想う殺人犯
騒々しいことこのうえない爆音。
毎朝これを続けているにも関わらず近隣から一切の苦情がこないのは彼、辻木聡の人徳によるものだろう。
海外のロックは寝起きの脳によい刺激を与えてくれる。聡は少し調子のずれた鼻歌を奏でながら、長めの茶髪をセットしていく。ワックスを入念に手で伸ばしそれを毛先に塗り、遊ばせる。こうすることで五つは若く見える。
別に若く見えることを狙っているわけではない。髪型をきちんとセットしないと何故か落ち着かないのは昔からの癖で、女性が化粧をしないと外に出たくないというのと似ている。
聡は髪型をセットし終えるとCDを止めた。そして今度はテレビを点けたがそれは通常のボリュームだ。テレビ画面の中ではあっさりとはしているが、美しい顔立ちの女性キャスターが流暢にニュースを読み上げている。その声は鈴の音のように美しいが、それでいて聞き取りやすい。
「水鳴教の教祖、水鳴崇人こと水嶋崇が惨殺された事件から丸十年がが経過しました。未だ犯人の目星は付かず、残された水鳴教の信者達は警視庁の前で抗議のデモを繰り広げています」
聡は冷蔵庫から取り出した牛乳を一気に飲み干しながらニュースに耳を傾けた。テレビ画面にはデモを行う多数の人間の姿が映し出されている。
警察の無能を許すな、というプラカード。その隣には教祖様を殺した人間に裁きを、と書かれている。
「あらら、こりゃ大変だ」
聡は牛乳瓶から唇を外して呟いた。その唇の周りには牛乳がうっすらと髭のようについている。
通勤時間帯の道路はどうも混んでいていけない。
聡はタクシーの中で腕時計に目を落とした。その腕時計は高価なものではあるが年季が入っていて、」所々金属が剥げている。文字盤の硝子にも小さな皹があり、それは丁度十二の数字にかかっている。
「ああ、運転手さん、此処、此処でいいです」
聡は窓の外に視線を移すなり慌てて言った。
桜田門前。
運転手は聡の目的地を聞いたときから怪訝な顔をしていたが、いざ車を停めるときにはそれを胡散臭げなものに変えた。タクシーが停まった向かいにある大きな建物と後部座席に座る男があまりに結び付かないからだろう。
長めの茶髪に、大きな黒のセルフレームの伊達眼鏡、青いチェックのボタンシャツに黒のデニム。左耳についたリングピアスに、右手人差し指にはシルバーリングが嵌められている。そんな男と向かいに聳え立つ警視庁はどうしても無関係に思えてならないのだろう。用があるとすれば犯罪者、というところだろうか。
聡はそんな運転手の視線に築気付かずにデニムのポケットから五千円札を取り出した。
「これ、お釣りいいですから。お昼ご飯でも食べて下さい」
聡はに、と笑いながら五千円札を運転手に渡した。そして二度ほど軽く頭を下げてから颯爽とタクシーから下りた。
春の太陽は眩しく、つい目を細めてしまう。
その目はくっきりとした二重で、三十八歳という年齢のわりには可愛らしい。
「さ、行きますか」
聡は大きな独り言を口にしてから大きく一歩を踏み出した。
デモを行う水鳴経の信者達は背広姿の刑事に何やら文句をぶつけている。それを必死に止める制服警官。
「お疲れ様でーす」
聡はそれを横目に通り過ぎたが、彼に文句をぶつけてくる信者は一人もいなかった。それは聡の風貌がどう見ても刑事には見えないからだろう。
聡はまた調子のずれた鼻歌を奏でながら警視庁の中へと足を踏み入れた。
「おはようございます」
それにすっと並ぶ小柄な女性。
「あ、おはようございます」
聡は隣に並ぶ女性に歩きながら挨拶を返した。女性はそれににこりと微笑む。
日本美人、そんな言葉がぴったりと当て嵌まる彼女は新美琴。聡の部下だ。
「また、タクシーで来られたんですか?」
美琴は艶やかな黒のストレートヘアを揺らしながら言った。彼女を見た十人中十人が美人と称するだろう。
