プロローグ 8歳の老婆と12歳の狼
物心ついた頃には、既に、自分は、人と違うと感じていた。
「おはようございます」
何気ない、朝の食卓。
軍部に所属する無口な父リズリーは、
「ん」
と、鷹揚に頷き、優しい母メリノアは、
「おはよう、ウォルフ」
と、柔らかな微笑みを浮かべる。
何処にでもある、幸せな家庭。
しかし、『人』であるはずの二人の顔は、獣だった。
父は、頬に大きな傷のある熊
母は、小さな丸まった角のある羊
背後に飾られた婚約の儀の時に描かれたという二人の肖像画には、大柄な美男子と小柄な美少女が描かれている。
アレが両親なのだとしたら、俺の目に映るのは何者か?
鏡に映る自分は、狼。
古参の執事は、梟。
熟練のメイド長は、何故か蛇。
絵や物語に出てくる『人』はおらず、動物図鑑に出てくる生き物ばかりだ。
俺の頭は、おかしいのか?
それとも、『人』などと言う存在は、とうの昔に絶滅したのか?
そんな自問自答を幼い頃から繰り返し、八歳の頃、祖父の遺した日記を見つけた事で真実を知る。
彼は、俺と同じ。
人の資質や内面を、そのまま容姿として捉える忌々しい魔眼に苦しめられた人だった。
この世に、魔力を持って生まれる存在は、稀だ。
父も、母も、優れた人ではあるが、魔力は、持っていない。
ただ、既に亡くなった祖父は、違っていた。
稀代の魔導師として名を馳せ、戦争の時には、その光魔法により、敵味方関係なく多くの命を助けた英雄。
古びた日記には、己の両親が豚にしか見えない苦悩と、狸や狐しか居ない学園生活の虚しさが記されていた。
誰とも心を開いて話すこともできず、家族にすら秘密を明かすことができない。
そんな彼も学園を卒業する年に、親にゴリ押しされて妻を娶る事になった。
候補は、三人。
3歩歩けば、言われた事を忘れる鶏。
常に動きが緩慢なナマケモノ。
つい撫でたくなる三毛猫。
もう、三毛猫一択だった。
期待せず始まった婚姻関係。
だが、思わぬ三毛猫の穏やかで温かな性質により、充実したものとなる。
祖父は、彼女との子を望んだ。
しかし、鏡に映る己は、鷲。
目の前の妻は、三毛猫。
他人から見れば、絶世の美男子と美女の似合いな夫婦。
だが、猫を抱く気になれず、三年。
優しい妻の悲しげな表情に、なんとかせねばと頭を働かせ、作り出されたのが魔力を抑える眼鏡だった。
ソレを掛ければ、他の人間と同じ世界を見ることが出来た。
眼鏡越しに見えるのは、何処から見ても非の打ち所がない愛らしい妻。
夜の生活に眼鏡を外さない夫を叱る事もなく、やっと結ばれた悦びに彼女が産んだ子供は、八人だった。
貴族の中でも、有数の子沢山一家。
俺は、祖父の遺品の中にあった丸いフレームの黒縁眼鏡を掛けてみた。
分厚いレンズ越しに多少視界が眩んだが、確かに今まで『動物』にしか見えなかった者達が、『人』に見えた。
自分の姿を鏡に映せば、なるほど、あの肖像画の夫婦の子供だと納得いくほどには、整っている。
これで、俺の長年の悩みも解決できたと言えよう。
眼鏡のダサさを除けば。
結局、俺は、眼鏡を自室の引き出しの奥に隠した。
この目も、悪い事ばかりではない。
化かし、化かされるのが日常の貴族の世界には、良い指針となる。
小狡い奴らとは距離を置き、脳筋な奴らとは、それなりの友情関係を築き、頭脳明晰な奴らとは、今後の為に信頼と言う名の同盟を結ぶ。
結局は、一人狼。
徒党を組むのは、苦手だった。
どこか、冷めた自分に自嘲する毎日に転機が訪れたのは、十二歳。
高位貴族の子息が集められる学園に入学した日の事だった。
教室に入ると、アライグマが着飾って、一番前の席に陣取っていた。
見た目は愛らしいが、性格がキツイと評判の公爵令嬢アイラ・グフタスだ。
その周りには、狐や狸、ハイエナなどが、アイラの美しさを口々に称えながら侍っている。
幼い頃から、高位貴族として付き合いのある俺には、見慣れた光景。
表情には出さないが、げっそりとする気持ちが抑えられず、小さく息を吐いた。
そんな中、偶然、1人の人物が目に留まった。
窓際に座り本を読むその人は、小さな手でペラリとページをめくっては、目尻の皺を深くして微笑む。
色白な肌に、白銀の髪。
色素の薄い彼女は、シワシワの老婆だった。
大切な事なので、二度言う。
老婆だ。
獣でも、爬虫類でも、魚類でもなく、『人』。
眼鏡を掛けずして、『人』と出会ったのは、生まれて初めてだ。
