第2章 蒼失
東日本大震災に関する描写を含みます。予めご了承の上、お読みください
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「400年前の人骨?そんなわけ…銀歯が出てるじゃないですか。」辻が丸い目を目一杯開いて言う。
「辻の言うとおりだ。まさか、車型タイムマシーンが遂に完成したとでもいうのか?」薄ら笑いながら佐野課長がつぶやく。80年代SFじゃないんだから、と阿部のツッコミが入る。
「残念ながら、デロリアンはまだ空を飛びませんね。ですが、400年前のものということを示す決定的な証拠はあります。放射性炭素年代測定、という測定法によるものです。誤差0.5%の非常に高精度な測定方法なので、ほぼ間違いありません。湯原教授の専門は生体構造、分子生物学のため、その手の測定は得意であるかと。」柳川も、データが出るまで信じられなかった。今でも信じがたいのだが。
「とりあえず、400年前の記録が残っている場所、そこをあたるしかないんでねのすか?たとえば寺の名簿なんかに、16から18歳の青年が残っているかもしれない。銀歯は一度抜きにして考えたほうがいい。」阿部の発言に、皆がうなずく。
「問題は、誰がやるか、だな。」佐野が言う。とてつもなく気が遠くなる、時間のかかる作業だ。全員が、阿部のほうを向いた。懇願するような目つきだ。いやー私ですか、と唸る。
「現場付近で昔からある寺を、片っ端からあたってみます。この辺には詳しいですし。」不承不承といった感じで引き受けたが、ここまで頼りにされたのは数年ぶりだ。内心嬉しく思った。
「400年前というと、隠れキリシタンの殉教があったころじゃないですか?信者をかくまっていた寺が、岩手県側にあったと思います。もし、遺体が殉教者の一人なら、名簿に名前があるかもしれない。」
「岩手か。怖いんだよな、一関署の刑事。」一関署の刑事とは、いい思い出がなかった。厳しいルールの下、兵隊のように規則正しく動く姿を思い出した。
「詳しいな、辻君。岩手県警には、こちらから連絡しておこう。では阿部君、よろしく頼む。」佐野直々の指示に応え、阿部は寺へと向かった。
寺は、宮城県境からほど近い山中にあった。息抜きに車を止め、カーラジオの周波数を変えて窓を開ける。稲刈りをする機械の音に、たい肥のにおいが混ざり合う混じり合う。のどかな里山が続く農道を走り、寺へたどり着く。「穂呂和山大福寺」と書かれた駐車場に車を止め、目の前の門をくぐる。地区で一番の寺とだけあって、重厚な和様の本堂がたたずむ。賽銭を投げ入れ、手を合わせる。願いは一つ、事件の解決だ。
「先ほどお電話差し上げた宮城県警の阿部です。少々お見せいただきたい資料がありまして。」掃除をしていた住職らしき男に話しかけた。
「ああ、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ。」寺横にある寺務所に通された。寺の意匠を踏襲した日本家屋だ。住居を兼ねているのだろう。居間を抜け、障子戸を開けると、古い書物がずらりと並ぶ書庫があった。
「岩手、宮城にまたがるこの辺りは昔、キリスト教徒が多くてですね、幕府が禁教令を出すまでに、300人近い信者がいたとか。弾圧が厳しくなったころ、うちの檀家という名目で改宗させたと見せかけ、言う名目でキリシタンの人たちが改宗したと見せかけ、匿っていたそうなんです。これが、当時の名簿になります。」住職が差し出した資料には、「穂呂和切支丹宗門改帳」と書かれていた。いかにも昔の書物らしく、黄ばんだ和紙に筆で表題が記されていた。キリシタン殉教があった当時を知ることのできる数少ない資料だという。
「ただ、私も気になるところがありまして。今回連絡が来て関係があるかもしれないと思ったんです。」
「気になるところ、ですか。」
「この方の名前だけ、当時の人々の名前の特徴と違うんです。なんというか、現代人っぽいというか。」
住職が指さした先には、たしかにそれらしき名前があり、そこには
「鯵河勝樹」
と書かれていた。
