと幼く見え、下手したら十代にも思える。殺された牧村恵子も奈美と同じ二十五歳。ということは牧村恵子は十五歳でという若さで殺人という犯罪に手を染めたことになる。


「だって、会いに来てくれないから」


 奈美は少しだけ首を横に傾けて言った。


「え?」


 聡は言葉の意味が理解出来ず思わず聞き返してしまった。


「だって、恵子ちゃん、会いに来てくれなかったんだもの」


 奈美は見た目と同じく幼い喋り方で言い直した。


「……貴女と、牧村さんの関係は?」


 聡は状況を理解しようと質問を変えた。その後ろには笹木が控えている。取調室には取り敢えず誰も近付けないでくれ、と頼んであるので美琴や桜木、そして紘奈は別室で控えているはずだ。


「恵子ちゃんとは保育園からの幼馴染みです」


 随分と長い付き合いだ。それなら奈美は十年前に牧村が仕出かしたことを何か知っているかもしれない。これは訊くべきか。ちらりと笹木の顔を見ると、笹木は真顔で頷いた。

 此処には自分と笹木しかいない。調書にさえ記さなければ聞いても大丈夫だろう。聡は意を決して口を開いた。


「十年前に、何か牧村さんに変わったことはありませんでしたか?」


 聡の質問に奈美は一度大きく瞬きをした。その仕草は彼女を更に幼く見せた。


「十年前って、あのことですよね」


 聡は奈美の答えに息を飲んだ。これは確実に知っている。


「水鳴崇人を殺したことでしょう?」


 後ろで笹木が手にしていたボールペンを落とす音が耳に届いた。これで証拠は出たのかもしれない。




「お疲れ様です。どうでした?」



 聡が戻ると桜木が一番に訊いてきた。


「恐らく彼女で間違いないですが、精神的な衰弱が激しいので、聴取は明日に持ち越しです」


 聡は笑顔で桜木に告げた。これは嘘だ。奈美は精神的な衰弱など全くしていない。ただ、もう少し裏付けしたいことがあるので先伸ばしにしたに過ぎない。

 桜木は聡の嘘には気付かなかったのか、そうですか、と言っただけだ。美琴と紘奈も納得したのか特に何も訊いてはこなかった。


「では、僕は約束があるので今日は失礼しますね」


 聡は四人に頭を下げて言い、部屋を出た。


「私も行きたいところあるから」


 美琴も聡に次いで言うので紘奈ははい、と返事をした。自分は深水のところにでも行くか。そう思った矢先、笹木に呼び止められた。


「よかったら、これから飯行かない? 奢るからさ」


 笹木は紘奈に近寄りながら笑顔で言ってきた。断る理由はないし、言い訳も思い付かず、紘奈は無言で頷いた。それを桜木が横目で見ていたが気付かなかった。




「久し振りだね」


 三谷の笑顔に美琴はたった三日よ、とだけ返した。


「まだ、諦めないんだね」


 美琴は三谷の目の前に腰を下ろした。


「私は、知りたいだけなの。貴方があの時に何を考えていたか。それだけがずっと心に引っ掛かって、胸につかえてる」


 自分が正直にならなければ相手も正直になることはないだろう。美琴はそう思い、三谷を真っ直ぐに見た。三谷の瞳は昔と変わっていない。自分と出会った時からとうに決めたことだったのだろう。


「私は全てを知って、貴方から開放されたい。そして、前に進みたいの」


 美琴が言い終わると同時に、三谷は硝子を思いきり拳で殴った。その拳は丁度美琴の目前にあるが強化硝子はそんなことくらいではひび一つ入ることはない。それでも看守は咄嗟に立ち上がり、三谷を羽交い締めにした。


「大丈夫ですから」


 息を乱す三谷に視線を向けながら言うと、看守は渋々彼の体から手を引いた。


「……ふざけるなっ」


 三谷は肩で息をしながら叫んだ。そんな彼を見るのは初めてだった。彼は声を荒げることすらしない人だと思っていた。


「そんなのは、君の勝手だろう。君が勝手にすっきりしたいだけだっ」


 その発言に返す言葉はなかった。全くもってその通りなのだから。この五年、ずっと彼のことに縛られてきた。ずっと彼のしたことに重みを感じてきた。

 ならそれは、貴方の勝手じゃないの? 美琴はそう思いながら下唇を強く噛んだ。貴方の勝手に、私は振り回されているだけじゃないの?