刑事より女優になったほうがよかったのでは、と初めて彼女を見たときに聡は心の中で呟いたのを今もよく覚えている。だが美琴は刑事としての素質はもとより、聡に最も忠実な部下で今では彼女が女優ではなく刑事の道を選んでくれてよかったと思っているほどだ。
「ええ、どうしても時間配分が上手く出来ないんですよね」
聡はこの世にそれ以上不思議なものはないとでもいうような顔で首を傾げた。
目覚ましだって十分に間に合う時間にセットしてあるし、何時に家を出れば目的の電車に乗れるかも把握している。だがどうしても家を出るのが遅れてしまうのだ。
「どうしてですかね」
美琴はそんな聡の様子に苦笑いを浮かべた。それでもその顔は美しく、流石警視庁一の美人と呼ばれるほどだ。
「おはようございます」
聡が美琴とエレベーターに乗り込もうとしたそのとき、五月蝿い足音とともに少々舌足らずな声が耳に届いた。
「あ、笹木君。おはようございます」
聡は声の主に軽く頭を下げた。
「いやあ、参りましたよ。そこで水鳴教の信者に捕まっちゃいまして」
笹木俊成は額に浮いた汗をハンカチで拭いながらエレベーターの乗り込んだ。上背は高く、程好く筋肉のついた体はまだ朝だというのに疲れを醸し出している。
「それは大変でしたね」
聡は笹木に憐憫の目を向けた。
「俺は十年前はまだ交番勤務でしたよ」
笹木はうんざりとした表情を浮かべ、乱れたワイシャツの胸元を直した。黒いワイシャツが映えるのは彼の肌が白いからだろう。
「それは災難ね」
美琴がくすりと笑うと同時にエレベーターが動き出した。」
「あ、お二人はは大丈夫でした?」
笹木が不意に思い付いたように口を開く。
「ええ、大丈夫でしたよ」
聡は電光の階数を見ながら答えた。
「何年刑事やってるの? 頭で考えれば分かるでしょ」
美琴も点滅する階の灯りを眺めている。美琴は今日のことを想定して、いつもより出勤時間を早めたのだと口にした。
「流石美琴さんですね」
勿論、そんなことは全く念頭になかった聡は笹木と一緒になって頷いた。
十年前の水鳴教教祖殺害事件。
当時聡は所轄の捜査員として捜査に関わっていた。だが犯人は結局見付からず、未解決事件として世間を賑わわせている。
ぽん、という音を立ててエレベーターは到着を告げた。流れるように下りる人々。そこには警察の花形、捜査一課が存在している。
聡はずれた伊達眼鏡を直し、我が職場へと足を踏み入れた。
毎日何かしらの事件が起きる昨今の日本だ。
聡が自身のデスクに腰を下ろすと、目の前の静かにコーヒーが置かれた。
「おはようございます、辻木主任」
そこには優しそうな瞳を細めて微笑む桜木恭弥がいた。
「あの、そ主任、ていうのやめてもらえませんかね? ほら、桜木君とは階級も同じですし」
聡は桜木に頭を下げながらコーヒーを手にした。
「いえ、そういうわけにはいきませんよ。主任なのは事実なんですから」
礼儀正しい青年桜木は東大をトップで卒業した所謂キャリアと呼ばれる存在で階級は聡と同じ警部補だ。
「そう呼ばれると、何かこう、むず痒いというか……。辻木さんでも、聡さんでも構わないんで主任ていのだけは勘弁して下さい」
聡が必死に訴えると、桜木は形の良い唇を締め、承知しました、答えた。聡はそれに安堵しながら、まだ二十九歳という桜木を見た。
辻木班は辻木聡警部補を主任として筆頭に、新美琴巡査部長、笹木俊成巡査部長、桜木恭弥警部補の四人で形成されている。つい先月まで聡より十も上の警部補清原がいたのだが自身の都合で退官したまま、その席は空いたままだ。
「そろそろ慣れて下さいよ、主任」
笹木がわざと聡をそう呼ぶと、聡は本当にやめて下さいね、と丁寧な口調で言った。
年が近いものが集まり、性格的にも難はない。聡はそんな自らの班が気に入っていた。
