8月のむこうがわ
ちとせ先生は、わたしくらいの頃何になりたかった?」
そう彼女に聞かれたのは、6月も半ばをすぎた雨の日だった。
「どうしたの?いきなりそんなこと聞くなんて。」
いつものように嗅ぎなれてしまった消毒液の匂いが立ち込める、田舎町の基地の医務室で私は注射器にいつもの薬品を吸入しながら、いつも通りの業務をこなしていた。昼だというのに、ゆっくりと気だるさを誘う雨は、いまだ止む気配を見せることはない。ニュースによれば、この先一週間はずっと同じような天気が続くらしい。
いざ、この梅雨があければ夏は暑いだ日差しは強いわと自分でも文句が出ることはわかっていたけれど、それでもここしばらくお目にかかっていないお天道様の顔を早く見たかった。
そっと机の上の写真立てを伏せてから、私はこの医務室に備え付けの黒革の回転椅子をまわしながら座る少女の腕をとる。
「井上のおっちゃんがね、昔はパティシエになりたかったって訓練中に言ってたの。先生、パティシエってなに?」
「さっちゃん、井上のおっちゃんだなんて言っちゃだめよ。井上教官でしょう?」
私はそうたしなめると、いつものように彼女の細い腕に浮かぶ静脈に針を埋める。そして注射器の中の青くてどろりとした液体が、血管に入っていくのを見届けた。
「パティシエってね、お菓子を作る職人さんのことよ。先生の従姉妹のお姉さんが、そうだったわ。」
井上教官は、一見いかつい容貌をした大男だ。教え子達への接し方は厳しくもあったが、生来子ども好きな性格で優しさも持ち合わせており、慕われていた。そんな彼がパティシエとは意外といっては意外だが、以前クッキーを調理室で焼いていたことを思い出した。
「お菓子作るひとなんだ。先生はやっぱ物知りだね!うちの部隊はみんな知らなかったのに。」
彼女と彼女の部隊の子どもたちは、みな余計な知識を与えられることはない。
生きて戦って、死ぬための事しか、知らない。
「お菓子、次はいつ食べられるかな?先生知ってる?」
いつかしらね、と私は微笑んではぐらかすことにした。その日はなるべく来ないほうがいいから。
彼女たちが、たまに食べることができるお菓子は、井上がこっそりと上層部の人間の目を盗んで与えるもので、それは大抵、多くの子どもが戻ってこれないであろう任務の前の日に作られる。本当ならば、子供たちの体調を管理すべき立場として自分は止めるべきなのだろうが、黙認している。
私が医大を卒業した日に、都内でも有名な洋菓子店に勤めていた従姉妹がお祝いに焼いてくれたレアチーズケーキの味を、ふと思い出した。
「きっと、ちーちゃんはお爺ちゃんに負けないくらい立派な医者になれるよ」と励ましてくれた従姉妹は、それから一年してから始まった戦争に巻き込まれる形で亡くなった。もうすぐ、自分のお店が持てるのと喜んでいたのに。
あれから私は、甘いものを口にしていない。
それは多分、祖父が亡くなったあと、両親のいない私を働き詰めで育ててくれた従姉妹との、幸せな記憶を思い出すからという理由だけでなく、厳密な体調管理と食事制限のせいで殆ど甘いものが食べられない少年少女たちへの、せめてもの贖罪かもしれなかった。
「先生、先生も、パティシエになりたかった?」
度々注入される薬品で色が変わった、紫色の瞳で無邪気に少女が覗き込む。
「先生はね、小さいころからお医者さんになりたかったの。先生のお爺ちゃんがお医者さんでね、同じように病気で困ってる人を助けてあげたかったから。」
「わあ!じゃあ先生は自分の夢を叶えたってこと?すごーいっ!」
「確かにそうなるね。」
祖父は、誰からも尊敬される立派な医者だった。富にも名声にも目を向けず、寝る間さえ惜しみその手で何千何万という人を救い続けた。そして、自分の身を不治の蝕まれても自らの命を削りながら、一人でも多くの人を治し死んでいった。
まだ幼いころに亡くなったけれど、その後ろ姿は目に焼き付いている。
あんなふうに、自分もなりたい。
そんな自分を苦労して医大に生かせてくれた従姉妹には、感謝してもしたりなかった。
「あのね、わたしはちとせ先生みたいなお医者さんになりたいなっ。」
きらきらと瞳を輝かせて、少女は言った。
「先生は、私たちの怪我を治したり、いろんなお話してくれたり、聞いたりしてくれる。まるで魔法使いみたい。とってもこわいとこに行ってもね、はやく先生に会いたいねってみんなと話すの。わたしも、大人になったらそういうことができる人になりたい!・・・私なんかじゃだめかな?」
違う、私はそんな人じゃないの。
私は
私は…
「先生、お医者さんには、私もいっぱい勉強すればなれるかな?」
あふれ出しそうな思いを押さえ、今できる精一杯の笑顔を形作る。
「さっちゃんなら、きっと素敵なお医者さんになれるわよ。私よりも、もっと!」
「じゃあ、またね先生!」