 自然に涙が溢れてくる。一度は愛した彼を、何故ここまで憎く思わなくてはならないのか。何故、こんなことになってしまったのか。


「……私は、貴方を愛してた。愛してたからこそ、貴方を分かってなかったことが悔しかったの。

今でも、貴方が何を考えているのか分からないの」


 美琴は美しい顔に涙を溢しながら言った。ぽろぽろと溢れる涙は頬を伝い、膝の上で握り締めた手の甲に落ちていく。生暖かい涙は何滴も落ちた。


「……俺は、今でも君を愛してる」


 三谷は消え入りそうな声でそれだけ、静かに告げた。



「……ご馳走さまでした」


 紘奈は笹木の広い背中に向かって言った。何か訊かれるかもしれないと危惧していたのだが、食事中は他愛のない会話しか出てこなかった。勘繰り過ぎか。紘奈は少しだけ安堵して笹木の隣に並んだ。

 何もない目でこの人を見れたらよかったのに。そんな思いが不意に浮かんでくる。


「神沢さんは出身何処なの?」


 笹木の突然の質問に紘奈は顔を上げた。


「……埼玉、です」


 これも他愛のない会話の一部なのだろうか。


「偶然。俺も埼玉なんだ。埼玉の何処?」


 違う。紘奈はそう確信したがそう返すことは出来なかった。笹木の出身は東京なのだ。それは深水から渡された資料で知ったことなので、それを言うわけにはいかない。


「春日部です」


 紘奈は咄嗟に知っている地名を挙げた。


「それも偶然。中学は何処? もしかして一緒だったりして」


 この場を回避する言葉を考えたが何も思い付かない。紘奈は口ごもり、視線を泳がせた。深水は詰が甘い。どうせなら徹底的にプロフィールを作ってくれればいいものを。


「中学は……」


 適当な名前を挙げてもそれを笹木が知っているわけはないが、もう逃げられない。紘奈は必死に頭を回転させた。次の瞬間、強い力で思い切り壁に押し付けられた。

 いつの間にか路地裏に来ていたようで周りに人はいない。目の前に笹木の鋭い目がある。肩を強く押さえ込まれている為、身動きは取れない。


「何を企んでる?」


 笹木の低い声が耳に届いた。

 ……これが彼の本性か。


「……何も企んでなんていません」


 紘奈は初めて目にする笹木の本当の姿に声が震えそうになるのを何とか堪えた。押さえ付けられた肩は少し痛む。


「嘘つけ。深水さんと二人でこそこそ何やってんだ?」


 笹木は目の前まで顔を近付けてきた。ここでどんな言い逃れをしても意味はないだろう。


「企んでいるというのは語弊があります」


 紘奈は出来るだけはっきりとした口調で言った。これは事実だ。何かを企んでいるわけではない。実際、こんなことにまでなるとは思っていなかったし、こちらだって何が起きているのか知りたいくらいだ。

 紘奈は彼らについて大雑把にしか知らされていない。紘奈が軽く睨み付けるように見ると、笹木は鼻で笑った後、ようやく手を離した。それでも掴まれていた肩には痛みが残り、痣になることが予想された。


「心配して損した」


 笹木は吐き捨てるように言い、煙草をくわえた。


「……心配してくれなんて、頼んでません」


 紘奈が返すと、笹木は皮肉な笑いを浮かべて歩き出した。その背を見送ってから帰ることを決めたその時、笹木はくるりと振り返った。口には煙の昇る煙草がある。紘奈はそれに驚き、体を固まらせた。まだ何か用事があるのか。


「速く歩かないと送ってかないけど」


 煙草をくわえたまま喋るので、更に滑舌が悪い。紘奈ははい、と思わず答えてしまい、慌てて笹木の隣に並んだ。

 深水への報告に凶暴性あり、と付け加えるべきか。煙草の似合わない笹木の横顔を見ながらそんなことを思い歩いた。



「やっぱり参ってるみたいね」


 玲良の声に聡は顔を上げた。


「まあ、それはね」


 手元にあるアルコールは少しも減っていない。


「裏付けは取れたの?」


 玲良は上品な仕草でカシューナッツを摘まみながら訊いてきた。玲良だって早くどうにかしたいに違いない。それでも自分がこんなふうになっているから平静を装っていてくれているのだろう。途端に自分が不甲斐なく感じる。