「事件だ」
朝の穏やかなひと時を打ち砕くように、藤塚係長の声が響いた。今しがたまでその空気を楽しんでいた聡達はその声で一斉に顔付きを変えた。
「ほら、新の大好きな殺しだぞ」
藤塚は美琴の美しい顔に向かって言い放った。それは美琴以外の人間にもはっきりと分かる嫌味だ。
聡は考える間もなく口を開こうとした。例え相手が係長であろうとも自分の部下を愚弄されるのは黙っていられない。
「お言葉ですが、係長」
だが聡よりも先に美琴が口を開いた。その唇は微笑む形を作ってはいるが目はちっとも笑っていない。
「私が好きなのは殺しの事件ではなく、殺人犯です。それに、それはもう過去のことですから」
美琴はまるでこどもにでも言い聞かすかのような口調でゆっくりと告げた。柔らかい言い方にも関わらずそこには気迫がある。
うちの部下は自分が思っている以上に逞しいようだ。聡はその様子を見ながら小さく頷いた。
「事件の概要、説明して頂けますか?」
聡はずれた眼鏡を直しながら気の抜けたような声を出した。藤塚は二人の気迫に押され、咳払いをしてから話し始めた。
「被害者は原田裕人、二十九歳。大手商社の営業マンだ」
藤塚が手を当てているホワイトボードには原田裕人という名前と顔写真が貼ってある。原田はそれなりに整った顔立ちをしていて女にはモテそうだ。
「遺体が発見されたのは原田所有のBMW内。××区の公園内に車があり、通りがかりの男が発見、通報。死因は頭部を殴られたことによるもの。凶器と思しきものは見付かっていない。車内には、印刷物が擦れたと思われる形跡があり、被害者が相当抵抗しとものと……」
藤塚は現在分かっていることを一気に述べた。
「辻木班は被害者について調べろ。佐東班は周辺の聴き込み……」
班によって仕事わ割り振られるなか、聡は重要なことを全てメモに取っていった。自慢ではないが記憶力に自信はない。明日になれば原田裕人が乗っていた車種さえ忘れてしまうだろう。だからこうして全てを記録に残しておくのだ。
「以上、解散」
屋田管理官の声に、捜査員は一斉にはい、と声を上げて席を立った。
「さて、どう分けましょうか?」
捜査員の減った会議室内には辻木班が残っていた。
「今回は所轄とではないですし、二人ずつですかね」
捜査において一人で動くことは原則として禁じられている。
「自分は辻木さんとを希望します」
真っ先に口を開いたのは桜木だった。
「ああ、いいですね。そういえば桜木君と組んだことはなかったですし」
桜木の申し出に聡は笑顔で頷いた。
「じゃあ、美琴さんと笹木君の二人でお願いします」
聡の言葉に美琴と笹木は同時に返事をした。
「じゃ、僕と桜木君は仕事関係、美琴さんと笹木君は友人関係でいきましょう。それでは、解散」
聡がぱん、と手を叩くと同時にそれぞれ歩き出した。
東京の拠点とも思われる土地に聳え立つ巨大ビル。辺りをぐるりと見回せばそんなビルしかなく、片田舎で育った聡には眩暈がしそうな光景だ。
「ここ、ですね」
聡は手帳に記入された会社名とビルの真ん中に掲げられた表示を交互に見ながら呟いた。
「営業部が、原田さんの所属する部署なんですね」
大抵の刑事は被害者に敬称をつけたりしないのだが聡だけは別だった。
「辻木さんは何故刑事に?」
受付に向かう途中、桜木に訊かれ聡は悪戯に笑って見せた。
「何でだと思います?」
敬語というのも聡の癖のひとつでそれは相手が例え部下であろうと変わりはしない。
「見えないんですよ」
桜木は聡の横顔に答えた。
「見えない、ですか?」
昼前のフロアーは静かで、本当に此処で何百人もの人間が働いているのかと思えるほどだ。
「辻木さんは刑事という仕事に対して情念を持っているようには見えません。かといえ、やる気がないわけでもない。でも、高卒の叩き上げ警視庁の主任にまでなっています。全てが見えません」
