大神くんは狼くん。
艶やかな黒髪に光の加減でマラカイトに輝く瞳。均整のとれた体は老若男女問わず垂涎ものだ。
文武両道・眉目秀麗。それが服を着て歩いてるような男――大神羽琉はまさに完璧な人間だ。
――ただ、ある一点を除いては。
「ママー、大きなワンちゃんが歩いてるー!」
弾んだような声を曲がり角の向こう側に見つけ、私は無意識に布を掴む手に力が込めた。
自分の出せる限りのダッシュ力で地を蹴り、一目散に曲がり角の向こう側に出た。途端に目に入る巨大な黒い物体。
私はそれを見つけた安堵と、ふつふつと沸き起こる苛立ちに思わず声を張り上げた。
「ハル!」
私の鋭い一言にしょぼくれたように地面に頭を垂れていたその顔が持ち上がる。その黒い瞳に私の姿が映った途端、嬉しそうに舌を出した。
「ワンッ!」
巨大な体躯はまるで体重を感じさせない動きでしなやかに地を駆ける。一目散に私の方へ。
このあとに起こるであろう惨劇を察知した私は慌てて避けようとするが、時、すでに遅し。ひときわ強く地面を蹴った獣は一目散に私の腕の中へ。
「ぎゃわっ!」
大型犬よりも大きな体躯が私を襲う。当然、支えきれなかった私は地面に尻餅をついた。
獣は鋭く尖った歯を見せながら私の顔を覗き込む。それからフサフサの尻尾を振りながら、私の頬を長い舌でペロリと舐めた。
「……ハル、今すぐ退いて」
私の言葉に従順に従った獣は私の上から素早く降りてお座りのポーズを取る。
大型犬よりも大きな体躯。犬にも似ているが、よく見ればそれが狼だと気づくだろう。
私は途中で拾った男子制服一式を握り締め、目の前の狼を睨み付けた。
「外で変身しちゃダメだって言ったでしょ!――羽琉!」
私の言葉に目の前の狼の尻尾が情けなく垂れ下がる。
そう。完璧人間である大神羽琉の唯一の欠点。
それは狼に変身することであった。
* * *
通い慣れた道を私と一匹が歩く。器用にも学生鞄を口に加えたそれは、私の幼馴染み。恐ろしいことに。
「あれだけ気を付けて、って言ったのに」
隣を優雅に闊歩する羽琉に思わず愚痴を溢せば、潤んだ瞳が私を見た。卑怯だ。私がその目に弱いことを知ってるくせに。
その瞳に見つめられ、私はつい小言を引っ込めた。もはや諦めたのだ。この会話を繰り返して早10年。改善されなかったのは言うまでもなし。
「ごめんね……」
口を真一文に結んだ私に、隣の狼がしょんぼりとする。情けない声が巨大な狼の口から聞こえた。尻尾が垂れ下がったその姿を見て、私は思わず羽琉の頭を撫でる。
物心ついたときから私にとって、羽琉が狼に変身することは当たり前のことだった。
というかそれが普通だと思っていた。なんで自分は変身しないのだろう、と悩んだのは今となっては笑い話である。
とにかく羽琉は生まれたときから狼に変身した。昔は変身をコントロールできなかったので、しょっちゅう入れ換わっていた。その度に私は寿命が縮む思いをしたものだ。
今はコントロールもできるようになり、自分の意思で変身できる。ただし突発的な事態やものすごく驚いたり、あるいは体が弱ったりすると変身しちゃうみたい。
まぁ、変身することは仕方がない。体質だと思えば諦めもつくものだ。だけど問題は、羽琉が狼に変身することをちっとも気にしていない、ということである。
だから街中でも変身するし、人に見られることも厭わない。……というか考えていない。
「羽琉、お願いだから人前で変身しないでね。普通の人が考えたら人が狼に変身するなんてあり得ないんだから」
一般人がその現場に居合わせたら間違いなく気絶する。最悪、羽琉は捕らえられて変な実験に使われるかも……!
そんな自分の想像に、自分で怯えた。羽琉は私が守らなくちゃ……!!