 どんなに覚悟を決めていても、いざ結果を知るとこれだ。いや、覚悟なんて決まっていなかったのだろう。


「うん、何とか」


 聡が答えると玲良は小さくそう、と言った。

 奈美は十年前のことを事細かに記していた。もしかするとそれはユダの予想外のことではなかったのだろうか。このまま、十一人を静粛出来たとしても、その過去の証拠がなければ何もならないのだ。ユダが水嶋崇殺害を教唆したという証拠がなければ。奈美の残したものが証拠として十分かどうかは怪しいところだ。それでもないよりは幾分いい。


「聡君らしく、結果を出したらいいと思うわ」


 玲良の声にはっとした。自分らしく。それがどういうことなのか途端に分からなくなる。自分らしく結果を出す。

 自分らしく、ユダを捕まえる。聡は顎の下で両手を握り締め考えた。それでも答えは出ない。聡は色んな想いを胸に、目の前で炭酸を弾かせるビールを眺めた。黄金色の液体はぷつぷつと気体を発生させている。喉越しは苦く、何となく舌に残る感じがする味。それはよく分かっているが、そのグラスに手が伸びることはない。


「兎に角、それも合わせて焦らずに考えたら? 結果を急いだって後悔するだけよ?」


 玲良の言葉に聡は微笑を浮かべて頷いた。それはその通りなのかもしれない。どう足掻いても結果は変わらないのなら、自分の納得する結果を出すべきなのかもしれない。


「僕らしく、ていうのがどいうことかまだ分からないけど、僕なりにやってみるよ」


 聡は頷いた後にそう言った。玲良がそれを聞いてから微笑む。

 真実はもう目の前まで来ている。それをどう掴むかが自分次第で、自分らしくやるべきことなのだ。聡は決意を固めて拳を握った。




 聡が並べ立てた証拠を見て、笹木が小さく唸った。


「虚妄と言われたらそれまでな気もしますけど、でも十分でしょう」


 笹木の言葉に聡は頷いた。奈美の証言では、十一年前に水鳴教の信者だった両親が薬物中毒で死んだことが全ての始まりだったということだった。あまりに不審な死に方に、親友である牧村恵子がネットを駆使して調べてくれたらしい。そして、とある掲示板に辿り着いた。

 それが《教えを乞わずに制裁を与える集い》だった。

 そこには奈美のような境遇の者が沢山いたらしい。水鳴教に家族や友人、恋人を死に追いやられた者たち。大概のものは何度かの間接的攻撃で気が済んだのか、姿を現さなくなり、残ったのがあの十一人だった。その十一人の水鳴教への恨みは生半可なものではなく、間接的攻撃だけでは晴れない気持ちを持っていた。恨みはどんどんと蓄積され、何時しか、他に何かいい方法はないかと話し合われるようになった。そこに書き込まれたのが、ユダからのあのメッセージだった。

 勿論、牧村恵子はそれに直ぐに飛び付き、書き込まれたアドレスにメールを送った。帰ってきたものは水嶋崇を殺害する、ということだった。殺害したい者だけもう一度メールをくれ、したくないものは全てを忘れ、この掲示板にも二度と訪れるな、口外したら後悔することになるという脅し文句が書かれていた。

 牧村恵子は同意のメールを返した。すると、日時と場所が書かれたメールが返ってきた。そこで、集まった者で好きなように水嶋崇を殺せばいいということだった。

 指定された時間に、指定された場所を訪れると、そこには牧村恵子を入れて十一人の人間がいたらしい。全員ハンドルネームで名乗り、それが残っていた十一人だと判明した。

 指定された場所は使われていない倉庫で、時間は真夜中だった。そこに水嶋崇がいる気配もなく、ユダらしき人物もいない。三十分程過ぎた頃、派手な女が悪戯だったのではないかと言い出した。牧村恵子もそう思い始めていたらしい。そして丁度その時、何かが倉庫の中に投げ込まれた。

 シャッターの半分開いた場所から投げ込まれたのが縛られた人間だというのには皆が直ぐに気付いた。そしてそれが水嶋崇だということにも。

 誰がどんなふうに彼を拉致し、こんなところに連れてきたのか。誰もその疑問は口にはしなかった。ただ、待ちに待った獲物が目の前に無防備に差し出され、数人が歓喜の声を上げた。

