化け者交流会談記ES11
『あ、青葉……、少しは君も持ってくれないか?』
左ヶ西町の中央には、街を東西に分ける大きな国道が走っている。街の中心部には、その国道に寄り添う形で数々のショップやオフィスビルが建ち並び、繁華街は早朝から様々な人々の行き交いを見せていた。
『嫌よ。重たいじゃない』
そして、その通りに面する少し洒落た洋服店の中から、一組の男女が出て来た。川流佐悟と、その妻青葉である。
青葉が佐悟の少し先を行き、彼女に付き従うようにして佐悟は歩みを進めていく。
『第一、あなたが言い出したことでしょ? 先日のお詫びに今日一日は何でも私の言うことを聞くって』
『た、確かにそうは言ったが……、これでは足下が……』
佐悟の手には、前が見えなくなるくらい多量の荷物が乗せられ、加えて両腕には複数の買い物袋が掛けられていた。どれも今日の午前中に青葉が買った品物で、それを佐悟が持たされているといった状況である。
なぜこのような事態になってしまったのかは、想像にお任せしよう。
『次はどこに行こうかしら』
『君はまだ何か買うつもりなのか!?』
彼女の冷酷無比な発言に、流石の佐悟も声を荒らげずにはいられなかったらしい。
しかし、そう言いつつも、どことなく楽しんでいるように見えるのだから、見ている側から言えば質が悪い。
『あら、カードの限度にはまだ大分あるはずよ?』
『私は、そういうことを言っているのでは――うっ!』
佐悟がほんの少し気を抜いたまさにその時、歩道と車道を分かつ僅かな段差に足を取られ、彼の体が大きく揺らいだ。
積み上げられた荷物がバランスを崩し、そのまま車道の方へと崩れ落ちてゆく。そして佐悟自身も倒れかけたのだが、
『――大丈夫ですか?』
間一髪のところで、彼の体を支えた者がいた。佐悟はゆっくりと体を倒し、腰を落とす。
驚くことに、崩れ落ちていったはずの荷物までもが、空中で静止していた。
『佐悟! 無事!?』
少し前を歩いていた青葉が、慌てて駆け寄り佐悟の体を助け起こす。
『ああ、私は大丈夫だ』
『ご無事で何よりです』
『ふむ、どなたかは存じませんが誠にあり……!』
足や手についた砂を払い立ち上がった佐悟は、振り返り言葉を失った。
佐悟の挙動に疑問を抱きつつも、とりあえず呆然と立ち尽くしている佐悟に代わり、青葉が頭を下げる。
『それでは私は用がありますので、これで』
宙に浮く多数の荷物の中で、一際目立ち異彩を放つその人形は、ぺこりと会釈をすると脇の路地へと入っていった。
ハッと我に返った佐悟が呼び止めようと声を上げたが、そのときには既に彼女は路地裏の闇の中へと消えてしまっていた。
『どうしたの? 知り合い?』
青葉が佐悟の顔を覗き込みながら尋ねる。
目の前に広がる闇の中心を見つめながら佐悟は、
『ああ、昔少しな……』
番外編:佐悟とメリー、古き日の記憶
『ホットとアイスを一つずつ頼む』
「かしこまりました」
ウェイトレスは軽く頭を下げて店の奥へと戻っていく。数分もすると、注文したコーヒーは運ばれて来た。
次の店へ向かう前に休憩を挟むことにした佐悟と青葉が、近くにあった喫茶店へと入ったのはものの数分前のこと。
『ガムシロップは入れないのね』
『紳士だからな』
『関係ないと思うけど』
佐悟は窓の外を見つめ、青葉はそんな佐悟を見つめている。
『午後はどこに行こうかしら』
『君に任せるよ』
青葉が積極的に話しかけても、佐悟はただ力のない返事を返すばかりで、どこか、青葉も知らない遠い空へ独り想いを馳せていた。
不意に、青葉はガラス越しに見える外の景色に目を向けた。
真夏の日差しが照りつける灼熱の路上を、外回りのサラリーマンや昼休みの学生たちが、額に汗を滲ませながら歩いて行く。店内は冷房がよく効いており、空調設備の整ったこの環境が、外の温度をより一層際立たせる。
『バカみたい……』
青葉は視界を横切る人を見つめながら、ガラス越しに差し込む冷たい太陽光を少し恨んだ。
外の景色から離れ、青葉が再びティーカップに手を伸ばそうとしたところで、ようやく佐悟が自発的に口を開き、
『彼女と知り合ったのは、……君に出会うほんの少し前だった』
『別に聞いてないわよ』
青葉は左手でカップを掴むと、そのまま素知らぬ顔で口へ運ぶ。
『でも……、聞いて上げるわ』
空を見つめたまま、佐悟は慎重に言葉を選び、
『あれは君と出会う少し前……。まだ私が生きる意味を見いだせずにいた頃の出来事だ』
悲しさと懐かしさを匂わせながら紡いでいく。
『私には生きることよりも、死ぬことを望んでいた時期があった』
◇
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし私メリー、今――』
『秘書を通したまえ』
ガチャ
日本三大都市の一角、名古屋。人口約二百万、その膨大な数の人々が行き来する都心には、高さ200メートルを超える超高層ビル群が立ち並んでいる。
そして、そのいくつかあるビルの中で、他とは明らかに違う風格と地位を築きつつある会社が、彼、川流佐悟の経営する新興企業、九龍コーポレーションである。
飛ぶ鳥を落とす勢いで瞬く間にこの業界をのし上がり、その目まぐるしい成長と他の追随を許さない経営者の手腕は、かの有名な大企業、侍カンパニーの再来とまで言われている。
そしてその本社ビル最上階の社長室に彼はいた。若かりし頃の佐悟である。
『……全くもって使えんな。人間というものは何故ここまで無能なのだ』
既に時刻は深夜零時を回り、従業員たちは皆、残業していた者も含めて帰宅の途についていた。
