冬の奇跡
僕は、君のことを、思い出していたよ。
どのくらい時間が経っただろう。
とても寒い。
体の中がどんどん冷えていくようだ。
手足は少しも動かすことはできない。頭の中は霧がかかったようにぼんやりしていてうまく働かない。
けれどもそんな中で、僕は君のことを考えていた。
僕はもうすぐ冷たく動かなくなるだろう。
曲がってきた車に気づいたときにはもう遅かった。
ものすごい衝撃が僕の体に走り、僕はボールみたいに宙を舞って背中から地面に叩きつけられた。
しかも車は一度も止まることなくそのまま走り去って行き、僕は人通りのない夜道に置き去りにされた。
目の前にうっすら闇が広がり、体が何も感じなくなっていって、僕はもう君に会えないんだと思った。
最後に見た君は泣きべそをかいていた。僕が君を泣かせたんだ。だけどもう謝ることはできない。ずっとずっと君と一緒にいられるんだと思っていたのに。
ああこんなのってない、こんな別れなんてないよ。君に何も言えないままさよならだなんて、君に伝えたいことは山ほどあるっていうのに。
声を出すことができない僕は体中で吠えた。
あれ? なんだろう、目の前に小さな光が見える。ひとつ、ふたつ……ああ、いくつもいくつも。そうか、僕が闇だと思っていたのは空だったんだ。静かな冬の夜空を、僕は寝転がって見上げているんだね。だから、あの小さな光は星たちだ。君がよくベランダから星たちに願いをかけていたのを覚えている。
しかしその星たちはしだいにぼやけ、より小さく弱い光のものから見えなくなっていく。
星ではなく、僕の目が光を失っていっているんだ。視界が狭まり、本物の闇が夜空にとって代わろうとしている。
僕は最後の力を振り絞って目を凝らし、白銀の光を放つ星たちに願いをかけた。
どうか、どうか僕の最後の願いを叶えてください。
かすかな甘い匂いで僕は意識を取り戻した。
なじみのある、バニラのサシェの匂いだ。
目の前は真っ白い壁だったけれども、僕にはここが君の部屋だとすぐに分かった。懐かしい匂いがする。
意識がはっきりするにつれて、目の前の真っ白い壁は天井で僕は自分がベッドに仰向けになっていることに気がついた。そう、ふかふかの君のベッドだ。
僕は寝返りをうち、部屋の中を眺めた。
カーテンやカーペットなどピンク色を基調とした可愛らしい部屋だ。目がちかちかするような派手なピンクではなくて、もっと薄い、柔らかそうなピンクが部屋を暖かい雰囲気にしている。君は本当にこの色が好きだったもの。
いろいろなピンクを目で追っているうちに、これまたピンクで縁取られた姿見が僕の目に入った。
鏡の中の僕は口を半開きにして、しまりのない顔をしている。慌ててベッドから起き上がって立ち上がろうとしたら、そのとたん僕は体のバランスを崩し前のめりに倒れ、床に手をついてしまった。
それから僕はよろよろと今度は慎重に立ち上がり、姿見の前にたった。そして鏡に映る自分をしげしげと見つめて確認した。
そこには癖っ毛で栗色の髪を持つ、中肉中背の青年が立っていた。僕だ。僕は自分の顔を撫でまわしたり、鏡にお尻を向けて後姿をチェックしたり、手足を動かしたりその場でジャンプしたりした。鏡の中の僕はすべての動作を完璧にまねてやってのけた。もちろん左右は逆だけど。
そして目の前の鏡に間違いなく映っている自分に、僕は少なからず動揺した。
ほんのさっきベッドの上で意識を取り戻すまで、僕の体はとてもとても重くて、自分じゃ1ミリも動かすことができなかったはずだ。
重い体をひきずり、薄れゆく意識の中で、僕は自分の最後を鮮明に感じとっていたはずだ。
それが今はどうだろう!