 牧村恵子はそこで途端に恐ろしくなったらしい。ユダからのメールを受け取った時は最良の機会だと思ったのだが、目の前に、現実にそれが起きるとは頭の何処かで分かってはいなかった。それはまだ十五歳というこどもだったからだろう。だが、現実にそれは起きたのだ。

 凶器として使える物は倉庫に予め用意されていた。スタンガンにナイフ、鋸に斧、ロープに出刃包丁。それそれが凶器を選び、手にしていく。

 牧村恵子は内の恐ろしさと闘いながら、ナイフを手にした。

 まず、大柄な男がバットで水嶋崇の額を軽く殴った。勿論、死なない程度に。続いて派手な女が出刃包丁で肩に切れ目を入れた。猿轡をされた水嶋崇は痛みでか恐怖でか、ずっと唸り声を上げていた。

 誰かが水嶋崇のアキレス腱を切り、足の自由を奪った。それから体を縛っていたロープをほどいた。水嶋崇はどうにかまだ動く上半身だけで必死に逃げようとした。だが既に全身血塗れになり、顔は醜く歪んでいた。それでもなお生きたいのか、逃げようとした。

 それが暗殺者達の神経を逆撫でしたらしい。沢山の人間を死に追いやったくせに、自分は生きたいなどとぬかす。それがとても傲慢で許し難いと若く顔の整った男が叫んだ。

 それを機に攻撃はエスカレートした。

 それぞれが好き勝手に攻撃していくと、いつの間にか水嶋崇は失神していた。綺麗な女が脈を計り、まだ生きている、と言った。すると中年の男が最後に彼の頭部を斧でかち割った。

 それで全てが終わった――……。

 奈美は牧村から聞いた話を全て書き出していたのだ。


「恵子ちゃん、死んじゃう少し前から連絡をくれなくなりました」


 奈美は悲しそうに言った。


「理由はご存知ですか?」


 聡の質問に奈美はこくんと頷いた。


「ユダからメールが来たって言ってました」


 聡は奈美の答えに眉をぴくりと動かした。


「何か、脅しみたいだったって。で、あたしに全てを話したことが急に怖くなったって。それで、あれ以来決して会わないと誓い合ったメンバーに連絡をしたらしいんです。そしたら……」


 奈美はそこで一旦言葉を切り、唇を舐めた。こんなことを話しているのに随分と余裕がある。それが聡が奈美に抱いた印象だった。


「そしたら、何人か死んでたって」


 奈美はあっさりとその発言をした。自身が水嶋崇殺しに関与していないからそのことに恐怖がないのか。聡は心の中で溜め息を吐いた。


「あたしと恵子ちゃんは謂わば共犯者だと思ってました。秘密を共有して、二人でひっそりと生きていく。あたしの為に手を汚した恵子ちゃんの為に出来るのはそれくらいだと思っていました。

なのに、恵子ちゃんは突然、あたしの前から姿を消したんです」


 奈美はそこで表情を少しだけ歪ませた。


「あたし達はずっと、ずっと一緒だと思ってたのに」


 その表情は憎しみと悲しみが混じったものだ。


「……ちょっと待って下さい。姿を消したのに、何故殺せたんですか?」


 聡は真っ直ぐに奈美の顔を見た。奈美は大きく瞬きをしてから口を開いた。


「メールが来たんです。恵子ちゃんから」


「メール、ですか?」


 聡が返すと奈美は無言で頷いた。


「アパートに行くよって。あたし、その日はバイトが入っていたので、早退して帰りました。そしたらそこには恵子ちゃんがいました」


 おかしい。全てがおかしいのだ。


「恵子ちゃん、あたしを見るなり、笑いました。突然姿を消したのに、何も教えてくれないで、元気? と言いました。その途端、またいなくなっちゃうのかなって思いました。

なら、いっそ自分の元に置いておこうって思い付いたんです」


 だから殺害し、その遺体を自分の部屋に置いたままにしていた。例えそれが腐敗を始めても。

 純粋過ぎる想いは時として狂気になる。ユダはそれを理解していた。奈美の性格を把握したうえで、何らかの方法で牧村を監禁した。奈美に会いに行かないように、奈美に連絡が出来ないように。そして奈美の不信感が募ったのを見計らい、牧村を奈美のところに行かせた。何も喋らないように言い聞かせ。牧村はその通りに行動した。そしてユダの思惑通り、奈美は牧村を殺害したのだ。

