間≪アネットとマーチャ≫
アインはマーチャのことが好きらしい。それに気づいたときアネットは嬉しく思った。彼女を支える人間が増えるのは嬉しく、何よりもアネットはマーチャに恋愛的な感情を向けられなかった。自分が向けられない感情を彼女に向けられる彼は彼女にとって良い影響を与えるだろうとアネットは思っていた。
アネット・ノーブルは伯爵家に生まれた。彼の家は伯爵家ではあるがそれは表向きの顔で実際は王の命令により貴族の中で発生するだろう不穏因子の情報を集める諜報を行っており、伯爵家という表の顔を持ちながら王命による諜報を行う彼の家では年齢など関係なく、幼いころから対人に対する技術を叩きこまれていた。それはアネットも例外ではなかった。
彼の幸運と不幸は人並み以上に適性があったことだろう。笑顔を貼り付けることも心にもないことを言うことも、共感を高め相手が秘めている心の声を聞くことも苦ではなかった。今でこそアネットの体つきは男だとわかるが、幼い頃の彼は今よりも性別がわかりづらく、不思議な雰囲気を意識的に纏っていた。そんな彼に口を軽くする人間は多く、彼の持つ情報は年を重ねるごとに多くなっていったが、彼の顔は変わらなかった。腐ることも不満を述べることもなくただ淡々と人々に接していた。誰も彼の表情などわからなかった。そんな時、彼らは出会った。
アネットとマーチャが出会ったのは彼らが6歳の時だった。アネットはその時既に家の仕事をこなしており、知る人からは神童と呼ばれていた。勿論そんな程度の情報はアネット本人にも届いており、それは人知れず彼のプライドを育てていた。彼にとって家の仕事は知っている本を読み返すような簡単なもので、彼にとって周囲の人間は自分よりも能力が低いという認識だった。だから彼にとって父親に紹介されるマーチャという人間もそんな程度の人間だと思っていた。けれど彼の認識は彼の傲りによって砕かれた。マーチャを預けられたアネットは彼女が快適に過ごせるように接していた。穏やかな顔、柔らかい声。意識的に作られたそれは無害そのものであり、それはアネットが仕事で付けていた仮面だった。その日は穏やかな天気だった。
「それはどうやるの?」
「それ、とは?」
「それ。今の顔。便利そう」
アネットの顔に指を向けてマーチャは言う。その瞳は真っすぐにアネットの表情を見つめており、どこか光を帯びていた。表情こそ無感情な彼女だがその瞳は好奇心で満ちているが、アネットは違った。誰にも暴かれたことのなかった仮面を初対面の少女に暴かれてしまった彼の顔は凍り付いた。わかりやすく彼は狼狽し、呼吸は浅くなっていく。
「?ねぇ、止まっちゃうと危ないよ。呼吸を深くして」
「はっ、はっ、ぁ、はっ、」
「息。ここ、深く吸って。吐いて」
「はーっ、はーっ、」
「アネット!?マーチャ嬢!?」
「おやおや。予測は正しかったですね」
「お父さん。えーっと……誰?」
「マーチャ。アネット君の様子は?」
「過呼吸のなりかけ」
庭に居た二人に大人たちは駆け寄る。アネットと同じ髪色を持った男性はマーチャのその言葉にアネットの傍に近寄ると彼の呼吸を整えようとする。二人の様子を見てもうひとりの男性はマーチャに近寄る。その目にはマーチャと同じ色の瞳を持っており、不思議そうに二人の様子を見ているマーチャの頭を優しく撫でた。
「マーチャ。彼はどうだい?」
「綺麗な表情を付けてる器用な人。教えてほしい」
「そうかい。彼が良いって言ったら教えてもらいなさい」
「うん」
数日後、アネットは再びマーチャと一緒にいた。彼の表情は前回と同様で無害そうな仮面を貼り付けていたが、そこには恐れが滲んでいた。父親たちは再び子供たちを二人にすると家の中に入っていってしまった。マーチャはあの日と同じように分厚い本を持っており、アネットの様子を気にすることなくそれを読んでいた。彼女の瞳がアネットに向けられず、それはアネットの不安を煽った。
「……あの、なんであの日僕の顔が作ったってわかったんですか?」
「?見たから」
「見たからって……」
「表情びっくりするくらい計算的に動いてたから。私わかるの、自然じゃないこととか、おかしなことって」
マーチャは答えると再び本に視線を落とす。アネットは彼女の言葉にまた息が止まりそうだった。
彼はあの日の夜に父親から聞いた話を思い出した。
「アネット。びっくりしたか?」
「はい……」
「お前はまだそれを指摘されることがなかったからな。自信を損なうことはない。お前の表情作り、態度。それらは身内ということを抜きにしても技術は既に私たちに届いてる。むしろそれ以上のものかもしれない」
「っ」
父親の言葉にアネットは歯を食いしばる。父親たちはアネットの技術に気づいていたがそれについてはなにも言わなかった。それを自分は無意識の中で先達者たちのことさえ下に見ていたのだ。歯を食いしばり、手に力を込めたアネットに父親は話を続けた。
