Ⅵ
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「おはようございます。」
「ああ、おはよう。フクタ君。」
私の事を「フクタ」と呼び続けるその上司は、今日も柔らかい表情を浮かべている。私も笑顔のままにすれ違おうとすると、相手がこちらに身体を向けて足を止めた。
「どうだい、暮らしの方は…、ちゃんと回ってるかい?」
途中で挟まれた一瞬の間に、言葉を選ぼうとしている様子が見て取れる。彼は、以前の部署で彼の直属の上司であった人だった。今ではお互いに少しばかりの役を担う立場だが、その頃の関係性は変わらず続いてた。
「ご心配をおかけしまして、一人になってまだ慣れない事も多いですが、却って忙しさで気が紛れているような所もありまして、ぼちぼち元気にやっています。」
「そうだね、そういう部分もきっとあるだろう。今度久々に飲みにでも行こうか。最近の若い部下達の愚痴でも話そう、おじさん同士で。」
彼はわざと大げさに肩を使って、冗談めかして言った。
「是非、お供させてください。でも、私の部下の若い者たちは皆優秀なので、そう面白い話ができるか分かりませんが。」
「あ、フクタ君ずるいぞ、僕が冗談で言っているのを分からない君じゃないだろう」
半分冗談、半分は本気で焦る元上司を見て、私は少し笑ってしまった。
「失礼しました。冗談です。楽しみにしております。」
私たちは笑顔で別れた。
古びた庁舎。うっすらと日に焼けて黄ばんだ大理石の床を歩く。私はこの建物が好きだ。もし言葉にするなら、“穏やかな、緊張感の名残がある”とでも書くだろうか。なんだか伝わりづらいような気もするし、伝えたいとすればそう書くような気もする。
すれ違う清掃員や、他の課の職員に笑顔で会釈しながら、庁舎の奥まった場所に存在する自分の課へと向かう。目的の場所へと近づくにつれて、踵で床を叩きコツコツと足音を立てる。足音高く訪れる上司というのは、一見威圧的だが、実際には来たタイミングが分かりやすい方が部下にとっては楽らしい。これは、私がこの数年で学んだ事だった。
「おはようございます。福田係長」
「おはようございます。」
部下達は、パソコンに向かいながらチラとこちらに顔を向けて朝の挨拶をくれる。決して暇ではない中で、有り難い事だ。おはようおはようと一人一人に小さく返しつつ、歩みを進める。一番奥に座った課長に、数日の休みを詫び、それからお礼を言った。
部屋の右奥に置かれた自分のデスクに座り、机の上に乱雑に投げられたままになっている職員証を首にかける。パソコンの電源を入れたところで、一人の部下が胸に書類を抱えてきた。
「あ、係長。共有アカウントのログインパスワード変わりました。最後の数字が7から13になってます。」
「ああ、ありがとう。金里さん。そっちの書類は?」
「最近入った臨時職員の山田さんの契約についてまとめてあるので、確認と印鑑をお願いします。人材課が早くってうるさいので、出来るだけ早めにしていただけると。」
「分かった。すぐ見ちゃうよ。これは、確認したら君に渡せば良いかな?人材課に私の方で出しておこうか?」
「係長は多分今日忙しいと思うので、確認終わったら私に声をかけてもらえれば。」
「そうか、じゃあお願いしよう。とりあえず目を通すね。」
「お願いします。」
真面目な部下は、小さく頭を下げてさっさと自分の席へと帰って行った。
その書類を読み終えないうちに、入れ替わり立ち替わり部下達が私のデスクを訪れては書類を置いていった。溜めていた業務を確認しているだけで、午前中は忙しく過ぎていった。
庁舎には、地下一階に食堂が用意してある。実用的に作られており、数種類の定食が全て500円ほどで提供される。しかし、特にこの10年ほど職員の半分以上が弁当を持ち寄っているので、そこまで混雑はしていない。
私は、いつも通り短い列に並んで、食券を購入し提供口へ向かう。昼飯は大抵ここでアジフライの定食を食べた。安っぽいフライではあるが、揚げたてが出てくるだけで十分に美味しい食事だった。
バラバラと職員が固まって座っているのを眺めながら、端の方の空いている席に一人腰を下ろした。
時々、大きな笑い声が響く。ちらと目を向けると顔を赤くして恥ずかしそうに焦っている中年の女性が見える。平和な昼食時だった。
