淑女教育とお見合い話
夜会の会場を辞して、グランドとチェルシーは公爵家の馬車に乗り込んだ。
王太子殿下と会話をした後から、グランドを取り巻く空気が凍てついて、チェルシーが話しかけられる状況ではなかった。一言も口を利かず、慇懃に目礼のみで辞してきたグランド。遠巻きに見つめていた令嬢達が「氷結の貴公子様。あぁ、あの冷たい瞳で見下ろされたいわ」などと呟いている囁き声が聞えてきていたが、実際見下ろされている我が身としては、今すぐにでも立場を替わりたいと痛切に思った。
馬車に乗り込んで二人っきりになった瞬間、
「チェルシー、酷いわ。わたしって者がありながら、殿下と親しく言葉を交わすなんてぇ~~~~」
ハンカチを口元に加え、ウルウルと涙目になるグランド。つい先程まで夜会の会場の全ての女性を虜にしていた氷結の貴公子様はどこへ行ってしまったのか。泣きたいのはこっちである。
「グランド様、殿下は夜会でこれ以上騒ぎが大きくなる事を避ける為に、わたくし達のところへきてくださったんですよ?オネエダモン公爵家がアバズレン侯爵家と事を構えるのを避ける為に、です。感謝こそすれ、文句などと....」
「だって、だって、チェルシーはわたしの婚約者。この世で唯一な存在なのよ?それなのに、あんなに慣れ慣れしく話しかけてきて。おまけに.......」
「おまけに?」
グランドの言葉が止まった事に、チェルシーは不思議そうな顔をして小首を傾げる。
(アイツ、チェルシーを狙っているのよね。チェルシーは気が付いてないけど。わたくしのチェルシーの魅力にいち早く気が付いたのは、これからマンカラーノット国を背負っていく後継者として見る目があると感心するけど、でも、わたくしのチェルシーに横恋慕なんて、絶対に許さないんだから!チェルシーに気をつけてって言いたいけど、チェルシーはまだまだお子様だから、アイツの事を口にしたら却って変に意識しちゃいそうだから、言うに言えないのよねぇ~)
不思議そうな顔をして見つめてくるチェルシーに、グランドは大きなため息をついた。
「兎に角、アバズレン侯爵令嬢は領地で療養をすることになったし、多分、そのままどこかへ嫁がれる事になるから、大丈夫でしょう。でも、暫く、夜会に行くのは見合わせましょうね」
「は~い」
「チェルシー、淑女は語間は伸ばさないの」
「...はい」
国内中の女性を虜にする公爵家令息に、淑女としての嗜みを指導されるチェルシー。立派なレディーになる道のりは遠い。
夜会から3か月後。チェルシーはアバズレン公爵家で、公爵夫人になるべく淑女教育を受けていた。
田舎とはいえ、一応チェルシーも伯爵家令嬢で一通りの淑女教育を受けてはいるのだが、公爵家ともなると王家との繋がりや、他の貴族家の頂上の位置にある。そんな公爵家を切り盛りしていく夫人となるには、まだまだ教育が足りていないのだ。
「チェルシー様、公爵家夫人ともなれば、社交界での最先端、流行を作り出していかねばならない立場です。ドレス、アクセサリー、美容などetc。一つの事柄を深く...までとは申しませんが、広く知っていなければなりません。侯爵家の家計の切り盛り自体は、伯爵家でお手伝いをされていたみたいですから、まずまず及第点ですけど、肝心の織女としての嗜みが.......」
ロッテンハイマー元伯爵夫人が困った顔をして、チェルシーの手元を見つめていた。
ルシアナ・ロッテンハイマー元伯爵夫人は、亡くなられたオネエダモン公爵夫人のリアンダ様の妹だ。