彼だけが会社に残り、独り黙々と書類に目を通していく。
同族から迫害を受け村を離れた彼には、帰る所も温かく迎えてくれる家族もいない。会社こそが彼の家であり、幼き日の遠い記憶、優しかった父母の思い出だけが、彼の唯一の家族だった。
『……いくら有名大学を出ていようが、使えん奴は使えんということか』
そうして彼はまた一つ、企画書を破り捨てる。
彼は昔から天才だった。どんなことでもそつなくこなし、多少難しいことでも時間さえかければ出来てしまった。
だが、周りの者がそんな彼の才能を疎ましく思うのに、多くの時間はかからなかった。
彼は仲間たちから除け者にされ、村での立場を失っていった。彼の唯一の理解者は、自分を生み育ててくれた父と母であり、彼も、二人だけは最後まで自分の見方でいると信じていた。いや、彼だけがそう思っていたのだ……。
数年の後、彼は村を離れ、旅先で出会った友人と共に会社を設立した。
ここでなら、資本主義の社会でなら自分の才能は認められる。
切れすぎる刃も出る杭も、決して疎まれることはなく、むしろ賞賛と歓喜を帯びて受け入れられるのだ。彼はそれを信じ、それだけを信じて経営努力に励んだ。そうして今の地位と名誉を手に入れたのである。
『ふぅ、少し休むか……』
書類を机に伏せ、窓の外へ目を向ける。
本社を取り囲むビルからは明かりが消え、真下の路上からも昼間ほどの活気は感じられない。
薄青く不気味に光る地平線を見つめながら、佐悟は小さく呟いた。
『……私は一体何がしたいのだろうか……』
空には暗雲が立ち込め、直に雨となるだろう。
窓ガラスに映るスーツの男は、とても悲しそうな目をしていた。
◇
落ち着いて、落ち着くのよ私。大丈夫。あなたはやれば出来る子だってママも言ってたわ。ママは政治家だったけど。
いいえ! こんなことで卑屈になっちゃダメよメリー! こっちでの仕事は始めてだけど、そのために色々勉強したんじゃない! 大丈夫! 裏暗先生の言ってた通りに話せば、何の問題もないわ! 昨日行ったラーメン屋のおじさんだって、お勘定のときに『ど、どえりゃー美味しかったんだぎゃー!』って言ったらちゃんとにっこり笑ってくれたし! 完璧のはずよ!
さあ勇気を振り絞って行くのよメリー! あなたなら出来るわ!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし私メリー、今――』
『秘書を通したまえ』
ガチャ
あ、もう無理……、心折れた……。
なんてね! こんなことで諦める私じゃないわ!
リダイアル攻撃よ!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし私――』
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度お掛け直し下さい」
り、リダイアルなのにぃーー!!?
ダ、ダメよメリー! こんなところで諦めちゃダメ!! パパがいつも言ってたじゃない! 諦めなければ夢はいつか必ず叶うって!!
パパ、自称トレジャーハンターだったけど……。
だからダメよ!! 今は落ち込んでる場合じゃないわ!! もう一度! もう一度トライするのよメリー!!
プルルルル……プルルルル……ピッ「番号を転送します」……プルルルル……プルルルル……ピッ「番号を転送します」……プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もし――』
「お掛けになった電話は、現在電波の届かない場所に――」
もしもし私メリィィイイイ!! メリーよォォオオオ!! アハハハ♪アハハハハハハハハハハハ♪アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ♪
((落ち着きなさい、メリーよ))
はっ! 私は一体何をしていたの? それに今の声は……?
いいえ! そんなことより今はどうやって電話を繋ぐかが大切よ!
また失敗するかもなんて思っちゃダメ! ネガティブは心に巣くう魔物!! 常にポジティブに!
お爺ちゃんだって、常に前だけ見て生きるのじゃ。振り返ってはならんって言ってたわ!
お爺ちゃん、喫水の勝負師で万年金欠だったけど、常に前だけ見てたもの!!
電源が入っていないってことは、電話番号はあっているはずよ! もう一度! もう一度やってみるわ!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
「はいこちら――」
来た!!!
『もしもし私メリー! 今あなた――』
「はいこちら110番警察本部です。事件ですか? 事故ですか?」
『すみません、間違えました……』
ガチャ
ほ、ほ、ホンギャァァァ!!!
何!? 何で!? 何故!? どうして!?
どうして繋がらないの!!?
私!? もしかして私が悪いの!? 私ってダメな子なの!? ダメなメリー、ダメリーなの!?
いいえ! そんなことはない! そんなことはないわ!!
そうよ! こんな時こそお婆ちゃんの教えてくれた元気の出るおまじないを使うのよ!!
我を守りし神々とその眷属の御名においてうんたらかんたらって言ってた気がするけど……、まぁ要するに元気を出せってことね!!
大丈夫! お婆ちゃんの言うことなら間違いないわ! だってお婆ちゃんは家族の中では一番の常識人だったもの! 時々、右手に向かって闇の力がどうとか叫んでいたけど、きっと問題ないわよ!
よしメリー! 最後の攻撃よ!