何故だか、時々自分の名前が呼ばれた気がしたが、それは結局勘違いだった。一人で食事をしているのだ、まあ呼ばれる事などあるはずはない。
部署に戻ると、部下達が固まって喋っていた。昼食時それぞれの席でちらほらと会話をしている様子はよく見かけるが、集まっているのは珍しい。なんとはなしに、近づいて行くと、突然にその中の一人が輪を離れてこちらに向かってきた。
「福田係長、お昼休みにすみませんが、先程確認をお願いした資料、見ていただけましたか?」
「ああ、構わないよ。君から出されたのはどれだっけ。今日見たものはいくつもあってね。」
部下に促されるままに、私はデスクについて、書類を確認した。急ぎではあるものの、今すぐに必要と言われる事には少し疑問があったが、何か困るわけでもないので口にはしなかった。
「じゃあ、これ。判は押しておいたから。よろしく頼むよ。」
「はい、ありがとうございます。」
「君たちはさっき、何を盛り上がっていたんだい?」
微笑みを浮かべながら、冗談めかして聞いてみた。
「ああ、いえ。大したことでもないんです。吉村が、またちょっとしたミスをしてた事が分かって。でも、もう解決されました。」
「そう、それなら良かった。後輩の面倒もありがとうね。」
彼女は、軽く頭を下げて自分のデスクに帰って行った。見てみれば、さきほどの輪は既に解散されていた。
吉村というのは、課の新人である。どうもぼうっとした所のある若者だが、妙に人に好かれるところがあった。それにしても、そんな風な集まりには見えなかったし、仮に彼のミスだとすれば、私の元には報告がないと変だ。疑いに確信もなければ、邪険にされたとしてそれにふて腐れる年でもない。私は自然に午後の仕事へ取りかかった。
溜めていた仕事の大方が片付いたかというところで、その日は定時になった。出来れば残り少しを終わらせてしまいたいような気持もあったが、肩書きを抱えて残業するという事はもう推奨されない世の中だ。ちらちらとこちらを気にしてくれる課長の目も気になる。その日の内に絶対という仕事の残っていない以上は、帰るべきだろう。
庁舎の自動ドアの開いた瞬間に、冷気が一斉に顔にぶつかってくる。首に巻いたマフラーを顎まで持ち上げながら、もう真っ暗の中を駐車場へと急いだ。
暖房の効いた車内で、落ち着いて煙草を吸おうかと思ったが、やはりそれは取りやめてギアをドライブに入れた。昨夜からずっと私の心を掴んで離さないものがあった。「折角少し気分が上向きになったんだから、そこでやめておけば良いのに」。私の性格について、君はよく知っているでしょう。「怖いんでしょう。見たくないものがまだ隠れているかもしれないって」。違うさ。この安心を確かなものにしたいんだ。「同じ事よ。見方を変えるだけじゃ、変わらないことだってあるの」。そういうものかな。
信号待ちをしながら、煙草を一本引き抜いて火をつけた。窓を開けると一気に冷気が流れ込んでくる。車内に漂った白いもやは、車が走り出すと同時に吹き飛ばされた。「ほら、灰が落ちるわよ」。右手を窓の外に差し出して、灰を落とす。「灰皿に落としなさいよ」。ごめんなさい。
次第に光の減って行く田舎の道を、いつもより飛ばして帰る。少しだけ上向きな気分に任せて。煙草の味はよく分からなかった。
明かりをつけて、慌てたようにしてスーツを脱ぐ。ジャケットをハンガーに吊し、ズボンを折り目にそってたたみ、ネクタイを外したら、Yシャツを脱衣所の籠に投げ入れる。部屋着を着つつ、流石に寒さを感じてエアコンのスイッチを入れた。
コーヒーメーカーをセットして、やっと一通り落ち着いたところで、隣室へと移った。今日も静かに微笑んだままのあなたの前にそっと膝を下ろす。「ただいまが随分後回しね」。
ただいまの挨拶。口吻、抱擁、愛の語らい。あなたの生きていた頃にも、いつからかしなくなっていたそんな行為の全てを詰め込むような気持ちで捧げる祈り。「そんな祈り、届ける先はもういないのに。手遅れよ、手遅れ」。そうかもしれないね。
目を開けて、体勢をといてから彼女の方を見つめて、立ちあがる。気づけばコーヒーメーカーの立てる重い雨のような音も消えている。
まだ熱いコーヒーで満たされたカップを、自分の手の届く、そしてまた倒してしまわない距離の床にそっと置く。私はこんなものを散々倒してきているのだが、無造作に床に置く行為が好きだった。