僕は確かにここにいて、鏡に映っているじゃないか。
僕はもしかしたら命をとりもどしたんじゃないだろうか。
奇跡が起こって、このまま君と一緒にいられるんじゃないかと、こみ上げてくる期待を僕は抑えきれなかった。
やがてそれは喜びにかわり、喜びのはけ口に僕は窓を開けて勢いよくベランダに飛び出した。
張り詰めた冬の空気が割れて、次の瞬間、突風が僕の体を貫いた。そう、本当に僕の体を通過したのだ。僕などまるでそこにいないかのように、真冬の乾いた風が素知らぬ顔で吹き去って行った。
僕はほんのちょっとの間頭の中が真っ白になったけれど、すぐ深い穴の底へ落ちて行くような感覚で悟った。
僕はすかすかだ。
僕自身の形はあるけれどもしっかりと結びついていない、まるで雲のようだ。
ここは二階だから目の高さに空があった。重さを感じさせる厚い雲がその一面を支配していて、そのなかで裸の木々が寒さに枝先を震わせているのが分かる。
だけど僕には寒いのが視覚からなんとなく分かるだけでそれを体で感じてはいなかった。自分はいくつもの小さな粒を細い糸でたよりなくつないだようにできていて、その細い糸はいつ切れてしまうかわからないんだ、そう理解したとき、僕は急激な焦りと不安に包まれていてもたってもいられなくなった。
はやく君を探さなきゃ。
はやくしないと僕はきっとバラバラになって消えてしまうだろう。
なぜだかそれが、今の僕にははっきりとわかった。
ちょうど太陽が西に身を隠す時間だったらしく、外はいっそうどんよりとした灰色の世界となった。
家の中に君の姿はもとより、君の居場所を知る手ががりもなかった。
君を泣かせた原因のマグカップ、もともとはペアだっだけれど今は一つしかないそれがポツンとさみしそうにしているのが目に入っただけだった。
僕は自分が確かな存在ではないことがわかってから、消えてしまう前に君に会わなければという気持ちでパニック状態だった。
僕は君の家を飛び出し、とにかく君の行きそうなところを目指して灰色の街を駆けた。君はどこ? 襲いかかってくるような向かい風を全身に浴びるたびに僕は自分がバラバラになる恐怖にかられ、ただただ君に会いたいと強く願った。
しかし結局、君はどこにもいなくて、僕は途方に暮れた。
そして、気づけば君の家の前に僕は戻っていた。家の中は真っ暗だ。
「僕のテリトリーって狭いなぁ」
僕はため息をついて玄関前の門に寄り掛かった。「あ、靴をはいていない」靴下をはいた自分の両足を見てやっと気づいた。そして次にぎょっとした。両足が、靴下を履いたまま透けたような気がしたからだ。一瞬溶けるのかと思うように足全体が薄く広がった気がした。
急に鼻がつんとして目がかすみ、僕は慌てて空を見上げた。
日はすっかり落ち、濁った藍色が今はその一面を支配していた。星はひとつも見えない。
何かが頬を伝うのを感じて、それが涙だと分かり、僕はこんなふうに泣いたことがなかったから少し驚いた。それは止めようにも止まらず、あとからあとから流れた。
「星たちが君と会える最後のチャンスをくれたのに、君はいない。こんなのひどいよ。だいたい星め、やること中途半端じゃないか? これじゃあ未練残りまくりだよ」
僕はやけになって心の中で見えない星に文句を言った。口にだして星たちを怒らせて今すぐ消されたら困る。やっぱり最後まで君に会える望みは捨てたくない。
どうすることもできず、僕はその場にしゃがみこんだ。風がひとつ吹いた。
「んん?」
僕は鼻をひくつかせた。風に乗っていい匂いがかすかにした気がしたからだ。
僕の好きな匂いで、なんだかお腹が空いてくるような匂い……。