この攻撃に私の全てをかけるわ!!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし私メリー! 今あなたのビルの前にいるの!!』
『…………』
ブチ! ツーツーツー
え……? な、なんか効果音が違う……。
◇
『やれやれ、何かと思えば。全く人間という生き物は成長しないな』
佐悟は携帯電話を折りたたみ、懐へとしまう。
もう一度深いため息をつくと、彼は体をデスクに向け、残りの仕事へと手を伸ばした。
時計の針は既に深夜二時を指そうとしていたが、彼にとってはそれも、どうでもいいことでしかなかった。
『ふむ、そう言えば侍カンパニーから買収の話が来ていたな』
佐悟は目を通していた書類の山を机の端に寄せ、ノートパソコンの電源を入れる。
人も、物も、果ては生や死でさえも、彼にとってはみな平等に価値のないガラクタに思えた。自分の生きる意味。皆目見当のつかないこの問いの答えを、彼はとうの昔に諦めていたのかもしれない。
彼はいつしか、死を望むようになっていた。
『ふむ……、なかなか悪くない話だ』
佐悟は買収内容に一通り目を通すと、パソコンの画面を見つめたまま椅子の背もたれを大きく傾け、深く息を吐いた。
買収先に与える利益、そしてこちらが得られる利益、被る利害損失の全てが彼の脳内を駆け巡り計算されていく。
佐悟が思考を巡らせていると、不意に、卓上の電話が音を鳴らした。体を起こし受話器を取る。
『ふむ、私だ』
『佐悟社長。夜分遅くに大変申し訳ありません』
『上地か。要件は何だ?』
『はい、実は今、松霜電工が我が社のIT関連株を買い占めているとの噂を耳にしましたもので……』
佐悟は椅子をくるりと回転させると、不気味なほど透き通った窓を見つめ、溜め息混じりに、
『松霜も……、所詮は人間だったか……』
『はい……?』
『要件はそれだけか?』
『え……? あ、はい。夜分に大変失礼致しました』
佐悟は受話器を起き、目を閉じる。
富も地位も手に入れた彼が唯一手にし得なかった物。
夢も望みもなかった彼が唯一欲した物。
彼の生きる意味、彼がその答えを見いだすのは、まだ少し先の話。
◇
え、何……? ブチ? ブチって言ったわよね?! ガチャじゃなくてブチ?! ブチって何!? 犬!? そう言えば実家で買ってる犬の名前はブチだったけどってそう言うこっちゃないわ!!
何なの!? 無言で切るなんて人としてどうなの!? そんなのあり!? いや無しよ!!
いいえ! 百本譲ってありだったとしても私の電話に出た以上は、もう逃げられないわ!! 今度は少し近づいてから電話出来るんだもの!! そして徐々に距離をつめて行って、最後は……フフフ♪
この勝負貰ったわ!! あなたにはもう選択の権利すらないということを教えて上げる! この勝負の主導権はもう私のものよ!!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし私メリー、入り口のセキュリティーコードを教えて欲しいの……』
『教えるはずがないだろう。寝言は寝て言うんだな』
ガチャ
け、貶されたぁぁぁ!! さらっとバカにされたわ!! もっともだけど!!
い、いいえ大丈夫! まだ方法はあるわ!! 実は私、瞬間移動の能力を持っているの!
この能力を使えば……ほら! このとおり難なく建物の中に入ることが出来る! ただし一日に一回しか使えないんだけど、まぁ中に入れたんだしもう大丈夫よね!!
私の力を甘く見たことがあなたの敗因!! 今さら謝っても許さないんだからね!!
プルルルル……プルルルル……ガチャ
『もしもし! 私メリー! フフフ、今一階のロビーにいるの! すぐにそこまで行――』
『はぁ……、君もなかなかしつこい奴だな。いいだろう。君のその執念に免じて一分時間をやる。要件を聞こうじゃないか』
『――って上げ……へ……? な、何? 要件?』
『KCRのトップたる私に、直に話を付けに来たのだ。それなりの訳があるのだろう? あと四十五秒だ、言ってみたまえ』
『え? え?! ……よ、要件? え、えーっと、私……えっと……メリー、あなたの後ろに……じゃなくて……えーっと……』
『先ほどから気になっていたのだが、口の聞き方がまるで成っていないな。先方に対しては敬語を使うべきじゃないのかね? あと二十秒だ』
『え、あ、はい……。私はメリーと申しますです……。それで今日は……いやこの度は……』
『先ずは自分の素性を明かす。ビジネスの基本だろう。あと十秒』
『あ、違っ、ヒッグ、私ヒッグ、メリー、ヒッグごめんなさい……ヒッグ、かけ直します……』
ガチャ
む、無理ぃぃぃ!! もう無理! 怖いもの!! 凄くグイグイ来るもの!! 電話なのに土下座までしちゃたわよ!!
後半から頭の中真っ白になっちゃってもう無理!!
ムリなメリー、略してムリーよ!!
((メリーよ、あなたは本当にそれでいいのですか?))
え!? 誰!? さっきから私に話しかけてくるあなたは一体……!?
はっ! そう言えば本当に困ってる人には、神様の声が聞こえるんだって友達のメアリーが言ってた気がするわ!
メアリー、新興宗教の教祖様やってたけど。
そうね! きっとこれは神様の御告げに違いないわ!! なんだ、神様がついてるなら勝ったも同然ね!! フフフ、さあ、これからが本当の戦いよ!! あなたに真の恐怖というものを教えて上げるわ!!
◇
ブツン。
激しい雷鳴が轟いたかと思うと、次の瞬間、部屋の明かりが一斉に消えた。私は電話を耳にあてたまま立ち上がり、空に広がる黒雲へと目を向ける。
再び夜空に稲妻が走り、けたたましい轟音が静寂を切り裂いた。
『やはり落ちたのか……』
このビルには自家発電用の発電機が備え付けてあるため、万が一電気が止まったとしても数分で復旧するのだが、今回ばかりはいくら待てども部屋に明かりが戻ることはなかった。
『ふむ、どうやら発電機が壊れたらしいな。まぁ構わん』
言うまでもないが、私は暗闇を恐れるような人種ではない。もっとも人ではないのだが。
さらに言えば、ノートパソコンはバッテリーで動いているため、停電していようが仕事に支障はない。
私は電話を畳むと椅子に腰掛け、仕事に戻ろうとしたのだが、再び電話が鳴ったことでそれはまたも妨げられた。鏡があるわけではないので確証はないのだが、おそらく今の私は第三者の目にも明らかなほど、不機嫌な顔をしていることだろう。
『私だが?』
『もしもし私メリー! 今エレベーターの中にいるの!』
『……それで?』
『凄く怖いの、助けて欲しいの……』
だろうな。
理解したという意味ではないが、彼女の尋常でない怯え片は声を聞けば良く分かる。
だがしかし、それと助けることとは関連しない。何より助ける義理などない。
『こう見えて私は忙しい身でな。それに君を助けることで私に何の利益があると言うのかね?』
『そこをどうか……ヒッグ、お願いします。ヒッグ……ごめんなさい、ヒッグ……私……ヒッグ、閉所恐怖症で……ヒッグ……』
自業自得な気しかしないのは私だけか?
