魔王様は得意げ
【プロローグ. 勇者レオンの証言】
ようやくたどり着いた魔王城には暗雲が立ち込めていた。
目の前には、いかにも強者といった風情の鎧姿の男が両手に剣を携え立ちはだかっている。
「よくぞここまで辿り着いたな勇者一行よ」
「剣聖……いや、四天王エストック……っ! 今ここで、あの時の雪辱を晴らさせてもらうぞ!」
「ははは! 威勢がよいよい」
かつて王国で剣聖と称えられた目の前の男。
男が魔族であり、魔王率いる魔王軍の四天王の一人だと知れたとき、俺たちパーティーは奴を相手にまるで歯が立たなかった。
当時はまるで弄ぶように翻弄され、辛うじて民をその場から逃がすだけで精一杯だった。
口の中に苦く広がるそんな記憶を飲み下し、俺は今目の前にいる男を睨み据える。
あれから乗り越えてきた数々の苦難、試練、そして築いてきたパーティーの仲間たちとの絆。
今こそかつての剣聖を打ち倒し、打倒魔王を果たすときだ!
「かかってこい勇者よ!」
「―――行くぞみんな!!」
「「「おう!」」」
俺の呼び声に仲間たちが一斉に声をあげ、攻撃に動き出す。
盾使いのガレスが大盾を構えて前へ出ると、魔法使いのリリアと聖法師のレミナが詠唱を開始。
四天王エストックは構えもせずにそれを待ち受けている。
その顔には余裕の表情が浮かんでいた。
戦闘は苛烈を極めた。
こちらに人数の有利があるはずなのに、エストックの剣技はそれを軽く超えていってみせる。
しかし、負けるわけにはいかない!
ガレスが盾越しに寄越した目配せに、俺は頷き、前を向いた。
エストックが剣のひと振りひと振りを斬撃波に変えて放ってくる。
幾重にも切り刻まんとするその刃の攻撃を、ガレスが前に出ることで防いだ。
「『シールドバニッシュ』!!」
ガレスがスキルを発動するのと同時、詠唱をすでに済ませていたレミナが強力な魔力を込めた補助魔法を俺へと行使した。
体を光が包み、力とスピードが一気に強化されたのが分かる。
今だ。
地を蹴り、ぐん、と一足跳びにエストックへ向かって距離を詰める俺にエストックが再び剣を振ろうとするが、リリアの炎の矢がそんな反撃の隙を潰した。
「おおおおお!! レオン今だ! やれ!!」
横方向からガレスが大盾を前面にエストックへと肉薄しながら叫ぶ。
剣ではさばけない盾をもろに受け止める形になったエストックの顔に、初めて焦燥の色が浮かんだ。
「くっ」
「オオオオオオオオオオッ!」
動きの止まったエストックへ、振り上げた大剣を、渾身の力で振るった。
かつての剣聖の、血の色のように赤い目が、驚きに見開かれ―――。
「え!? どうしてここに!?」
ズシャッ!
断ち切る。
大剣が、エストックの上体を袈裟懸けに切り裂いた。
鎧を割り、肉を切る感触。
驚愕に顔を染め、あらぬ方向を向いて、目を見開いたエストックの、無防備になったその上体を、思いっ切り。
とことことこ。
ちょこん。
「……」
「……」
じーーー。
「……」
「……」
じーーーーーーー。
「……」
「……」
……こちらを見ていた。
エストックが驚きに目を見開き見ていた視線の先。
この場に決して似つかわしくない、小さな子どもが、一人。
こちらを見ていた。
奥へと続く通路からやってきたその子は、二、三歳くらいだろうか。
ちょこんとしゃがんで頬杖をついてこちらを見ている。
この世界のどんな汚なさもまだ知らないだろう無垢な女の子の瞳が、たった今無防備な魔族を一方的に切り裂いた俺を、一心に見ていた。
「……あの、これは……」
じーーー。
長いまつげを携えたその一対の目の、その視線が痛かった。
その目が魔族の特徴である血のような赤色をしていようが、子ども特有の曇りなき眼に違いはない。
俺も、盾を構えたままのガレスも、詠唱を忘れて立ち尽くすミレナも、リリアも。
小さな頭に、ヤギのような二本ヅノをちょこんと生やした魔族の少女から視線を逸らせないまま、時が止まったように何もできずにいる。
((((き、気まずい……!))))
全員の内心が一致していた。
こんな殺傷沙汰など、子どもに見せたいものではない。
ましてや、子どもの登場で明らかに集中を欠いた相手の隙をついて、全力の一撃を当ててしまった。
不可抗力だが、少女からどんな風に見えているのかを想像したくない。心が痛い。痛すぎる。
どうすることもできず時間が過ぎようとしていたとき、そんな状況に助け舟を出したのは思わぬ人物だった。
俺に切られ、息絶えたかに思えたエストックだ。
息も絶え絶えに、口を開く。
「フフ……、俺は、四天王の中で、最弱……」
倒れ伏してなお満足そうに笑った男は、勝負に負けて死ぬことを恐れてはいないようだった。
奴らしい。
もし別の形で出会っていたならと、そんな風に思う男の最期の言葉を聞き届けるため、俺達は意識を少女から男へと移した。
掠れた声が、言葉を紡ぐ。
「他の四天王は、悔しいことだが、俺より強い⋯⋯」
「……」
「いずれお前たちの前に立ちはだかり、超えるべき壁となるだろう……」
「……」
まるでこの先の未来を予言するようなエストックの言葉。
「そして、そんな四天王よりも、魔王様の腹心はさらに強い……」
「……」
「さらにさらに、魔王様はそんな腹心よりも何段も、格段に上のお強さを、お持ちなのだ……! フフ、フハハ……」
「な、何を笑っている!?」
エストックの話が妙な方向に舵を切り始めている。
一体何をと、困惑する俺たちには構わず、エストックは「お前たちも一度知っておくといいぞ……!」などと言って笑い続ける。
―――俺たちの耳に、声が届いた。
鈴が鳴るような可憐な声だった。
『なあ、えすとっく』
あどけない舌足らずな声に、リーンと、耳鳴りの様な音が混じる。
それは、言葉の主が無意識のうちに放つ魔力の残渣だったのだろう。
背を走る悪寒に、俺はすぐさま視線を声の方向へと向けた。
先ほどまでちょこんと座ってこちらを観察していた少女が、今は立ち上がってこちらを真っすぐに見ていた。
『てき?』
小さな口が開き、わずかに見えた隙間から舌の赤が覗く。
少女の瞳には、深淵のように暗い闇が渦巻いていた。
視界の端、エストックの笑みが一層深まるのが理解った。
「はい、敵に、ございます……! 魔王様!!」
まずい、と、思う間もなかった。
走ったのは閃光、
爆発、
衝撃派。
真っ白に染まる視界は、絶望の色をしていた。
───────……
─────……
目覚めた時、自分はなぜ生きているのかと、それが不思議だった。
徐々に意識がはっきりしてくると、いざ魔王城へと乗り込んでくる前、最後の街で全財産を切って身代わりの護符を買い込んだおかげかと合点がいく。
あまりの非常識を前に、頭は妙に冴えていた。
あれだけ広く頑強に見ていてたはずの城の広間は酷い有様だ。
俺たちの背後の壁は崩れ、半壊している。
身に着けた防具や体から黒い煙が燻りながら上っているが、まるで他人事のように現実味がなかった。
王国から借り受けた業物の大剣は間違いなくこの右手にあるものの、先端から半分ほどは高温に溶かされ、残った断面が赤く熱を帯びるのみ。
希少なオリハルコン製の黒光りしていた鎧も、今やただの黒い煤に変わって風に吹かれていた。
「みんな……生きてるか……」
掠れた声で、それを口にできたのはほとんど無意識だった。
近くから、蚊の鳴くような声で無事を知らせる声がして、そこでやっと仲間みんなが声の届く範囲にいることを知る。
それでも、仲間の無事の姿を確認しようとは、今目の前のものから視線を逸らそうとは、思えなかった。
―――一時でも目を離せば、今度こそ殺されると、そう確信できるほどの強大な存在から、意識をそらせるわけがない。
「おやつの時間でございます」
「おやつ!」
俺たちをこんな風にした張本人である少女へ、いつの間にか現れた黒の燕尾服姿の男が何やら話しかけていた。
少女は男の言葉に機嫌をよくしたようで一気に表情を明るくさせると、もう死に体の俺たちには興味がなくなったのか、男の元へ駆けていく。
「さあ、参りましょう」
「ばると! だっこ!」
「承知いたしました」
燕尾服の男が折り目正しく伸びた背と整った振る舞いで少女へと歩み寄ると、少女が両手を広げて見せていた。
声が聞こえなくともだっこしろと言っているのが分かる子どもらしいその動作に、男は微笑むでもなく細身の体躯にしては似つかわしくない安定感で片手で少女をすくい、抱え上げる。
抱き上げられたのが嬉しいのか、距離の近づいた男の顔をじっと覗き込んだ少女の顔が、満足げな笑顔に変わる。
ふんすと鼻を鳴らしたのが離れた位置からでも分かった。
子どもらしい仕草、輝きを宿す瞳。
先ほどまでそこにあったはずの、深い深い沼を思わせる底知れなさはもう少女のどこにも見つからなかった。
一瞬だけ、見間違えたかと思うような短い時間だけ、少女のそんな目と、目と目が合った。
“いいでしょ”
まるで抱っこを羨ましいだろとでも言うような、いたずらな子どもの顔でこちらを見た少女は、もう二度とこちらを見ることはなく、燕尾服姿の男の抱っこを堪能し始める。
そんな少女を燕尾服の男はただ淡々と相手をしながら、一歩ずつ歩みを進めて通路の奥へと消えて行ったのだった。
「……」