他の名前は二郎三郎平太、などというふうに、当時の命名ルールに沿ったものであった。その中でただ一つその名前が異様な雰囲気を醸していた。だが、これだけで断定するのはまだ早い。警察としては、もう少し情報が欲しかった。
「確かに、妙ですね。なにか、それを裏付ける物はありませんか?」ちょっと待っていて下さい、と言うと住職は、さらに分厚い古文書を引っ張り出してきた。もはや表紙の文字も読める状態ではない。
「これは、殉教者の特徴などをまとめた資料です。古いものなので読めない箇所も多いですが、書いてあることは正しいと思われます。」
「結構な厚みですね。解読はされたんですか?」さすがに、この量の資料を読むには、阿部が何人いても足らない。給料が四倍にでもならない限りやりたくない作業だ。
「十数年ほど前に、大学の研究チームと共同で解読を行いました。その際、先ほどの男と思われる記述があって。ああ、これです。」よかった、と思わず言葉が漏れる。
「ここに、”其の者、歯に銀様の物あり”“其の者、これに至るまでの記憶有らず”とあるんです。我々としても信じがたい事で、何かの間違いだとは思っているんですがね。」やはり、間違いない。それが本当なら、あの遺体の特徴、銀歯と完全に一致する。まさか、本当に400年前の人間だというのか。
「いやあ、私も正直、信じられないんです。しかし、資料で裏付けがとれた以上、ただの陳腐な妄想と切り捨てる訳にも行きませんからね。」
「実は調査に来た大学の先生から、大ごとになるからこの件は内密にと言われていたんです。でも、牛籠で白骨死体発見のニュースがあったでしょう?なにか、うちと関係がある気がして。まあ、勘ですがね。」刑事よりも勘の鋭い男だ。迂闊な発言はできない。
「よろしければ、その先生の名前、教えていただけますか?」
「もちろんです。私から聞いたということは、伏せておいてもらえますか?」そういうと住職は紙に名前と連絡先を書き、手渡した。
「もちろんです。協力者の保護は、捜査の基本ですから。しかし、どうして隣県警察の一捜査にここまで協力していただけるんですか?決してそれがいけないというわけではないんですがね、気になりまして。」
「一関の強盗殺人の犯人、逮捕したの気仙沼署の刑事さんなんでしょう?だから、あなたに話したんです。」
胸が熱くなるのを感じた。実はその刑事、今あなたの目の前にいるんですよ、と言いたい気持ちをこらえ、礼を言って寺を後にした。
道沿いに広がる水田は、夕日に照らされ黄金色に輝いている。もうすぐ新米の季節であった。
阿部の運転する車が、宮城県境に差し掛かる。今日は大収穫だ。
状況はある程度電話で報告した。とりあえず今日の捜査はここまでとしよう。
久々に、昔のことを思い出した。20年前、気仙沼署刑事課のいち刑事として、一関署と共同捜査をしていたころの話だ。隣接する岩手県一関市と宮城県気仙沼市で、同じ手口の強盗殺人事件が連続で2件発生した。阿部は犯人像から、当時捜査線上にも上がっていない、無関係とされた男を怪しいとにらんでいた。両警察署の捜査員から「妄想だ」などと揶揄されながらも独自に捜査を決行し、証拠となる凶器を発見。逮捕に至った。気仙沼署の刑事からは称賛の声が上がった一方、手柄を隣県の刑事にとられた一関署の刑事はよく思わなかったのだろう。捜査が違反に抵触するとして宮城県警側に抗議した。岩手県警との関係悪化を危惧した本部が音吉町牛籠駐在所への異動を言い渡したのは、事件解決からわずか一か月後の事であった。しかし、家族とともに、それなりの給料でのんびり暮らしたいと考えていた阿部にとって、この異動は天職といっていいものだった。それからこの地でのびのびと暮らしてきた。この事件で、家族の暮らしまで脅かされるのはごめんだ。
駐在所についてすぐ、スマートフォンに着信があった。辻の番号だ。車から運んできた荷物を持ったまま受ける。「阿部です。どうした?」
「阿部さんが調べてくれた鯵河という人物、16から18歳男性の戸籍データと紹介をかけました。該当する人物はいませんでしたが、同音の鯵川克樹という青年は存在しました。」本当か、と声が漏れる。やはりあの資料は本物か。