『お願い……ヒッグ……します……。ヒッグ、何でも……ヒッグ、言うことを聞きますから……』
何でも、か……。
近々無能な社員を五十名ほどクビにするつもりだが、その埋め合わせに彼女を雇うという手もあるな。問題は彼女にビジネスの才能があるのかどうかということだ。
これは私の持論だが、ビジネスにおいて究極的に必要な力とは、主導権を握る能力である。
そのためには先ず、相手に出来る限り自分を信頼させることが求められ、そしてそこからどれだけ相手の隙を付けるか、裏を返せばその信頼を裏切る覚悟が必要となる。
反対に、相手に主導権を奪われたのなら、それはビジネス上の負けを意味する。結果としてその契約、最悪の場合は会社そのものが敵の手中へ落ちてしまう。
信頼するのではなく、信頼させること。これがビジネスにおける最も重要な能力の一つだ。
まぁ彼女にその力があるとは到底思えないのだが……、少し試してみるか。
『案ぜずとも直に自家発電の装置が作動する』
『え……? そうなの? なんだ♪じゃあ大丈夫ね! フフフ、今すぐにあなたの所まで行って上げるか――』
『ふむ、そう言えば発電機は壊れていたんだったな』
『ごべんなさい! ヒッグ、生意気言ってすびばせん! お願いだから助げでぐだざい! ……ヒッグ……』
駄目だ。駄目過ぎる……。まるで猿回しの猿じゃないか。
これでは助けになるどころか、却って会社の足を引っ張りそうだ。
『うぅぅ……。ヒッグ……ごべんなさい……ヒッグ……だずげて……ヒッグ、下さい……』
鼻声の後ろから聞こえる鈍い音は、おそらくだが彼女が自分の頭蓋骨を床に叩きつけている音なのだろう。やれやれ、時間を無駄にしたな。
『悪いが他を当たってくれ』
『えぇ!? そ、そんな後し――』
彼女の最後の言葉も聞かずに、私は電話を切った。
『私としたことが、つまらないことに時間を使ってしまった。仕事に戻らねば』
明日は早朝から大事な会議が入っている。企画書には予め目を通してあるため、焦る必要などないのだが、先ほども言ったように私はこれでも忙しい身だ。こんなところで浪費していられる時間など、一秒たりとてありはしない。
私はパソコンに向かうと、いくつかのファイルを開き、指を走らせる。
粛然とした室内に、キーボードを打つ音だけが響く。
『買収の件はひとまずこれでいいな』
買収の話に区切りをつけ、残しておいた書類の束へ手を伸ばそうと体を乗り出したとき、不本意ながら、机の上に不用意に置かれた携帯電話に目が止まってしまった。
『……今さら何をしようというのだ?』
私の口を付いて出たその言葉は、自分で言っておいてなんだが、あまりにも滑稽で、つい口角が上がってしまう。
『助けるつもりはない。もとより何か行動を起こす気などさらさらない。これは彼女が自ら招いたことであり、私が関わる必要はない』
私はまるで自分自身に言い聞かせるように言葉を続けた。
助けを求めれば誰かが手を差し伸べてくれる。そんな甘い考えは、ビジネスの世界では通用しない。表面上は持ちつ持たれつ、裏では食うか食われるかの厳しい生存競争が行われているこの世界だからこそ、最後の最後は一人で生きなければならな……。
そこまで考えが達したとき、何か筆舌しがたい不安と疑問が私の脳裏を掠めた。無性に恐ろしくなり、必死で考えを散らす。
ふと私は、自分が携帯電話を握っていることに気づいた。待機モードに入り明かりの消えた液晶が、じっと私を見つめている。
それは吸い込まれそうなほどに黒く、そしてどこか哀しげな色をしていた。
私はたまらず目を逸らすのだが、電話のそいつはどこまで行っても追ってきて、見上げるように私の顔を覗き込む。
忘れてしまいたいはずの過去。思い出したくもない忌まわしき記憶が私の意志に反して蘇り、私の心をかき回す。
『何だと言うのだ!!』
私は思わず叫び声を上げていた。
けれど、小生意気な目をしたそいつはたじろぐわけでも、ましてや臆するわけもなく、ただ小さく微笑んだかと思うと、闇の中へと消えていった。
私の答えは、このとき既に決まっていたのかもしれない。
命の価値も、死の重みも、何もかもが同じに見える。目的もなく、夢もなく、生きる意味すら分からない。
けれど、そんな私にも確信を持って答えられることが一つだけ存在した。
あまり認めたくはないのだがな。
それは……恐怖。孤独という名の恐怖。
私を忌み嫌い避け続けた大人、子供、そして私の両親。
私が憎んだそんな連中はまさに今の私そのものであり、忘れかけていたその記憶をあの私は伝えたかったのだろう。
『ふっ……、泣かれてしまっては仕方ないな』
私は掛けてあった背広を羽織ると社長室を後にする。
雨はいつの間にか止み、空には眩い月が浮かんでいた。
◇
闇に閉ざされたエレベーターの中で、一人の少女がうずくまりながら泣きじゃくっている。
『うぅぅ……ヒッグ……暗いよぉ……ヒッグ……狭いよぉ……』
大粒の涙が頬を伝い、床の上へとこぼれ落ちていく。ビルの電気が途絶えてから、かれこれ数十分が過ぎようとしていたが、一向に助けが来る気配はない。
『ママ……パパ……メアリー……ヒッグ……誰か助けて……ヒッグ……この際、幼なじみのマイケルでもいいから……マイケル今は戦場に行ってるけど……』
少女がいくら願っても、この状況は変わらない。先ほどまで聞こえていた不思議な声も、随分前から聞こえなくなってしまっていた。
『うぅぅ……ヒッグ……エッグ、ヒッグ……エッグ、エッグ…………卵焼き食べたい……』