「……」
「……」
「……」
仲間たち三人との間に落ちた沈黙は、それぞれの内心を雄弁に語っていた。
きっと同じだろうそれを。
「護符が足りたのか……。絶対に死んだと思った」
最初に口を開いたのは盾使いのガレスだった。
パーティーで唯一俺より年上の男の、強がりのような苦笑交じりのその声は、長く止まっていたようだった俺たちの時間を解かし始める。
「……ほんの何枚かだけ。そう、それだけよ。ラッキ ー⋯⋯」
「……死んだ、何十回。レオンの心配症、もう馬鹿にしない、買っておいて正解」
「……もっと褒めてくれ」
ぽつり、ぽつりと、妙な間を開けながら、それでもいつもの仲間たちらしい言葉が続いた。
各々が満身創痍の体を小さく揺らし、みんなで笑う。
意味もなく。
清々しく。
「―――――故郷に帰ろうか」
あれには敵わない、と。
誰が言った言葉だったのかは知れない。
それが、勇者と呼ばれた一行の、長い旅の終わりだった。
◇ ◇ ◇
【case.1 魔王執務室付き秘書官ナジムの証言】
秘書官である俺は、突然執務室を出て行った上司の後を追うべく、城の通路を進んでいた。
聞こえてきたのはこの城におけるナンバーツーの冷静沈着な声だ。
「アステリオン様。おやつの時間でございます」
そんな声の方向へと向かえば、そこにはたしかに俺の上司の姿があった。
規律正しさを示すように皺ひとつない燕尾服姿の細身の男。
そんな御方の向こう側は、惨憺たるものだ。
城へ入ってすぐの大広間だったそこが、今は破壊の限りを尽くされたように、床がえぐれ、壁のあちこちが崩落しかかっているのが見える。
「おやつ!」
振り返るなり上げられたのは、疑うものなど何もないと言わんばかりの純粋無垢なかわいらしい声。
大好きなおやつと聞いて跳ねるように語尾を上げたその声の主は、どう見ても二、三歳にしか見えない少女だ。
燕尾服姿の男―――俺の上司であるヴァルト様に向かって、少女はまだ短い手足でタッタと駆け寄る。
それから、小さい体をいっぱいに広げて見せて、ヴァルト様へと抱っこをせがんで見せた。
ヴァルト様もそれに応えるべく、細い体躯を折り曲げてひょいと抱え上げてやっている。
抱っこをされた少女の、いかにも満足というように笑んだ顔が周囲を見渡し、俺の方にも向いた。
コクリと目礼して見せると、そうだろうと言わんばかりにその笑顔が深くなる。
はい、ようございました。
「まいりましょう、アステリオン様」
「ちがう! あすてる!」
「じっとしてください、アステリオン様」
「あすてるだもんんん!! さまも! いらないのにぃ!」
ヴァルト様が歩き始めると、一転、先ほどまで大人しかったのが嘘のように少女が腕の中でやだやだし始めるが、ヴァルト様は気にした様子もなく歩みを進めていく。
俺は廊下の端に寄ってヴァルト様たちを先にお通しし、それから後に続くために踵を返した。
返そう、としたところで、広間の瓦礫の中に大男の姿を見つけて足を止める。
充足感一杯で頬を紅潮させボロボロで転がっている大男は、四天王エストック様だ。
ああ、先ほどの騒ぎと轟音の正体はこの剣バカか、と合点がいく。
それから、この半壊した広間の理由にも検討がついた。
「さては魔王様の魔法が見たくなったな、あの戦闘狂め……」
一人呟くものの時すでに遅く、先ほどすでにヴァルト様が回復魔術を飛ばした後だったようで、エストック様は転がしたままでも死なないようだというのが分かる。
さらにその奥、プスプスと黒煙を上げるコミカルなアフロ姿の人間たちも同様に命に別状はなさそうで、いずれ気力が戻れば勝手に帰るだろうと揃って放っておくことにした。
さてと、俺は上司たちに置いて行かれてはたまらないと、さっさと広間を後にするのだった。
◇ ◇ ◇
戻ってきた執務室で、ヴァルト様は抱えていた小さな体を床へと離した。
腕から離れた途端に小さな体がタッタッタッとテーブルに向かって駆けていき、椅子をよじ登る。
「アステリオン様、ご用意ができるまでしばしお待ちを」
「あすてる!」
「……アステル様、お利口にお待ちください」
「っ! うむ! まかせろ!」
尊大な態度で大きく頷いて見せた小さな少女。
この少女こそが、何を隠そう俺の上司であり、この魔界の覇者である魔王アステリオン様その人だ。
平民だった俺の固有スキルを見いだしてくださり、執務室付きの秘書官にしてくださった魔王アステリオン様と、その腹心のヴァルト様。
ここで働くようになって幾年月、こうして執務室でおやつの時間を楽しみにされる最強の魔王アステリオン様の姿にはまだ慣れない。
部屋の隅で黙って控えながらそんな事を考えていると、ヴァルト様が燕尾服を一切乱すことなく翻しながら戻ってきた。
魔界で魔王様に次いで二番目に強く、恐怖の象徴たるこの方が、手におやつや飲み物の乗ったトレイを持っているのも、それを自ら少女へと給仕してやっているのも、どれほど経ったとしても見慣れることはないだろう。
「本日のおやつは、今朝捕れたばかりの北部の濃魔牛のミルクと、爆裂ナッツを使用したクッキーでございます」
「やぎのみるくとかかおのかしがよかった」
「……早急にご用意いたしますので、もう少々お待ちください」
ヴァルト様の完璧なこしらえを、一言でひっくり返す。
さすが魔王様。
慈悲がない。
「⋯⋯ナジム、厨房へすぐさま手配を」
「はい」
そしてこちらへ振り返ったヴァルト様の額に青筋。
あわわ、顔こっわ⋯⋯。
ブチ切れお遊ばしていらっしゃっても、表情と声色だけは笑顔という器用な状態でこちらへ指示を出されるヴァルト様。
絶対君主であったアステリオン様がお子さまとなられて以降、ヴァルト様はこうして忠臣たらんとする姿勢と、どうやら苦手らしい子ども相手の苛立ちとで時折振り回されていらっしゃる。
身震いしそうな悪鬼の如き形相をなんとか平常心で見なかったふりをした俺は、さっさと固有スキルを発動させた。
現れるのは二頭の獣。
リスと小鳥の姿を魔力で模った魔獣だ。
俺の持つ固有スキルで、魔獣に伝言を伝えて厨房へと走らせる。
ヤギの乳はすぐには用意がないかもしれないと、念のため追加でもう一頭鳥型を出して城の敷地内にある牧場へも飛ばしておく。
間もなくすれば、優秀な城勤めの面々改めヴァルト様のブチ切れが怖い同僚たちの華麗な連携によって、魔王様ご所望の菓子とミルクは届けられることだろう。
―――魔界の成立から八億飛んで八百と八十八年。
今から数十年前のその年、新しき魔王アステリオン様の即位はあまりに鮮烈だった。
『強い者こそ正義』
そんな完全実力主義が根幹にありながら、魔界は長い歴史の中で優れた血統を繋ぐ上流貴族のための社会になりつつあった。
そんな折に、次期魔王と目されていた並み居る貴族たちを蹴散らし、蹂躙し、その類まれなる魔力、武力、実力で魔界全土を完膚なきまでに屈服させ誕生した魔王、それがアステリオン様だ。
先代魔王が密かに養い育てていた彼女は、次代の魔王を決める儀式が始まるその瞬間まで、その化け物じみた強さを誰にも知られずにいた。
女の身で、若く、血統もなく、それでも圧倒的かつ絶対的な力で頂点に立った彼女の姿は猛々しく美しく、そんな彼女は即位してからずっと魔界中からの憧憬の的だった。
彼女の治世こそが魔界の長い歴史の中で最も平和なのだと、そう言われるような時代が確かにあった。
「なあ、なじむぅ」
「はい、魔王様」
菓子とミルクの用意ができたと、扉の外から合図があったのをヴァルト様が自ら対応に出られたタイミングで、そんなヴァルト様の背から視線を外さない少女がこちらへこっそり話しかけてくる。
潜められたその声に、俺も小さな声で返した。
「さっき、あすてるって、よばれたな」
へらっと、緩められた顔のなんと嬉しそうなこと。
俺はというと、つい柄にもなく口角を上げてしまいながら「さようですね」と応えるのだった。
「お待たせいたしました。搾りたてのヤギ乳と禍禍嗚のトリュフでございます」
「わーい! うえ、このみるくぬるいぃ」
「……モウシワケゴザイマセン」
再びヴァルト様が自ら給仕されるのを眺めながら俺は、小さなこの方の、小さなわがままが通って嬉しそうに笑うこの方の、これからの幸せを願わずにはいられないのだ。
鮮烈なデビューとともに魔界の頂点となった、今なおもって俺の記憶に焼き付いた恐ろしくも麗しい彼の方の姿が今ここにはなかろうと。
力でねじ伏せ、実力で黙らせる、そんな魔族たちから畏敬を集める存在が今ここにはなかろうと。
―――全ては、先代魔王が遺した呪いで、魔王アステリオン様が子ども返りをしてから変わってしまったのだから。
◇ ◇ ◇
【case.2 世話係の新人メイドの証言】
「―――南へと向かわせていた部隊は無事に任務を終え帰路へ。西の水害は現場の働きも目覚ましく、間もなく収束する模様です」
「分かりました。ご苦労」
「はい」
魔王アステリオン様がおやつタイムを堪能される最中、秘書官様が魔界全土へと放った獣に集めさせた情報をご報告中。
もちろんご報告のお相手は魔王アステリオン様―――ではなく、魔王様の腹心であられるヴァルト様です!
知性漂う涼しげな顔立ちに、均整の取れた細身の麗人。
銀糸を思わせる髪は高位貴族の証です!