小柄な彼女の足は床に届かず、しかし、プラプラ揺れる事もなく、美しい姿勢を保っている。
俺は、彼女の姿がよく見える斜め後ろに座り、観察することにした。
自己紹介の時に、名前が、オトミー・イジューインと分かった時には、何度も名前を心の中で復唱した。
自然に呼び掛けられるよう、自宅に帰ってからも練習した。
オトミー嬢、オトミー嬢、オトミー嬢。
いや、いきなり名前呼びは不味い。
イジューイン嬢、イジューイン嬢、イジューイン嬢。
滑らかに口が回るまで繰り返した。
結局、次の日も、その次の日も、一度も名前を呼べなかった。
せめて、心の中では、親愛を込めて『オトミー』と呼ぶ。
彼女の何が、魔眼の前ですら人としての形を保つ事を可能にさせ得るのだろう。
もし、それが解明されれば、あのダサ眼鏡を掛けずとも、いつか『人』を『人』として認識できるのではないか。
淡い期待を胸に、俺は、日々オトミーの姿を目で追った。
そして、分かったことがある。
彼女は、何処に出しても恥ずかしくない、洗練された淑女だ。
朝は、一番に登校。
学園指定の制服を、改造する事なくキチンと着こなし、物静か。
教師に対しては、尊敬の眼差しを。
同級生には、慈しみの眼差しを。
学園で働く職員には、感謝の眼差しを。
そんな彼女に、自然と周りも心を解かせていく。
オトミーは、時々、休み時間に刺繍をしていた。
淑女の嗜みではあるが、レベルが桁違いで、ある女性教師が購入を申し出た程だ。
一度、袖口のボタンが外れかけた男子生徒を見かけ、ものの数十秒で付け直してやっていた。
羨ましい。
そして、あのアライグマすら、彼女には嫌味を言わない。
いや、入学当初は、事あるごとに優秀な成績を残すオトミーに突っかかっていた。
だが、オトミーは、動じない。
孫を見るかのような、慈愛に満ちた瞳でアライグマを見つめ、
「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ、グフタス様は、怒られても愛らしいこと」
とシワシワの手で、アライグマを撫で回すのだ。
一度目は、激怒し、二度目は、戸惑い、三度目は、目を左右にキョロキョロと動かし、動揺を隠せなくなり、四度、五度と態度は軟化。
どれだけ嫌味を言っても通じず、最後には撫で回されるループで、アライグマの方が折れ、今ではオトミーの横は、アライグマの定位置と化した。
アライグマの取り巻きだった他の令嬢達も、オトミーに撫でて貰いたそうに周りをウロウロしている。
そんな光景を、クラスの男どももユルユルに緩んだ顔で眺めていた。
「イジューイン嬢は、本当に、慈悲深い方だ」
「グフタス嬢が、あそこまで懐くとは」
「美少女のツーショット、尊い」
皆が、褒めそやすオトミーの『本来の姿』が、気になった。
俺は、一度だけ、好奇心に負けて、あのダサ眼鏡を掛けてオトミーを見た。
ものの10秒の出来事だったが、美少女と表現するには、言葉が足りないほどの美しさだった。
無論、皺、シミなど一つもない透明感あふれる肌は、光り輝いているようにさえ見えた。
心に焼き付くとは、こう言うことを言うのだろう。
だからなのか、俺は、大失態を犯した。
ガシャン
あ・・・
眼鏡を落とし、大きく破損させてしまった。
慌てて袋に入れ、外れた部品も拾い集めた。
帰宅早々、修理しようとしたが・・・手に負える代物ではなかった。
はぁ
俺は、気づけば彼女を思い出して、甘いため息を吐いていた。
そうなってからは、老婆にしか見えずとも、隠しきれない愛らしさが俺にクリティカルヒットし続ける。
体が小さく、おっとりとした彼女が、実験棟へチョコチョコとした足取りで向かう時など、その手から荷物を奪うように取り上げて持ってやった。
「まぁ、ありがとうございます」
乱暴に奪って後悔する俺に、彼女は、驚きながらも感謝して頭を下げた。
つむじまでかわいいとは、けしからん。
父に似て長身の俺が見下ろすと、彼女の身長は、腰ぐらいしかない。
成長の遅れかと心配したが、実は、まだ八歳なのだと本人から教えられ、更に驚いた。
どうりで、入学するまで会った事が無いはずだ。
優秀過ぎる頭脳を埋もれさすのは惜しいと、飛び級でこの学園に入れられた彼女は、友達も居らず不安だったと言う。
「お、お、俺が、友達になってもいい」
「ありがとうございます。嬉しいですわ」
花が綻ぶような微笑み。
細められた目が、皺に紛れて、何処が瞳か分からなかった。
入学して、半年。
