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手元のノートの文字が、どうも読みづらい。いい加減目が限界かなと、眉間を揉み込んで顔を上げた所で今更に気づく。部屋はすっかり青紫色をしていた。
ああ、夜はもうすぐだ。
もう一度、眉間を揉み込んで新たなノートを手に取った。電気を点けたら、この時間は終わってしまうような気がした。あと少し、まだ部屋が闇に沈まないうちに。もう少しだけ、この微睡みの中に。
手に取った一冊は、少し前にも開いた青い表紙のノート。少しばかりの逡巡。「ほら、今読まないでいつ読むのよ」…2021と書かれた青い厚紙を捲る。
1/17(日)
今日から新しいノートになった。私は、いつまで日記を書き続けることが出来るのだろうか。大学はもうすぐ終わる。この先の未来、私は何か書いているのだろうか。
愛しい人とデートの約束をした。いくらでも恋愛ポエムが書けそうだ。職を見つけておいて本当に良かったと思う。生きていく術は必要だ。
彼女と、生きて行きたい。それだけ書いておこうと思う。
1/18(月)
今日は授業を受けた記憶があまりない。飯島からは「気持悪い顔をしている」と言われた。
そんな調子だが、デートコースは無事決まった。美味しいココア、それから水族館。彼女の要望はしっかり盛り込んでおいた。きっと大丈夫。週末が待ち遠しい気持とそれから、準備にいくらでも時間が欲しい気持との狭間で揺れ動くのは、幸せだと知る。ああ、今の私は気持ち悪い顔をしているだろうね。
1/19(火)
大学をさぼって、池袋に行ってきた。
喫茶店と水族館の場所と混雑度合いの確認、と思って行ってから、デートは休日なんだから平日に行っても仕方ないことを思い出したりした。正直に言ってしまえば、ただいてもたってもいられずという所だ。いてもたってもいられないというのは、居ても立ってもいられないと書くので正しいのだろうか。あとで調べておこう。
全ての場所で、彼女の笑顔と、気を遣ってくれている難しい顔とが二重写しのように思い浮かんだ。出来る限りの事はして行きたいと思う。
1/20(水)
今日は友人と一緒に部活に顔を出してきた。明るくなったと言われた。どうやら幸せが外に漏れ出しているらしい。
あまりに緩んだ顔で会いに行くのも気持悪いような気がするので、今日から鏡の前で表情を引き締める練習でもしようかと思う。鏡に映った自分はなかなか不細工だが、こればかりは仕方がない。少しでも精悍な顔つきにしていきたい。
1/21(木)
私が今日抱えた命題について、記しておきたい。
彼女とのデートの為に、何か必要なものがあるかもしれない、なんて事を思ってショッピングモールへに行ってきた。だが、必要なものは特に浮かばず、買い物はすぐに彼女へのプレゼント選びになっていた。
そこで見つけてしまったのだ。指輪。大したものでもないのだ。ただ、大ぶりな装飾に、ドライフラワーが埋め込まれたそれは、きっと彼女好みのもので、更に言えばきっと彼女の指でこそ輝くものだろう。
だが、果たしてなんでもないデートで突然指輪を渡すという行為は、不快に思われないだろうか。不快に思われなかったとして、私は今、こんな不安を書きながらも、喜んでくれる彼女の顔ばかりが浮かんでいる。それほどの反応をして貰えるものだろうか。
なんて言って、どのタイミングで渡せば良いのだろうか。難しい。
1/22(金)
早く寝ようと思う。
「明日、やっと会えますね。」とのメッセージが先程彼女から届いた。彼女が、会いたいと思ってくれているなら、あとは出来るだけ彼女を楽しませるだけだ。明日の鞄の中身も確認した。忘れものはない。明日着ていく服も選んだ。
生きていて良かったと、今ほど思った事はない。
1/23(土)
・彼女の服装、ブラウスに深い緑のスカート。足下はスニーカー(「服と合ってないけど、歩くと思って」と恥ずかしそうに笑っていた。実際にはバッチリ合っていた)耳元のイヤリングが可愛かった。(やはり、アンティーク調で花のモチーフだった。)