「詩織?」
一人意気込む私を不思議そうに羽琉が見上げる。私はそれに曖昧に笑って、羽琉の家の門を開けた。
羽琉の鞄から鍵を取り出し、扉を開ける。羽琉は鞄を廊下に放り投げると置いてあった雑巾に足踏みして中に入った。
私も勝手知ったる他人の家。靴を揃えて脱ぐとさっさと家に上がった。
リビングに入ると羽琉がお座りしてお行儀よく待っている。このあとに言われる言葉を想像し、私の顔は思わず歪んだ。
「詩織、チューして」
瞳を輝かせてこっちを見ている。あまりの可愛さに私は目眩がした。
これが最大の厄介とも言えることだ。常に私の頭を悩ませていることでもある。
羽琉は勝手に狼に変身できる。だが人間に戻るには私がキスする必要があるのだ。なんでかは知らない。重要なのは私でしか元に戻らないということ。
「……しなきゃダメ?」
「詩織がチューしてくれなきゃ戻れない」
「なんで私じゃないとダメなのよ……」
不満は色々ある。それでも実行するのはやっぱり羽琉を人間に戻さなくては、と思うからで。
頬(と思われる部分)に軽く唇を押し当てれば、巨大な狼の姿は一瞬にして消えた。
その場に居るのは艶やかな黒髪を額に貼り付けた真っ裸の男。私は真っ赤になって制服を叩き付けた。
「もう! これだから嫌なのよ!」
「一緒にお風呂にだって入ったのに……」
「子供の頃の話でしょ!」
私は羽琉に背中を向けながら思いっきり怒鳴る。顔はますます火照った。
狼に変身している時、当たり前だが羽琉は裸だ。まぁ狼の時は毛皮を纏ってるから別にいい。
問題は人間に戻った時だ。狼姿が裸なのだから人間に戻った時も裸なのは当たり前。おまけにキスするのは私だから目を逸らすこともできないのだ。
「うぅ……。私、まだうら若き乙女なのに……」
「詩織ー?」
一人で勝手に身悶える私を、背後から抱き締めるようにして羽琉が覗き込む。昔から羽琉はすぐにくっつきたがったので、この程度の密着ではなんとも思わなかった。
羽琉は軽々と私を抱え上げると(どうせ私はチビですよ!)私を膝に乗せながら自分もソファーに座る。羽琉の黒髪が私の頬をくすぐった。
「明日ね、生徒会があるんだ」
「本当? 放課後に集まるの?」
「うん。たぶん遅くなると思う……」
しょんぼりする羽琉には垂れた尻尾が見えるようだ。今は人間の姿だから私の幻覚だけど。
……ちくしょう。かわいいな、こいつ。
「待ってようか?」
言った途端羽琉の顔が輝いた。嬉しそうに私を抱き締め、私の猫っ毛に顔を埋めて頬擦りする。ちょっと、くすぐったいよ。
「教室に居るから終わったら来てね」
「うん。詩織、大好き」
「はいはい」
聞き慣れた羽琉の大好きという言葉に苦笑。今の羽琉は尻尾を千切れんばかりに振ってそうだ。もちろん私の幻覚だけど。
* * *
放課後、羽琉は名残惜しそうな顔をしながらも、迎えに来た書記の子に引きずられるようにして生徒会室に向かった。私はそれを見送り、誰も居なくなった教室で一人羽琉の帰るのを待つ。
私は鞄の中から分厚い文庫本を取りだすと、それを広げて読み始めた。別に羽琉を待つのは初めてじゃないし、苦じゃない。というより羽琉を置いていった後に起こるかもしれない数々のことを考えると、残っていた方がはるかに心理負担が軽いのだ。
私は集中するとすぐに周りのことが見えなくなる。本なんてその最たるもので、読んでいるときに話しかけられてもすぐに反応出来ないのだ。
「――ちょっと!? 聞いてるの?」
甲高い声が耳元で聞こえて、私は本から視線を上げる。気がつけば知らない女子生徒に周りを囲まれていた。いつの間に。