やはり昨日と同じ青い表紙の最後のノートを開く。
1月24日の頁から再開して、読み進める。同時に懐かしい思い出たちはハラハラと蘇る。ぼんやりとした幸せな記憶に肉がつき、景色が、君が、そしてやはり私が浮かび上がる。三人称視点で頭の中に流れる蜜月の日々。
彼女がいて、学問があって、部活動があって、アルバイトがあって。今となっては、信じられないほど幸せな日々が、当時の私なりの苦悩と共に描き出される。
2/6(木)
今日は、なんとなく考えただけの事を書き留めておく。
いつだって、幸せというものは過ぎてから分かる。記憶は美化されるものだと言うが、それだけではないと思った。多分、それはとても大きな画なのではないだろうか。例えば明日の神話のようなサイズ感。そこにあるとしても、目の前にあっては捉えきれない。細かい部分だけを見れば、それはもう別のものになってしまう。細部から全体を想像する事は出来るだろうか。それとも、全ての物事を一歩引いた場所から眺めたら良いのだろうか。今、これを書きながら再び考え直してみると、現在にのめり込んで、幸せを幸せとも思えないまま必死に生きることと、一歩引いた場所から生暖かい目で幸せを眺める事と、そのどちらが本当に善いのかなんて事まで考えなくてはいけない気にもなる。
何が言いたいか。私は彼女と今ある幸せを感じていたいし、いつかそれを幸せだったと振り返りたい。大して目新しさのない事を書いてしまった事にはそんな思いがある。これを、忘れてしまう瞬間があってはいけないという自戒を込めて。
なるほど、人はそう簡単に変わらないものだ。そう思った。
なるほど、人というのはすぐに忘れるものだ。そう思った。
私は確かに、こんな考えを延々と引きずってずっと彼女と生きていた。考え込みすぎて、目の前の幸せを焼き付けるには内に籠もりすぎたし、満喫するには身を引きすぎた。若い頃のお前が考えたそれは、きっと忘れる時間の必要な事だったんだよ。たまに思い出して眺めたらまたしまい込むくらいで丁度いいものだったんだ。「そうやってすぐに何にでも答えを求めようとする感傷的なところ、やめたら?」。まあそう言わないでくれよ。答えはどこにだって転がっているんだ。これもその内の一つだと言うことは本当だよ。「じゃあ、それが答えでも良いけれど。その答えに大した価値がないということは認めてくれるかしら?」まあ、良いさ。私は基本的に価値のある事を考えるほどの頭は持っていない。「今度はいじける気?」
頭の中で聞こえる声を振り切るように目線をノートに戻した。流れて行く大学最後の二月の記憶。授業も終わり、4年間かけて愛した友人と環境をだらだらと満喫する私の姿がそこにあった。あなたの事ばかり見つめる私がそこにいた。何も書くことのない日と、友人と大学生活最後の会合を持った日との間で、文量に大きな差がある。意味を取らずとも、その視覚的情報だけで十分なくらいだ。
あの時代と、それからの数十年を比べてみたくなった。だが、それは叶わない。学生時代の思い出は今鮮明に浮かんでくるが、その後の記憶はぼんやりしてしまう。あんな事があったはずだ。こんな事があったはずだ。そんなものがすべてぼんやりとした情報でしかない。お前は景色にも、他者にも興味がないんだ。いけない。頭の中に言葉が溢れる。まるで、蠅が飛んでいるような。
また、文字が頭の中に入ってこなくなった。ああ、これはいつもの流れだ。今はそんな事を。目の前に広がった壁に視線を集中する。壁紙の凹凸一つ一つが鮮明に見える。神経が昂ぶっているのが分かる。逃げてはいけない。意識を逸らすのは逃げだ。あの突起が一つ茶色く汚れている、何のしみだろう。そうではなくて、ああ、いけない何故 こんな風に釣り込まれているんだ。そんな原因がどこにあった。頭の中を止めないと、逃げてはいけないなんて言ったのは誰だ。彼女の目が青い。嘘だ、君の瞳は深い栗色をしていた。いや、黒かったか。ダメだ今思い出さないときっと一生見失う。笑ってばかりいないで動いてくれ、いつもこんな私を見るときには、憐れみの混ざった優しい目を向けてくれたじゃないか。君が憐れむ私には、君の責任だって、いや、そうじゃない。君は悪くない。いつもみたいに、私を責めてくれよ。