この魔界で魔王様に次いで地位の高いヴァルト様は、魔族らしい残忍さと冷静さを併せ持つ誰からも一目置かれる御方。
何よりも、先代魔王様の時代には次期魔王様の最有力候補だったというその実力!
強さ! そう、強さこそ全て!
魔族は強いものに目がないのです!
「なーばるとーぉ。りすさんさあ、おめめすごいなあー、ぴかーってさあー」
「ナジムの獣が映すのは遠方の地の現在の様子です。アステル様もご覧になりますか」
「いらない。りすさんすごいよね、かわいいよねえ」
「……」
いつも冷静で冷たい雰囲気を漂わせた方が子守りをされている姿は、なんというか、こう、大きな声ではいえないですが微笑ましいですよね……!
魔王様が子どもになられたのは、今からひと月ほど前のことです。
それからというもの、急遽、子守り役に雇い入れられた私のようなメイドたちをも差し置いて、ヴァルト様はいつ何時も、誰よりも一番に魔王様のおそばで仕えていらっしゃいます。
いつかはこの光景が見慣れたものになるのでしょうか。
今は違和感しかないんですけど……。
今からひと月前、年に一度の復活祭の日に魔王様を襲ったのは、先代魔王様による“呪い”でした。
祭りの最中、大衆の前で魔王様が子どもの姿になったことはすぐに魔界中が知ることになりました。
魔王様の子守りメイドとして働くにあたって教育係から知らされた内容によれば、大昔、旧き魔王が新しき魔王に呪いを施すというのはままあったできごとだそうです。
ようは、大昔、喧嘩して魔王を決めていたような時代に、倒された魔王が勝って王座を奪っていく相手に嫌がらせの呪いをかけていたと。
つまりは、負け惜しみの最後っ屁といったところでしょうか。
そんな過去の遺物であり、すっかり廃れて久しかったそれを、なぜ魔王となったアステリオン様の養父だったはずの先代魔王様が施されたのかは、城の偉い人たちにも分からないそうです。
ただ、その呪いは、魔王アステリオン様の即位から数十年後、先代魔王様の死の翌年の復活祭に発動してしまいました。
魔王アステリオン様は幼児化したところでその力は衰え知らずでしたので、今のところこれといった混乱はありません。
もしかしたら力も退化していらっしゃるのかもしれませんが、元より隔絶しすぎたお強さだったので、誤差の範囲といいますか……。
つまり、問題ありません!
ありません! が、このままというわけにもいかないでしょう。
戦闘民族である魔族ですから魔王様が小さくなったと聞いてじゃあ力試しをという戦い好きは後を絶たないですし(その都度四天王の方々が相手して黙らせているとか)、面倒がないように魔王様が元のお姿に戻られるには、先代魔王様の呪いを解くしかないものの、その方法もまだ謎のままです。
【弱さを知りなさい。そして強き王に成りなさい】
先代魔王様が遺したとされる最期の言葉。
歴代最強である魔王アステリオン様に弱さとは、私などでは皆目見当もつきません。
城の研究者の方々や、元のお姿の魔王様の一番の信奉者であったヴァルト様もなんとか魔王様が元に戻るための方法を探しているようですが、今はまだその目途は立たないみたいです。
「なあ、ばるとー。ばるとも、りすさんのやつ、おめめからぴかーってさあ、だせる?」
「出せません」
「だして! だしてほしいぃ!!」
「……善処いたします」
秘書官様の能力で生み出された魔獣が空中に像を映しているのをいたく気に入られたご様子の小さき魔王様が、ヴァルト様にもやってとお願いしています。
あれは秘書官様のように魔獣を出してほしいという意味ではなく、リスのほうの、目から映像を出すのをヴァルト様にやってほしいという意味でしょうね?
想像して吹き出しそうになるのを、すんでのところで堪えます。
あ、一見堅物そうな秘書官様もそっと顔を隠して笑ってる。
魔王様が小さくなって侍らせていただくことになった私からすればかわいらしいおねだりだなあと頬が緩むばかりですが、ヴァルト様の表情はといえば複雑そのものといったご様子です。
元より、誰より魔王様の強さや気高さに惚れ込んでいたと噂のヴァルト様。
子ども返りによって、姿だけでなく中身も子どもになった魔王様への対応は、完璧そうに見えるヴァルト様にとっても悩ましく難しいものみたいです。
「光の像を結ぶ投影能力というのは、生まれながらの固有スキルであって……、いえ、それ以前に投影能力自体が魔力体である魔獣だからこそ可能な能力で……」
「ばるとならできるよ! やるまえからあきらめちゃだめ! がんばれ!」
「……ご期待に沿えるよう、精進いたします」
説明をされていたようですが、魔王様への抵抗は無駄と悟られたのか、苦渋の決断かのようにぎゅっと目をつぶって返事をされたヴァルト様。
全幅の信頼というのは時に忠義の臣に重くのしかかるもののようです。
このひと月で、眉間の皺が少しだけ深くなったご様子のヴァルト様。
―――渋いお顔になったヴァルト様も素敵です!
◇ ◇ ◇
【case.3 魔王の腹心ヴァルトの動揺】
「アステル様、食べましたか」
「たべない」
「食べましたね?」
「しらない」
アステル様が幼児化して、早三か月が経った。
アステル様は三か月前からずっと心身ともに幼児そのものになったままで、只今などは、臣下に隠れて菓子を食ったのを誤魔化そうとしらばっくれているところだ。
口周りにはクリームがべったり。
御本人は大真面目にこれを本気で隠し通せると信じているらしい。
この三か月、アステル様に代わって私が政務を取り仕切っているものの、魔界では馴染みの小競り合いや自然災害の他には、何一つ大きな問題は起こっていない。
アステル様を元の御姿へ戻すための手がかりはほんの欠片すらも見つからないというのに、魔界は今日も平穏そのもので、それに知らず苛立ちに似たもどかしい気持ちが募っていく日々を送っている。
「おやつは昼を食べてからにしてくださいと、私はあれだけ言いましたよね」
「……」
「アステル様、食べましたね? それだけ、正直に言いなさい」
「……」
「⋯⋯アステル」
「……食べた」
「初めから正直に言ってください」
「うむ……」
私がアステル様を叱るのも、もう日常茶飯事になってしまった。
小さくなってしまった御方の健康のためとはいえ、仕える主君に物申すという違和感がどうにも勝ってしまい、口を尖らせる姿を見ては毎度いたたまれなくなるのは私のほうだ。
アステル様は小さくなってからというもの、何故か私にアステリオンではなく愛称のアステルと呼ばせたがっている。
こうしてやり取りに強情になられたときにはやむを得ず呼び捨てで呼ぶことすらあるが、胃が痛くなるので他の方法がないものかと手練れの乳母などに聞いて回ったが、『それくらい好きに呼んでやればいい』と真面目に取り合わない者ばかりでお手上げだ。
先日など、やりとりを見ていた秘書官のナジムに『呼び捨てに味をしめている』というようなことを言われ、ますます胃薬が手放せなくなった。
ナジムから見たアステル様がそう見えたという話らしいが、不敬なことを軽々しく言うものではないと諌めるに留めた。
解呪の方法も見つからないまま日々が過ぎていく中、四天王や私、そして何より未だ実力衰えないアステル様が君臨する限り魔界の血の気の多い者たちも好き勝手なことはしない。
であれば、事件らしい事件といえば、今しがたのようなアステル様のつまみ食いだとか、いたずらだとか、そういったようなものだけ。
―――――そんな風に思っていた時期が私にもあった。
アステリオン様がいなくなったらしい。
私が会議に参加するため執務室を離れていた一刻ほどの間に、アステル様の行方が分からくなってしまっていた。
「昼寝をしていたのではないのか」
「は、はい。つい先ほどまで自室のベッドでおやすみになっておりました。それが、一体どこに行ってしまわれたのか……」
もごもごと言い淀む傍付きメイドを見る眼差しが厳しいものになるのが自分でも分かる。
冷静にと思う頭が、それでも言動を制御しきれない。
「専用の部屋付きがその有様とは笑わせる」
「ひぃ!」
無意識だったが、魔力が漏れてしまったのだろう。
うずくまり許しを請うメイドと下り始めた室温に震え出す周囲の者たちには目もくれず、私は秘書官を呼んだ。
「ナジム」
「はい」
ナジムの落ち着き払った様子に、煮えたちそうになっていた怒りの感情が胃の腑に収まり、引いていく。
冷静になってきた頭でアステル様を能力で探すようナジムへ命じれば、既に手配をしているという返事。
優秀な部下がいてくれる事実に、安堵の感情も湧いた。
「城と城下町にはくまなく。城内の移動経路も情報を集めています」
「何か分かったらすぐに知らせろ」
「はい」
分かっているだろうが一言だけ付け加えると、ナジムの肩に残っていた一匹のリスを片手で掴んだ。
そのまま自身の胸ポケットに誘導すれば慣れたようにすんなりとそこに収まる。
いくつかの紋章を揺らして機嫌もよさそうなこのリスは、いつも私とナジムを通信で繋ぐ役をする個体だ。
際限ないと思われるほどにナジムの魔力で生み出される獣たちの見分けは私にはつかないが、こうした専用の役割を持った個体は特別らしい。
今日も緊急事態だというのに危機感のない顔で私の胸のポケットで収まり心地のいい場所を探すこいつがのんびりした性格をしていることは分かる。
いつものことだが、ポケットからはみ出た大きなしっぽが邪魔だ。
絶えず届き続ける情報を集中して集めるため、ナジムが専用の通信室へと入っていくのを見送る。
こんな時だからか、焦っても仕方がないというのに、消えたアステル様の小さな姿が脳裏をよぎった。
突飛な行動に、突然の失踪。
⋯⋯これだから子どもの相手は苦手なんだ。
『チッ』
胸がかき回されるような不快感に思わず悪態が出てしまう。
それが聞こえたのか、去り際のナジムの肩が跳ねたようだった。
アステル様は数刻のうちに見つかった。
私の私室で。
「すや⋯⋯すや⋯⋯」
なぜだ、なぜここにいる!