「詳細は役所等各機関に情報提供依頼済みです。とにかく、何かわかることがあるかもしれないので、明日、聞き取り調査という形で話を聞きたいと思います。」
この時、彼の銀歯の特徴が完全一致するなど、つゆほども思わなかった。
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道場には、竹刀を振る乾いた音が響き渡っていた。息を切らしながら、扉を開ける。
「すみません、用事で遅れました」聞き取りが長引いたせいだと言いたいのを抑え、部長の熊井に声をかける。
「お疲れ克樹。事情は聞いてる。跳躍素振り200本な。」
「全然聞いてねえじゃん。もうやめたらどうなんだ。このルール。」
遅れてきたやつはきついメニューをやらなければならない。これが熊井の作ったルールだ。しかし、いちばん遅刻癖があるのもまた彼だ。正直何をしたいのかわからないが、面白い奴だとつくづく思う。
急いで準備を終わらせ、練習に参加する。鯵川の所属する剣道部は、部員5名の小さい部活である。それでもベスト8入りを目指し、練習に励んでいるつもりだ。
一時間もしないうちに息が上がる。テスト期間開けでブランクがあるせいか、体が重たかった。「次、かかり稽古!」「はい!」基本が終わり、実戦練習に入る。この時間だけは、日々の雑念から解放され、純粋に剣に打ち込める。警察署での会話も、ここでは遠い昔のように思えた。
しかし、体の重たさは変わらない。いつもよりパフォーマンスが下がっているのを肌で感じる。
「いやー疲れた。あ、克樹おまえ、逮捕されたんだって?」面を取りながら正平がへらへらと笑う。ついにやったか、正直に話せ、と皆便乗して悪ふざけに走る。嬉しそうなのが腹立たしい。
「違うわ。なんで皆してそうなるんだ。聞き取り調査だって。」思わず声に笑いが混じる。
「取り調べじゃねえのか。よかったな。てか、何聞かれんの?」熊井が頭にナイフを突き刺す謎のジェスチャーをしながら聞く。
「なんか、よくわかんないんだよな。事件とかじゃないらしいんだけど、名前と住所を言えるかだとか、外科手術の入院歴はあるか、だとか。戸籍の確認って言ってたけど、結局何なのかは教えてくれなくて。」
「なんか、怪しくないすか?それほんとに警察なんすかね。」後輩が心配そうに目を細める。
「いや、間違いなく警察。それが怖いんだよな。」得体のしれない組織などならまだよかった。警察となると、何が知りたいのかどうしても気になってしまう。
「とりあえず、裁判頑張れよ。何があっても俺たちはお前の見方だからな。」しつこいわもう、と軽口をたたく。「にしても、最後の質問は妙だったな。400年前に行ったことがあるか、なんて。警察は何考えてんだか。」
学校を出るころには、もうすっかり暗くなっていた。心なしか、日の短さを感じる。ついひと月前はまだ明るかったはずだ。徒歩、送迎組の3人を見送り、熊井と坂を下る。
「羨ましいな。お前、今日授業一つも出てないんだろ。大変だったんだぞ、今日の地理。ツバルが暴走して。」熊井が口を開くと、4割は愚痴だ。内容の予想は何となくついていた。
「ご苦労。まあ、いつもの事じゃないか。制御不能に陥って、学校ごと吹き飛ばしたんだろ?」
「なわけあるか。どこのSFアニメだよ。課題の出来が悪くて、講評と手直しだけで一時間終わった。」なんだそれ、と二人で笑う。
「ていうかお前、ほんとに大丈夫なのか?なんか、事件に巻き込まれてんでねえの?」やけに神妙な顔で覗き込んでくる。「俺が思うに、あの牛籠の死体と関係ある気がする。」
「え?俺が?いや、マジで何も知らんて。」犯人扱いされるのはまっぴらごめんだ。今朝のニュースで見ただけで、それ以上の情報は知らない。だいいち、あの質問が何の役に立つというのだ。
「聞けば聞くほど訳分からんな。ま、帰ってよく寝ろ。」いつも馬鹿みたいなことしか言わないのに、意外と優しいところがある。伊達に一年部長をやっていないだけのことはある。
「寝てもどうにもならんな。あ、数2何か課題出た?」こんな会話をしながら帰路につく。一日がとても長く感じた。バスに乗るなり、眠りについてしまった。
