Ⅲ
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“「夜が明けたら令和が来るね。」
窓から見える空には、幾ばくかの星。彼は発泡酒を片手に小さくため息をついた。
「令和が来たくらいで、何の感慨もないわ。」
彼女の言葉には、どこか白々しい所がある。
「僕らの生きる上で、何の影響もないように見えるけれど。本当にそうだったのかは、終わってみないと分からないものかもしれない。」
彼の言葉に、彼女はきつい視線を送る。彼の方は、そんな彼女に甘い視線を送る。そして、彼女の顔を丁寧に見るのはいつぶりだろうと感じている。
「私は、終わっていく平成に未練も後悔もないわ。平凡で、停滞して、詰まらない日々で、それで十分だった。」
「僕も同じ気持ちだよ。君との生活があったお陰だろうね。」
「令和だって一緒よ。」
「そうだと良いな。でも、延命は延命さ。不老不死どころか、健康体ですらない、死んでいない程度だった日々は、今夜までかもしれない。」
彼の言葉を最後に、二人は口をつぐんだ。
発泡酒の泡の弾ける音が静かな部屋に満ちていく。
押し入れの奥に隠された、現金と少しの着替えが詰まったピンク色のボストンバッグ。それはきっと明日の朝のためのものだろう。今夜は、彼女の隣で夜更かしをしよう。終わりのその時に寝たふりをしなくて良いように、彼の頭の中にそんな事が浮かんで消えた。“
なんだか、不思議な気分だった。
私が知っている飯島は、こんな小説は書かない。彼は常に理論に重きを置いて、「仕掛け」のある小説を書くことを好んでいたはずだ。昔の話だが、私の記憶違いではないだろう。特異な事の起こらない、幸せというほどでもないが、決して不幸とは呼べない男女の暮らしぶりが丁寧に描かれた懐古的な小説。これは、彼の小説ではない。まるで、私の小説のようではないか。
そこまで考えが至った時に、やっと電話越しで彼が言ってた意味が分かってきた。
彼はおそらく、私の作品を参考とまでは行かなくても、意識して書いたのだろう。いや、何らかの作品から影響を受けて新たな作品を産むなんていうのは極自然な事だ。その程度で彼が謝罪なんて言葉を用いる事はないだろう。であれば、明確に私の書いたものを参考として使ったのかもしれない。
気がつけば私は声に出して、笑っていた。あの飯島が、私が好んだような小説を書くなんて。確かに、私たちが狂ったように文学に傾倒した平成の時代はもう「いつかのあの日々」と呼ぶに相応しい過去になっているのか。時間にして、20年以上が流れた。決して短くはないが、50を目前に控えた今、たった20年じゃないかとも思ってしまう。しかし、君がこれだけ変わったのだ。確かに時間が経っているんだな。
窓から、白い光が差し込んでくる。結局夜通し読んでいたらしい。時計はまだ五時少し過ぎを示している。春が来て日の出の時間も随分早くなったものだ。
コーヒーでも淹れよう。食パンを焼いて、スクランブルエッグも作ろうか。ゆっくり朝食を取って、少し部屋の掃除でもすれば彼も起き出す時間になるだろう。
食パンは、一枚。卵は二つにしようか。3つの半分は難しいが、一つでは少ない気がする。コーヒーを淹れる量は変わらない。しかし、緑茶を淹れる必要はない。
手慣れた動作も、量が変わると少し気を遣う。一枚の食パンにバターを塗りおえたあとに、手に持ったナイフが自然にもう一枚分のバターを掬い上げたのに気づいた時には笑ってしまった。戻す気にもならなかったので、同じ食パンに重ね塗りした。今日のスクランブルエッグにはマヨネーズは入れないでおこう。
使う機会もあるだろうと、二人分そのまま持ってきた食器が詰まった棚から、一枚の平皿を抜き取り、焼けた食パンとスクランブルエッグを載せる。隣にはコーヒーのマグを置いた。
テーブルの上の朝食が、いつもより美味しそうに見える。向かいの席に、朝の白い光を遮るものがないせいだ。
口にするもの全てが何だか味気ない。それもきっと同じ理由だ。
彼に電話をするまでの時間は、やはりテレビを点けておこうと思った。
朝の時間帯らしい番組から、休日らしい番組に移り変わる頃、私は飯島に電話をかけることにした。
数回のコール音を聞き流し、出ないかなと思った頃にやっと繋がった。
「やあ、おはよう。ちょっと待ってくれ。」
聞こえてきた声は、彼が寝起きであることを物語っている。
「悪いね。起こしちゃったかい?」
「いや、まあ、気にするな。」
ゆるゆるとしたテンポでそう言ったあと、彼は大きくあくびをして、それからうーんと唸った。おそらく伸びでもしたのだろう。
「窓を開けてみたまえ。良い朝だよ。」
「叩き起こされた朝に良い事なんかあるかよ。」
「なんだ、やけに眠そうじゃないか。昨日は夜更かしでもしたのかい?」