桜木は淡々とした口調で言った。
「人なんて、そんなものですよ。全てが見える人なんていません。皆、全てが見えません。だからこうして、捜すんですよ」
聡が言い終えると同時に目の前には豪華な受付が待ち構えていた。そこには三人の受付嬢がうて、その誰もがかなりの美人だ。全員がつんとした印象を抱かせる化粧をしていて、些細な営業などは跳ね返せそうな空気を醸し出している。
聡はデニムのポケットから警察手帳を取り出し笑顔で彼女達に近付いた。
「裕人君は恨まれてばかりいるような人生だったと思います」
少年の言葉に美琴は目を見張った。少年といえど、目の前の彼、大野健太は二十歳にはなっている。でも柴犬を連想させる丸い瞳に形の良い額が覗く短髪、そのどれもが彼を実年齢より幼く見せていた。
「原田さんとは、幼馴染みなんですよね」
続けて質問をしたのは笹木だ。笹木の質問に健太は小さく頷いた。刑事に話を聞かれている状況からか、健太の表情には怯えが含まれている。
「恋人、いるんですね」
美琴は場の空気を和ませる為、関係のないことを口にした。
「え……?」
健太ははっとしたような顔を美琴に向ける。丸い瞳がくりくりと動いている。
「それ……指輪です」
健太の左手の薬指には太いシルバーリングが光っている。
「ええ、はい」
「結婚の予定もおありなんですか?」
美琴は美しい顔を健太に少しだけ近付けた。心の距離を縮める為だ。
結婚の話を出したのは健太の部屋に結婚情報誌が置いてあるから。自分には暫く縁のないものだとそれを見た瞬間は思ったが、こうして会話の糸口になるなら何よりだ。
「ああ、俺……僕の就職先が決まったら結婚しようって話になってました」
なってました、ということは結婚の話は白紙になったのだろうか。この若さならそういったこともあるのだろう。健太は確か近所のコンビニで働いているフリーター。そして被害者の原田裕人とは実家が近所なのだ。
被害者の原田裕人には健太以外に親しいと呼べる友人の存在はない。そしてそんな健太も昔馴染みではあるが友人ではないと一言目にはっきりとそう言った。となると、原田には友人と呼べる存在がいないということになる。
「裕人君は、昔は優しいお兄さん、て感じでした。でも、十年前に恋人を亡くしてからは人が変わってしまって」
健太は訊いてもいないことを喋り始めた。美琴と笹木に心を開いた、といことだろうか。
「それまではよく遊んでもらったりしてたんですけど、それ以降は殆ど会ってないです」
だから僕には殺す動機はありません、とでも続きそうな口振りだ。美琴と笹木は一瞬だけ顔を見合わせた。次を待つか、こちらから切り出すか。
美琴は目を瞑り、心の中で三秒数えた。これは美琴がいつも脳を整理するときにいつもしていることだ。
「またお話、聞かせて頂くこともあると思います」
美琴はゆっくりと目を開けてから、静かな口調で健太に告げた。大和撫子とは、まるで美琴のためにあるような言葉だと笹木は常々思っていた。
「あ、もういいんですか?」
健太は呆気に取られたような表情で美琴の顔を見ている。
「ええ、今日は結構です」
美琴は最後ににこりと笑い、軽く首を傾げた。健太の部屋にはアジアンテイストな雰囲気にはそぐわないコンビニのビニール袋が乱雑に置かれていた。
「原田君……は、あまり印象にないです。あ、仕事は同期の誰より出来ましたけど、何て言うのかな、存在感が薄いっていうんですか? 兎に角、仕事以外では口をきいたこともないです」
原田より三つ先輩の男の話はそれだけだった。
「原君かぁ。そうだな、やる気がハンパないってイメージですかね? そこまでやる? みたいな。まあ、やる気があるのはいいことなんでしょうし、実際営業成績もよかったですからね。でも、無理してビーエムとか買ったりしてるでしょ? よく分かんない奴だったかな」