彼女が、もうダメだと半ば諦めかけていたそのとき、
『意外と元気そうじゃないか。これでは私の助けなど必要なかったかな?』
エレベーターの扉がこじ開けられ、淡い月の光が少女の涙に反射して仄かに光る。
月明かりを背に手を差し伸べる佐悟の姿は、彼女の目には一体どう映ったのだろう。
◇
場面は変わり、ここは32階にある社員用の休憩所。
廊下の突き当たりに位置する少し開けたこの空間には、自販機や観葉植物、そしていくつかのソファーが置かれており、全面ガラス張りになった窓からは月の光が差し込んでいる。
ソファーに座り涙を拭うメリーと、停電で動かなくなった自販機と格闘する佐悟の二人だけがそこにいた。
『泣き止んだか?』
『……はい』
自販機から無理やり飲み物を取り出した佐悟は、その中の一本を彼女に手渡し、隣に腰を下ろす。
『全く君も人騒がせな妖怪だな』
『えっ、気づいてたの……?! あ、いや、気づいていたんですか……?』
『これは商談ではない。普通に話せばいいさ』
『え、あ……、うん……』
メリーは小さく頷くと、照れくさそうに缶ジュースに口をつける。
『私も人ではないからね。電話越しに君の妖気が分かったのだよ』
『そうなん……ですか』
まだ佐悟に怯えているのか、メリーは彼の顔色を横目で伺いながら、当たり障りのない言葉を返す。
『ところで、なぜ私を狙ったんだ? 君は私が河童だと知っていたのか?』
『いいえ! とんでもない! ……です』
メリーは慌てて首を横に振り、顔の前で大げさに手を揺らす。
やはり佐悟の雰囲気に威圧されているようで、意識しては丁寧語を漏らしていた。
彼女は佐悟が怒っていないのを確認すると再び顔を伏せ、
『実は私……、田舎から上京して来たばかりで、せっかくだから大物を狙ってみようかなー、とか粋がってたら……つい……』
『それでKCR社長の私と言うわけか』
『本当にごめんなさい……』
そう言って深く頭を下げるメリーを、佐悟は流し目で見つつ、
『しかし……、君も妖怪にしては気が弱いと言うか、意気地が無いと言うか……。妖怪は基本的に人を驚かすのが仕事のはずだ。特に、君らのように人の恐怖心を糧に生きている妖は、そうしなければ自分たちが生きていけない。それくらい君も分かっているだろう?』
佐悟のきつい言葉に、メリーは下げた頭が上がらなくなっている。彼女は何も答えなかった。
そして、そんなことはお構いなしに佐悟の言及は続き、
『他人の仕事に口出しするつもりはないが、同じ妖怪として一言だけ言わせてもらう』
佐悟の言わんとすることを察したのか、それまで俯いていたメリーはゆっくりと顔を上げ、彼の目を今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で見つめる。
佐悟は一息置いてからきっぱりと、
『止めたまえ。君のやっていることは君には向いていない』
メリーの目に再び涙が浮かぶ。
『先ほどのやり取りで身に染みたはずだ。田舎ではどうだったか知らないが……、断言しよう。今の君ではこの非情の街を生き抜くことは出来ない』
メリーは何も言わず、ただじっと佐悟を見つめていた。涙の滴だけが、時折彼女の頬を伝い床へと落ちる。
『君に残された選択肢は三つだ。一つは今言った通り、今やっていることをきっぱりと止めて、新しい生き方を探すこと。私のようにな』
佐悟が自嘲気味に呟く。
『そして二つ目は、田舎に戻り今まで通りのやり方を続けることだ。田舎にいた頃の成果を私は知らないが、この街で続けるよりは見込みがあるだろう』
佐悟はそこで話を止めた。メリーの目が迷っていたからだ。佐悟の助言に従う方に傾いているようにも見える。
けれど彼女は少し考え込んだ後、不安の色を見せながら、それでも佐悟の目を見てはっきりと、
『親や友達にも、よく言われました……。お前には向いていない。諦めて別の生き方を探しなさいって……』
だが、気弱なその言葉とは裏腹に、メリーの目は静かな決意に満ちていた。浮かべた涙が、逆にその力強さを主張している。
佐悟は喉元まで上がって来た言葉を飲み込み、メリーの話にただ耳を傾ける。そんな佐悟の反応を見たメリーは、一度小さく深呼吸をすると、言葉を選びながらゆっくりと語り始めた。
『私の種族は表では普通の職業に就いてましたけど、裏では昔から人を驚かすことを生業にして来ました。パパも、ママも、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、みんなみんなそうやってきたの。……だから、私も小さい頃から人の驚かし方を教えられて、次は私の番なんだって、いつかは私が家を継ぐんだって。そう思ってた……』
メリーの胸に込み上げて来た想いは、彼女の目を見れば否が応でも分かった。体と声は小刻みに震え、目からは小さな雫が絶え間なくこぼれ落ちていく。
『でも……、そうはならなかった。私には妖怪としての才能がなかったの。昔から何やっても失敗ばっかりで、実家にいた頃もほとんど成功したことなんてなかった……。だからみんな私に愛想を尽かして…………いいえ』
メリーは自分の口から出た台詞を否定するように強く首を振り、弱い心を払い除ける。
彼女は佐悟から借りたハンカチで涙を拭うと、何かを懐かしむように微笑みながら、
『きっと愛想尽かされてたわけじゃないと思う。パパもママもお爺ちゃんもお婆ちゃんも、友達のメアリーだって、みんなみんな優しいもん。みんな私のためを思って、別の生き方を探しなさい。それでもいいのよ? って言ってくれたんだと思う。……きっと、今の貴方のように』