城中の者たちが探し回っているのも忘れて、しばし呆然と、私の私室の書き物机の下でスヤスヤ眠る子どもの顔を見て立ち尽くしていた。
後に、城の研究者たちの見解によれば、唸るほどの魔力にものを言わせたアステル様が、伝説の転移魔法を使ったのではないかとのこと。
この人の前では施錠されたドアも、棟一つ離れた距離も、施していた結界も、何も関係はないらしい。
魔獣にくまなく探させてもアステル様もアステル様の移動した痕跡すら見つけられなかった中、ナジムからの提案で、私の私物でアステル様をおびき寄せる作戦を提案されたときにはこいつも頭がおかしくなってしまったのではないかと心配したものだった。
それを一応、試す価値ありと思った私も、大概頭がおかしくなっていたのかもしれないが。
しかし私物を取りに戻った先で、施錠された私室の中にアステル様がいれば、やはり優秀な秘書官の判断は正しかったのだと、そういう⋯⋯。
いや、何かが違うな。
混乱もひとしお。
ひとまずアステル様を見つけたことをナジム経由で通達する。
『こちらヴァルトだ。ナジム、アステル様を発見した。私の私室だ』
『やっぱり! あっ⋯⋯』
やっぱりって何だ。
私はぽやりとした顔でこちらを見上げるリスを睨みつけた。
◇ ◇ ◇
目が覚める。朝だ。
城の重鎮の一人である私に用意された部屋は広く、寝台も一人で寝るには余りある広さをしている。
「むにゃむにゃ⋯⋯」
だからといって、ここでアステル様もご一緒に寝るのは何かが間違っていると、私はそう思う。
真っ白なシーツの上、布団を蹴り出して転がっている幼な子を寝起きの頭で見ていた。
「……、もう……、たべられないよう……」
口をむにゃむにゃと動かして何やら寝言を言っている。
あゝよだれ。
ため息をひとつ吐き、寝台横のテーブルから手ぬぐいを取ってベッドへと戻った。
枕へとこぼれそうになっているよだれを口元まできれいに拭ってやる。
その感触にむずがるように顔をしかめたのち、それで意識が浮上したのかアステル様はうとうとと目を開けた。
半分眠ったままのような目で私の顔を確認すると、口を開く。
「⋯⋯やっと、おきたか、ばると⋯⋯」
「はい、貴方様より先に」
「なまいき、な⋯⋯⋯⋯、ぐぅ」
自分で起き上がろうとして頭を右へ左へぐわんぐわんと揺らしながら、寝ぼけまなこで何事かおっしゃろうとしているのに、私は適当に返事をしておく。
どうせまだ頭も覚醒していない上、すぐに二度寝に入るだろうことは明白だ。
例の魔王様失踪事件からというもの、アステル様は夜になると毎晩のように私の私室へと転移してくるようになった。
よほど寝心地が気に入ったのかなんなのか、毎晩気づけば私の書き物机の下に転移してきて寝ているものだからそのままにしておくわけにもいかず、私がベッドにお運びしている次第だ。
いっそアステル様のベッドもここに置きますかと何度か確認したものの、アステル様は『広いから別にいらない』と。
あなたはよくても私が⋯⋯、ハァ。
面と向かってどうこう言うわけにもいかず、もうこんな生活にも慣れてきた今日この頃だ。
主君のためとはいえ、苦手だったはずの子どもの世話が強制的にうまくなっていくのだが……。
どうせ、あと半刻はアステル様の世話係もやってこない時間だ。
私は眠気に討ち勝たんと奮闘しているアステル様の小さな体を、そっと掛け布団の中へと押し込むのだった。
◇ ◇ ◇
昼になり、午前の執務を終えたちょうどそのタイミングで、他の場所で勉強やら遊びやらをしていたはずのアステル様が現れた。
執務室のドアをばーんと蹴破る勢いで開けたアステル様は、満面の笑顔をしている。
「ばると! ばると!」
「いかがなさいましたか」
「ひるだろ!」
子どもになってからというもの、執務室に用のないはずのアステル様がこうして執務室へやって来るのはほとんど毎日のことで、私もナジムももう驚きはしない。
ナジムは淡白そうな印象からは意外にも、小さな獣だけでなく案外子どもも好きなようで、アステル様が顔を見せると笑顔を浮かべるようになっていた。
「なじむもいっしょにいいぞっ!」
「アステル様、先にご用件をお聞かせください」
「ぴくにっく!! いこう!!」
今日は昼食の誘いらしい。
どうやら私が昼休憩に入る時間を魔王様へ流している者が内部にいるらしいことは分かったが、まあ魔族が主君のためにすることなのでそれくらいは気にしない。
「参りましょう」
「うむ!」
私とナジムが執務のための筆記具をしまって立ち上がるのを見て、自身の願いどおりに事が運ぶのが分かったアステル様がますます笑みを明るいものにする。
私がエスコートのためにアステル様の左手を取ると、アステル様は私の手をぎゅっと握って笑い、それから何かに気づいたように空いた右手をナジムへと伸ばして見せた。
「ん!」
「えっ!?」
突然のことに驚いたのか、珍しくナジムが情けない声を上げて私へ視線を投げてくる。
アステル様に手を差し出されているのに何をぐずぐずしているのか、早く手を取れと私は顎で促した。
しかし、その一方、何故だか視線が繋がれるアステル様とナジムの手元へと向いてしまう。
ナジムが魔王様と手を繋ぐ緊張からか汗を吹き出させている。
『ひえぇ⋯⋯』
消え入りそうな声を出している部下に、シャンとしろと向けた視線が普段より数段冷たくなっていたことに、私はまだ無自覚でいた。
◇ ◇ ◇
【case.4 秘書官ナジムの困惑】
あの、また俺の視点ですか?
合ってますか? 前にも俺の視点やりましたよ? こういうのって普通モブは一人一回じゃないですか?
なんて、混乱しすぎて自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
ピンチだ。俺はここで、死ぬ⋯⋯?
「おれがこどもになって、おまえはふあんか?」
楽しいピクニックは順調そのものだったはずなのに、お忙しいヴァルト様が城の従者に呼ばれて先に離席されたことで、事態は一変した。
ヴァルト様からピクニックの後片づけとアステリオン様が部屋へ戻るまでの後を任せると言われたときには、そう難しくないことだと考えて簡単に請け負ってしまった。
まさか、ヴァルト様が不在になっただけで、これほどアステリオン様の雰囲気が変わってしまうなどと想像すらしていなかった。
子どもらしく輝き無邪気だったアステリオン様の天真爛漫さは鳴りを潜め、今は底の見えない雰囲気を纏った無機質な瞳がこちらを見透かすように見ている。
「さいど、とおう。ふあんか?」
「!」
再度同じ問いを投げさせてしまったことに気付き、今相手にしているのが間違いなく魔王であると再認識した上で頭をフル回転させて答えを探す。
不敬にもピクニックシートに並んで座ったままだが、なんとか平静を装って口を開いた。
「不安など、あろうはずもありません」
「なぜだ? こんなこどものすがた、いつしぬやもしれんだろう?」
「いえ……。魔王様は子どもの姿になろうとも、最強にお変わりなく、そのような心配は露ほどもございません」
「ほお、そうなのか?」
「はい。城の皆もそうでしょう。証拠に、魔界は平穏なままでございます」
俺の言葉を、少女の姿をした魔王様は「ふむ」と飲み下される。
ヴァルト様とおられる姿を見慣れすぎていたため面食らってしまったが、落ち着いてくればアステリオン様はこちらを威圧する意図はなく、ただその強すぎる魔力を至近距離で浴びた私が当てられてしまっていただけのようだと思えてきた。
「ばるとも、そうおもっているだろうか」
「そうじゃないでしょうか」
だから、答えてしまった。
なぜこんなことを聞かれるのだろうと不思議に思いながら、何気なくポロッと、そんなことを答えてしまった。
それがどういう意味を持つかも知らないで。
「そうか」
身じろぎ一つできないほどの恐怖、畏怖。
言いながら俺に向かって微笑みかける御方の目が、闇色を一層濃く、渦巻くその瞳がこちらを見て笑うのに、俺は一瞬で圧し潰されて意識を失った。
◇ ◇ ◇
「もう起き上がって平気ですかナジム」
「はい。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なく……」
