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第十六話

「今夜、皆既月食があるんですよ」


「皆既月食」


 俺は職場の休憩スペースで、ほぼ発声したことのない熟語を声にだしていた。朝のニュースでそんな話題をアナウンサーが話していた気がするが……そして伊藤さんが天体好きなんだと知った。


「今夜の天気は晴れですよ。私、楽しみで。仕事終わってから見えるかな……」


 スマホで天気予報を調べて喜ぶ彼女の顔は朝から緩んでいるように見えた。仕事中はいつも仏頂面しながらパソコンに向かっているみたいだが、今日は皆既月食のことで頭がいっぱいのようだった。


「ねえ、その皆既月食、何時からあるの?俺も一緒に見てもいい?」


「佐藤さん、皆既月食に興味あるんですか?いいですよ。見るといっても肉眼ですけど大丈夫ですか?」


 一瞬、間があき意外そうな声が返ってきた。普段だったら「いえ別になんでもありません」くらいで終わってしまうことも少なくないのに、よほど嬉しかったのだろうか。仕事が片付き次第、合流して天体観測もいいなと思ったのだ。


「こうみえて俺も、昔は星見るの好きだったんだ。田舎だとよく見えたしね」


「佐藤さんってご出身は」


 話を続けたかったが、スマホがふるえていたので、話を遮り、休憩スペースからでることにした。伊藤さんには、ごめんと口パクで言って手をふった。彼女は俺が一緒にみてもいいかと誘わなければ一人で見ていたのだろう。こんな都会で空を見上げる人はいったいどれくらいいるのだろうか。


「さてと、頑張りますか」


 伊藤さんの顔を思い浮かべると、少し楽しみだった。俺はパソコンに向かってデータの整理をしていた。


「佐藤、ちょっといいか」

 

 就業終わりに上司から声をかけられた。これは危険信号だと察知したが、断れるはずもなかった。


「はい、なんですか?」


「この会社の資料、まとめておいてくれないか。明日の朝、会議で使いたいんだ」


「……わかりました」


 机に戻り、ため息をつく。これは残業決定じゃないか。彼女に一言連絡を入れねばと思っていたが、まずはコーヒーを飲みに行こうと席をたった。


「佐藤さん、お疲れさまです」


「お疲れ様」


 こちらから行こうと思っていたら、彼女の方から来てくれた。


「すまない、仕事を頼まれてしまって、まだ帰れそうもないんだ」


 彼女に正直に話す。


「そう、ですか。お仕事お疲れさまです。9時ころまで皆既月食やっていますので、もし時間に間に合えばご一緒できたら嬉しいです」


「わかった。終わったらいつもの場所で」


「はい」


 彼女はちょっと寂しそうな顔をしていた。これは仕事を早く終わらせないと。俺はいつもよりも気合を入れて残業に取り組んだ。


「はぁ、はぁっ、間に合うか……」


 ビル街をかけぬけ、酔っぱらいのおっさんたちを避けながら、彼女といつも会う静かな場所へ急いだ。8時50分を過ぎていた。


「もう、帰っちゃったかな」


 俺は息を切らせながらいつも彼女と会う場所へ到着した。スーツのネクタイをゆるめた。すでに時刻9時をすぎていた。皆既月食は終わってしまったようだった。きれいな満月を俺は睨んだ。あと少しだけ早く終わらせればと後悔していた。


「あ、佐藤さん、お疲れ様です」


「伊藤さん、お疲れ様。ごめん、間に合わなかったね。帰ってもよかったのに」


「何言っているんですか。一緒に天体観測してくれるって言ったのは佐藤さんですよ。帰るわけないじゃないですか」


 彼女は缶コーヒーを二つ手に持っていた。買いに行っていたのか。


「お仕事、お疲れさまでした。よかったらどうぞ」


 手渡された缶コーヒーはぬるくなっていたけれど、あたたかかった。


「ありがとな」


「いえ、私の方こそありがとうございます」


「皆既月食、終わっちゃったな」


「そうですね。月食は終わってしまいましたが、見てください。とってもきれいな満月ですよ」


 そう言って月を見上げる彼女の目はとても澄んでいた。俺はただ、月ではなく彼女の横顔を見ていた。


「佐藤さん、月ってなんで遠いのに近く感じるんでしょうね」


「え?」


 月が遠いのは距離的な問題なのはわかるが、近く感じる彼女の感性は俺にわかるはずがない。彼女は月が好きなんだということなのだろうか。


「私、小さい頃から月を見ていました。三日月も満月も、いつも私のそばにいてくれて、友達とは違うんですけれど、なんだか遠く感じないんですよね。おかしいですかね」


「いや、そんなことないよ」


 俺は月を見上げて彼女の言葉を受け止めた。俺は彼女のことが好きだ。地味でちょっとずれているけれど、月の話をする彼女は全身で楽しさと嬉しさが表れていて、ほっとした。


「体、冷えてないか?そろそろ帰ろう」


「はい、佐藤さん、ありがとうございます」


「風邪、ひくなよ」


「はい」

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