「お前のそれは敢えて指摘しなかった。私たちが言うよりも彼女から言う方が効果的だと私たちは判断した」
「彼女は何ですか……昔から馴染みのある家の長女としか、わかりませんでした」
「彼女の家は昔から私たちと親交のある学者一族だ。私たちは王家の命令によりこの家業を続けている。だが、忠誠を誓っているのは彼らの一族に対してだ。彼らを支え、彼らが知識を深める手助けをすること、それが昔から私たちが一方的にしている約束だ」
初めて聞く話にアネットの頭には疑問ばかりが浮かぶ。王家ではなく忠誠を誓っている家があること。それが一方的だということ、父親が言うことがアネットには理解ができなかった。
「再び会えばわかる。アネット。私たちは代々この技術を受け継いでいる。仕事に誇りもあるし、なにより適性があった。それはとても幸運なことだ。しかしね、仮面を被り続ける事は時に酷く自分を苛むんだよ。仮面を取ってくれる誰かを私たちは望んでいる。お前もきっとそうだと思うね」
アネットの心臓を指で指す父親の表情はとても穏やかだった。そして彼が言っていることがアネットには理解できた。彼もまたその気持ちを持っていたから。
「君は、僕がどんな表情してるのかわかるの?」
声が震えているのがアネットにはわかった。そして、自分は全く意味のない質問をしていることも。ノーブル家として、諜報を家業としている身でしてはいけない質問をしていることも。けれど彼は聞きたかった。父が言っている通り本当は誰かに仮面を取ってもらいたかったのだ。震えている声には切望の色があった。
「口元が歪んでるね。泣きそうだけどどうしたの?」
何気ない声。何もわかっていない声。こちらの仕事もアネットが持っているだろう悲しみも苦しみも何も知らない声と目で。マーチャはアネットの顔を見た。そしてその言葉にアネットの仮面は崩れ落ち、父親の言葉を理解した。
(あぁ。彼女の家は、彼女は僕たちが求めていた存在なんだ)
目に涙を浮かべながらアネットにマーチャに膝を付く。それは芽生えた忠誠心の証であり、彼の望みだった。
「どうしたの?」
「僕はアネット・ノーブル。ノーブル家の長男であり、王家の諜報員。けれど代々ノーブル家の人間がしたように貴方に忠誠を誓いましょう。僕には貴方が必要です。どうかこの忠誠をお受け取りください」
膝を付き忠誠を誓うアネットにマーチャの視線が落ちる。膝に置かれた本は閉じられ、彼女は彼に向き直った。
「私、社交界に行きたくない。人を覚えられない。誰かと話すくらいなら研究をしてたい。『死の庭』を探索したい。めんどくさいこと全部君に押し付けるよ?それでもいいなら受け取る」
「全部僕に押し付けてください。押し付けていい。貴方は貴方がしたいことをしてください。それの手助けを僕は望みます」
「……わかった。だったら私は御礼に君の仮面をいつでも取ってあげる。君が自己というものを見失いそうになったとき、その仮面を剥ぎ取ってあげる」
マーチャの手がアネットの頭に触れる。小さな庭の中で彼らの儀は成された。
「それ以来僕はマーチャの付き人みたいな感じなんだよね。付き人って言ってもマーチャの傍にいるわけじゃなくて色々手伝ってるだけだけどね。したいって言うことをさせたり、したくないってことをできるだけこっちでやったりね。彼女に仮面の作り方を教えたのも僕だよ。普段は無力で無害だって思わせた方がいいと思ったから」
マーチャの実験棟でアネットは懐かしむように彼女との昔話をしていた。話しを聞いてミーアは瞳をきらめかせ、アインは額に手を着いて深く息を吐いていた。
「素敵です……ちょっと羨ましい、です」
「……俺はお前に勝てるんだろうか……」
「二人とも全く違う感想をありがとう」
お茶を啜りながら楽しそうにアネットは笑う。あの後4人はマーチャの実験棟に来ていた。部屋の主は説明の準備と言って奥に消えてしまったため、折角なら二人の親睦を深めようとアネットは共通の話題であるマーチャの話を始めたのだった。
「まぁ僕とマーチャの出会いはそんな感じ。彼女の話をしてるとどうしても僕が出て来るからさ、先に話そうと思って」
「お前と彼女の月日を感じて俺は打ちひしがれそうだ」
「ふふ、頑張ってねアイン」
「あ、あの。マーチャちゃんの瞳って……特別なものなんですか?」
ショックを隠し切れない様子でアインは慣れたように椅子に凭れかかる。その横で控えめにミーアは手を上げてアネットに問うた。それは彼の話を聞いてミーアが気になったことであり、彼女自身マーチャの瞳に見つめられたからこそ気になったことだった。
「あぁ。そうだね彼女の眼は特別なんだよ。でもそれは本人も来たしそこで話そうか」
そういって後ろを振り向けばそこにはマーチャが居た。紙の束を持ち、分厚い本を持った彼女の顔はいつもの無力そうな表情でなく、真実を分析しようとする学者の顔だった。
「じゃ、始めようか」