 ユダはこのようにして、全ての事件の糸を引いていたのだろう。

 何をどうしたのかは今の段階では分かっていない。それは笹木が必死になって調べてくれている。それらが揃い次第、聡はユダに突き付けるつもりでいた。

 自分らしく。殺人犯は必ず探し出すと心に誓って、刑事をやっている。それなら、そのポリシーに誓って、必ずユダに真実を語らせる。それが自分らしいやり方なのだと思う。




「お疲れ」


 深水の声に聡はゆっくり顔を動かした。落ち着いた私服を身に纏った深水の横には若く美しい女がいた。若いなどというものではない。どう見ても二十歳そこらにしか見えない。

 彼女は整った顔に不機嫌そうな表情を浮かべ、身形も素っ気ない。折角の素材が台無しにしか思えない姿だ。それでも彼女ははっきりと美人だと分かる。

 浮気相手だろうか。聡は本来深水を呼び出した理由も忘れ、そんな視線を女に向けた。


「ああ、妻だよ」


 聡は深水の言葉に驚きを隠せなかった。些か若過ぎるだとか、そんな問題ではない。彼女は深水が選ぶような女に思えなかったのだ。そして、彼女も深水を選ぶようには思えなかった。


「この時間に一人にするわけにはいかないんだよ」


 深水は言いながら聡の隣に腰を下ろした。その横に深水の妻が座る。聡には何の挨拶もせずに。色々と尋ねたいことが溢れるように脳に浮かんできたが、聡は取り敢えずそれらを押し込めた。


「で、何の用?」


 深水はマスターに何かを注文してから聡に視線を寄越した。左手の薬指に光る指輪が途端にイミテーションに見えてくる。


「ちょっとお伺いしたいことがありまして。急に呼び出してすみません」


 聡が言うと、深水は別にいいよ、とだけ言った。


「……貴方は、全部知ってたんですか?」


 深水は聡の言葉に答えずに煙草に火を点けた。その向こうで彼の妻が顔をしかめる。煙草臭いが嫌いなのだろうか。

 聡は余計なことは言わずに、深水の言葉を待った。それでも深水は口を開くことはなく、煙を吐き出した。

 視界に微かに靄がかかったようになる。聡はもう一度同じことを訊くか、それとも違う切り口でいくか悩みながら煙草を吸う深水の横顔を見た。


「知らなかった、て言っても信じないだろ?」


 突然、深水は煙草を口から離して喋った。そんな彼の目の前にマスターが赤い色のカクテルをそっと置き、隣にいる妻の前にも同じものを置いた。


「……信じませんね」


 聡が返すと深水はふ、と笑いを溢した。


「全部なんて知らなかった」


 深水は言ってからグラスを傾ける。これは信じていいのか。元々、人を疑うのは得意ではない。でも状況が状況だからこそ、疑心暗鬼になりつつもある。誰を、何処まで信じていいのか。結果は出ているというのに。


「ユダが誰か、までは知らなかった。ただ、原田裕人が殺された時から動いてたのは本当だ」


 深水はグラスを置いて、聡に視線を向けた。そんな時から既に。いや、そのタイミングでなければ有り得ないこともあるのも確かだ。聡は深水と視線を交わらせた。そこにあるものが見えるとは思っていない。


「未解決捜査班はずっと水嶋崇殺害の事件を追ってきた。理由は、警察の汚点、それだけだ。こんなことも解決出来ない警察は無能だ。そう言われ続けるのが嫌で追ってきた。

ま、俺が未解決に行ったのはまだ三年前だけどな」


 深水はそれまでは殺人犯係にいたのだ。だがある時突然、未解決捜査班へと異動になった。そして結婚をしたのも丁度その頃だった。元上司とはいえ、彼については何も知らないのが実状なのだ。


「俺が未解決に行くなり、この事件を任された。そして、あの掲示板に辿り着いた」


 玲良に頼まれてから辿り着いたことではないということか。

《教えを乞わずに制裁を与える集い》

 その掲示板を深水は三年も前に知っていたということになる。


「そして、十一人も突き止めていた。でもユダだけは分からないし、本当に彼らが水嶋崇を殺害したという証拠もなかった」


 深水は聡よりずっと前からこの事件を追っていたということになる。

 聡は黙ったまま深水の話を聞き続けた。隣では彼の妻が手持ち無沙汰に頬杖を付いている。


「そして、原田裕人が殺された。これを偶然だと思う人間がいるか?」


 深水の問い掛けに聡は首を横に振った。自分が深水の立場でも思わないだろう。殺人を犯した可能性のある人間が殺される。これに何も思わない人間は刑事ならまずいないだろう。