僕はのろのろと立ち上がり、ふらふらと匂いがするほうへ歩いて行った。 その匂いは僕を空腹な気分にさせると同時にとても懐かしい匂いで、まるで磁石のように僕を引き付ける。砂鉄の僕は匂いの方へまっしぐら……。
そして僕はその匂いとぶつかった。いや、正確には匂いの持ち主と。
それはちょうどT字路を右に折れたところで、匂いの持ち主は僕に跳ね返されて勢いよく尻もちをついた。
「いたた……。やだあ、こぼれちゃった」
匂いの持ち主はお尻をさすりながら、ぶつかったときに落として中身をばらまいてしまったものをせっせと拾いだした。
ばらまいたものから僕の食欲をそそるような、何とも言えない匂いが広がる。けれども僕は今その匂いどころじゃなかった。
だって目の前に君がいるんだもの。
「ちょっとおにいちゃん、拾うの手伝ってよ。風で飛んでいっちゃうよ、けずりぶし」
君は僕の記憶どおりの生意気な目で僕を見上げた。
髪をふたつに結わっているのは君のお気に入りのピンク色のぼんぼんがついたヘアゴムだ。君が失くしたとき、僕が見つけてあげた。
「おにいちゃんってば。どうしたの、口が金魚みたいにぱくぱくだよ」
「え、あ、ご、ごめん、拾うよ」
君に会ったら伝えたいことがたくさんあったはずなのに、突然の君との再会に僕の頭はこんがらがり、まずはじめに何をしたらいいかさっぱり何も思いつかず、僕はただ君の命令に従ってけずりぶしを拾ってついでに意味不明なことを言った。
「き、ききみは、さ、散歩かな、こんな遅くに。お、おいしそうなの持って」
「おいしそう? これはモモのために持って歩いてるんだよ。モモの大好物だから」
君はほとんど全てのけずりぶしをビニール袋に入れ終えて立ち上がり、もう落ちてないかなと辺りを見回しながらそう言った。僕は息を止めた。モモ、モモ、と君の声が頭の中で繰り返される。硬直状態の僕をお構いなしに君は可愛らしい声でしゃべり続ける。
「モモっていうのはね、わたしの家で飼ってる猫なの。だけどおとといの前から家に戻らないの。だからね、わたしこうやって昨日からかつおぶしを持ってモモを探してるの。ママには内緒でね」
知ってるよ。
君のママはいつも仕事で遅いんだ。だから君はいつも僕とお留守番。
「僕がモモだ」
体の中からじんとするような熱いものがこみあげてきて、それに押されるかのように僕の口は言葉を発していた。
当然ながら君は「は?」という言葉の意味が呑み込めない顔をして僕を見つめた。少しの沈黙。僕はふいにはっとして唐突なことをいった自分を責めた。ものには順序ってもんがあるだろ! しかし僕にはもうわずかな時間しか残されていなかったらしい、体が軽くなるのを感じ、見ると手が透けていた。あわてて足元を見ると足先もだ。足を構成していた小さな粒がばらけようとしている。僕は焦って君と目線の高さが同じになるようにしゃがむと、祈るような気持ちでまくしたてた。
「僕は猫のモモだよ。空の星たちにお願いして人間にしてもらったんだ。君とちゃんと話したくて……。ほら、君のお気に入りのピンクの水玉のマグカップを僕が後ろ足で割っちゃっただろう? そのことも、謝りたかったんだ」
君が割れたカップを指差し、泣きながら怒るものだから僕はたまらず家を飛び出した。
ほんとのところ、そんなに怒ることないじゃないかって僕は少し拗ねてた。だからすぐ家に戻らなかった。そのあと、この辺を縄張りにするボス猫に追いかけられて家から遠く離れてしまって、そして僕は……。
「わ、わかんない。なんでそんなこと知ってるの?おにいちゃん、誰?」
君は本当にわけが分からない、というように首を大きく左右に振りながらそう言った。眉が下がり頬が赤くなっている。