「いえ謝罪は結構。これまでも城の使用人もアステル様の魔力に当てられるものはおりましたが、お前が倒れるのは初めてでしたから少々驚いたくらいです」
「面目次第もございません」
目が覚めたときには城の一室にいた。
目が覚めて午後の執務を外れてしまったことを謝罪せねばと執務室にいるヴァルト様の元へ行けば、「『ナジムが倒れた!』と慌てたご様子のアステル様が転移で現れて使用人たちが驚いていましたよ」と笑われた。
もうそのときには普段通りのアステリオン様だったようで、まったく魔力酔いなどよく見ているでしょうに人騒がせなと、いつも通り困ったように言うヴァルト様には、先ほどの庭園でのアステリオン様とのことは伝えられそうにない。
早々に話題を変えたほうがよさそうだと判断した俺は、ヴァルト様の執務机に置かれた書箱の一番上に目をやった。
「また、例の手紙ですか?」
「困ったものです」
城の文官伝いに今届いたばかりなのだろう手紙の束、その中でひと際豪奢な装飾の目立つ封筒を、ヴァルト様は二本の指で引き抜いてぶら下げ持つ。
その持ち方がいかにも嫌そうで、心中をお察しするほかない。
咄嗟のことで話題選びを間違えただろうかと思うも、アステリオン様のこと以上に頭の痛いだろうその手紙のことでヴァルト様の意識は完全に上塗られたようだった。
封筒に押された派手な封蝋からも分かるとおり、手紙の差出人はヴァルト様の生家の人間、恐らくはヴァルト様の御父君なのだろう。
アステリオン様登場前はヴァルト様が次期魔王と噂されていたように、ヴァルト様の生家は魔界でも名高い名家の一つで、過去には何名もの魔王を輩出してきた家柄だ。
当代の当主もヴァルト様を魔王にと望み教育してきたのだから野心の強い人物で、本人も未だ魔界の重鎮でありながら、どうやらヴァルト様を魔王にという思いがまだ諦めきれないらしくこうして発破をかけるような手紙を度々寄越してくるらしい。
当のヴァルト様本人が魔王決定の儀式の際にアステリオン様の力量に惚れこみアステリオン様派の急先鋒になってからは大人しくしていたようだったが、アステリオン様が子ども返りしたのをきっかけに、また魔族らしい欲が顔を出しているらしかった。
ヴァルト様は何も変わらずアステリオン様第一なのだから無駄なことなのだが。
「これはたとえ話で、出過ぎた雑談で、ただの興味本位ですが、アステリオン様が子どもになられて、ヴァルト様は、その間だけでも自身が魔王にとは思われなかったのですか」
「……知っているでしょうお前は。思いもしません、欠片もね」
なぜ今更そんなことをと、そう思っているのが珍しく顔に出ているヴァルト様がはっきりとした語調で言い切ったあと、「魔力酔いして頭でも打ったんじゃないですか」と蔑んだ目を向け追い打ちをかけてくる。
自分でも何故こんな馬鹿みたいなことを聞いたのかと思い、アステリオン様とのあのやり取りが自身の中で引っかかっているのだろうと勝手に合点した。
「ヴァルト様にとって、小さくなられてもアステリオン様はアステリオン様ですよね」
馬鹿な質問をしてすみませんでしたと、早々に遅れた執務を取り戻すべき机に向き直る。
封筒をつまんだままだったヴァルト様は無言で立ち上がって暖炉へと行くと、封を開けもせず例の封筒を火にくべてしまった。
「臣下として、当然のことでしょう」
ぽつりとヴァルト様が言ったのが、一瞬自分に向けた先ほどの返事だと気付くのが遅れる。
何ともあの普段の甲斐甲斐しさからして控えめな言葉だと思いながら、まあ特別な相手に対しての気恥ずかしさがこの人にもあるのだなと、雲の上の人物の思わぬ親しみやすい一面を知った気になった。
さっさと机に着き直してペンを走らせ始めたヴァルト様に、自身も仕事の手は止めないままに思う。
ヴァルト様とアステリオン様の相思相愛ぶりは魔界にとって好ましいものだなあと、微笑ましい気持ちが湧いた。
男女のどうこうといった話ではなく、互いを一番大事に、特別に思っているのが傍目には明らかだからだ。
ヴァルト様はアステリオン様が魔王となられてからずっと誰もが知るアステリオン様第一主義者であるし、一方のアステリオン様も、少なくとも子どもになって以降はヴァルト様を特別に思ってらっしゃるのは明らかだ。
アステリオン様が唯一、名を愛称で呼ぶことを許し、あまつさえ敬称もいらないと言うのはヴァルト様にだけ。
傍がよほど落ち着くのか、眠るときに傍にいたがるのも。
たしかにアステリオン様は気安く人懐っこい方ではあるものの、それでも抱っこをせがむのも引っ付きたがるのも、ヴァルト様にだけだと秘書官の私は知っている。
それは誰よりもヴァルト様を信頼し、近しく思っているが故の行動なのだろう。
「アステリオン様にとってもきっと、ヴァルト様は特別ですよね」
「……まさか。アステル様は誰にでも平等、公明正大な御方ですよ」
またそんな照れ隠しを言って、と、俺はまた微笑ましく思ったのがばれないように、ペンを動かしていた。
愕然と驚いた顔でこちらを見たヴァルト様にも、そのヴァルト様のペンが止まってしまったのにも、俺は気が付いていなかった。
―――まさか、全部本気で言っているだなんて、思うわけないじゃないですか!
◇ ◇ ◇
【case.5 秘書官ナジムの困惑 パート2】
……もはや何度目の俺視点だとか、視点が変わっていないとか、パート2ってなんだとか、そんなことは放っておく。
今はそれどころではないからだ。
アステリオン様が子ども姿となって半年、アステリオン様がいなくなった。
前回のようななんちゃって迷子ではない。
城内で不審な人物が目撃されており、なおかつアステリオン様の失踪現場では襲撃にあって昏倒したメイドが数名、そして現場から立ち去った大人を含む複数名の移動の痕跡がいくつも見つかっている。
秘書官である俺や、何よりヴァルト様が城を不在にしていたわずかな時間で起きたこれは、間違いなく計画的な誘拐事件だった。
アステリオン様周辺の人間が不在の時間が分かっていたということは、内部の事情に詳しい城の関係者の仕業だろう。
さすがにいかに魔族といえど、いや魔族だからこそ、主君を危険に晒すような情報を外部に売るような者は存在するはずがない。
あのアステリオン様なのだから今回もきっと大丈夫だろうと思うものの、主君に手を出されては黙っていられるはずもなく、俺の体内が仄暗い怒りや憎悪の感情で埋められようとしていた。
先ほどすでに、自分にできる最大限で固有スキルを使い、獣たちをアステリオン様の追跡と無事の確認のために動かしている。
ヴァルト様が城へ帰還するまでにアステリオン様の居場所を突き止めたかった。
そうすればあとは彼の方に任せてしまえば億が一にも間違いはないからだ。
◇ ◇ ◇
「……! まさか!」
通信室で集まってくる情報を取捨選択していた俺が、アステリオン様と誘拐犯の居場所を突き止めたのと、それが起きたのは同時だった。
突如として背後ですさまじい爆発音が響く。
部屋全体、いや建物全体が揺れているだろうか。
すわ敵の襲撃かと思わず通信室のデスクにしがみついて揺れに耐えていると、どん、ずどんと、その揺れが一歩ずつ歩むかのように通信室に近づいてきているのが分かった。
「まさか……」
今度こそ目を見開き、通信室の扉を見つめる。
鉄製の扉が、中央から赤く変色し始めた。
青褪め、引いた笑いが出てしまいそうになる俺の目の前で、扉どころか左右の壁にまで広がった赤い『熱』が、扉ごと壁を溶かし落とし、向こう側を露わにしていく。
燃え盛る業火の熱と眩しさに目を細め、俺が死ぬ前に一目見ようと見つめた先で、炎を背景に、大きな角を生やした真っ黒な死神が、真っ赤に裂けた目でこちらを見ていた。
死んだわ。
間違いのない確定した死を受け入れる。
前に。
「居場所はどこです」
「は」
「我が主の、居場所はどこだと聞いているんだ!」
「おおおお、落ち着いてください、ヴァルト様!」
「これが落ち着いていられるか!」
やっぱりヴァルト様だった!!
怖すぎるだろ!!!
激情のままに熱と炎を吹き上げて周囲を焼き尽くしておられるヴァルト様は、アステリオン様の誘拐に半分理性も飛んでしまっているのか、第二形態に変態されている。
凄むお姿の何と恐ろしく、荘厳なこと!
