Ⅶ+epi
Ⅶ
雲一つない、澄んだ空の下を歩く。
川沿いの景色には、周りを遮るものがない。この風が雲まで消し飛ばしてしまったのだろうか、なんて想像してみて、それが案外ただの想像とも限らないな、なんて思ったりもして。鼻から入ってくる冷気が、頭の中を静かに研いでいく。
私はマクドナルドに行った帰りを歩いていた。袋の中には、二人分のテリタマとポテトと、それからホットコーヒーにホットミルク。
「私たちは毎年一緒にテリタマを食べる約束をした。」
先程読んだばかりの言葉を、口の中で弄ぶ。今年も、一緒に食べようか。君の墓前にも備えよう。
思い出を、きちんと残していたことが、私はよほど嬉しかったらしい。蘇ったばかりのそれを繰り返し頭の中で再生した。若い頃の君の面影がそこにはあって、笑顔があって、甘い時間と幸福があった。
「pppp……」
唐突に、ポケットに入ったスマートフォンが震えた。取りだして画面を見れば、飯島からだった。
「やあ、どうした急に。」
私の言葉に、彼はしばし沈黙した。
「いや、急に悪いね。今外かい?」
「そうだけど、悪いことはないさ。今はね、ちょっとした事情でマックが食べたくなって。テリタマを買ってきたんだよ。」
「テリタマか、懐かしい。君も案外胃が若いね。事情と言うと?」
飯島の声は多少不機嫌そうに聞こえた。
「あんまり執着するなと、君には言われそうだがね。先日死んだ妻との、若い頃の思い出が書かれたノートが出てきたんだ。はじめて一緒にテリタマを食べた日のことを読んだら、どうも食べたくなってね。」
飯島はまた少しの間黙っていた。
「君は、最近ニュースを見たかい?」
「ニュース?どうだろう、テレビは基本的についているが、あまり、どうだろう。」
「いやあ、どうやら僕の杞憂だったみたいだ。まあ、丁度いいね。先に僕が教えておいてあげるよ。君、奥さんの名前はなんだったっけ。戒名じゃないよ。」
「うちの妻は、ハナさん、ハナエだよ。」
「そうだったよね。いや、そう複雑な話じゃなくてね。つい先日、埼玉で殺人事件があったのさ。旦那が嫁を刺して、悲鳴を聞いた近隣住民が通報。嫁は病院で死に、旦那は逮捕。」
「そんな事件があったのか。知らなかったな。…それで?」
「相変わらずだね。君の反応が悪すぎるせいで勿体ぶった僕が恥ずかしいじゃないか。その夫婦、旦那の名前がハルカ、嫁の名前がハナエさんだよ。君はそういう物事にすぐに釣り込まれる人間だろうから、勝手に意識して落ち込んでたら説教してやろうと思ったのさ。」
そんな注意書きを聞いてさえ、私の頭には自分が彼女を殺している画がごく自然に浮かび上がった。「あら、こんなニュース、あなただって知ってたでしょう?」君は知っていたのかい?「勿論。テレビで流れていたじゃない。それに多分、昼間あなたの部下たちが話していたのだって、その話だったと思うわ。」それで、あんな風に私を遠ざけたのか。いや、全く知らなかった。「そんなのは嘘よ。あなたは知っていたけど、どうでも良かったんでしょう。運命的に思える符合すら、本当はどうでも良かったんでしょう。」
「…どうした、何を黙っているんだい?いいから、少し聞きたまえよ」
「ああ、申し訳ない、」
「君が、奥さんに相当入れ込んでいたことは分かるよ。あの人のために、君は僕たちと袂を分かったんだから。君が捨てたものの大きさが、それを物語っている。それを今更否定する気はない。」
「何がわかるのかしらね。あなたは愛してすらいなかったのに。捨てたことだって、すべて言い訳の足しでしょう。」
「奥さんがいる間は、その人が許してくれるなら、それが答えだったかもしれない。だが、もういないんだ。君は今の自分について認識しなきゃいけない。」
「許してくれた、ですってよ。何を根拠に言うのかしら。」
「君、どうせずっとその人の事を考えているんだろう。」
「考えた気で、の間違えね。」