・北千住の駅:合流した。綺麗だった。
・喫茶店:彼女はカップを綺麗に持ってココアを飲んだ。
・水族館:小魚が大量に泳ぐ巨大な水槽の前で、今日一番のはしゃぎ方をしていた。指輪を渡した。
・北千住の居酒屋:彼女は案外お酒が強いらしい。日本酒を燗で呑んだ。
・帰りのホーム。また会う約束をした。
今日のデートの事は、出来るだけ記録に残しておきたいので、明日ゆっくり書こうと思う。
1/24(日)
起きたら、彼女からメッセージが届いていた。お礼と、それから「人生で一番幸せな日でした。」と書いてあった。私も丁寧に返事を返した。
昨日の彼女はとても可愛かった。駅で合流すると、彼女は小走りに近寄ってきた。白いブラウスには、大きめの変わった襟が付いていた。私がそれを褒めると、変形ブラウスが好きなんだとはにかんでいた。
書きながら、私は今とても悲しい気になっている。思い出す光景はどれも、私と彼女との二人を見つめている。昨日の私は目の前の彼女に感動すらしていたというのに、今はもう記憶の中に、情報としてしまわれているような気がする。だがやはり、書かずに忘れてしまうのも寂しい。
私は彼女に向けて、右手を差し出した。彼女は左手を返してくれた。指と指とを絡めて、私たちは歩いた。
歩いている間は、それぞれの朝の話なんかをした。しかし、二人とも上の空という感じだった。緩んだり、握ったりささやかに動く指の方が、よほど雄弁で。触れ合った掌に意識が集中しているのは自分だけではないと、そんな確信をきっとお互いに持っていた。
喫茶店は、平日よりは混んでいた。一瞬、予定の変更も考えたが、彼女は当然に最後尾についてくれた。5分ほどは待っただろうか、別の店へ動くほどの待ち時間ではなかったことに安心した。席に着き、「何を飲みますか?」と聞きながらメニューを彼女に向けようとしたら、彼女は私の手を押しとどめて、「ココア、ありますか。」と悪戯っぽく笑いながら言った。「勿論。」と返した私はきっと相当に緩んで気持ち悪い顔をしていたのだろうと思う。
湯気の昇るコーヒーと、ココアは机の上にしばらくの間放っておかれた。熱いまま口に含んで、粗相をすることを避けたいという思いはお互いの顔と振る舞いから読み取れて、でもそこには触れない。未だ残った少しの緊張が、歯がゆくも有り、心地良くも有り、そんな心境だった。
少し湯気の引いたカップを、彼女はやっと摘まんだ。私は人生で初めて、ティーカップのハンドルを綺麗に摘まんで掲げる人を見た。自分がそこに指を通している事が気恥ずかしくなったのも覚えている。
目の前に座った彼女の姿、カップに掌をあてて温度を確かめる姿、伏し目がちにカップを傾けて、それから大きく目を開いて驚く姿。笑う姿、目線を逸らす姿、指をもてあそぶ姿、それらは鮮明に浮かぶのに彼女と喫茶店で何を話したかとなると思い出せない。つまり私は、見惚れていたのだ。
水族館の思い出は多くはない。大きな一つが、他を霞ませた。それから、並んで歩いているとどうしても彼女をゆっくり見る事が叶わないのが少し切なかった。
私たちは、薄暗い、水を通して緑がかった光に包まれた廊下を、ゆったりとした足取りで歩いた。人を避けたり、通路が狭かったり、手を離さなければならない度に、私たちは少しの時間をあけてぎこちなく繋ぎ直した。ぎこちなくとも、私たちの掌はここでも確かな好意を伝え合っていたと思う。
赤い照明がかかった、足の長い蟹の水槽には二人で怯えた。鮫の泳ぐ水槽では、その目の不気味さを興味深く眺めた。海蛇の水槽の前は、目を瞑った彼女の手を、私が掴んで通りすぎた。