「……え?」
鈍い反応を返す私に、みなさんは顔を引きつらせた。どうやら何度も声をかけたらしい。気がつかなかった。
不思議そうに周りを見る私の姿に、一人の女の人が近づいてきた。見たことがある。えっと確か……高階先輩だ。三日前、羽琉に告白していた。
「ちょっと話があるんだけど。いいかな?」
駄目です。……なんて言えないから私は小さく頷く。読んでいたページに栞を挟んで立ち上がるのを見て、高階先輩たちは私を教室の外へと出した。
呼び出しみたいなもんかな。昔から羽琉関係でそういうことはよくあったし。
羽琉はかっこいい。それは誰もが認めるかっこよさだ。だけどなぜかあの男は女子からの告白をすべて断る。そして私にくっ付いていたりするもんだから、やっかみは全部私の元に来るのだ。
てっきり校舎裏に連れて行かれると思ったのだが、なぜか校舎端の階段の踊り場で先輩たちは止まった。高階先輩は私の方に向き直り、はっきりと私のことを睨む。
「単刀直入に聞くけど。あなた大神君のなんなんの?」
「幼馴染みです」
はっきりと答えた私に高階先輩の顔が歪む。周りに居る女子生徒の皆さまが明らかな不満を口にした。
「はぁ? ただの幼馴染みのくせにつきまとってんの?」
「いえ、羽琉の方がくっついてるんですけど」
「自惚れないでほしいんですけどー」
「いや、だから……」
普段の羽琉を見て分からないのだろうか。……分からないのだろう。恋は盲目っていうもんね。
こういうとき、羽琉って本当にモテるんだなって思う。私の中の羽琉は大きな尻尾を振る獣姿の彼で、はっきり言って人間と認識しているかも怪しかったりする。
黙ってことに成り行きを見守っていた私を、高階先輩の視線が射抜いた。その鋭い視線に私の背中が自然と伸びた。
憎悪とは違う。だけど決して親愛ではないその目が私を責めているような気がするのはなぜなのだろうか。
「あなたは……大神君のことをどう思ってるの?」
「羽琉のこと?」
「そうよ。好きなの?」
羽琉のことが好き? もちろん好きだ。それ以外に何があるというのだろう。小さい頃からの大切な私の幼馴染み。
そう言ったら高階先輩は嫌そうに顔を歪めた。唇を噛み締める様子はどっこか悲壮さすら漂っていた。
「先輩?」
「あなたが……そんなんだから……!!」
「どうしたんですか?」
「はっきりした態度を取らないから……!」
鋭い視線が私に突き刺さる。その雰囲気に思わずあとずさって――右の足が宙へと投げ出された。
「あっ」
気がついたときにはもう遅かった。私の身体は階段の上を舞った。あぁ、ここってどれくらいの高さだっけ。落ちたら痛いかな。……痛いだろうなぁ。
不思議と頭は冷静で、頭を打ったら死ぬかもしれないな、とすら思っていた。階段の上で高階先輩が目を見開いているのが見える。先輩は何も悪くないのに。勝手に私が足を滑らせただけなんだから。
来るべき衝撃に備えて目を瞑ったとき、一陣の風が私の背後で起こった。
「詩織!」
切羽詰まった声。それから柔らかい何かに身体が落ちた。懐かしい匂いが私の鼻腔をくすぐる。
……ん? 痛くない?
恐る恐る目を開ければ漆黒の毛が目に入った。柔らかなそれは、私の身体を優しく包み込んでいる。その向こう側に、見えたのはどこか潤んだマラカイトの瞳。
「…………羽琉?」
「怪我ない? 大丈夫?」
心配そうな声に私は茫然と頷く。それからハッと気がついた。ここ、学校じゃない!?
獣姿の羽琉。どこから狼にはっていたのかは分からないけど、この状況はものすごくまずい。羽琉だって気付かれる前に逃げなくては!!