これは原田の同期の言葉。
「原田先輩は、正直苦手でした。怖いってわけじゃないんですけど、威圧してくるんですよ。俺が狙ってるところを邪魔するな、て感じで。だから、一緒に回っててもただついていってるだけって感じでした。余計なこと言うと、帰り道ずっと睨まれるんですよ。いや、参りましたよ」
続いては原田の後輩の証言。
聡はそれらを全て紙に書き出していった。癖のある字は上手いとも下手とも言えないものだ。
「不思議ですね」
会社から与えられたのは小さな応接間だった。大きな取引用ではないらしく、あるのは簡素なテーブルと椅子のみ。一社員が殺されようと知ったことではない。面と向かってそう言われているような気分になる部屋だ。
「確かに、変な感じですね」
桜木は聡が書き込んだ髪に視線を落とす。聡はボールペンをくるくる回しながら首を捻った。
「首、痛めますよ?」
首を左肩に向けて倒す聡に桜木が柔らかい口調で言った。
「物事を理解するには角度を変えてみることも大切なんです」
聡はそれに対して首の角度を変えずに答える。桜木は思いもよらない聡の返答に僅かに頬を動かした。だがしかし、角度を変えてみたところでこれといったものは見えてこない。
「原田さんは一体、どんな人だったんでしょう」
聡は首の位置を戻してから呟いた。全く見えてこない、原田裕人の人物像。それを掴めない限り、犯人は見付からない。少なくとも、聡はそう思っていた。
「家族なら、本当の原田裕人を知っていますかね?」
聡は桜木のほうに顔を向けた。桜木は上品なグレーのスーツを見事に着こなし、ラフな格好をしている聡よりうんと落ち着いて見える。背はさして高くないのだが小柄には感じない。
「家族こそ、本来の性格なんて知らないものですよ。家族にこそ。一番隠したいことって、ありませんか?」
桜木の言葉に聡は成る程、と頷いた。でも話を聴く必要はあるし、現に今頃美琴達が原田の母親の元に向かっているはずだ。
「貴重なご意見、ありがとうございます」
聡は立ち上がり、桜木に深々と頭を下げた。桜木はそれに慌てて、やめて下さい、とやはり柔らかい声で言った。
聡は自らの班が持ち寄った情報に更に首を捻った。
原田裕人の昔馴染みによれば、原田は恨まれてばかりの人生だというではないか。だが、職場の人間の話ではそんなことは一度も出なかった。とはいえ、いい印象を抱かれてきたわけでもなく、先輩、同期、後輩とではまるで別人のようだ。
「恨まれてる、て具体的な話はありましたか?」
聡の質問に首を横に振ったのは美琴だ。
「同級生の何人かに話を聞きましたが、全員ここ十年ほど連絡は取ってないと言ってました」
そう答えたのは笹木だ。
「恋人らしき人物はいたにはいたそうです。これは母親の証言です。そのうち会わせる、と言っていたらしいです」
原田の携帯電話のメモリーに女性の名前は一人だけ。そして家族と職場の人間ではない唯一の人物だ。確か名前は……。
聡は手帳をぱらぱらと捲った。
『田宮亜希子』
癖のある字でそう書かれていた。
「明日、この人を当たってみましょう」
聡は田宮亜希子という名前を必死に脳裏に刻んだ。とはいえ、明日の朝起きればフルネームで言える自信などない。
「僕と辻木さんで行きませんか?」
桜木の申し出に聡は微笑んでみせた。桜木はキャリアのわりに驕ったところがなく、接しやすい。他の捜査員はキャリアという存在だけで扱いにくいと判断するが聡はそんなことはないと思っていた。桜木はたまたま接しやすいキャリアではあるが、他のキャリアも同じに接すればいいと思っている。立場だけで判断されるのは叩き上げの自分も一緒だから。
「亜希子は……亡くなりました」
