Ⅳ
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何か浮かぶまでには、時間がかかる。その間には、仕事をしたり、運動をしたり、読書をするのも望ましいだろう。肉体でも、脳みそでもいい。出来るだけ抱えた問題から離れた事をすると良い。何かしていると、頭の中で突然に点と点が結ばれて、像が見えてくる。それまでにかかる時間は、あまり考えすぎてはいけない。焦ると大事な事が見えなくなるものだ。
先ずは家事でもしよう。さっき食べた朝ご飯の片付けから。皿を回収して、一枚一枚丁寧にスポンジで擦る。食器洗い機は処分してしまった。一人分くらいは大した量じゃない。それから、掃除機もかけよう。気力のあるときにしておかないと、この部屋は少しずつ確実にゴミ屋敷に近づいて行く。それからそれから。
数時間の後、私は家の中で生活するためにやるべき事をすっかり終えてしまった。
されど、閃きは一向に来ない。何をすればいいのか、いや、それ以前だ。何が浮かぶのを私は待っていたのか、それすら曖昧になってきている。しまったと思う。メモを残すべきだった。問題すら忘れてしまったら、何を解決するかなんて分かる筈がない。確か、飯島との電話から始まったのだ。一体何を話していたのか。ダメだ、焦ってはいけない。また頭の中を無意味な言葉が駆けるばかりになっている。抑えるんだ。落ち着いて、落ち着いて。
「段ボールを、片付けよう。」
結局のところ私は、次の行動を口に出す事で頭の中を駆け巡る言葉を止めた。他にやること、出来る事を考える余裕のないくらいに、無意味な言葉が流れ続けていたのに、勢いで口に出した発想が、案外現実的で、そう特異でもないことは少し面白い。
私がここに越してから、生活に必要なものはすぐに荷ほどきをしたのだが、未だに片付いていない段ボールもいくつかはあった。いや、片付けたくない段ボールだったのかもしれない。彼女の仏壇が置かれた部屋に設置した本棚は、まだ空のままだった。
段ボールを崩す算段をしながら、煙草を片手にベランダへと舞い戻る。今度は庇の作るほんの小さな日陰に身を寄せた。見える世界は相変わらず穏やかで白い。それでも、少し目線を下げてみたら、、路上でパステルカラーの円が二つ立ち話をしている。穏やかな光と、ご婦人方は、美しく調和している。時折下品な笑い声と共に揺れる、フリルのついた薄ピンク色の日傘。彼女たちは日光を拒絶している。白く生きるためには、白い光は邪魔らしい。醜いと表現することも出来たが、それでも、少しだけ羨ましく見える。退屈で平和な日常は十分に祝福されているように見えた。
部屋の中で、白い光を浴びている段ボールを想像する。そこに祝福はあるだろうか。そこに救いはあるだろうか。いや、もっと気楽に考えていいはずだ。折角取り戻した明るい気分をそう簡単に手放すのはあまりに惜しい。段ボールの中の本達を書棚に詰めるだけの作業。どうせなら丁寧にやろう。久々に出版社毎、作家名毎に綺麗に並べてみるのも良いだろう。
時間をかけて、労力を費やして、出来上がったものに満足出来る仕事が、今の私には必要だ。「あなたは本当に何でも義務にしたがるのねえ」。抜け出したいとは思っているんだけどね。「抜け出さないといけない、って考えるでしょう?」。あまりなんでも言い当てるものじゃないよ。「灰が落ちるわよ」。
煙草の先に溜まった白い灰が、道路に吸い込まれて行った。砕けた灰が白い点を作った。地面との距離からすれば見えるはずのない白い点が、はっきりと見えた。そんなものにすら自身を重ねてしまいそうになる思考に、少しだけ自嘲を送ってから煙草を消した。
無感情にベランダから戻ると、そのままの動きで本棚のある部屋まで移る。
隣の部屋から漏れてくるテレビの音を聞きながら、空の本棚を見据えるのだが、どうも背後が気になった。どうせなら、吐き出してしまう方が健康的かもしれない。くるりと向き直ると、そこには静かに微笑んだまま動かない彼女がいた。
目線の高さを合わせるように正座をして、しっかりとその顔を見つめる。
「これから、片付けをするよ。少しうるさいかもしれないけれど。許してね。」
本棚に向き直る。まだ剥き出しの棚板が、本の収まっていた形を丁寧にかたどって日に焼けている。随分と長いこと本を動かさずにいたんだな。
今度の部屋は、あまり日が差さない。この板に新しい模様が重なることはない。
傍らに積まれた段ボールを一つ一つ開けてみる。持ち上げると前が見えなくなるほどの大きさのものが、5つ。その中にぎゅうぎゅうと本が詰めてある。背表紙と、上面がすっかり日に焼けて黄色っぽくぼけた本たち。ある箱には、まだすっかり綺麗なものも混ざっている。運よく日陰に入っていたのだろう。
昔の私は本が好きで、本を読み、集めることが楽しみだった。しかし、保存に関してのこだわりは何もない。読むことが出来る状態でありさえすれば良かった。