最後に彼女は、銀色のモザイクの前に真剣な顔をして立っていた。その水槽は、壁一面に水の世界が広がるもので、海と陸とをガラス一枚が隔てるような空間にある。大量の鰯が群れを成して泳いでいた。何百、いや何千だろうか、もっとかもしれない。数え切れない銀色の紡錘形が規則的に流れていく。複雑に反射する銀の光が、彼女をキラキラと照らした。私は隣に立った彼女を見つめて、必死にプレイボーイを気取って、「あなたは、とても綺麗です。」とそれだけを絞り出した。今思い出すとあまりに突拍子っもない。彼女は冗談を聞いたように笑ってから、少しだけ頬を赤らめてくれた。突拍子もない愛の言葉が、許される世界が私と彼女の間にあった。
そして、ずっと機会を測っていたことをすっかり忘れて、衝動的に鞄から小さな包みを取り出した。レースの小さな巾着型の包装の中に、指輪が一つ入ったそれは、つまり贈り物だった。私が言葉を継げずに手渡そうとすると、彼女は一瞬驚いた顔をしてから、私に向けてそっと左手を差し出した。数秒の後、彼女の白く可愛らしい薬指には小さな花が留まっていた。愛の言葉すらないままに、水槽の前で二人並んで止まっていたのは、喋ったら泣いてしまいそうだったから。彼女の目の潤んだところに、銀色の光が当たっていた。
寒い夜の池袋を、私たちは身を寄せ合って歩いた。辿り着いた店は、路地を少し奥へ入った居酒屋。「おでん」と書かれた幟に、彼女はフラフラと寄って行った。
店内には、暖房と共にストーブが焚かれていて、古くさい暖かい店だった。壁に貼られたメニューを眺めて、揚げ出汁豆腐とアジフライ、それからおでんを頼んだ。彼女はおでんの卵とはんぺんを食べた。その後の注文でも、最後の注文でも、卵とはんぺん。彼女は恥ずかしそうにしながら「好きなんです。おでんの卵とはんぺん」と笑った。丁寧で、しっかり者の彼女の偏食な一面が、また可愛らしく見えた。
彼女の仕事の話、私の大学の話。すいすいと胃の中に沈んでいくお酒。
トイレに行こうと立ちあがったら、フラフラしている私がいた。緊張からだろうか、いつもより酒の周りが早い。彼女に悟られないようにゆったりと歩いて、トイレに行って帰り、ぼやける頭を必死に制御して、彼女と店を出た。
甘えた顔をして、私の腕を掴むほろ酔い加減の彼女に対して、劣情を覚えるような余裕は私にはなく。今は中身も覚えていないような会話を必死に繰り広げながら、一歩一歩足を持ち上げて、前に出して、下ろす。そんな風に駅まで歩いた。酔っ払ってぼろぼろの私にも変なプライドがあり、彼女の最寄り駅までいっしょに行ったのを覚えている。電車の中で、彼女は椅子に座って、私はその目の前に立っていた。タクシーに乗った彼女を見届けてから、私は駅のトイレに駆け込んで吐いた。吐きながら幸せを感じる日なんて、この先もう二度とないだろう。
彼女と、次回会ったら何をしよう。どこへ行こう。どんな顔をしてくれるだろう。全て欲しいと思っている。
やっと書き終えた。そして、大変にまずい事に明日から大学最後の試験が始まる。大慌てで勉強をすることとする。明日からしばらくは日記が疎かになるだろうと記しておこう。
顔を上げて、息をついた。
ほんの一週間ほどの自身の思い出が、頭の中を埋めていく。もう数十年の昔なのに、文章につられて嫌に鮮明に浮かぶ映像。それは、やっぱり三人称視点で映される映像だが、それでも私と彼女は並んで笑っていた。「ほら、早く読めば良かったのよ」。案外その通りだったね。「私は、あなたの事だったらいつだって正解を言うっていい加減気づいたら?」今は少しほっとさせてくれよ。「あなたは沈み込むと人の話を聞かなくなるから今のうちに伝えておかなきゃ」。本当に痛いところを突くのが上手な人だよ。「そういう私が好きなんでしょう?」私はダメな男だからね。叱ってくれる君が必要なんだよ。「いつまで、そんな風に私を呼び続けるのかしらね」。
ノートに戻した視線。文字が霞んで歪んだ。ゆっくりと背中から床へと倒れ込む。硬いその板は優しく受け止めてはくれないが、それでも私は身を委ねた。
隣の部屋からテレビの音がうっすらと聞こえてくる。私はそのまま、夕闇に微睡んだ。
『昨夜…埼玉県、飯能市に住む…ハナさん…歳が…。…さんは、夫で…ハルカさん…包丁で……悲鳴を…近隣の住民……』