疲労感をたっぷり漂わせた中年の女性は目も合わせずに言った。
「亡くなった?」
聡はその言葉に驚き、裏返った声を出した。
「はい。先週……です」
亜希子は田宮家の一人娘のはずだ。そんな娘が亡くなり憔悴している。亜希子の母親はまさにそんな雰囲気を漂わせていた。
「あの、失礼なのは承知なのですが、何故亡くなられたかお伺いしても宜しいですか?」
聡は亜希子の母親にずい、と顔を近付けた。母親はそれに面食らったように二度瞬きをした。
「あ……その、自殺……です」
その返しに今度は聡が瞬きをした。隣では桜木が普段は凛々しい眉を微かに顰めた。
「理由を……訊くわけにはいきませんかね?」
母親は聡の問いに首を横に振った。
「分かりません。遺書もなく……。五日前、私が帰ってきたとき、亜希子はベッドの縁で首を吊って死んでいました」
母親はそれだけ言うと、声を殺して泣き始めた。身内を失った人間を何人も見てきた。その度に言い様のない気持ちに襲われる。彼らを救う術は警察にはない。いや、警察だけでなく誰にもないのだ。
「ご愁傷様でした。こんななか、お話を聞かせて頂き、ありがとうございます」
聡が母親の肩を優しく撫でながら言うと、彼女は本当に小さな声でありがとう、と言った。
「彼女……ですか?」
美琴は形の良い唇を小さく動かして言った。
「ええ、はい。あきちゃん、ですよね? 健太君の彼女ですよ」
目の前の女性は大きく頷きながら答えた。派手な金色に近い髪を頭の高い位置で纏めた女は身形のわりに礼儀正しい。彼女は健太の同級生であり、殺された原田とも接点のある人物だ。しかし接点といえど、彼らの近所に住ううでいるだけで原田との関係は健太と同じ昔馴染み、というだけのものだった。
「あきちゃんと健太君、高校生のときから付き合ってて、健太君が就職したら結婚するって言ってたんですけど、ほら、亡くなっちゃったじゃないですかぁ」
派手な女、美里は亡くなっちゃった、というときだけ声を小さくした。昼時の喫茶店で話す内容ではないと判断したもだろう。
「亡くなった……?」
笹木の言葉に美里は驚いたような顔になった。こちらが知っていると思って話したのだろう。
「ああ、先週、自殺しちゃったんですよ。悩んでる素振りはあったみたいなんですけどね。健太君、ずっと心配してたんですよ」
美里は更に声を潜めた。
「自殺、ですか」
美琴が言うと、美里は「それにしても刑事さん美人ですよねぇ。名前似てる」だけにショックですよぉ」と大袈裟に自嘲した。美琴はそれにありがとう、と微笑みながら答えた。
「どういうこと、ですかね」
美里が去った後の喫茶店で笹木が独り言のように呟いた。
「原田裕人と、大野健太の彼女は同一人物ということね」
美琴は答えながら溜め息を吐いた。美里に尋ねたのは、原田の知り合いに田宮亜希子という女性がいたかどうかということだったのだ。健太の彼女について尋ねたのではなく。
「田宮亜希子が二股かけてたってことですかね?」
笹木の言葉に美琴は首を傾げた。そんな偶然、あるものなのだろうか。
「悩んでたってことは、二股を苦にして自殺したってこと?」
そんなことをするくらいなら、どちらかに別れを切り出せばいい。そう思えるのは自分がさっぱりとした性格だからなのだろうか。
そのみち、健太が結婚話を過去形で話していた理由はこれで判明した。死んでしまったら結婚など出来るわけがない。あの時はさして気にしなかった話が重要なことに繋がるとは。
美琴は自ら書き出した関係図を見詰めた後、三秒間目を閉じた。全てが納得出来ない。全てがスムーズに結び付かない。
「二人の間にこれといったやり取りはありませんね」
聡は二台の携帯電話を机の上に置いた。原田のものと亜希子のものだ。互いにメモリーに名前はあるものの、メールは原田からの一方的なもののみで、電話の履歴もない。原田からのメールは「今から行く」と一言だけのものが多かった。
