第十七話
「あれ?佐藤さんお休みですか」
「ごほっ、ごほっ、ごめん。今日は会社に行けそうもない……課長に休むって伝えておいてくれない?」
「わかりました。お大事に」
油断した。昨日は走って汗をかいたが、夜風で体が冷えたようで、風邪の初期症状っぽい体調になっていた。天体観測に間に合わず、伊藤さんを待たせ、情けない。
「寒い……寝よ」
俺は悪寒がする体を縮こまらせ、ベッドにもぐった。今日1日で治さないと。だが、悪寒もするし熱もある。病院に行くにも行けそうになかった。
「まいったな」
何時間寝ていたか、あるいは眠れなかったか。咳がとまらず頭がぼーっとしていた。喉がかわいて、水を飲みに立ち上がろうとしたが、力が入らず、ベッドの前で倒れてしまった。いつもなら普通に立てるはずが、力が入らない。未だかつてない全身の痛みと頭痛に俺は混乱していた。
「やばいかも」
意識が遠のいていく中、インターホンが鳴っているような気がしたが、玄関まで行く体力もなかった。
目を覚ますとベッドの中にいた。全身の痛みや呼吸も荒れていることが目を閉じていてもわかった。
「佐藤さん」
「なんで……ごほっ」
声をだしたが、咳き込んでしまった。耳に届いたのは伊藤さんの声だ。だが、なぜ彼女が俺の部屋にいるんだ?
「すみません。会社の人に佐藤さんが休んでいると聞いて、心配になってしまって。インターホンを何度か押したのですがでなくて、管理人さんに言って、鍵を開けてもらったんです」
ぼんやりした頭でなんとか彼女の言葉を聞こうと努力をしたが、まったく頭に入ってこない。熱に浮かされている状態で、目も彼女に焦点が合わせられない。
「……」
伊藤さんを見ようとしたが、頭がぼーっとしていて顔がぶれて見える。目を開けるのもやっとのことだった。マスクをしている誰かが、なにやら動いているのがわかった。
「水、飲めますか?」
「……う」
「ちょっと、待っていてください」
返事もできない状態なくらい自分は今やばいのだろうか。少しだけ首を動かせたような気がした。経口飲料水のペットボトルを開け、ストローをさして俺の口元付近まで持ってきてくれた。
「飲めそうですか……?」
顔を横にしてもらい、曲がったストローを口に思いっきり入れられた。吸う力もないくらい苦しかったが、なんとか飲もうとしてみた。
「ごほっ、ごほっ」
失敗してむせてしまった。
「すみません!大丈夫ですか」
すぐに飲み物を置いて、タオルかティッシュで拭いてくれたが、咳込みが激しくて背中をさすってもらうことしかできなかった。俺、なんでこんな状態になっているのだろうか。もしかして流行り病にかかってしまったのかもしれない。なら、彼女にも感染してしまう可能性もあるんじゃないか?頭で考えても、言葉にしようものなら、咳き込んでしまって、うまく話すこともできない。今はただこの症状が治まるのを待つしかないのだろうか。
「佐藤さん、着替えもってきました。着替えられそうですか?」
「……」
伊藤さんが何か言っているが、言葉も体も重くてなにも反応できなかった。
「すみません、失礼します」
有無を言わさず部屋着を脱がされ、体を拭かれた。呼吸がつらかったのが、少しだけ楽になり、気持ちが良かった。汗でベトベトになっていたから、ひんやりとしたタオルが気持ちよく、彼女はなんのためらいもなく首すじから背中、胸やお腹まわりも拭いてくれた。まだ回らぬ頭でもさすがにズボンやパンツを脱がされるわけにもいかず、
「ごほっ、自分でやる……ごほっ」
声をしぼりだし、タオルを受け取る。
「わかりました。下着、ここにおいておきますね」
彼女はそういうと、静かに部屋を出ていった。ぼんやりしながら下着をかえていたら、洗濯機がまわる音がした。
「なんで……」
なぜ彼女がここにいるかは後で同僚に聞かないと。しかし今はそんなことを言っている場合ではない、むしろ感謝でしかなかった。しかし今は頭がぼんやりして何も考えられない。あとでお礼を言わないと……。
どのくらい寝ていただろうか。目を覚ますと、キッチンのほうでなにやらガタガタ音がした。なにか作っているのだろうか。もしくは片付けているのかもしれない。流し台にはコップやペットボトル、食べたレトルト食品の残骸が増えていた気がする。洗う気にもなれず、置きっぱなしになっていた。普段は一人きりが気楽でいいが、風邪などひいたときは一気に不安になる。人間は都合の良い生き物だ。子供の頃は母が看病してくれたが、もう大人になって看病してくれる人はいない。彼女もずいぶん前に別れてからずっと一人だから、連絡する相手もいなかった。だから、今、家に誰かがいる感覚が懐かしくもあり、ありがたかった。それより、今は何時だろう。
そして再び目を覚ましたら、体も頭も気持ちスッキリしていた。薬もおかゆも水分もとったからか。睡眠時に咳もでることなくぐっすり眠れた。立ち上がったら、まだフラフラするので、ゆっくり寝室からでて、トイレに向かう。途中、暗闇の中、ソファーで寝ている彼女を見つけた。寝心地は悪そうだったが寝ていたので静かに通り過ぎる。明日起きたら感謝の言葉をかけなければ。そう思って再びベッドにもぐりこんだ。
「ん、だいぶ良くなったかも」
「伊藤さん?」
部屋の中には彼女の姿はどこにもなかった。キッチンに置き手紙と小さなおにぎりがおいてあった。
「おはようございます。会社へ行きます。まだ本調子ではないと思いますので、無理しないでください。お大事に」
短い文章だが、彼女らしさを感じた。仕事のときの少し雑な筆記ではなく、丁寧に書かれた文字。そして彼女の小さい手で握られた塩むすび。まだ完全に冷たくなっていないので、少し前まで彼女はいたのかもしれない。おにぎりを食べて、薬を飲む。
俺はスマホで会社に連絡する。まずはシャワーを浴びて着替えなければ。半日くらいなら会社に行けそうだ。
「もしもし、佐藤です。だいぶ体調よくなったので、午後から出社します。すみません、はい、わかりました。その件は会社についてから確認します」