ロッテンハイマー伯爵家に嫁いでいたが、夫のロッテンハイマー伯爵が若くして病に倒れ、二人の間に生まれた一粒種の子息、リスタンの後見人としてロッテンハイマー伯爵家を守ってきた未亡人だ。リスタンは2年前に妻を迎え、正式に伯爵家を継いだ後、ルシアナは貴族の令嬢に淑女教育を指導してのんびりと暮らしていた。リアンダと2人、社交界の華と呼ばれていたルシアナの淑女としての経験値は国内でも高く認められ、指導を乞う令嬢がひっきりなしにロッテンハイマー伯爵家の門を叩いていると言われていた。チェルシーの手元には、刺繍途中のハンカチが一枚。ロッテンハイマー夫人と2人で花瓶に活けられた淡いブルーのバラをモチーフに刺繍をしていたはずなのだが、チェルシーのハンカチには、どうみても魚?と言いたくなるようなバラの花が刺繍されていた。
「申し訳ありません。ロッテンハイマー夫人。わたくし、どうしてもこういった事は苦手で.....」
シュンとうなだれるチェルシーを見て、ルシアナは苦笑した。
「チェルシー様、どうぞルシアナとお呼び下さい。誰にも得手不得手はございますから。公爵家夫人ともなれば、社交が忙しく、刺繍をゆっくりしている暇もなくなるとは思いますし。それに...」
「それに?」
どういう意味かと夫人を見るシャルロッテに、ルシアナは微笑んだ。
「いざとなれば、刺繍の名手にお願いできますもの」
「刺繍の名手?ですか」
(誰だろう?グランド様の事かしら。確かに、わたくしの刺繍よりもグランド様の刺繍の方が数倍素晴らしいものね)
頭の中で想像をめぐらすチェルシーを見て、ルシアナは悪戯そうに微笑んだ。
「え?夜会にですか?暫らくは夜は見合わせると.......」
城から戻ってきたグランドに、チェルシーが問いかける。
「そのつもりだったんだけどぉ~、殿下がどうしても参加して欲しいって言い張るのよねぇ。全く、此方の都合もお構いなしで困っちゃうわ」
湯あみを済ませて、室内着に着替えたグランドがチェルシーが座るソファーに腰掛ける。チェルシーの隣に座るグランド。グランドの身体からほのかに香るソープの香りに、チェルシーはドキドキして、赤らめそうになる顔を必死につくろっていた。
「どうして、そんなにグランド様を参加させたいのですか?何か重要なお客様でも?」
警備上の都合なのだろうか?グランドの父、騎士団長のジェイソンは、今、国境の辺境伯の領地に視察に赴いており、当面不在の予定だ。
「確かにねぇ、重要って言えば重要かしら。シッコーイ国のカルティナ第ニ王女がブレードの婚約者候補として見合いに見えるらしいのよ」
「ブレード殿下の婚約者候補ですか?」
確かに、ブレードにはまだ婚約者がいない。グランドと人気を二分する美形の王太子。国内外から沢山の釣り書きが宰相のところに届けられているとは聞いていたが....。
「えぇ。そろそろ叔父上が本気で殿下の婚約者を選定するつもりなのよねぇ。これまでは、美しいものは見飽きて食指も動かないと豪語して釣り書きを見向きもしなかったから、とうとう叔父上が業を煮やしたみたいよ?カルティナ王女はブレードより一歳年上だけど、とても美しく才色兼備な方だと聞いているから、あのブレードには丁度いいかもしれないわねぇ」
ふふんと楽しそうに笑うグランドに、チェルシーが尋ねる。
「グランド様?ブレード様に婚約者が出来る事がそんなに嬉しいのですか?やっぱり従兄弟だからですか?」
ニコニコしながら無邪気に尋ねるチェルシーに、グランドは少し後ろめたそうな笑みを浮かべた。
「そ、そうね。やっぱり大事な従兄弟だもの。わたしみたいに素敵な婚約者を早く見つけて欲しいって思うし。それに」
「それに?」
「従兄弟のブレードが結婚してくれないと、臣下のわたしが先に結婚できないじゃない?わたしは一日でも早くチェルシーを妻に迎えたいんだもの」
隣に座っていたグランドが、チェルシーを横目に見る。グランドの妖艶な視線に、チェルシーは心臓がドキドキして顔が真っ赤になった。
(ふふふ、可愛いチェルシー。早くチェルシーを食べちゃいたいわ)