「笹木君、付き合ってる子に、こんなメール送りますか?」
「ええっ? 俺ですか? 俺、彼女いませんから」
笹木は突如振られた話に首を思い切り振った。
「例えばの話でしょ。今まで彼女くらいいたでしょ?」
話の軌道を修正したのは美琴だった。
「あ、例えば……ですね。はい、いましたけど。いや、送るなら、こんな素っ気無いメールではないですね」
「ですよねぇ」
だがそれはあくまで人それぞれだ。恋人にこんなふうな素っ気無いメールを送る男がいないわけではないだろう。でも、と思う。
二股をかけている相手なら、女の方が盛り上がっていてもよさそうなものだ。それなのに、亜希子から原田に送ったメールは一つもない。
「大野さんに、このことを知っていたか訊いてみましょう。何か分かるかもしれません」
聡は言いながら、亜希子の携帯電話を紙袋に仕舞った。これは明日の朝一に彼女の母親に返すものだ。突然亡くなった娘の、大事な形見の品。聡は亜希子の携帯電話の入った紙袋を、更にビニール袋に入れた。
「……亜希子は、裕人君に言い寄られてたんですよ。だから、その……悩んでいたんです」
健太はおどおどとした表情で話した。メールからそこまでのことは知ることは出来なかった。健太の友人、美里の話からも健太は亜希子の悩みの内容は知らないようだった。
「いつ、それを知ったんですか?」
聡は静かな声で訊いた。
「友達……からです。亜希子が男に言い寄られて困ってるって。それで無理矢理そういう関係にされたって。裕人君は、僕の知り合いだから言えずにいるんだって……」
健太の瞳からほろりと涙が零れた。後悔しているのだろう。恋人を救えなかったことを責めている瞳だ。
「辛いお話、ありがとうございます」
聡は健太に深々と頭を下げた。でも、証言は繋がらない。確かに健太は原田を恨んでいたのだろう。でもそれが恨まれてばかりの人生には繋がらないのだ。
……そういうことか。
聡は自身の指輪を人差し指でとんとん、と叩いた。
「棄てたほうがいいですよ?」
聡は部屋に転がったコンビニのビニール袋を見ながら健太に言った。
「え……?」
「あの袋、バイト先のものですか?」
聡は袋に近付きながら訊いた。
「ええ、廃棄の弁当を貰ってきたやつです」
「お借りしても、宜しいですか?」
聡はデニムのポケットから白い手袋を取り出し、袋を摘んだ。
「ああ、大した意味はないんですよ。ビニールの種類を調べたいんですけど、このコンビニ、あまりないですから。それで、参考にさせて頂きたくて」
「ああ、それでしたら」
健太は言いながら目を泳がせた。
「ビンゴ、ですね」
聡は科捜研からの報告書に目を通しながら言った。
「令状、手配します」
桜木が妙に落ち着いた声を出したのに聡は小さく頷いた。
動かぬ証拠。
「いや、あの……動機も動機ですし、任意同行で自白のほうが……」
笹木は優し過ぎるのが難点だろう。捕まった後の被疑者の先のことまで考えているのだ。
「いえ、どんな理由があろうとも、殺人は殺人。そして、それを捜し出したのは僕らです。彼が自ら出頭したわけではないんです。隠すこと、それ自体がもう罪なんですよ」
聡はゆっくりとした口調で笹木に言い聞かせた。笹木はそれに反論する言葉を持たないらしく、下唇を噛みながら小さく頷いた。
そう、殺人犯は殺人犯なのだ。
「俺……頭悪いから、そこまで知りませんでした。ビニールの印刷物がついたりするんですね」
健太はぼそぼそと喋った。それを聡は口を挟まずに聞いていった。
「亜希子、死ぬほど辛かったんだなって。俺、何も知らなくて、悔しかったんです。それで、バイト帰りに偶然裕人君の車を見付けました。殺すつもりはありませんでした。ただ、話を聞こうと思って」