しばらくの間、優しく慰めてから、あまりにいじけている私を叱るのが君だろう、君の拗ねた顔を見て私はやっと焦り出すんだ。そうやってやっと冷静を取り戻そうと思えたんだ。いや、ごめんなさい。そこまで分かっていたんだよ。君が私のために拗ねるほど愛してくれるのを知っていて。それをまるで確かめるように、強請るように欲しがったんだ。だとすれば、私は沈んでいた時に、それだけの冷静な打算をしていたとでも言うのか?自分を罵るために、偽の自己評価を勝手に下してはいけない。ほら、君が話しかけてくれないと私の頭の中の言葉が止まらない。電灯が白い、光が目に突き刺さって七色のぼやがかかる、次第にぼやは収束して青みを帯びた静かな光に変わって行く。君に謝りたいんだ、だけどきっと君は何について謝っているのかを問うだろう。分からないんだ。だから教えて欲しいんだよ。分かっているはずなんて言わないでくれよ。本当なんだよ。嘘でもごまかしでも逃げでもないんだ。ただ君に悪いことを、ずっと悪いことをしていたような気がしていて、君の顔が悲しそうに浮かんで。確かに君は人前で、私の前ですらほとんど泣かない人だったから、こんな泣き顔は私が私の頭の中で創り上げたものさ。だけど、それでも泣いているんだ。君は、ちゃんと私の顔を見てと言うだろうね。頭の中で勝手に創り上げたものでなしに、だけどもう君は、君は──
頭の中を言葉が駆け巡る中で、少しずつ足が痺れていくのを確かに感じていた。ついに我慢が出来なくなって足を崩すと、指先が青く鬱血している。暖めようと手を触れた瞬間に、猛烈な痺れが襲った。反射的に力んで身体を小さく丸める。そのまま数秒か数十秒の間、奥歯に力を入れて痛いほどの痺れを耐えた。やっと落ち着いてくると、今度は硬くなった全身の筋肉を伸ばすように大きく床に寝転んだ。その時、足に何かが触れる気配、
「あ、」
ガタンと鈍い音を立てて、床に置いてあったカップが倒れた。顔だけ上げて状況を把握したが、足の痺れも薄く残っている状態でそれを回収する気力がない。中に満たされていた温くなったコーヒーが、床を伝わって背中を濡らす。気持ちが悪い感覚と、投げやりになった心地よさの間で私はしばし目を閉じた。──
「あ、」
大慌てで起き上がると、コーヒーの川に少しばかり触れているノートを拾い上げた。床に触れていた背表紙を、部屋着の袖を使って拭う。パラパラと捲ってみるが、どうやら紙の端に少し茶色の染みがついている程度だ。良かった。
安心した次の瞬間、私の視線は開かれたノートの頁に釘付けになっていた。そこには、「テリタマ」の文字があった。
3/7(日)
彼女との5回目のデートについて、詳細に記そう。例えばいつか、私が彼女にこう言うんだ。「あの日、桜の下で食べたテリタマ美味しかったよね。」馬鹿みたいなセリフだと私自身でも想っている。でも、下らない細かい思い出も大事にしたい。いや、大事にする人だと彼女には思われていたい。だって彼女は、私とのデート一つ一つを、一緒に食べるものも、見るものも、語らう言葉も、行く場所も、熱っぽい目で真剣に向き合っているのだ。脳内に焼き付けようとする努力すらそこにはない。ただ無上に大切にしようとしてくれる。私も同じ熱を持っていたい。
今日は、映画を見て、花見をした。
私の家から数駅のところに集まって、映画館に赴いた。古い映画を上映している小さな町の映画館だ。古いドラマや映画の世界にしかなかったような可愛らしい建物で、その中で見る彼女はまるでスクリーンの中の人間のようで、要するにお似合いの景色だった。
今日の彼女は、クリーム色のブラウスに、モスグリーンのロングスカート。淡い、それこそ桜色のニットを羽織って、ベージュの薄手のコートを着ていた。彼女を見ていると、私も春を感じた。
映画は、「ゴジラ対ヘドラ」だった。デートにはおよそ似つかわしくない作品だが、私がこの映画の話をしてからずっと彼女が「見てみたい」と言っていたので。
私たちは、それぞれコーラとココアのMサイズを買って席に座った。小さい映画館の古い映画だが、流石名作だけあってちらほらと客が座っていた。
座席は、一番後ろの列の真ん中。これは彼女の希望だ。席について荷物を置いてから、少し恥ずかしそうにトイレへと立った彼女が可愛らしかったのを覚えている。
上映が終わったのが、午後1時。僕らは映画館を出た。