「だけど、分かっただろう。君の目が少しでも外に向いていたら、君と同じ名を持つ男が、君の奥さんと同じ名前を持つ女を殺した話に気が付かない訳はない。どうせ、また答えの出ない内省と、自己否定に安住しているんじゃないか。君はその人のことを考えているんじゃない。考えた気でいるだけだよ。」
頭の中で、ずっと響いていた声が黙った。
「君はね、昔からそうだ。自分と他人の境界が曖昧で、傲慢で。ほら、君が執着した彼女がどんな思いで死んでいったか、言ってごらんよ。彼女のことで延々内省を繰り返しているなら、相当な恨み言でも言われていなきゃいけない。それがないのに繰り返しているなら、君は相変わらず馬鹿で自分勝手で、結局は自己弁護がしたいだけの最悪な男さ。聞いているのかい?」
頭の中で、響くはずの声は相変わらず静かだった。その声は、彼女の最後の言葉を教えてはくれない。そして私は、質問に対する答えを知らない。
「…聞いているとも。」
「やっと返事をしたね。どうせ、今まで全部が図星だったのだろう。いいさ。大学の頃のように、君の面倒を細々見てやる気は僕にはないんだ。昔と違って、やっと僕の言葉にも値段がついた。待ってる読者がいるからね。君宛の言葉はここまでだ。」
「ありがとう。君にそんな優しさがあったとは知らなかった。」
「それだけ言えるなら大丈夫だろうよ。」
電話は切れた。思わず笑ってしまう。彼は未だに私を心配してくれているらしい。
スマートフォンをポケットに仕舞って、川に向き直った。再び歩き始めるには、少しだけ時間が欲しかった。
ねえ、君。「何?」不思議なもので、飯島にあんなに言われて分かったんだけどね。私は、ハナさんを愛していたんだと思うよ。「そう」。私の世界は私のもので、だから私が自信を持って愛していたと言えば、それできっと解決だったんだ。「今更そんな結論に帰るのね」。今の気分だけだとは、思うんだ。だけど、やっとそんな気分になったんだよ。「そう」。あのさ。一つだけ聞いて良いかな。君には分かるかい?彼女の最後の言葉。「あなたの知らない事は、分からないけれど。最後は笑っていたわよ」そうだね。苦痛の中、幸せそうな顔を私の方に向けてくれた。
川に向かって、空に向かって、大きく両手を広げる。
こんな事を言うのは変だけど、ありがとう。「もう、呼ばないでね。」どうだろう。「彼女の時と違って、私との別れはあなた次第で綺麗な幕引きが出来るんだから。」じゃあ、私は私一人きりの人生に帰るよ。「言ってみなさい。私は、誰?」
「君は、私だ。ハナさんはもういない。頭の中で喋るのは、全部私なんだよ。」
何かを抱きしめようと広げたままの両手は、静かに下ろされた。
エピローグ
家に帰ると、私は真っ直ぐに彼女の前に向かった。仏壇に座って、手も合わせずに位牌を取り上げて抱きしめてみる。それから、遺影に口づけをしてみる。
私の心には、なんの動きもなかった。そこには、彼女はいない。彼女はこの世界にはもういないのだと、そんな事実だけがあった。だから私は、貪るように二人分のハンバーガーとポテトを胃に詰め込んだ。油と重さにげんなりしながらも、なんとか食べ終えた。もう冷たくなったミルクを飲んでいたら、頬を涙が伝った。彼女が死んでから、結局一度も泣いたことのなかったのに、気がつけば咽び泣いていた。寂しくもあった。悲しくもあった。辛くもあったし、懐かしんでもいた。けれど、何故自分が泣いているのか、私には分からなかった。そんな事を考えるくらい、頭の中は冷静なのに、涙だけがぼろぼろとこぼれ続けて、私の嗚咽だけが部屋に響いた。
やっと泣き止むと、換気扇の下に立って、続けざまに煙草を数本吸った。これからの事を考えてみたが、何も思いつかなかった。何をしたいのか、私の人生をどうするか、それを探すことからまた始めなければならない。
私の人生を、私が背負う。当たり前の事に、もう老齢近くなって初めて取りかかるのだ。
そのまま寝る気分には、どうしてもなれなかった。何かを始めた証を残さないと、明日にはこの決意も全て消し飛んでしまうだろうという確信があった。
だから、ノートを持ってきた。それからボールペン。
3/18(月)
今日は、テリタマを食べた。