佐悟はメリーの最後の言葉に一瞬反応し目を背けるが、すぐに向き直り彼女を真っ直ぐと見据える。
佐悟にはもう彼女の答えが分かっていたのだが、それでも彼女の口から直接聞きたいという思いが、ほんの少しだけ気恥ずかしさに勝った。
メリーは一度目を閉じ、もう一度深く深呼吸をすると、佐悟の目を見て、
『それでも貴方たちの助言には従えません。私はこのまま続けます』
佐悟の表情が険しくなる。その答えを彼は予想していたのだが、やはり直に否定されると気分的には良くないらしい。
メリーの目を睨みつけるようにして佐悟は言った。
『もう一度だけ言う。このまま続ければ確実に君は挫折する。引き返すなら今だ』
『そうかもしれない……ですね。でも私、逃げたくないんです。自分で選んだ道だからこそ、最後まで歩いて行きたい』
『……その先あるのが、深く険しい山道だとしてもか?』
『うん……。山頂に、私が選んだこの先に、何があるのか見てみたいから』
メリーの小さな目には、不安や恐怖が渦巻いていて、決して確信に満ちている訳ではないのだが、それでもその目は力強く光っていた。
佐悟もそれ以上言及はしなかった。もしかすると彼自信も、その答えを望んでいたのかもしれない。
佐悟はメリーから目線を外すと、大きく溜め息をついた。そしてまるで自分自身を冷笑するかのように呟く。『私とはまるで真逆だな』と。
佐悟の様子を伺っていたメリーは、その言葉の意味が分からず彼の顔を見つめたまま小さく首を傾げた。
そして彼女は、佐悟にそれ以上自分から話す気がないのを察すると、
『どういうこと……ですか?』
『……言葉通りの意味さ。君と違って、私は何がしたいのか、私は何のために生きているのか、それが分からない。ただ、それだけだのことだ……』
佐悟の目は暗く伸びる廊下のその先を見つめていた。瞳からは光が消え、ほんの数秒前まで見せていた刺すような鋭さと、その背後に見え隠れする不器用な優しさは影も形もない。
ただ深く黒い闇が彼を包んでいた。
『だが、もういいのだ。もう生きることにも疲れた。生も死も同じならば、同じように無価値ならば……、無理して生きることもない……』
佐悟は缶の底に残っていたコーヒーを飲み干すと、まるで別の何かを投げ捨てるかのようにゴミ箱へと投げつける。
けれど缶はゴミ箱には入らなかった。壁にぶつかり、音を立てながら床の上を転がって行く。
短い沈黙が流れた。
メリーは何と声をかけていいか分からず黙っていたが、やがて佐悟の右手に自分の左手を重ねると、
『話して下さい』
『……君に言って解決するような問題ではない。それにもういいと――』
『よくないですよ』
その時初めて、メリーの言葉が佐悟を上回った。この一連のやり取りの中で……いや、もしかすると彼の生涯の中で、初めて。
強く優しい瞳が佐悟を見上げ、彼の言葉を待っている。
『よくないです。だから、話して』
佐悟はそれ以上拒むことは出来なかった。
彼女の温もりが繋がれた手を通して、佐悟を優しく包み込んでいく。
『やれやれ、どうやら私は君を少し過小評価していたようだ……』
休憩所の壁に掛けられた時計が音の無い秒針を進め、気づくと佐悟はメリーに自分の全てをさらけ出していた。村での出来事、会社を立ち上げた訳、そして今の心境。思い出したくもない記憶や、他人には決して見せたくない自分の弱さまでもが、彼女の前に照らし出されていく。
佐悟が話し終えるまで、メリーはただ黙って彼の話を聞いていた。
『と、言うわけだ。……結局、私は何がしたかったのだろうな』
最後の言葉をそう締めくくり、佐悟は改めて深い溜め息を漏らす。
けれど、彼の口調はとても穏やかで、言い慣れたその言葉を発した佐悟の顔は、僅かながらに綻んでいた。
何でもないただ休憩所は、二人を中心に言い知れぬ心地よさで満たされ、安らぎと温もりが彼らを包んでいる。きっとそれは、理由は定かでないにせよ彼自信が一番実感し、不思議に思っていることだろう。
そしてその答えを、メリーが口にする。単純で誰の目にも明らかなその答えを。
『きっと貴方は、淋しかっただけなんだと思います』
メリーの言葉にも、佐悟はあまり驚かなかった。唐突過ぎて反応に困っただけなのか、それとも初めから分かっていたのか。彼は表情を変えることなく、じっと暗闇を見据えていた。
メリーは佐悟から視線を外すと正面に向き直り、そして彼と同じように、薄暗い廊下の端をぼうっと眺める。
そんなメリーを横目で見つつ、佐悟は囁くように、
『やはりそう思うか?』
『はい。今の話を聞く限りだと、そう思います。貴方自身、もう気づいているんでしょ?』
メリーの声は自信と確信に満ちている。さっきまで泣きじゃくっていた少女の面影は、もうどこにもなかった。
再び佐悟を見上げ、首を軽く傾げながらそう尋ねるメリーと、視線が交わる。意表を付かれた佐悟は、慌てて目を反らし少し強めの口調で呟いた。
『正確には、そう思っていたこともあった、だ。けれど今はもうそんな考えは捨ててしまったよ』
『どうして?』
目を反らした佐悟の顔を覗き込むようにしてメリーが問いかける。
『自分の考えが間違いだと気づいたからだ。気の置けない友人はいる。腹心の部下が二人な。妬み嫉みの対象だった私の才能も、この業界では認められた。……地位も、名誉も、友も、望んだものは手に入れたのだ。……だが、私の心は晴れない……。今し方少し楽になった気もしたが、それもどうやら気のせいだったらしい』