「僕の記憶の中では、小説を読み終えた君が連絡してくるのは決まって真夜中だったからね。」
「なんだ、待っていてくれたのか。それは申し訳なかったというか、それくらい教えておいてくれよ。」
「だから、そんな事はどうでもいいんだよ。読んでくれたかい?僕の書いた平成。」
戯れ言のやり合いを切り上げるあたり、睡眠時間は足りていないらしい。
「読んだよ。君もこっち側に来たね。」
「まあ、君が言いたいことは分かるが、それは間違っているよ。」
「というと?」
「僕が書いた小説は確かに、君が昔好んだ形に似ているかもしれないが、君はもう筆を折ったじゃないか。君が今いるのは、どこの側でもない。」
「なかなか、辛辣な事を言うじゃないか。」
会話のテンポを崩さないように、動揺を見せないように、そんな返しが私には精一杯だった。
「君はもう忘れていそうだから、あの小説について全て話すのはよそうじゃないか。事実は簡単だ。僕はついに新人賞を取ったぞ。」
「いやあ、おめでたいね。私も嬉しいよ。」
彼は、黙っていた。電話の向こうで鳴いている鳥の声だけがかすかに聞こえる。
君は、思っているんだろう。「僕は止めたぞ」なんて、「君が選んだのだろう」なんて。その通り、私が選んだのだ。彼女を選んで、文学を捨てた。もしかすれば、今になって思えば、選択なんて必要なかったのかもしれない。彼女と文学はぶつかってすらいなかったのかもしれない。確かにそうだ。だが、私は彼女を私の全てとして選んだ。そこに文学が入る余地はなかったのだ。君には分からないだろう。求めるものが、一つに絞られていた君には。そして、それをついに手にした君には分かるはずがない。「また言い訳に使うの?」。そう言うことじゃないんだ、今は、君は、黙っていてくれ。「黙っていて欲しいなら黙らせたら良いのに」。
「…白紙の恐怖」
彼が静かにそう言った。
「懐かしい言葉だ。」
「君が昔使っていた言葉さ。何故書くのかという問いに、君はいつもそう答えた。何かを紡いでいる事、何かを書いている事が自分だと。原稿用紙の上での話ではないにしても、これだけの沈黙を作れるというなら、君の中にもう恐怖はないのだろう。」
「白紙の恐怖…」
「この苛立ちを、発散するために、一つだけ教えてあげよう。いつか教えたはずだ。分からない事は調べるべきだよ。もし君にまだ恐怖を感じるだけの何かが残っていたら、それを調べる手立てがあるだろう。そうでなければ、そのまま生きてたらいいさ。じゃあ、僕は二度寝するよ。」
電話が切れた。
彼は昔から、私に刺さる言葉を吐くのが得意だ。何だかよく分からないうちに不安な気持ちになって、何かする必要がある気がしてくる。彼は丁寧に教えている気だろうから、何だかよく分からないなんて言われるのは不本意だろう。「わからない事は、調べるべきだ」か。私が、分からない事はなんだろう。幸せ?いや、彼はそんなに遠くて抽象的な問題をいきなり扱う男じゃない。もっと単純な事のはずだ。
なんだか馬鹿みたいだ。確かに彼は良い奴だし、昔はよく私の人生を心配してくれたものだ。確かに、私は彼を尊敬していたし、今でも、ついに賞を勝ち得た彼は十分に尊敬に値すると思っている。思ってはいるが、私は自分で選んだ道を精一杯歩んで全うしてきた。あんな気まぐれな男の言葉に釣り込まれて、私が不安を感じる理由がどこにある。珍しく、苛立ちを感じている自分がいた。そういえば、昔からそうだった。彼はいつだって私の見たくない事実を突きつけてくる。ああ、ダメだ、また私は気づきたくない事に目を向けてしまいそうになっている。違う、そうではない。そんな事はない、苛立つ理由は、彼が失礼だからだ。それが全てだ。「でも、飯島くんは優しい人だと私は思うけれど」。君は分かっていないんだよ。「認めちゃいなさいよ。分かっちゃった事からはどうせ逃げられないんだから」。それは次に進む事を目指している人間相手に送る言葉だろう?「あなたの望みを否定したい訳じゃないけど、私の望みを聞かないあなたが、私が幸せだったことは願うなんて、そんな身勝手は許されないわよ」。もう少しだけ、甘えさせてくれよ。今私はものを考えられるような状況にないんだ。「あなたがそうやって逃げる度に泣いてた人がいたのを、忘れちゃったの?」。……。
もし、私がまだ若かったら、外へ飛び出して、そのまま足が萎えて座り込むまで走っただろう。