魔族なら誰もが憧れる高位貴族の実力者、その戦闘モードにお目にかかれたことでいっそここで死んでも本望だとは思うものの、まずはヴァルト様には落ち着いていただかないと不味い。
特に、誘拐犯が特定できてしまった今、不味すぎる。
「お前ならとうに逆賊の居所など掴めているだろう!」
「過信です! 本当につい先ほどで、あっ」
「隠し立てする理由は何だ! ――――なるほど」
ゴオと、ヴァルト様を包む炎の勢いが一層増す。
誘拐犯の正体に見当がついてしまったのだろう、怒りの炎の色はもはや赤を超えて黒くすらあった。
メラメラと燃える周囲の中、熱で歪む空気に混ざりそのまま揺らいだ存在へとなり果てそうな黒色の死神へ、俺はなりふり構わずありったけの言葉を投げる。
このままこの人を理性なき悪魔にするわけにはいかない。
「アステリオン様ですよ!? 何かされるような御方じゃないのは、ヴァルト様が一番よくご存知でしょう!」
俺の声ごときが怒れるこの御方に届くかは分からない。
けれど、必死に叫び続けるほかに、この方の親殺しを止める方法が浮かばなかった。
「アステリオン様は誰よりも強い御方です! きっと無事です! 大丈夫です!!」
「そんなことは分かっている!!」
俺の叫び声よりも大きな声で叫び返され、その覇気に思わず怯む。
それから一拍後に言われた言葉の意味に二の句が継げなくなった俺に構わず、ヴァルト様の慟哭が続いた。
「分かっている! 分かっているが、私だ! 私が無事ではない!!」
まったく冷静でないヴァルト様の、理性を失いかけた姿も初めてであれば、それどころか、自身の感情にすら振り回されるこんな姿は、見たことも、想像したことすらなかった。
この人は、アステリオン様が攫われたと、その事実だけでどうしようもなくなっているのだと、そう気付いた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
「ハハハ⋯⋯」
城同様に、いや城以上にすっかり丸焦げになった屋敷を前に俺は乾いた笑いを零していた。
城が業火に包まれてから一刻も経っていないが、事態は収束した。
「ばるとー」
「ご無事で何よりです、アステル様」
小さな少女の姿をした魔王がてってっと、つい今しがた自身の家族を丸焼きの半殺しにした黒色の悪魔(現在は変態解けかけ)に駆け寄ってぎゅっと抱き着いている。
まだ角も引っ込んでいないうちに普段の紳士的な腹心へと戻ったヴァルト様は折り目正しく腰を折り、アステリオン様を抱え上げて抱っこしてやるようだった。
未だ燻る煙立ち込める事件現場こと、ヴァルト様のご実家のお屋敷跡で、俺は放っていた獣たちを集め魔力と情報の回収作業をする。
我ながら人のことを言えず自分も冷静ではなかったなと、魔力の回収待ちのために自分の前に大挙して並ぶおよそ一万羽のうさぎの軍勢を眺めた。
しばらく時間がかかりそうだと、現場の確認と情報収集を済ませてしまうことをヴァルト様に伝えて先に城へ戻ってもらう。
情報を回収したうさぎ型魔獣から魔力へと戻す作業を繰り返しながら、誘拐現場を特定してからうさぎに撮らせていた現場の証拠映像を確認しておくことにした。
記録係のうさぎが二本足で立つと耳がより効率的に魔力を受信するためピンと縦に伸びる。
その状態で動きを止めたうさぎの目から、宙へと映像が映し出された。
場所は屋敷の一室。
貴族らしく贅沢な部屋しかないのか、城の客間よりも豪華なそこでベッドの上に座っているアステリオン様の腕には何らかの魔道具が付けられている。
「なんだあの腕輪、拘束具か? それにしてはぶかぶかじゃないか。……まさか、六十六代目の魔王の魔呪具か?」
鈍く輝く光に記憶の底にあった知識を引っ張り出してくれば、それは六十六代目の魔王が六十七代目の魔王に負けた際に自身の魔力を練り上げ作ったとされる“魔封じの腕輪”のようだった。
六十六代目の魔王はたしかヴァルト様と同じ血統の出身だったと記憶していたが、失われたはずの伝説級の魔道具が現存していたとは。
そしてそれを幼い魔王様相手に使うとは、なんと愚かな……。
小さな魔王様相手なら魔力を封じれば太刀打ちできるとでも思ったのか、映像のなかではヴァルト様の父君、つまり今回の誘拐事件の主犯である当主本人がアステリオン様と向き合う形でその場にいた。
実際には腕力も武力も他の追随を許さないアステリオン様であり、いくら一流の血筋と言えど相手にならないはずではあるのだが、当のアステリオン様にどうやらこの時点で誘拐されたという自覚がないらしい。
当主夫人(つまりヴァルト様の母君)と、『この部屋はヴァルトが幼い頃使っていた部屋なんですが、もう家を出てしまったから客間代わりにしていてね』『おお、ばるとのべっどかー」などと、呑気な会話をしている。
『ええい! その腕輪をしても危機感一つ抱けぬとは! やはり子どもよ!』
いい加減そのやり取りに腹が立ったのか、魔王誘拐という一世一代の大博打に出た当主が焦りも露わに無礼な口を利いたのが聞こえてきた。
映像相手にイラッとくるものの、本人が先ほどこんがり括鳥よろしく丸焼きにされていたのを焼きたてで見たばかりだったので、すぐに溜飲も下がるというものだ。
どうやら魔王様が子どもらしく泣いて助けを呼べば、それにヴァルト様を迎えに来させヴァルト様の権威や影響力を増して“頼りない”魔王様の後見にという心積もりだったらしいが、アステリオン様が動揺ひとつないものだから当てが外れて慌てているらしい。
アステリオン様の不安を煽ろうと、子どもが怖がりそうな寓話を聞かせてみたり、リアルな剥製を見せてみたり、怖い顔をしてみたりしているが、アステリオン様は機嫌よさげにヴァルト様の家族や生家を好奇心いっぱいの目で見ているだけだった。
『ここまでして、怯えぬとは強情な……! さすが最強の魔王さゲフンゲフン! な、何故そんなに平気にしていられる!?』
『そうですよ、ヴァルトだって小さい頃はこの話でそれはもう怖がって……』
『ええい! 今はヴァルトの幼少期の話はいい! 何故なんだ! 怖くはないのか!?』
もう、じきに城から迎えが来るのが分かっているだろう当主の焦りの問いかけに、アステリオン様は不思議そうに首を傾げて見返している。
そして口を開いた。
『だって、くるから』
アステリオン様の言葉に、城の助けが来ることを言っているのだろうと、当主の『そんな甘えたことを言う者が王では』と言いかけた言葉を、アステリオン様は気にせず続けた。
ちょっとだけ言葉を探して、それから嬉しそうに。
『おれの』
満面の笑顔は、どこか得意げで。
『じまんのやつ!』
ボカーン、と。
言葉と同時に響いたのは、映像越しでも分かる馬鹿みたいな破壊音。
ああ、ここでご到着かと、アステリオン様ご自慢の御方の登場を悟る。
衝撃でぐちゃぐちゃに映像が乱れる中で、腕輪と拘束を簡単に破壊したアステリオン様が『ばるとー』と言いながらタッタっと軽い足取りで破壊の震源地へ向かっていくのを見て、俺はうさぎに映像を止めさせた。
ここから先は知っている。
こんがりチキンだ。
◇ ◇ ◇
【case.6 魔王アステリオンの追憶】
魔族といえども夜は寝る。
よい子の魔王であればなおさらだ。
そう誰もが思っているだろう時間に、あえて起き出す!
誰もいない部屋の中、今日は珍しくヴァルトの部屋ではなく自室で眠っていたアステリオンは、布団を跳ねのけベッドから起きだした。
今から四ヶ月ほど前、ヴァルトの実家ツアーだと思ってヴァルトのご両親に着いて行ったら、実はヴァルトも知らない秘密のお誘いだったらしく、後で激おこのヴァルトが迎えに来た時には肝が冷えた。
めっちゃおこだったけど、アステリオンがちょっとかわいい感じの声でなだめたらさして怒られることもなくいつもの穏やかなヴァルトに戻ったので、相変わらずヴァルトはちょろくて愛いやつだとアステリオンは思った。
それからというものアステリオンが転移するまでもなく寝る時間になるとヴァルトが毎日アステリオンを迎えに来て自室に連れ帰るようになっていたわけだが、あまりに過保護なのもいけないだろうと、いいかげんに自室で一人寝ると言って押し通してきた。
ヴァルトの目がバッキバキだったのはちょっと怖くておしっこちびりそうになったが、ヴァルトはアステリオンの命令は絶対にちゃんと守るので、夜に押しかけてきたりはしないだろう。
「よいちよ」
ふかふかの分だけ厚みと高さのあるベッドからよじ登りならぬよじ降りをして、隣の控え室で休んでいるはずの傍付きメイドに気付かれないように気を付けながらふんわりと光魔法を灯す。
夜目の利くはずのアステリオンが部屋にわずかでも明かりを灯すのは、いかにアステリオンでも真っ暗な中で文字を読むのはなかなかに骨が折れるからだ。
「これ」
今では絵本や勉強のための教材も置かれるようになった書棚から、一冊の分厚い辞書を取り出す。
本棚の上段に置きっぱなしになっていたそれはアステリオンが大人だったころに愛用していたもので、重量も相応にあるが、幼くなっても衰え知らずのアステリオンは魔法ひとつで取り出したそれを軽々と支えることができた。
「開錠」
言葉一つ、それだけの魔術行使で魔王専用の辞書は封を開ける。
アステリオンの目当ては、その辞書に挟まった一枚の紙きれだった。
もう何十年前にノートのページの隅を使って書かれたメモ書きは、アステリオンが保護魔術をかけて後生大事に持っていたものだ。
もう内容を覚えてしまっているそれを、それでも懐かしい文字を目で追いながらなぞる。
【弱さを知りなさい。そして強き王に成りなさい】
先代の魔王であり、アステリオンの養父だった男が遺した手紙のようなメモ書き。
それを見つけたのは養父が亡くなった後になってのことで、その意味を本人に直接聞くことはもう叶わない。
十ヶ月前、子ども返りの呪いが発動したとき、この手紙の一文をアステリオンはヴァルトを始めとしたアステリオンを元の姿へ戻そうと奮起した者たちへと伝えた。
けれど、この先の、養父からアステリオンへのひどく私的に思える文章は、アステリオンだけが知るものだった。
その文章は、アステリオンにかかった呪いの解呪方法を探す役には立たないのだろうと、アステリオンにはなぜだか確信があった。
きっとこれは、アステリオンが呪いを乗り越えて、真の“強さ”を手に入れるまでの、養父からの励ましであり叱咤の言葉なのだろうと、アステリオンはそう理解している。
【アステル、孤独を畏れなさい。誰からも守られず惜しまれない強さを憎みなさい。アステル、あなたの弱さを知りなさい】
アステリオンの育った環境を知っている養父だったから書けた言葉だろう。
自身もまた魔界で一番の強き者となった養父だったから書けた言葉だろう。
アステリオンは、“アステル”と、そう自身のことを愛称で呼んだ養父の大きな手を思い出していた。
養父と出会った頃にはアステリオンはもう成人したような歳で、力だって養父に負けることは決してなかったけれど、それでも養父の大きな手の平はアステリオンにとって自身を包み込むように大きな大きな手の平だったと思う。
『お、おお、御一人で寝ると、そうおっしゃるのですか!? このヴァルトを御傍にも置かず!?』
『ヴァルト様、落ち着いてください!』
ふと、寝る前に目を血走らせて秘書官になだめられていたヴァルトの顔が思い出された。
しんみりとし始めいた気持ちが、スッと消えていく。
「ふふ。しんぱいというのは、おもばゆいものだな」
くすくすと笑って、アステリオンは手に持っていた一枚の紙きれをまた大切に辞書に綴じて、封のまじないをかけた。
光魔法を消すと、部屋にはまた夜のしじまが訪れる。
「ねよ」
アステリオンの心は軽かった。
子どもの眠りを妨げるものは、ここにはないのだから。
◇ ◇ ◇
【case.7 魔王の腹心ヴァルトの眠れぬ夜】
安眠? 秒でおやすみ? これでぐっすり間違いなし?
一体それにどんな効果があったと???