数冊を束にして引っ張り出して、床に並べていく。その中でも、私の琴線に触れたのは、特に年季の入った本たちだった。学生時代までに買った、小説たち。文豪と呼ばれるような大家たちの小説は、購入した当時でも古臭く見えるようなデザインのカバーが付いていた。日焼けして黄ばんでしまった今の方が、その妙なイラストが描かれたカバーは本に馴染んで見える。「今のあなたになら、この本も昔以上に馴染むんじゃない?」。それは、そうかもしれないね。年を重ねてわかる事もあるかもしれない。「そう言いながら、本を片付ける手は止めないのね」。今は片づけをしないといけないからさ。「片付け終わったら、またその大事な本棚はあまり見ないようにするんでしょう?」。…まあ、そうなるかもね。「ねえ、あなた、後ろ向いてみて?」どうして?「分かってることを聞かないの。ほら、見て?」君は、本当にいい顔で笑うねえ。「この写真を選んだのはどうしてだっけ?」君がお気に入りの服を着て笑っている写真だったからさ。「服で選んだの?」だって、君の笑顔はどの写真でも変わらず素敵だったからね。「私の笑顔を写すカメラの向こうに、いつもいたのは誰?」それは、…私だけれど。「だけれど、じゃないわよ。」。君に愛されていた私のままでいたいんだよ。私のためにね。「そういう自分勝手なところは、昔から嫌いよ」。私に何を求めるんだ。「分かっていることを聞いてどうするの?」。
積み重ねた本の中から、ひと際年季の入った一冊をより分けた。積み重なった画集の上に、レモンが乗せられた表紙のその本は梶井基次郎の檸檬を表題に据えた短編集である。これは、昔の私のバイブルであった。
私は黙々と作業を続けた。作業に集中することで、思考から逃れていたのに、あまりに集中してしまったせいで本棚はすぐに整ってしまった。実用書から、小説までが丁寧に場所を分けられて並んでいる。ただ、本棚の右下の角に位置する場所だけはまだ空だった。
「終わったよ。これだけ綺麗に並べると少し神経質に見えるかな?」
背後の写真に向かって報告をする。残念ながら何かが返ってくることはない。彼女の顔を見ていると、やはり私の心の奥を、彼女の目を通して見ているような気分になった。
「確かに私は久しぶりに本を読んでみたいようだ。」
本棚にもたれかかるように座って、私は一冊だけ別にしていた本を開いた。目次を開くと、懐かしいタイトルが並んでいる。檸檬、城のある町にて、泥濘、路上…。
冬の蠅を開いて読みかけたところで、やはりやめてしまった。パラパラとページを戻して、別の作品を開く。「城のある町にて」と銘打たれたそれは、かつての私が嫌というほど向き合った作品。
梶井基次郎は、自身の体験を「俊」という男に託して一編の小説を産んだ。この小説の語り手は、序盤に於いては俊に否定的だったり、距離を置こうとする。そえが次第に俊と融和していく。そんな結論を出したことは今でも思い出せる。
自分が出した結論は簡単に思い出せるのに、丁寧に読んでいくと全く覚えていない部分が本文のそこかしこに見つかるのが、元文学徒としては切なく思える。やはり、私はその程度だったのだろうか。
懐かしい会話を思い出した。飯島と昔、この小説の話をしていた時だ。確か、この小説に出てくる何かの単語の意味を、正確に知らずに読み流していたことを、彼に怒られたのだ。だがしかし、その単語がなんだったのか、どうしても思い出せない。
古い記憶の中に眠るほんの小さな謎。実際のところ、私はその単語がどんなものでも良かったとも言える。思い出せない思い出は、それはそれでいいじゃないかという人間だ。
その時、私の視線の先にあったのは、まだ片付いていない最後の一山。
目の前に、高く積まれた方眼ノートは、パステルカラーでカラフルな背表紙をこちらに向けている。その色が、すうっと静かな線の動きでくすみを帯びていく。
影の中で積まれたノートを、私は横殴りにした。私の拳が当たった部分より上に積まれたノートがズルりと滑り落ちる。獺祭のごとく広がったノートを、今度は積み上げる。向きも角度も、色の重なりも、慎重になりそうな心を抑えてできるだけ乱雑に、心の赴くままに衝動で積み上げる。奇怪な幻想的な城を目指して、慌ただしく手を動かす。全て積み上げたら、今度は引き抜いたり、重ねたりしながら調整にかけるのも大事だ。
全部で20冊ほどのノートは、積み上げたところで大した高さにはならなかった。一冊一冊が薄い上に、色の系統は同じものだから、色の混濁も思っていたほどにはならない。ああ、そうだった。私が彼に怒られたのは、「気韻生動」という言葉の事だった。目の前に積まれた城には、微かに気韻が生動していた。
背後に置かれた仏壇から、彼女の遺影を丁寧に拾い上げる。表面に乗った小さな埃を指で拭った。今度は指の油が気になって、服の裾でもう一度拭いた。やっぱり、いい顔で笑っている。
倦怠と興奮の間で揺れ動く私の指が、珍しく止まっていた。いつも小刻みに震える指が、落ち着きを持って、私がイメージしたとおりに動いてくれる。