「今日、お前の婚約者が来る」
普段以上に無表情の父が、死刑宣告のような言葉を吐いた。
「俺は、十二です。まだ、早いかと」
「決定事項だ。不服なら出て行け!」
父が、怒鳴り声をあげた後、これ見よがしに牙を見せた。
熊の怒りの咆哮に、俺は、奥歯を食いしばり涙を堪える。
所詮、貴族の結婚など家同士の契約だ。
分かってはいたが、相思相愛の両親を見て、自分も幸せな結婚が出来るのだと思い込んでいた。
静まり返った部屋に、トントンと扉を叩く音が聞こえた。
「ちょっと、よろしいかしら?」
いつも以上にブラッシングをしたのか、必要以上にフワフワになった母が、部屋に入ってきた。
「貴方の大声で、小さなお客様が、怯えてしまっているわ」
母は、自分の足にしがみ付く少女の頭を撫でた。
白銀のサラサラ髪。
顔を傾け、そーっとこちらを覗いたのは、恋して止まないシワシワの少女。
「オ、オ、オ、オトミー!」
俺は、格好悪く吃りながら、不躾にも、名前を呼び捨ててしまった。
オトミーは、両手でスカートをチョンと摘むと、美しいカーテシーを見せる。
「突然来て、申し訳ございません。婚約の件、父に相談し、無かったことに・・・・」
ポロッ
ギュッと閉じられた目尻から、涙が落ちた。
俺は、パニックになって、オトミーを抱き上げると、部屋から飛び出した。
突然抱き上げられ、オトミーも咄嗟に俺の首にしがみついた。
そこから庭に飛び出すと、俺は、四阿へと走り、ソーッと彼女を椅子に座らせた。
オトミーは、真っ赤になった顔を両手で覆い、フルフルと小動物のように震えている。
「ビックリさせて、すまない。俺も、驚き過ぎて、何が何やら・・・」
俺は、彼女から少し距離を置き、深呼吸を繰り返した。
少し冷静になってくると、ジワジワと幸せが心の奥から湧いてくる。
「その・・・俺と君が婚約をする・・・と言う認識で間違いはないのか?」
「た、たぶん」
「そ、そうか・・・・・・それは・・・ラッキーだった」
「へ?」
オトミーが、弾かれるように、顔を上げた。
「い、嫌なのでは?」
「誰が、そんな事を言った」
「でも・・・先程は・・・」
身を縮めるオトミーに、俺は、申し訳ない気持ちで一杯になる。
「俺は、顔を見るまで、婚約者が君だとは知らなかった。それに、父上は、黙るか怒鳴るかしか出来ない」
苦笑する俺に、オトミーが、ふふっと笑った。
「私、嫌われたのかと」
「他の女なら、逃げただろうな」
「それは、えっと」
「最初からお前と分かっていたら、家まで迎えに行った」
「あわわわわわわ」
オトミーは、両手を頬に当てると、下を向いてしまった。
・・・抱きしめても良いだろうか?
全ては、シワシワなのに可愛すぎるオトミーがいけないと思う。
「実は、俺には、親にさえ言えない秘密があるんだ」
一生を共にする女性に、嘘は吐けない。
俺は、自分の呪われた目の話をした。
驚くか?
嫌がるか?
しかし、オトミーは、予想外に微笑んだ。
「私のシワシワな顔でも、好きでいて下さるのですね?」
「あぁ、勿論、それも含めて可愛いと思っている」
「嬉しい」
フンワリと微笑み、目を皺と同一化させると、オトミーは、突然俺の手を握った。
「貴方の目に、私が老婆に映る理由を知っております」
「ほ、本当か?」
「えぇ、だって、私、98歳ですもの」
「え?」
「ですから、私、98歳ですの」
理解不能な俺に、オトミーは、少し寂しげな顔をしながら教えてくれた。
オトミーには、断片的にだが、90歳まで生きた前世の記憶がある。
住んでいたのは、黒髪の人しか住んでいない国。
そこで薬師をしていた彼女は、結婚する事なく、死ぬまで薬の開発に力を注いだ。
時折頭に浮かぶ光景を繋ぎ合わせ、理解するまでに五年。
その時、既に鏡に映る自分は、老婆の姿だった。
幼い頃から、人と違う自分に死にたくなるほど悩んだし、勿論、両親にも告げていない。
だから・・・
「ウォルフ様が、婚約者で良かったです」
目尻に涙を溜め一生懸命微笑む彼女を、俺は、思わず抱きしめた。
「オトミー、約束する。いつか、君が本当の自分を見られるようにするよ」
「ウォルフ様・・・」
あんなに美しい自分を、知らないまま死ぬなんて、あってはならない。
この無尽蔵の魔力も、きっと、その為に神が与えたんだろう。
「よろしく、我が婚約者殿」
「はい、ウォルフ様」
8歳なのに98歳なオトミーは、俺にとっては、世界一可愛いフィアンセだ。