アステル様に添い寝を断られ、あまりに鬼気迫った私の様子を見かねた使用人たちから口々によく眠れるだとか何だとか言って飲み物やら寝具やらを差し入れされたものだが、現在、目がギンギンに冴えている。
夜半を過ぎてもただただ広く高い天井を見つめるばかりで一向に眠れる気配がない私は、もう寝るのは諦めて書き物机へ向かって残った書類仕事を進めることにした。
どうせ手につかないだろうが。
アステル様直々に今日は一人寝をされるから部屋には来るなとおっしゃったのだから、今からお傍へ押しかけることもできはしない。
だからといって、先日の誘拐のトラウマも忘れられないというのに、今まさにアステル様に魔の手が忍び寄っているのではないかとかそういう不安が過り、どこまでなら近づいてもセーフかだとか、そういう思考が去来しては自身で命令違反を犯すつもりかと却下するのを繰り返してばかりいた。
いい加減無駄だとは思いつつ、いっそ酩酊してしまえればと、いつかに賄賂だと人間の国から送られてきた酒精の強いボトルまで出してきてみる。
グラスに注ぐ酒は熟成した年月の長さを表すようにトロリとした見事な琥珀色で、けれど、アステル様のどの色調とも合致しないそれは今の私の心の慰めには足りないようだった。
どうやらそういう機微に鈍かったらしい私でも、いい加減、自覚した。
ずっと、自分は元の姿のアステル様を、そのお強さを、お慕いしているのだと思い込んでいた。
アステル様、いや、魔王アステリオン様のためにこの身を賭してお仕えすると、あの方のお強さに惚れてそう誓ったあの日からそれは当たり前の事実だった。
しかし、違ったのだ。
先日の誘拐事件。
犯人は馬鹿なことを考えた私の親族たちで、主犯は父で、普通に考えたらかのアステリオン様があやつらなどを相手に後れを取ろうはずもないと分かる。
けれど、あの日の私は、そして今日の私もまだ、冷静ではいられない。
アステリオン様が万一にも害されることを心配するのでもない。
手を出されたことへの怒りだけでもない。
もっと、もっと根本的に、冷静ではいられないだけの理由が私の中に在ったのだ。
そう、私の中に。
以前のアステリオン様の強さだけに焦がれ、思い慕っていた頃とは違う、新しい感情が、私の中に存在していた。
いつからだったのかは分からない。
アステリオン様が子どもの姿になったとき、まだそのお力が失われていないと分からなかったときには、確かに子どもになってしまったアステリオン様に対して落胆や失望の感情が芽生えたというのに。
変わりないお強さが確認できてからも、わがままを言ったりいたずらをするたび、普通の子どもがするそれが苦手な私は振り回され、時には不快にもなった。
それが、いつからこんな風になってしまっていたのか。
『ちがう! あすてる!』
『あすてるだもんんん!! さまも! いらないのにぃ!』
アステルと、そう呼べと、乞われた時だったのだろうか。
『なあ、ばるとー。ばるとも、りすさんのやつ、おめめからぴかーってさあ、だせる?』
『だして! だしてほしいぃ!!』
無茶苦茶な期待を寄せられた時だったのだろうか。
私の顔を見るなり顔を輝かせ、まっすぐに掛けてくる姿を見た時だろうか。
それとも、繋いだ手が信頼を込めて握り返された時だろうか。
抱き上げてもらえると、疑いのない目を、言葉を向けられているのに気付いた時だろうか。
それとも、それとも、それとも―――――。
『おれの じまんのやつ!』
誘拐事件後に確認したナジムの撮った記録映像。
絶対に私が来ると信じて疑わない、アステル様の特別が自分だと、そう証明するその言葉に、どれだけ心が震えただろう。
この感情はきっと、持つべきではなかったものだ。
私はもう、アステリオン様のために“アステル”を切り捨てることができない。
魔界の未来のため、魔族の民たちのため、主君の真の姿を取り戻させるため。
どう考えてもアステリオン様は本来の姿を取り戻すべきなのに、そのために臣下たる私は全力を尽くすべきなのに、心のどこかで願ってしまっているのだ。
“このまま、アステルのまま、一緒に”
アステリオン様が呪いを跳ねのけ、元のお姿を取り戻したとき、少女アステルは失われてしまうのだろう。
いつ何時訪れるかもしれないその瞬間、それが今は何よりも恐ろしかった。
忠誠を誓った相手への裏切りに近しいそれに、胸が締め付けられながら、それでもアステルを大切に思う心を偽れない。
可愛いアステルを、何を犠牲にしても守りたいと、そう思ってしまっている。
先の誘拐事件は、私の暴走もあって魔界全体が知るところとなった。
生家が起こした馬鹿な事件、私の立場自体が危ぶまれてもおかしくはない出来事だ。
今まで以上にちょっかいをかけようとする輩や馬鹿なことを考える者も出てくるのではないか。
あと二ヶ月すれば、かつて先代魔王の呪いが発動した復活祭がまたやってきて、そこで呪いが解けるのではないか。
解けてくれと願う。
解けてくれるなと願う。
相反する願い、けれど私の中にある確かで、強い願い。
いっそ時が止まって欲しいと思うような、いつまでも眠れぬ夜が落ちて行った。
願えども、叶うものでなし。
時は経ち、季節は巡る。
私が願う何もかもは、叶うことのないまま、
何事かあれと願った日々は、何の解決の糸口も見つけられぬ変化のない日々に、
何事もなくと願った日々は、少しの刺激と愛おしさの増すばかりの日々に。
復活祭の日は刻一刻と迫ってきていた。
◇ ◇ ◇
【case.8 魔王アステルの最後の夜】
明日はいよいよ復活祭だ。
アステリオンが子どもの姿になって、一年が経とうとしている。
今日まで復活祭の準備のため、いつもは自由気ままに働いている城の者たちもさすがに忙しそうにしていたのを、特に準備の必要のないアステリオンは忙しそうだなあと思って見ていた。
何があったのかは知らないが、ヴァルトまでもが日に日に萎れていくようだったので、気の毒になったアステリオンは今日くらいはヴァルトと一緒に寝てやろうと言って部屋へと呼んだ。
二ヶ月前、あまりに一緒にいたがるヴァルトを放って別々に寝ることにして以来、久しぶりの同衾である。
なんて、元の年齢はともかく今は子どものアステリオンとヴァルトなのだから、ただの添い寝だが。
くすくすと笑いながらヴァルトを待っていたアステリオンの元へ、ヴァルトの訪れが知らされる。
ここのところの残業続きを思えば随分早く仕事を切り上げてきたものだ。
今日早く寝られるのはおれのおかげだな、と、アステリオンは鼻が高くなった。
控えめな挨拶の後、ヴァルトが部屋へと入ってくる。
「ばると! じゅんびはすんだか?」
「はい。アステル様のお手を煩わせるようなことはございません」
「うむ。 おれはしゅやくだからな!」
「おっしゃるとおりでございます」
魔界の復活祭は、初代魔王がこの地を統べたとされる一年で最も喜ばしいとされる日だ。
歴代の魔王は復活祭で魔界の民たちをねぎらい、そして一年の統治を民から祝われる。
つまり魔王が主役!