気が付くと、鯵川は車の中にいた。目線がいつもより低い。明らかに小さいころの自分であった。
運転しているのが誰かは見えない。今はもうない、かつての市街地を進んでいるのが見えた。あの菓子店には見覚えがある。母がよくあんドーナツを買ってくれた店だ。思い出した。これは小さい時の記憶だ。
「もうすぐだからね、もうすぐ。」母の声だ。
「つぎは、岩津、岩津です。」運転手のアナウンスで目を覚まし、ぎりぎりでバスを降りる。駅から家まで30分歩き、家に着いたのは十九時半を過ぎたころだった。ただいま、といい、戸を開ける。祖母の作る揚げ物のいい香りがした。
「おかえり。疲れたべ。先ご飯でいいか?」
「まあね。ご飯よそってくる。」父の言葉は、必要最低限ながら温かみがある。
母をなくしてからというもの、父の口数は少なくなったという。父も父なりに、ショックを受けていることに違いはない。十三年前のことをいつまで…なんて言われているところも何度も見てきた。
震災から十三年。街の復興は進んだとはいえ、個人の心の傷は癒えないままである。
「この事件、まんずおっかねえ(とても怖い)な。牛籠だっつよ。」祖母がテレビを見ながらつぶやく。例の事件の現場が映されていた。駐在所の警察官が状況を説明していた。朝から同じ内容ばかりだ。
「あー、畑掘ってたら出てきたってやつでしょ?学校じゃその話でもちきり。馬鹿な男子が現場見に行こうとしてるけど。」舞茸のてんぷらを皿にのせながら、妹が言う。
「そんな罰当たりな。沙理も気をつけろよ。何かあってからじゃ遅い。」何に気を付ければいいのだ、という話だが、学校にそんな奴が居る以上、娘を心配するのは無理もないだろう。
まあ、遺体が発見されただけまだマシか、と克樹は思う。
母の遺体は、いまだ見つからないままだ。二千五百人を超える被災者が、行方不明のままである。
生きている可能性など、限りなくゼロに近い。しかし遺体がない以上、正しく弔うこともできない。
そのまま、十三年という月日が流れた。克樹たち家族は、前を向いて生きていくよりほか道はなかった。
「大丈夫か克樹。そんなぼうっとして。味噌汁冷めるべ。」
「味噌汁冷まして飲む癖何とかしなよ。他所じゃ絶対やめてね。」全く余計なお世話である。
「ああ、何でもない。てか今日偶然博さんに会ってさ。」さりげなく話題を変える。
なぜ、急に昔のことを思い出したのか、自分でも不思議だった。今日の出来事は、まだ言わないでおこう。
風呂に入り、自室へ戻る。いくつか課題を終わらせた頃には、すでに23時を回っていた。予定通り。
毎週追っているアニメの放送時間だ。配信サービスでいつでも観られる時代だが、放送から配信までは時間がかかる。リアルタイムで見るのが一番早いのだ。世界的な制作会社が絡んでいるだけあって、作画はトップクラス。あっという間に30分が過ぎた。気が付くと、すでに眠りについていた。
鯵川はまた、かつて暮らしていた家の中にいた。津波に流され、もう残っていないはずだった。よく覚えていないが、帰りにも同じような光景を見た気がする。西日の差し込む茶の間で、掘りごたつに潜っていた。大きな間戸から外を見ると、葉のない木々が無数に立っている。これも全て津波に流されたはずである。寝室から幼児の泣き声が部屋中に響いていた。妹だ。やはりこれは、13年前の自分だ。なぜ、夢なのに自分を知覚できるのだろう。これが明晰夢というものなのだろうか。普段の夢と違った感覚が、確かにあった。
母が、妹をあやしている。克樹の目の前には、白紙の自由帳が広げられている。昔から絵を描くことが好きだった。絵の世界は、自分の理想をそのまま反映できる。その自由度が好きなのだ。
「克樹、新聞とってけろや。」祖母の声だ。掘りごたつの向かいで、老眼鏡をかけていた。生え際の髪が残っている。新聞を手にとると、上に小さく日付が書かれていた。
2011年 3月11日
そうだ。これはあの日の記憶だ。
「急遽仕事に呼ばれたので、仙台まで行ってきますね。悪いけどお義母さん、二人の面倒頼みます。」母が玄関に立っていた。行かせてはならない。ここで止められなかったから母は…