「そして、それを解決したお前の班に目を付けたんだ」


 深水が言いながら新しい煙草に火を点けた。いつの間にかその前の煙草は灰皿に押し付けられている。


「そしたら、見事に全員が真っ黒だろ? 流石にびっくりしたよ。ま、お前だけは違うと思ったけど、それは勘であって、確信じゃない」


 それはそうだろう。自分だって他の班員同様に水鳴教との繋がりがある。


「だから、お前から元嫁を紹介された時にお前はリストから外した。ユダはそんな馬鹿じゃないとおもったからな」


 それで玲良と自分に情報を流したのか。ユダが自分の元にいるというのも確信して。


「で、お前も白だとは思えなかった時に、内部を探ってもらう為、うちのを一人送り込んだ」


「それが、紘奈さん、ですね」


 聡の言葉に深水は頷いた。聡の脳裏には紘奈の真剣な顔が浮かぶ。


「彼女のことをきちんと伝えなかったのは謝るよ。ユダを欺く為だ。本当のことを教えて、お前と紘奈とでこそこそやられたらユダに勘づかれるからな」


 それは深水の判断が正しいだろう。


「では、彼女の過去は……」


「それは本当だ。ユダが過去を調べた時に怪しくない奴を用意したからな。嘘なのは経歴とお前の班に来た動機だけだ。ま、交通課にいたことがあるのも本当だけど、紘奈の本当の階級は警部補だ」


 聡はそのことに驚いた。紘奈から階級は巡査だと聞いていたし、報告でもそうだったのだ。完璧に偽っていたのか。


「あの子の父親は本部長だ。だから母親が薬物中毒で死んだことも揉み消されてる。結婚までの腰掛けに交通課にいたんだが、自ら志願して未解決捜査班に来た。水鳴教の事件を調べたいのだと言って」


 そうなると、ユダにもばれないように警視庁のデータベース自体を書き換えているのだろう。用意周到。その四文字が聡の頭に浮かんだ。


「このことは完全に極秘なんだよ。恐らく、警察内部にユダがいる。それを知った室長が全てを指示してる。マスコミにばれるわけにもいかないし、警察内部でも事を小さく済ませたい」


 深水は煙を吐き出しながら喋った。


「……何故、警察内部だと?」


「偽装しやすいからだ。事件をな。そして、それを解決したお前の班が最も怪しい。

うちの室長、一見のほほんとしてるけどかなりの切れ者なんだよ」


 その室長とやらを聡は見たことがないので、何とも答えられなかった。


「ま、もうユダは分かってるし、後は証拠を揃えるだけなんだろ?」


「……はい」


 聡は頷きながら深水を見た。


「何だよ? もっときちんと謝れって?」


 深水は笑いながら言った。


「ご協力、ありがとうございました」


 聡は深水に向かって深く頭を下げた。

 自分一人では決して真実に辿り着けなかっただろう。初音の無念を晴らしたい、玲良の中にある重しを取ってやりたい。幾らそう思っても、自分一人ではここまで来ることは出来なかった。そもそも、この数々の事件のからくりにすら気付けなかっただろう。この、単体の殺人事件に見えて、連続殺人事件だったことにも。


「ちょっと待てよ。それは俺の科白だ」


 深水は珍しく慌てたように言った。


「いえ、本当にありがとうございました」


 聡はもう一度言って、再び頭を下げた。


「じゃ、俺からも。協力、ありがとう」


 深水はそう言い、聡の前にあるグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。そして、まだ完全に解決したわけじゃないけどな、と付け加えた。その向こうでは深水の妻が詰まらなそうに大きな欠伸をした。




「聡さん」


 笹木は小声で聡を呼んだ。その緊張感を含む声に聡の中にも緊張感が走った。聡は他の班員に気付かれぬように何食わぬ顔で席を立った。だが紘奈だけが小さく視線を寄越した。美琴と桜木は気付いていないのか、こちらを見ることはなかった。


「全部出ましたよ」


 廊下に出るなり、笹木は聡にそう言った。

 ――――ここからが本当の始まりだ。




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