佐悟の真面目な言葉と真剣な表情とを伺っていたメリーは、彼の想像通りの答えに思わず笑みを零してしまった。
少女の小さな笑い声が、静寂を切り裂いて人気のなくなった夜のビルに響く。
佐悟が少し不機嫌な顔を見せると、メリーは笑い涙を指で拭いつつ謝罪し、
『ふふふ、ごめんなさい。……でも、やっぱり思った通りですね。私に止めろと言う前に、貴方が辞めるべきですよ』
『……どういうことだ?』
佐悟は顔をしかめ、メリーを見下すように睨みつけた。
けれど、メリーは特に怯えるわけでもなく佐悟の目を見つめ返し、
『貴方は仲間が欲しかったわけでも、才能を認めて欲しかったわけでもなく、ただ、自分を見て欲しかったんだと思います。才能でも、力でもない、ありのままの、自分自身を』
佐悟も今度ばかりは目を大きく見開き、驚きを隠せないでいた。
何か反論したそうに口を動かすが、肝心の台詞が見つからず言葉に詰まっている。
そしてメリーは佐悟に否定させまいと、畳みかけるように言葉を続けた。
『貴方は自分を見て欲しかった。けれど、社会は貴方ではなく貴方の才能しか見てくれない。せっかく出来た大切な友達も、上司部下というビジネスライクな関係のせいで見失いかけている……。きっとそれが理由ですよ。貴方の心が晴れない理由です。そして……』
メリーは少し言いにくいそうに言葉を区切り、佐悟の目を改めてじっと見つめ直す。見開かれた彼の目はゆっくりと落ち着きの色を取り戻し、メリーは彼の右手に力が入るのを感じた。
彼女はその手を優しく握り締めながら、
『そして何より……、貴方自身が人を拒んでいるから』
佐悟はもう何も言えなかった。古い記憶と共に、当時の感情が彼の心に流れ込んでくる。信じていたものが、音を立てながら崩れ落ちていった辛く苦しいあの日の思い出。
『自分を見てくれる人を欲しながら、同時に貴方はそれを怖れているんだと思います。人を信頼し、その信頼が裏切られることに、心のどこかで怯えてる……。さっき私に話してくれましたよね? ビジネスにおいて最も必要なのは、相手の信頼を裏切る覚悟だって。でもそれは本当に貴方の本心なんですか? 本当に裏切り無しではやっていけないと思っているんですか? もし……、もし貴方が本気でそう思っているのなら、貴方はこの仕事を続けるべきじゃないと思います。このまま続けても貴方の本当に望むものは手に入らない。だから、辞めるなら、今です』
メリーはわざと佐悟の言い回しを使い、彼の心に直接語りかけた。
佐悟は自分の心を見透かされた驚きと突きつけられた現実との戸惑いから、言うべきことが見つからずにいる。
それでも言葉を振り絞って、
『だが……、やはり私には……』
悩み、苦しみが彼の顔を歪ませる。
やはり、どうしても分からない。彼女の言っていることは理解できる。感情的で非論理的だが、それでも何故か核心を突いている。そんな気がする。けれど気持ちがついて来ない。心が納得していない。彼女の言うようにただ怯えているだけなのかもしれない。だがそれは、佐悟にとっては嘗て無いほどに衝撃的で、同時に恐ろしかった。
しかし、そんな迷いと嘆きで引きつる佐悟の頬を、メリーがそっと撫でた。そして優しく微笑みかけながら、
『でも大丈夫。……貴方は私と真逆なんかじゃないから』
佐悟の右手を離れた彼女の手は、今、彼の右頬に添えられている。メリーは宙に浮いたまま、二人の距離がぐんと近くなる。互いの息遣いさえも聞こえてしまいそうな状態で、メリーは小さく囁きかけた。
『先ずは向き合ってみて下さい。自分の過去と。そうすれば、今はまだ分からなくても、いつかきっと貴方にも分かる日が来ます。欲しかったものはきっと手には入る。それは明日かも知れないし、明後日かも知れない。貴方が生きている限り可能性の芽は消えません。だから……、だから人生に、生きることに価値が無いなんて言わないで下さい。生きていて良かったと思える一瞬が一度でもあったなら、その人生に価値はあるから』
こんな小さな少女のたったそれだけの言葉に、一体どれだけの力があったのだろうか。
いや、実際にそんな大した力などなかったのかもしれない。ただ偶然、本当に偶然、そうなっただけなのかもしれない。
けれど、彼女の力にせよ偶然にせよ、佐悟を覆っていた心の闇は、もはやどこにもありはしなかった。
佐悟はメリーの手を掴んで、彼女を隣に座り直させると、いつもと変わらない紳士的な、けれど今までとは明らかに何かが違う口調で、
『やれやれ、この私が他人に主導権を握られた上に言い込められてしまうとはな。まったく君は、想像以上の強者だったらしい』
『女性なんてみんなこんなものですよ』
『だとしたら、二度と敵にはしたくないな』
メリーが笑い、佐悟がつられて笑みを零す。
この瞬間、この男のロリコン魂は覚醒したのだと、今ここで綴っておこう。
佐悟は満面の笑みを浮かべる少女を見下ろしながら語りかけた。言葉とは正反対の清々しさを醸しつつ、
『負けっぱなしと言うのは些か不愉快だが、君のその強さに敬意を表して三つ目の選択肢を提示させてもらう』
メリーは笑顔のまま首を傾げ、つぶらな瞳が佐悟を仰ぐ。佐悟は動揺を悟られないように振る舞いながら、
『ここに来る前、今日の君の行動を監視カメラで確認させてもらった。入口のセキュリティーをどうやって突破したのか気になったものでね。それで分かったことなんだが、君はどうやら瞬間移動の能力を持っているらしいな』
ポーカーフェイスを装って一息に話し切ったため、最後の方は声が荒げていた。