駆け寄ろうとする前に、克樹の体は動いていた。当時も同じように走ったのだろう。気が付くと、母の足にしがみついていた。
母は微笑みながら、克樹を離し、屈んで顔を近づけた。
「必ず帰るからね。それまで、待ってて。」いってきます、そう言うと母は玄関を開け、消えていった。
「おかえり」と言える日は、いつになったら来るのだろうか。
7
目玉が飛び出るような衝撃を覚え、目が覚める。まだ日は登らず、部屋は暗いままであった。冷や汗がシャツに張り付いていた。昨日の夢は、何だったのだろう。どうして急にこんなことを思い出すのか。警察の件といい、何かおかしいのではないか。10分ほど寝る間寝をするも眠れず、いつの間にか目がさえてしまった。朝支度をしているうちに日が昇る。テスト明けで勉強する気も起きないので、先週買った漫画の続きを読む。なんて文化的な朝だろう。いつもこのくらい余裕があればいいのに。
案の定バスで爆睡し、気づいたら教室だ。
「おはよ。早いじゃん。さすがは賀高生プライド。」菊川が白い歯を見せた。
「だからそれやめろって。人の黒歴史掘り返すのはマジでよくないから。」生徒会長選挙の演説で使ったセリフだ。落選してもう一年たつというのに、どうしてまだ擦るのか。
「あの演説はよかったじゃん。ただ、相手が悪かった。学年一の人気者じゃあ仕方がない。」吉沢君には敵わない。とんでもないカリスマ性の持ち主で、才色兼備といった具合だ。そもそも、先生から誘われて無理やり出た選挙だったため、悔しさはゼロだ。ただ、数か月は決め台詞をいじられ続けた。
「それはそうと、君逮捕されたんじゃなかったの?」まただ。ループでもしているのだろうか。
「だったら何でここにいるんだよ。ただの聞き取り調査だった。」昨日部活でした説明をもう一度する。同じやり取りに慣れすぎて、自分の中で小さなマニュアルができつつあった。
「あ、一時間目小テストだ、やば。何にもやってない。」完全に忘れていた。古文のテストは、予習なしではかなり厳しい。悪あがきで単語ノートを読経するかのように最速でめくる。当然頭に入るわけがなく、始業の鐘が鳴る。
「馬鹿ですねー。今更やってもどうにもなりませんよー。」菊川が余裕の表情を見せてきた。
「相当自信がおありのようで。」「いや、ノー勉強。」ふざけている。もはや清々しささえ感じた。
用紙が配られ、名前を書く。なぜか、名前を書き間違えてしまう。こんなミス、起こるはずはない。どうして、「川」を「河」にしてしまうのだろう。三回目で、ようやく書くことができた。きっと今日の寝不足のせいだ。八問目にとりかかったところで、終了の合図が入った。時間があったとしても、解けるかどうか微妙な問題であったが、名前ごときでタイムロスをしたのは、なかなか悔しかった。
「どうですかノー勉君、小テストの結果は。」授業が終わるや否や、隣のノー勉が話しかけてくる。
「お前もだろ。10点中6点とれたし上出来かな、ノー勉にしては。なんか、二回も名前書き間違えて時間なくなった。かくいうノー勉、きみはどうなんだい?」
「…3点。」本当にふざけている。これでよく人を煽れたものだ。
「馬鹿ですねー」
「名前書き間違える奴に言われたくないし。本当に大丈夫?」やけに深刻そうだ。名前を間違えただけのことが、いったいどうしたというのか。
「ただの寝不足だって。心配なさらず、ノー勉さん。」自分の点数を心配したほうが良いのではないだろうか。
「まあ、いくら寝不足とはいえ、次の英語、寝るんじゃないぞ。健吾ちゃん怒るとこっちまでビビる。」机を叩かれたときの、銃声のような音が蘇る。普段は優しくノリのいい教師であるからこそ、余計に怖い。そんなメリハリがあるところも、克樹が彼を尊敬する理由の一つだ。
「絶対に寝ない。絶対に。」だいいち、また昔の記憶を見てしまうかもしれない。過去とは決別して生きていかなければならないのが、現実だ。それにしても、どうして自分の名前を2回も書き間違えることがあろうか。自分が自分じゃなくなっていくような感覚に寒気が走る。
今日の自分は、何かおかしい。