煙草を拾う気力すら湧かないまま、ベランダへとすり寄る。眩しいほどの白い光に抱かれて、窓の縁を這うように超えると、明るさに一瞬目が眩む。目が眩んだまま、何も見えない時間がずっと続けばいいのにと思う。目が慣れてしまえば、徐々に明るい事を明るいと思えなくなる。よほど強い光に出会えない限りは。明るさを感じるためには一度暗闇に帰らなきゃいけない。明るさに、常に感謝を忘れずに生きれば良いのかもしれない。暗闇まで行かずに、木陰で休めば良いのかもしれない。そうできたら苦労しないじゃないか、そんな事ばかり言って生きてきた。しかし、自分に出来る事に逃げて、言い訳を練るために費やした無為な努力と同じくらい、出来ない事を出来るようにするために苦労をしておくべきだったのだろう。
私に反省を強いたのは、その白い光だった。
暗い夜の路を行き続けて、やっとの思いで掴んだ朝が幸せとは限らない。私は、必死に歩いて来たはずなんだ。朝焼けの中で、運命を乗り越えて、彼女との理解を果たす権利は十分にあるはずなのに。何故、そればかりが止まらない。「私は嫌よ。今のあなたに理解されるなんて。言い訳がくどい上に長いのよ。いつまでそうやって拗ねた子供みたいな事言ってるの?私の願いも、あなたの周りの人からの助言も無視して、自分の心の傷の深さだけを主張して、ほら、自分で隅々まで繰り返し見ては、傷口を広げるばかり。傷ってね、ふさぐのよ?直すのよ?早くしないと、あなたの心はもう腐りかけてるんだから。必死に消毒して、包帯でも巻きなさいよ」。もう少し優しくしてくれよ。私は君を失った事に耐えられないんだよ。「ほらまた目を背けた。嘘をつかないで。あなたは私に尽くすフリをしながらただずっと、自分の弱さから目を背けていただけ。分かっているはずよ、今までを責めるつもりはないわ。だって私はそんなあなたを愛していたもの。でももう言い訳代わりの私はいないの」。君を言い訳に使ったようなつもりはないよ。僕は君を愛したくて愛していたんだ。「だったら、これまでに満足してこれからに目を向けなさいよ。私はあなたが不幸になる事なんて望まない。死ぬまで私のことを引きずって、人を遠ざけて惨めでいじけた人生を送ったら、天国で私に慰めてもらえるとでも思っているの?そんな下らない話で、私が笑うとでも思っているの?どこまでも甘いのよ。あなたは」。じゃあ、どうしたら良いんだ。私がどうしたら、君は喜んでくれるんだ。「まずは、そんな風に言わなくなったら、かしらね。それに、私が何を望むかなんて、もうあなたの中に答えはあるはずよ」。
額を、一筋の滴が伝った。いつの間にか、日差しは力を増していた。空を仰いで見れば、太陽はすっかり高い位置へと動いていた。暑さから逃れるように、私は部屋の中へと戻った。あんなに光に惹かれていた筈なのに、熱を帯びた身体も、流れる汗も不快で仕方がない。不快感から逃れたいと思うと、先程萎えていた足を無理矢理立たせる気力は簡単に湧き出てきた。よし、と口に出して立ちあがる。立ってみれば案外身体は軽い。そのまま洗面所に向かって足を進める。
鏡に映った自分の顔は冴えなくて、情けなくて、そして、気持ち悪かった。ああ、当たり前だ。こんな顔では彼女が笑ってくれる筈はない。私の頭の中の自分は、もう少しインテリ風の、陰のある、苦悩する人間の顔をしているはずだった。それがなんだ、真実は疲れた冴えないオヤジがいるだけだった。それも妙に気持ち悪い。コンビニで店員に文句を言っている奴は大体こんな顔をしていた気がする。なんだか、少しだけ笑えた。勘違いも甚だしいとはまさに、だ。
鏡の中に映った自分に「お前は誰だ?」と問いかけ続けると精神が崩壊するという話を、再度思い出した。視覚から得る情報というのは影響が大きいらしいとも聞いた。だから、私は鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめた。
「なあ、お前は悲劇の主人公じゃなかったらしいぞ。いじけて、泣きそうになりながら、不満ばかり溢す、ただのオヤジだ。」
散々に馬鹿にして詰ってやろうと思ったものの、勢いで出て来た言葉はそこまでだった。自分の事を、心の中で延々と否定し続けてきたはずなのに、いざとなるとろくなセリフが出てこない。鏡に映った男があまりに惨めで、可哀想に見えたせいだろうか。拷問に耐えうるような男にはとても見えなかった。好意からではなく、道徳心から手を差し伸べてやらなきゃいけない男がそこにいる。
ため息を吐きながら、冷たい水で顔を洗った。汗を、火照りを、それから惨めな男を、洗い流すように何度も水をかける。気が済むまで洗ってから、タオルを取って顔にあてる。肌に優しく等と言わずに、何かを擦り落とすように力強く拭く。それから、鏡に向き直る前に一度、両の頬を思い切り叩く。意気込んで、もう一度向き直った鏡に映っていた男は、相変わらず冴えなかった。ほんの少しだけ、目が開いただろうか。口角を上げてみたが、余計に気持ち悪くてすぐに下ろした。
さあ、次にするべき事はなんだろうか。何も浮かばない。
「まあ、何か浮かぶ時が来るさ。」