急にどうしたのかとメリーは目を瞬かせる。若干早口気味でもあり、それが却って彼女を困惑させていた。
メリーは訝しみつつも冷静に受け答え、
『え、あ、うん……。でもまだ一日一回しか使えないから、エレベーターは……』
『一回使えれば十分さ。昔、文献で読んだことがあるが、移動距離に制限はないのだろう?』
『はい……。相手の位置さえ分かれば距離は別に……』
メリーにひとしきり質問の雨を浴びせると、佐悟はジェスチャーを交えながらプレゼンでもするかのように語り出した。
『ならば話は簡単だ。相手の位置など電話越しの気配を辿ればすぐ分かる。つまり君は、わざわざ相手に自分の位置を伝えながら、徒歩で移動する必要などないということだよ。本当に動くのは最後、相手の後ろを取るその一度だけでいい。それまでは近づいて行く演技で十分ということさ』
流石にKCRを一代でここまでの大企業に育て上げただけのことはあり、彼のプレゼンは簡潔で的確だった。
『で、でも、それってズルいんじゃ……?』
的確だった、が、この少女には通用しなかったらしい。
佐悟の顔に影がかかる。まるで、何言を世迷い言を? と言わんばかりの蔑み方だ。
『し、心外だな。ズルではなく効率を求めた結果だと言って欲しいものだよ。まぁこの方法なら流石の君でも失敗はないだろう』
ところがそうでもない。数年後にこの方法が破られることを、今の佐悟はまだ知らない。
『わ、分かりました。今度やってみます』
メリーはまだ少し納得できないようだったが、とりあえず今は佐悟の提案に乗らせてもらうことで話がついた。
二人が話終えたときには、もう既に東の空は明るんでおり、鳥たちの囀りが二人の耳にも聞こえていた。
才能などなくとも人に愛された少女と、才能があるが故に人から拒絶された男は、今宵奇妙な出会いを遂げ、互いの未来に大きな変化をもたらしたのである。
◇
『それからおよそ一年が過ぎたあの日、私は君と出会い、彼女の言っていたことの意味がようやく分かったような気がした』
昔話を終えるまでの間、佐悟はずっと窓の外を眺めていた。時折、グラスに入ったアイスコーヒーに目を向けるのだが、少し口に含んでは広がる青空を仰いでいた。
時間帯の影響か、それともただ流行っていないだけなのか、この店の客足は少なく、僅かにいたサラリーマンやOLもつい今し方出て行ってしまったため、店内は佐悟と青葉そして数名の従業員を残し、異様な沈黙に包まれていた。
アイスコーヒーの氷がピシリと音を鳴らし、冷房の空調が床の埃を小さく巻き上げる。
佐悟は、席に着いてから初めて青葉の顔を真っ直ぐに見つめると、
『私は、君に出会わなかったら自分の生きる意味を見いだせなかっただろうが、それ以前に、彼女と出会わなければ生きようとも思わなかったのだよ』
そう言って微笑みかける佐悟の声は、とても穏やかで、同時に芯のある力強さ秘めていた。
青葉はすっかり冷め切ってしまったコーヒーを飲み干すと、ことさらつれない仕草で、少し照れを隠すように、
『それで? さっきの人がそうなのかしら?』
『……さあ、どうだか。彼女は同族の仲間がいるとも言っていたからな……』
『私、嘘は嫌いなのだけれど?』
佐悟のはっきりしない答えに、青葉の語調が普段より若干鋭くなっている。冷たく刺すような青葉の視線をくぐり抜け、佐悟は冷静に彼女を見つめ返すと、
『別に嘘など吐いていないさ。ただ、はっきりとしたことは言えない、というだけだよ。彼女も、昔とは随分と違った生活を、送っているようだったしな』
意味深に笑う佐悟に嗜められ、青葉も落ち着きを取り戻す。
けれど、彼女の平常心という仮面の隙間からは、真っ赤に染まった耳が見え隠れしていた。
『そ、そう……、じゃあ、いいわよ……』
そしてそんな彼女をからかうように佐悟は、
『嫉妬したかい?』
『……バカ』
青葉はあくまでも平然を装ってそう返すのだが、いつもより若干タイミングが遅れているのを佐悟は見逃さない。
取り繕うようにコーヒーへ手を伸ばしてみても、カップの中身は既に空で、彼女の動揺を誘うばかりだ。
佐悟が不敵な笑みを浮かべては、青葉の顔が苦渋に満ちていく。
何よりも佐悟ごときに言いくるめられてしまったことが、彼女は悔しくてたまらなかった。
見上げては交わる視線のやり場はなく、精一杯の仕返しとばかりに佐悟を睨みつける。
けれど、そんな歯がゆくやり切れないもどかしさを胸に抱きつつも、青葉はどことなく喜びを感じていた。
意地悪で、あざとく、少しだけ紳士的な彼を、今ここにいるそんな佐悟を、彼女はどうしようもなく愛していたから。
だからこそ素直に、心の底から純粋に、顔をほころばせてこう返す。
『佐悟、良かったわね』
『ん? 何が?』
『別に。さあ、お喋りはこのくらいにして買い物に戻りましょう。お会計は任せるわ』
『なっ?! ま、まさか荷物以外に勘定まで私持ちとは……っ!』
『紳士なんでしょ?』
青葉は立ち上がり佐悟に伝票を差し出す。ふてぶてしく笑い返す彼女を見つめながら、佐悟は小さくため息を吐いて、
『ふっ、これだから女性というのは……』
レジで会計を済ませる佐悟を後目に、青葉は店を出た。
屋外は人通りこそ少なくなっていたが、相も変わらず照りつける陽光のせいで灼熱の地獄と化している。
彼女は一度振り返り、ガラス戸越しに見える佐悟の背中を確認すると、熱く真っ赤に燃える太陽を仰ぎ見て一言。
『ホント、バカなんだから』
微笑む彼女の顔を、夏の日差しが煌々と照らしていた。
完