第二十八話
伊藤さんは待ち合わせの時間より20分ほど早く、駅の改札口に大きなカバンを持って立っていた。スマホをみているのか、遠くにいるこちらに気づいていないようだ。時折顔を見上げてはきょろきょろしている。
「おはよう。その上着、薄くないか?」
「いえ、大丈夫です」
少しむっとされてしまった。言葉選びに失敗した。しかし本当にその薄そうな上着では秋田の雪風に風邪をひいてしまうと思った。俺は現地調達すれば良いと考えて、そのまま新幹線乗り場へ向かうことにした。
彼女の荷物は思っていたより軽かった。お礼を言われ、席についた。カバンから小説を取り出し読み始めていたので、俺は静かに寝ることにした。
ふと目が覚めると、出発と同じ態勢で小説を読んでいる伊藤さんがいた。ぼんやりとした目に映る伊藤さんはとても自然体で、安心している自分がいた。
「今、何時?」
普通に声にでてしまっていた。
「今は11時ですよ」
彼女は自分の腕時計を見て俺に向かって答えてくれた。
「ああ、ありがとう」
お礼を言うと、彼女は再び小説の世界へといってしまった。一体なんの小説を読んでいるのだろうか。
「ねえ、何読んでるの?」
「江戸川乱歩です」
「しぶい……」
「そうですか?面白いですよ」
彼女の声が遠ざかっていく。返事もせずに、再び目を閉じる。うっすらとみえた、孤島の鬼と書かれた背表紙のタイトルはだいぶホラーめいていた。確か、明智小五郎がでてこない話だったような気がする。
「今度、朗読劇があるんです」
朗読劇、最近聞くようになったが、好きな女優さんや俳優さんが出演していなければ見ることもないだろうと思いながら、ふたたび目を閉じた。到着までもう少し。いつもは重い気持ちで田舎へ帰っていたが、今回は全く違う。彼女が一緒にいるだけでこんなにも気持ちが変わるものなのかと自分でも驚いている。このことを彼女に言ったらどんな顔をするだろうか。
「もうすぐ着きますよ」
「ああ、どこへ行こうかな」
「楽しみです」
彼女の横顔はいつもより楽しそうだった。よかった。ふと暗い顔になる彼女は何か思い悩んでいるようだったが、あえて深く聞いたりはしなかった。彼女がそれを拒絶しているように感じたからだ。これは俺の直感でしかない。今まで付き合ってきた彼女は、俺の中身よりも、学歴や容姿や金銭的な面が重要だったのかもしれない。他に好きなやつができたと言われ、あっけなく別れてしまったが、それでも俺なりに彼女のことを大切にして思ってきたつもりだったのだが、彼女はそうではなかったのかもしれない。そういう、どろどろとした醜い感情が、今、俺の隣に座っている伊藤さんに漏れ出ないように接するのが精一杯だった。