「僕はモモだよ。僕は、いつも君と一緒に……」
その先が続かなかった。
何をどう言ったら不安げに揺れる君の瞳がちゃんと僕をとらえてくれるだろう。
分からなくて僕はただ君を見つめた。
すると君は幼い顔をきりりとひきしめて、こう言った。
「困った顔がモモそっくり、おにいちゃんてば。わかった、モモってことにしといてあげる」
しょうがないなあ、というように両の手のひらを上向きにして肩をすくめるアクションをした。
やっぱり完全に信じてはもらえないのか。僕は少し寂しさを感じたが、すぐに時間がないと思い直して、ひとつ息をしてから言った。
「僕が人間になったのは、君にお別れを言うためなんだ。そのために、人間にして下さいって、星に頼んだ」
「お別れ?」
君は首を傾げた。
「うん。君の前から突然いなくなってごめん。僕はね、ずっとずっと遠くの国へ行かなくちゃならなくなったんだ。だから、さよならを君に言いにきた」
「もう、モモに会えないの? なんで?」
君は少し面白がるように僕に尋ねた。作り話だと思っているのかな。しかし僕はかまわず続けた。
「僕はもう君と会えなくなるけれど、空の上からいつも君を見守っているからね。そう、たくさんの星のように。星が見えない夜でも、また昼の空でも僕はちゃんとそこにいる。だから寂しがらないで。もう今日みたいな寒い夜に僕を探しまわったりしないで。今まで、ありがとう。行き場のなかった僕を、公園で拾ってくれてありがとう。君の、おかげで……」
僕は思わずかがんだまま君を抱き寄せた。
そして、すっかりぽかんとしている君の鼻に自分の鼻をちょん、とくっつけた。猫だったころ、そうしていたように。
君と僕との信頼の証。
「モモ……」
君は抵抗せずそのかわり、小さな口から僕の名前をかすかに漏らした。
もっと呼んで、その名前を。
君の大好きなピンク色からとってくれたその名前を。
ほら、手足の感覚がなくなってきた。
もう僕は消えてしまう。
「モモ、モモなんだね」
不思議だ。僕の体は寒さや暑さを感じないすかすかのはずなのに、今、こんなにあたたかい。猫のときに君が僕を胸に抱いてくれたときと同じあたたかさだ。
「僕、いつも君に抱っこされていたから、一度だけでも君を逆に抱っこしてみたかったんだ。こんなふうにね」
いつも僕は君に子ども扱いされていて、実は少しくやしかったのさ。人間の歳に直すと僕はちゃんと大人なんだから。
君の顔を覗き込むと君の丸い目は潤んで揺れていた。唇も震えている。僕はそっと君を離した。
「モモ、消えちゃう」
君が震える声で言った。
僕の体をつなぐ糸はついにはずれはじめ、周りの空気に溶けて行くように僕はバラバラの小さないくつもの粒に変わっていき、消えかかっていた。
見上げると厚い雲は消え、たくさんの星たちが夜空一面に瞬いていた。
さっきまで星はひとつも見えなかったのに、こんなことってあるだろうか。
きっと星たちが僕を迎えに来たんだ。もう魔法の時間はおしまい、言い残したことはないかい?
僕はゆっくりと立ち上がった。
「さよならだ。暗いから気をつけて家にお帰り。たまには、僕のことを思い出して」
君の姿が遠ざかっていく。君は僕の名前を必死に呼んでいる。けれどもその声さえ聞きとれなくなっていく。
「君のおかげで僕は、幸せだったよ」
ついに僕の体は空気に溶けて、風と共に運ばれた。
運ばれながら僕は茶白の猫に戻り、ぐんぐん夜空を駆けのぼって星の光に包まれていった。
あたたかい、星の光だった。
はじめて書き上げた小説です。読んで下さった方ありがとうございました。