「羽琉! 走って」
私の切羽詰まった声に、羽琉は従順に従った。私を背に乗せ、疾風の如く校舎を抜ける。やがて裏庭の茂みの奥へと私たちは隠れた。
地面に両足が着いた瞬間、ドッと疲れが私の身に押し寄せる。つ、疲れた。死ぬかもしれないと思ったし、羽琉は狼になってるし。
そっと羽琉を見れば大人しくお座りをして私のことを見ていた。だけど尻尾はしょんぼりと下がっている。それだけで羽琉を驚かせたことに気付いた。
「……助けてくれてありがとう」
「びっくりした。詩織が階段から落ちてくるんだもん。びっくしりして俺、変身しちゃったよ」
「うん。羽琉のおかげで怪我しなかったよ」
そう言って手を伸ばせば羽琉が鼻面を押しつけてくる。手のひらをペロリと舐めて、ホッとしたような雰囲気が伝わってきた。
それから羽琉は顔を口元に寄せてくる。ちょっと。近いんじゃない? 思わず顔を背けるけど、羽琉は顔を近づけるのを止めない。
「なに?」
「チューして」
マラカイトの瞳が私をまっすぐに見つめる。この状況で? っていうか羽琉の服はどこに? このままじゃあ羽琉が元に戻ったら全裸になっちゃうんだけど。
だけど羽琉はキスすることを強要する。いや、強要はしないけど瞳は雄弁に語っている。だから私は思わず長年の疑問をぶつけることにしてみた。
「ねぇ、なんで私なの? 他の女の子がキスしてもいいんじゃない?」
羽琉だったら相手には困らないだろう。まぁ、その前に狼になることを説明して納得してくれないとなんだけどね。
私の素朴な疑問に対して羽琉ははっきりと「詩織じゃなきゃ駄目だよ」と言った。その断言にちょっとだけムッとする。
「なんでよ」
「好きなのは詩織だけだもん」
「……は?」
なんで今、好きとかそういう話になる? そんなこと話してたっけ?
思わず羽琉を見れば彼は普通の顔。どうやら本気らしい。さっぱり意味が分からん。混乱している私に気がついたのか、羽琉は小さく首を傾げる。
「あれ? 話したことなかったけ?」
「ない!」
「狼化を解くにはね、好きな異性からキスされる必要があるんだよ」
「……は?」
「ほら、あれと一緒。カエルになった王子さまがお姫様のキスで元に戻るやつ」
いや、それはどうなんだろう。心の中で突っ込んだが、頭は大混乱だ。
好きな異性? つまり好きな人じゃないと狼化は解けないってこと? それじゃあ羽琉は――。
「だからずっと好きだって言ってるじゃないか」
すぐ耳元で声がした。驚いて振り返れば、すぐそばに羽琉の顔。だって羽琉は小さいころからよく私に好きって言っていて、それに深い意味なんてないはずで……。
羽琉の顔が近づいて、長い舌が私の口元をぺろりと舐める。だけど私はただただ固まるばかりだ。
「うーん。やっぱりこの姿じゃあそんなに反応なしか」
困ったような顔をしながら何度もぺろぺろ舐める。さすがにくすぐったくなってきて顔を逸らした。
そう言えばこれって深く考えてなかったけど、人間羽琉で考えたらキスしてることになるよね。そう考えて、私は真っ赤になった。
わ、私のバカ! 今さらそんなことに気がつくなんて! 口をパクパクさせながらまるで茹でタコみたいな私を、羽琉が不思議そうに見る。
「詩織? チューして?」
「む、むり!!」
気がついちゃったら平気な顔をしてキスなんてできなくなっちゃた。そう言って思いっきり首を横に振ったら羽琉は目を丸くして、それからなぜか嬉しそうに尻尾を振った。
「そっか。でも詩織がチューしてくれなきゃ元に戻れない。俺、詩織を抱っこしたい」
「っ!!!」
この男、本当にタチが悪い。彫像のように固まる私の口元に羽琉が素早く口を寄せた。とたんに狼の姿は目の前から消え、そこに人間の――真っ裸の羽琉が姿を現す。
羽琉はにっこり笑って私の方に両手を伸ばした。羽琉の手が私の髪の中へと差し込まれる。その指先が私の耳の裏を撫で、その感触に肌が粟立った。
「詩織、大好きだよ」
「っ、」
「今までも、もちろんこれからもね」
羽琉は私のキスでしか元に戻らない。そして羽琉は他の人を好きになるつもりはないらしかった。
目の前には惚れ惚れするほど整った顔。その顔には今、とろけそうなほど甘い笑顔が浮かんでいた。
「逃がさないよ。――絶対ね」
私はとんでもない獣に掴まってしまったようだ。思わず我が身を嘆く。
あぁ、でもその前に。
お願いだから服、着てください……。
―END―
今回は「大神くんは狼くん。」を読んで下さりありがとうございます。
……はい。題名からわかるように安易な妄想から出来上がった作品です。思いがけず長くなりましたが……。
張り切っていろんな設定を作りましたが、出番はありませんでした(笑)
続きはあるのか。慈雨にも分かりません。
誤字脱字・質問などありましたら遠慮なく書き込んでください。
*藤咲慈雨*