手を大きく振りながら、少女は医務室を出ていく。少女が見えなくなるまで見送ったあと、机の上の、先ほど伏せた写真立てを元に戻す。そこには、大学の卒業の日に校門の前で撮った、満面の笑みを浮かべる自分と従姉妹の姿が写っていた。その微笑みに、自分の卑怯でエゴにまみれた所業を見せてしまうことが、たまらなく嫌だった。
ごめんなさい、私はお爺ちゃんのような医者にはなれなかった…
かつての人を助けようと希望に満ち溢れていた自分はもういない。従姉が死んでからまもなく、自分に召集令状が来た。大学時代に取り組んだ、薬物と催眠療法による肉体強化の研究が防衛庁の目にとまり、私は軍医として自衛軍の一員となった。戦う術を知らない 私が、従姉妹の敵討ちをすることへの力となるのだと、意気込んだ。
しかし、いま私がしていることは、何も罪もなく疑うことすら知らない子供たちを実験体にして劇薬を打ち、人体改造を施してから、得体も知れない兵器にのせて戦場に送り出すことだった。この国の人々を守るためだと自分に言い聞かせながら、間接的に幾人の未来があったはずの子供たちの命を奪った。
私の、人を救うために使おうとした手は、本来の目標のために使われることはなく、いつしかすっかり汚れてしまっていた。いや、汚れてしまったのは手だけなんかじゃない。
「ごめんなさい…」
私よりも素敵なお医者さんになれるという言葉には、嘘も偽りもなかった。
しかし、きっとさっちゃんは大人になることも医者になることもなく戦場で死ぬだろう。そして、それにはまぎれもなく自分も携わっている。
「ごめん…なさい…」
それは、死んでいった子供たちへの言葉なのか、祖父のような医者になると信じて、自分を応援してくれた従姉妹への謝罪なのか。それとも、かつて未来への希望にみちあふれていた自分に対してなのかさえ、わからなかった。
雨は一向に止む気配をみせず、結局その日も太陽が顔をのぞかせることはなかった。
調理室から、甘いお菓子の焼ける匂いがしたのはその日から3日後のことだった。それから梅雨があけて眩しい日差しが医務室にさしこむようになっても、医者になることを夢見た少女が私の前に姿を現すことは、もうなかった。
8月も半ばを過ぎた頃、今日も色の青さを増したこの基地の空に幾つもの飛行機雲が浮かび上がった。
その飛行機雲のことを、この基地の人々は「天使雲」と呼んでいる。あの少女と同じ境遇の子供たちが乗る戦闘機が織り成す、まっすぐな白いライン。
今回は何人戻ってこれるのだろうか。その雲の先に、子供たちの一人一人の顔を思い浮かべようとする。生きている子供たち。戦いで、あるいは薬に耐え切れず緑色の泡を体中の穴という穴から出して死んでいった死んだ子供たち。
うそつき。ちとせ先生の、うそつき。
窓越しにかすかに聞こえるツクツクボウシの声に混じり、鈴を転がすような、子供特有の甲高い声がした。怒るでもなく、ただ真実を告げるその言葉は、自責の念が生み出すただの空耳だ。
わたし、死んじゃった。大人になれないまま死んじゃった。お医者さんになれるだなんて、うそついて、そうしてまた他の子にもうそついて、そうして先生は生きていくのね。
そうね。ごめんね。私には他の生きかたはもう出来ないの。いままでみたいに、これからも大勢の人を助けるという理由をつけて人を犠牲にして、自分も生きていくしか出来ないわ。
響くのは、かつて「さっちゃん」とよばれた少女の声。夏の空を見ることもなく、この世のどこかで死んだ、あの子。
自分が死にたくないからって、代わりに他の人を殺すんだ。ひどいね。それを先生は、自分が死ぬまで続けるんだぁ。あはははははははははははははは人殺しあはははははははは!私とは違う人殺し!あははははは・・・
いくらでも罵ってほしかった。誰にでもいいから。誰も自分を責めようとしないから。あなたは世界の大勢の人々を救う立派な仕事をしていると、共犯者たちは口々に慰めることしかしない。大勢のために誰かが死ねばいいなんて、そんなことは個人としても医者としても思ったことはないけれど、その想いを許してくれるような時代ではなかった。
・・・ごめんなさい・・・。
いつのまにか天使雲は薄くなり、ただの夏空へと姿を変えて行く。きっと幾人かいなくなる子供たちの補充をしなければならない。写真立てを伏せてから左端をクリップでとめてある分厚い書類をめくり、新たな候補者たちの面子をチェックしはじめた。
消毒液の匂いに麻痺した鼻が砂糖菓子の匂いを嗅ぎ取ったのは、それからまた数日後のことだった。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。なんだか明るいライトノベルちっくでロボットが出てきたりする短編を書こうと思ったら、気が付いたらこんな暗い話になっていました。毎度のことながら当初より斜め45度左下を行く作品となりました…。この話は、自分が大人になるにつれて守らざるを得ない「エゴ」と、それの犠牲になる弱者(この作品では子供)を書いてみたつもりです。
最初、子供たちが乗る戦闘機がガ●ダムだったのは私だけの秘密です。