原田所有のBMWは、原田が彼女とのドライブ用に無理なローンを組んで購入したものだったらしい。女にいいところを見せたかったのだろう。
「そしたら、裕人君、そんなことはないって。亜希子とは本当に付き合ってるって。嘘吐かれたんですよ。亜希子の自殺は自分には関係ないって言われてるような気になって、頭に血が昇りました」
健太は恋人も失い、全てを諦めたような表情をしている。
「それで、車の中にあった灰皿をビニールに包んで使いました。裕人君、煙草吸うのにもわざわざ灰皿置いてたみたいで。そんなことにも腹が立ちました。汚したくない車まで買って、亜希子を無理矢理自分のものにしたのかって。一回では死ななくて、何回か殴りました。血で滑って、ドアに当たったりもあいました」
そのときについたインクは特殊なもので、それは健太がアルバイトをしているコンビニの袋に使われているものだったのだ。
「裕人君が動かなくなって、我に返りました。どうしよう、て。でも、裕人君が悪いんだって、自分に言い聞かせました。裕人君が亜希子を殺したから、その代わりに自分が裕人君を殺したんだって」
健太は話しながら肩を震わせた。後悔なのか、それとも復讐の達成を喜んでいるのか。
「車内にある指紋は拭き取りました。そもそも、何も触りませんでしたし、例え残ってても知り合いだからで済むと思いました」
自分で頭が悪いと言っていたがそんなことはなさそうだ。そこまで頭が働く人間を頭が悪いとは言わない。
聡は小さく息を吐いた。
人が人を殺すとき、それは人間ではなくなる。聡が常々思っていることだ。でなけれが、殺人などということを出来るはずがないから。
「反省……してます。すみませんでした」
すみませんで済むなら警察はいらない。
聡は在り来たりなことを思ってから、「お話は終了です」と健太に告げた。
こうして、原田裕人殺害事件は幕を引いた。
悲しい青年の想いの行き場だけを失って。
「主任、お疲れ様です」
桜木はそう聡に声を掛けながらコーヒーを渡した。
「ありがとうございます……て、主任はやめて下さいね」
聡はコーヒーを受け取りながら苦笑いを浮かべた。犯人逮捕の後はいつもこうしてやりきれない気持ちになる。誰だって、殺したくて人を殺すわけではないのだ。そこには理由も事情も存在する。
でも、人殺しという事実には変わりなくそれを裁かれる必要もある。
だがやりきれないのだ。刑事という仕事は罪を犯した人間を正しい道に導く。その考えはエゴなのかもしれない。捜して欲しいと思っていると考えてはいるが、違うのかもしれない。
本当は捜して欲しくなどないのかもしれない。
「辻木さんは悩み過ぎる性分なんですよ」
浮かない顔をした聡に美琴が優しい声を掛けた。
「うちの班が検挙したんですから、もっと喜びましょう。とういか、喜ぶべきです」
「そうですよ。また出世に近付いたんですよ?」
笹木もそれ続けとフォローの言葉を入れる。
聡はそれを有難いことだと感じながらコーヒーに口をつけた。美味いとはとても言えないコーヒーの味は気持ちを落ち着かせてくれる。
「殺人犯を野放しにしないのが僕達の仕事なんですよね。決して、そのままにしてはいけない」
桜木が熱意の籠もった口調で言うので、聡はそれに大きく頷いた。そうなのだ。だから刑事を続けているのだ。殺人犯を決して、一人にしない為に。
ふと視線を向けた窓の向こうには澄んだ青空が広がっている。
犯人を逮捕した後はやりきれない想いと同時に、一抹の清々しさを感じるのも事実だ。
また一つ、事件が片付いた。
「彼は……恋人を想い過ぎたんでしょうね」
聡の声が静かに響いた。
そしてその静寂を破るように藤塚が大きな声を出す。
ミステリードラマをコンセプトにした作品。
一話完結式長編ミステリーです。