アステリオンが主役である。
アステリオンは、昨年の復活祭を思い出した。
昨年、年老いた先代魔王であったアステリオンの養父が亡くなり、それから喪に服しながらしめやかに迎えた復活祭の夜に、アステリオンは今の姿に変身した。
それは魔族が真の力を解放するために行う形態の変化とは異なる、呪いによって力を囚われ、退化させる呪いの変身だった。
最強の姿から、頼りなく小さな子どもの姿になった魔王を見る大衆の目は、驚愕と、そして間違いなく落胆の色に染まっていた。
アステリオンは世間知らずだったがきちんと知っていた。
強いから、己が求められたことを。
そして、強いこと、それしか求められなかったことを。
あの復活祭の夜、小さな体となった小さなアステリオンの心を占めたのは悲しみだった。
どうしようもない孤独だった。
唯一自身を必要としてくれていた養父がいない、この世で一番に寂しい夜だった。
“アステル”は、もう誰からも必要とされないと、そう思い知る夜だった。
【弱さを知りなさい。そして強き王に成りなさい】
養父の遺した言葉の意味を、アステルは知った。
これが弱さか。
弱いということか。
だから、アステルは必死にアステリオンの仮面を付けて、小さな体で精一杯にアステルを必要としてくれる者を求めたのだ。
強くなるため、養父の望んだ、最強の王になるために。
そして、小さなアステルが、もう悲しむことがないように。
「なあ、ばると」
「はい、アステル様」
「さまはぁ、いらないぃ……」
ベッドに座り、ヴァルトを呼べば、慣れた手つきで二人分の寝床を作るべく布団を整えていたヴァルトが隣に腰かけてきてくれる。
わがままを言って、ベッドに座ったままで足をぶらぶらと揺らしていれば、ヴァルトは窘めるように、微かに笑いをこぼして、それから大きな手の平でアステルの頭を撫でた。
ヴァルトは、アステリオンをアステルとして接してくれる。
アステルが求めるだけ、アステルをアステルとして受け入れてくれたのだ。
アステリオンを誰よりも傍で支え続けてくれたヴァルトが、決してアステリオンのことも諦めないまま、アステルにも心を砕いて、優しくしてくれるのが嬉しかった。
アステリオンごと、アステルごと、魔王アステリオンという存在を求め、肯定し、諦めないでいてくれたのがヴァルトだった。
「なあ、ばると」
「はい、アステル様」
「……」
「冷えますよ」
繰り返す呼びかけに変わらず返事をしたヴァルトにいじわる心で返事をしないでいると、布団の中にさっさと押し込まれて転がされてしまう。
ヴァルトも横になると、二ヶ月前までずっと慣れていたいつもの定位置に収まってアステルは安心感に包まれた。
「ばるとー」
「……どうしましたか、アステル」
「フフ」
望んだ愛称で呼ばれ、くすぐったくて、嬉しくなる。
もう日が変わっただろうか、復活祭の日になってしまっただろうか。
「ばると」
「はいアステル」
「ばるとはさ、もし、もしさ」
「はい」
「おれが、もとのおとなになったら、かなしいか?」
「……」
布団をすっぽり頭まで被ってした問いかけに、すぐには答えはなかった。
期待と不安が、鼓動の大きさになって響いている。
どきん、どきんと、むずむずするそんな時間に、そっと大きな手の平が胸の上に置かれた。
その重みと温度にほっとする。
そっと布団から顔を出して見てみれば、まるで泣き出しそうなヴァルトの顔がそこにあった。
「はい、哀しいです」
苦そうな、苦しそうな顔で、眉間にはしっかり皺を作って、だけどとても優しい顔をしたヴァルトが小さなアステルを見ていた。
思わずアステルの口から言葉がこぼれ落ちる。
「よかった」
「良かったとは、なんですか……」
聞こえたヴァルトがからかわれたと思ったのか、むっとした顔をした。
けれどアステリオンは嬉しくて笑顔になった。
「おまえもそうだったんだ、って⋯⋯」
「それはどういう」
ヴァルトの不思議そうな問いかけに、答えはもうない。
安心できる腕の中で、ぬくもりに包まれて、何の心配もなくなった最強の魔王様は、もうすやすやと眠りの世界に落ちていたのだから。
◇ ◇ ◇
【case.9 復活祭の夜】
一年ぶりの魔王の復活に、魔界全土が喜びに揺れていた。
数十年前に新たな魔王となって以来、最強の名を欲しいままにする魔王様の復活だ。
ここ一年、先代魔王の遺した呪いによって子ども姿となっていた魔王アステリオンは、ちょうど一年を経た今日復活祭の日にめでたく呪いの呪縛に討ち勝ち、本来の大人の姿を取り戻した。
凛々しく猛々しい立ち姿、圧倒的な魔力。
誰よりも強く、孤高を体現するような憧れの美しき魔王の復活に、魔界でそれを喜ばぬ者はいなかった。
群衆詰めかける中でのパレードを終え、城の上階から大衆を見渡した彼女は、よく通る、耳に心地のいい声を響かせる。
『よくこの日まで待ってくれた! 魔王は帰還した!』
地を震わせるほどの歓声が起きる。
魔王が人民たちへとねぎらいの声を掛け、寿ぎ、そして煽り立てるたび、それは地鳴りのような大きなうねりとなって今日この日の喜びを発散させているようだった。
『なあ、わが民よ』
夜も過ぎ、いよいよ復活祭も締めの時が近づくと、魔王は再び群衆の前に現れ語り始めた。
それがこの一年について語ろうとしてのものだと、誰もが待っていたそれに気が付き耳を傾ける。
これだけ集まった魔族がみな一様に静かにしているなど珍しいことだ。
魔王アステリオンはおかしそうに集まる視線を受け止め、口を開く。
『余は知ったぞ。弱さを』
求めていたそれを語る魔王の声を必死に聞き届けようと息を呑んで押し黙る者、最強の魔王の口から弱さという言葉が出たことに驚き思わず声を上げる者。
聴衆が再び言葉の続きを待つ中で、けれどアステリオンはあっけらかんとして言った。
『だが、養父様の思惑はきっと外れたな。俺には、ヴァルトがいた』
まるでひとり言のようなそれを、誰もがすぐに意味を知ることはできない。
名を出されたヴァルトすら、今日一日傅くように顔を伏せていた体勢のままで、肩をぴくりと跳ねさせただけだ。
『なあ、ヴァルト。余は知りたかったのだろうよ。誰かに消えてくれるなと惜しまれる、そんな弱さを。なあ、ヴァルト。誰かに守られるというのは、どんな弱さかを。なあ、ヴァルト。失われないでくれと、そう願われる弱さを』
一言、一言。
魔王がかける言葉に、いつもは伸びた背が目印のような黒い燕尾服姿の男の顔が徐々に持ち上がる。
この晴れの日に、ずっと生気のない顔をしていた男の、普段よりも赤くなった目がやっと前を向き、復活を遂げた魔王のその姿を見つける。
まっすぐに見つめる目と目が合った。
『なあ、ヴァルト。余の自慢を知ってるか』
『……』
『余は強い。楽しい四天王たちがいて、優秀な秘書や部下たちがいて、立派な城に、宝に、こうして余の復活に喜びの声を上げてくれる民がいる』
魔王アステリオンのよく通る声に、リーンと、鈴が鳴るような心地いい魔力の音が混じる。
それは、アステリオンが意識してその声を、言葉を届けようと思って乗せた、後押しするような強大な力だった。
『お前だよ。ヴァルト。おれの、一番の自慢よ!』
得意げに笑い、さあ見ろと言わんばかりに両手を大きく広げた魔王の、子どものようなその無邪気な笑みは、何より一番の破壊力をしていた。
この日一番の大歓声が場を満たした。
◇ ◇ ◇
【エピローグ. 復活祭のその後】
「何も、復活祭のあとにもう一度パレードしなくてもいいのになあ」
「そうおっしゃらないでください」
復活祭からひと月後、魔王アステリオンを乗せたゴンドラが再び魔界の各都市を巡っていた。
今度は伝統行事としての一幕ではなく、一年ぶりに完全に復活を遂げたアステリオンのためのお披露目の行脚である。
復活祭では巡れなかった都市にも、今回はアステリオンの転移魔術を駆使して訪れ、くまなく巡っていく予定だ。
復活祭に行くことができなかった地方の魔族たちが、復活した魔王の訪れを大きな喜びと最大限のもてなしで出迎え、魔王もそれに精一杯応えてみせる。
「なあ、この手を振るやつ、ずっとしてなきゃ駄目なのか?」
「はい、できるだけ多くの者たちにそのご威光を見せつけていただければと!」
魔王の腹心であるヴァルトの機嫌はすこぶる良かった。
魔王アステリオン第一主義者であるヴァルトは、アステリオンが数多の民にもてなされ、ちやほやされ、褒めたたえられるのを見るのが三度の飯より好きだからだ。
復活祭の当日こそ真の姿を取り戻した魔王相手に喜びたいやら寂しいやらで感情を無茶苦茶にしていた他称・冷静沈着なこの男も、ひと月も経った今はさすがに落ち着いてきている。
時折物思いに遠くを見つめたり、何もない空間を撫でていたり、用もないのに秘書官のナジムに魔獣を出させては抱っこしたりとしていたが、それもほんの少しずつ減ってきているような気がしないでもなかった。
訂正しよう、傷は深い。
「ヴァルト様、アステリオン様も、少し休まれてはどうですか」
さすがはできる秘書官、ナジムが同席していた甲斐あって、パレードはアステリオンにとっても無理のないペースで進行していた。
そろそろ休憩地点も見えてきた頃合いだ、ここで一度休むのもいいだろう。
アステリオンがそう思って休み支度を始めていると、それまで機嫌良さそうにアステリオンにあれやこれやと声をかけていたヴァルトが、何やらナジムの元へ行ってこそこそとやっている。
怪訝に思い見ていると、抱いているもののない腕が寂しいというようなことを言って、ナジムにまた動物を出させようと無茶を言っていた。
手でこれくらい、とナジムが得意とする小動物にしては大きなサイズの指定までして忙しいナジムを困らせている。
ここまで来るといよいよ禁断症状だ。
「おい!」
アステリオンはなんとなく面白くない気になって、ヴァルトに向かって声を掛ける。
まったく、賢そうに見えて、抜けたところがあるのだからと、それは仕方なさそうな顔でもあった。
「ヴァルト! 疲れたぞ! 抱っこしろ!」
「は?」
言うが早いか、こちらを見て固まるヴァルトの前に『ぽんっ』と音を立てて、三歳くらいの少女が現れる。
まったくもう、と、言わんばかりの表情でタッタとヴァルトの足元まで駆け寄った少女は「ん!」と両手を広げてヴァルトを見上げた。
「だっこ!」
ほれ早くしろと、当然の顔をして急かす少女に、ヴァルトも、ナジムも、それを見ていた群衆も固まっていた。
無意識だろうに、ヴァルトだけは固まったままで少女の体をそっと抱え、以前より頼りないふらふらの手つきで抱き上げると、腕の中に収めている。
「???????」
混乱しているのが目に見えるような顔で、少女を抱く燕尾服姿の男が完成していた。
「…………………なぜ」
しばらくして、なんとか言葉を絞り出したヴァルトに、アステルはあっけらかんと言う。
「おまえこっちのほうがすきだろ?」
「は??」
「だからときどき、なってやる!」
「は????」
にかっと笑って言ったアステルに、ヴァルトは混乱が勝って否定の言葉も何もかもが浮かばなかった。
久しぶりの抱っこに機嫌のいいアステルは、そのまま状況の飲み込めない群衆に向かって力いっぱい腕を伸ばして振ってやる。
「おーい! あつまってくれて、ありがとう!」
アステルの元気のいい声かけに、混乱していた群衆の意識が徐々に期待へと傾いていくのがわかった。
注目を集めたアステルは、抱かれた体勢で嬉しそうに胸を張る。
「みてくれ! おれのじまんのふくしんだ!」
叫んだアステルに、ワッと群衆も湧いた。
きっと、誰よりも早く状況を飲み込んでいたのは、できる秘書官であるナジムだったのだろう。
驚きの表情を崩すと、思わず笑顔になって喝采を受ける上司たちの姿を見つめた。
「ああ、今日もご自慢の腹心を見せびらかせて、魔王様は得意げだ」
=End=
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ちなみに、アステルがヴァルトの私室の書き物机近辺に転移してきていたのは、ヴァルトが仕事人間すぎたせいで私室内で最も滞在時間が長い場所がそこだったからです。(怖い話)