遺影の額の、左右の角を、両手の指先で摘まむようにして持つ。そして一度高く掲げてみる。そこからゆっくりと下ろす、城の上をめがけて。…「どう?綺麗に笑えてる?」。
——完成した城、その途端私の背筋を駆け巡った悪寒。
慌てて、震える指で、彼女の遺影を取り上げる。元あった場所へ、彼女の仏壇に空いた穴を埋めるように置く。
導火線を切ったような気分になった。「爆発させれば良かったのに」。なんだか怖くなってしまってね。「何が怖いの?」。…何がと言われたら難しいんだけど。「ノートと写真が爆発なんて、するわけないのに」。それは、分かっているんだけどね。「何?もっとハッキリ喋りなさいよ。本当に、含みのある言い方が好きな人ね」。君が、砕けて、燃えて、いなくなってしまうような予感がしてね。「でも、私はもう燃えて骨と灰になって、今は壺の中よ?」。それは、そうなんだけどね。「あなたは、“私”を守ったのねえ、いつも通りに」。そういうことなんだろうね。だからほら、君は今もそこで笑顔だ。
城はもう、積まれたノートに戻っていた。頭の中に飯島の言葉がゆらゆらと浮かんだ。
「いつか教えたはずだ。分からない事は調べるべきだよ。もし君にまだ恐怖を感じるだけの何かが残っていたら、それを調べる手立てがあるだろう。」
なんとなく分かった気になっていたい事を、君はいつも調べろという。でも、もう思い出せたんだ。私が君に怒られたのは、気韻生動という言葉だった。芸術的なものに対して用いる言葉で、気品が溢れているとか、生き生きしている、情緒的だなんていう意味合いのはずだよ。そんな言葉だった。「本当に?」ああ、本当さ。「でも、あなたはすぐに都合よく勘違いをする男よ?」今回はきっと当ってるはずだよ。信じてくれていい。「じゃあ、答え合わせをしましょう」。やっぱりそう思うかい?「あら、嫌がらないのね。」今なら、読めそうな気がするんだよ。
過去を確かめるべく、積まれた日記帳の上から一冊を抜き取った。
10/7(月)
昼頃まで寝ていた。起きて午後の講義に参加することが出来た自分を褒めたいと思う。
なんだか急に夜が寒くなった。新しいノートになったので、何か書いておこうと思ったが今日感じたことはその程度。
今日も平穏。
10/8(火)
同上。思い出せるほどの出来事はなし。
今日も平穏。
10/9(水)
後輩が部活を辞めると言い出した。現時点では止めるつもりはなし。辞めたあとも元気にやってくれる事を願う。中間管理職のぼやき。
今日は少しばかり荒れ模様。
10/10(木)
今日はなかなか興味深いことがあったので、書いておく。
ある授業で、川端の短編を扱った。私自身の解釈は、登場人物の心理であったり、セリフ、より内部の世界について書いている小説のように思えた。しかし、とある留学生の発表者は、時代設定や当時の政治により視点を向けていた。確か前に見た留学生の発表もかなり政治的な読み方をしていた気がする。まあ、検体の数が圧倒的に少ないので簡単に決めつけるわけにもいかないが、同じようなバックボーンを背負った人たちが、同じような感覚を持っているという事実は興味深い。
やはり、客観視というのは、主観の中でしかできないものなのだと思った。知っている事が、経験と結びついて理解されるというような出来事は貴重な気がした。
今日も平穏。
ノートの表紙には、2019と書かれていた。私が大学3年の頃にあたる年の、10月からの日記だった。
なんだか懐かしい気分だ。前に開いた時とは明確に違う感覚。大学の大きな教室の隅に座って、窓の外が少しずつ赤く染まっていくのを眺めていた頃を思い出す。決まって口ずさんだ黄金の微睡を思い出す。あの頃には、いくらでも帰り道があったことに今更になって気づくようだ。
発表者の中国からの留学生が何か喋っている様子も、鮮明に浮かぶ。黒くて太い縁の眼鏡をかけ、化粧は薄く、着ている服は少しだけ個性的。いや、そんな細かいことを覚えているはずなどないのに、一枚の絵のように、創り出された過去が私の脳裏に浮かぶ。教室の前方に座っている、小奇麗なジャケットをラフに着た、頭頂部の禿げた教授だけは信頼の出来る記憶だ。
私が飯島と卒業論文のことで終わりのない議論を延々と繰り広げていた時期は、確か大学4年の夏から秋にかけて。パラパラと頁をめくり、時折寄り道をしながら問題の記述を探すことにした。
流石に、3年目ともなると、「同上」と書かれた何も起こらない日もちらほらあるが、思っていたよりも、私の日常は丁寧に残されていた。
そして、時折混ざる短編の小説らしきもの。書きかけで冒頭や設定だけのものもあれば、数ページに渡って殴り書きされた完結済みのものもある。まるで記憶のないものもあれば、思い出深いものも。丁寧に目を通すのが恥ずかしくなるような記述もあれば、こんなものが書けたのかと自画自賛したくなるような日もあって。
気づけば、私は独りで美しい過去に没頭していた。