そこから花見の場所まで電車に乗って動いたのだが、その間中私たちは映画の感想を話し合った。クラブの中で踊り狂うサイケデリックな若者たちの頭が次々魚に変わっていくシーンは、私の一番のお気に入りで、彼女もそのシーンを気に入ってくれた事が嬉しかった。一通り話すと、彼女はニヤニヤしながら、「あなたが好きなものを見られて嬉しいです。」と言った。あんまり熱っぽく語り過ぎていた自分が恥ずかしくなったが、そんなふうに言ってくれるのは素直に嬉しくて、難しい気持ちになった。
映画の感想戦はまだ不十分だったが電車はすぐに目的の駅までついてしまって。話題も自然、花見の方へと移り変わって行った。改札を出たところで、彼女はファストフードに疎いという話になった。駅前に並ぶ、牛丼、ハンバーガー、チェーンのコーヒーショップ。お昼に何か買っていこうかという話がきっかけだ。どうやら、彼女の家ではファストフードは基本的に食べないらしい。牛丼もマクドナルドも、大学時代に友人らに連れられて行く、そして行った場所らしい。口に合ったか聞いてみたら、楽しそうな顔で美味しかったと言っていた。彼女によれば、マクドナルドも牛丼屋も美味しくて安いが、自分には入りづらいのだという。そこにいる客たち誰も彼もが完全に日常のものとして手慣れた様子で利用している中に、もう大人なのに不慣れな自分が入るとなると緊張してしまうのだそうだ。一緒に買っていこうかと聞いたら、彼女は笑顔で頷いた。
お昼前のマクドナルドに、私たちはまるでお化け屋敷に入るカップルの如く密着して入った。人前で距離を詰めることを多少恥じらうきらいのある彼女が、本気で私にくっついてくる姿が妙に可愛くて、おかしかった。何人かの列に並び、何を注文するか決める。「アレって、よくCMで見るやつですよね?」と彼女が指さしたのは、レジ上のパネルにうつったテリタマ。「春といえばってやつですね。美味しいですよ」私たちは、テリタマを食べることにした。彼女は普通のテリタマで、私はチーズの挟んであるテリタマ。春らしい桜色の炭酸のジュースが限定で出ていたが、外はまだ寒いので、飲み物は温かいものにした。
駅から、目的の花見スポットまではすぐだ。私たちは手を繋いで歩いた。彼女の空いている手には、飲み物が二人分入ったマクドナルドのビニール袋。私の方にはハンバーガーとポテトが入ったビニール袋。駅の東口を右に折れ、コンビニと公園を通り過ぎ、左に曲がればもう桜が見えてきた。まだ満開とは言いがたいが、十分に美しい桜を見て、彼女が驚いた顔をするのが、隣で分かった。「ほら、予想より綺麗だったでしょう?」「ほんとに、川沿いずーっと桜ですね。綺麗。」二人で土手を登って、それからまた川の方に降りて行った。草の上に敷こうと思って持ってきたレジャーシートを鞄から取りだしたら、同じように彼女もレジャーシートを取りだした所だった。結局、彼女の持ってきたものの方がサイズが大きかったので、そちらに座った。
風が少し強い以外は、完璧な日だった。それでも、風に乗る花びらは美しく、春色の彼女はよく映えた。
並んでハンバーガーの包みを剥ぐ。彼女はしばらくの間ハンバーガーを両手で持って、口をもごもごしていた。それから決心をした目で、大きく口を開けてかじりついた。ずっと見つめていた私に気づくと、赤面しながら顔を背ける。少しばかり古風な感覚が愛おしい。ゆっくり飲み込んでから、嬉しそうな声で「美味しいですね。」と言う彼女。私たちは、毎年一緒にテリタマを食べる約束をした。
これは大事な事だから、もう一度書いておく。私たちは毎年一緒にテリタマを食べる約束をした。
ここから先は、明日記そうと思う。
書いてあった。彼女とテリタマを食べた、些細で重要な思い出は、きちんとそこにあった。なんで、こんなにテリタマに自分が固執していたのか、もそこにはあった。私と彼女が、初めて交わした未来の約束が、その日だったことを私はすっかり忘れていたようだ。でも、ほら毎年一緒に食べる約束は守っただろう?
私は、君との思い出をきちんと残していたね。必死に残そうとしていたらしいね。残しておいて良かったよ。あの日見た映画はヘドラだったんだ。ティファニーじゃなかった。私の思い出は、事実と違っていた。
コーヒーで濡れた服を着替えるべく、私は立ちあがった。