おカシの家
「どれ、そろそろ頃合いかの。坊主、腕を出してみい」
嗄れた声に促され、少年は渋々鉄格子から右腕を差し出した。老婆はそれを乱暴に引き寄せると、指先から手首、手首から肘へと丹念に吟味する。
やがて、その木肌のような眉間に縮緬皺が寄った。
「坊主…お前、儂の飯ィ喰よおるんか?」
「ええ、勿論」
老婆の低声に、少年は静かに答える。
「ひとかけらも残さず頂いております。空でない皿をお返ししたことは無いでしょう?」
それを聞くと老婆は、いっそう眉間の皺を深くしたが何も言わずに立ち去った。
「わからん」
自室の椅子に深く腰掛け、老婆は独りごちる。
「何ンで太らん…栄養価の高い食事、決まった量の運動、十分な睡眠。これで何故、成長せんのんじゃ」
最初に触れた瞬間、これはイケる、と思った。育てれば喰いがいのある体になると。なのにこの一月、少年の体はしぼんでいく一方なのだ。
一緒に捕らえた少女の方は駄目だ。とても美味く育つとは思えないから、手伝いとして置いているがそちらの役にもあまり立たない。その点、少年の方は申し分ない素材なのだ。
「何ンでじゃ…」
こうも事が思い通りに運ばないのは、実に数十年ぶりであった。
そもそも老婆がこの樹海の奥に家を建てたのは、迷い込んだ人間、捨てられた人間を彼女の獲物とするためだ。故に、迷子の通りやすいルートに、出来るだけ派手に出来るだけ魅力的に見えるように居を構えた。
釣れた人間は数十人にも登る。その全てを、そのまま或いは好みの姿に育ててから喰らってきた。
老婆は視力を失っている。そのこともまた、獲物達の警戒心を薄くさせるらしかったが、研ぎ澄まされた感覚と経験による洞察力を以てすれば相手の肉体の質を見抜くことなど老婆には造作もないのだ。
それなのに。
今回は見立てが間違っていたというのか――?
「お婆様」
思索に沈んでいた老婆は、細い声にはっと顔を上げた。兄弟の妹の方だ。
「何ィや」
不機嫌に尋ねると、少女は軽やかな足取りで老婆の目の前まで近づいた。
「兄が用事があると申しております」
「用事、じゃと…?」
「はい」
食事の量の話か、あるいは待遇に関する話だろうか。
「儂を呼びつけるか。ええ度胸しとるがな、え?…ここで言うてみい」
居丈高に命じると、少女はしばし逡巡した後、老婆の眼前に自らの腕を突き出した。
「…何しょおるんなら」
「触ってみていただきたいのです」
老婆は一笑に付した。
「坊主の代わりになろういうんか。お前やこ、こねぇ細え腕して…」
少女の腕を掴み、筋張った指で手首を握り込んでみせる。
「見ぃ、喰いがいやこ…ありゃあせん……?」
半ばから、老婆の声が尻窄みになった。嘲笑から一転、その面は半端に傾いだまま、呆然と驚きを表している。
捕らえた兄妹、その妹の細腕の感触。それは、肌触りや肉質、筋一本に至るまで兄の物とそっくり同じだったのだ。
(まさか)
少女の腕を荒々しく振り捨てると、老婆は凄まじい勢いで立ち上がり足音高く部屋を出て行った。ぞんざいに扱われ、床に尻餅をつく少女。
だが、その唇はしたたかに笑っている。
「坊主ッ!」
牢部屋に踏み入ると同時、老婆は雷を落とした。今すぐ事実を問いたださねばならない。
「はい、何でしょう」
いつもの嫌に落ち着いた返事が聞こえる。――が、それに苛つくだけの余裕は既に老婆から奪われていた。
返事のした方向。
牢の、外だ。
「……!」
鍵は持っている。
ならば脱出の方法は二つ、ピッキングか力尽くしかないが、答えが後者であろう事はすぐさま推測できた。
「どうなさいました?何か僕に質問がお有りになるのでは」
気を付けて聞くと、少年の声が愉快そうに跳ねているのが分かる。彼の立つ方向から、濃厚な肉体の気配が流れ出してくる。
「くくく」
老婆は喉を鳴らした。
「儂を騙すとは、やってくれたのう。じゃけえど、嬉しいのう…丁度食べ頃じゃッ」
小さな躯が瞬時、猫のように丸まって飛び出した。
いたっ、と呻いて少女は足を止めた。突き飛ばされたとき、足を挫いてしまったようだ。
苦い顔をしたが、それはすぐに楽しげな微笑に取って代わった。
捕まってからというもの、兄と毎日打ち合わせていた作戦。老婆がチェックに来るときのみ自分がすり替わり、兄は悟られることなく肉体修行に徹する…時期が来たとき、老婆は敢えなく返り討ちになるというわけだ。
少女は含み笑いをし、自分達の作戦の成功に悦に入りながら牢部屋の戸を開けた。
そしてそのまま、立ち尽くした。
「はあッ!」
「ふん!」
凄まじい攻防戦であった。
兄がフェイントを入れて打ち掛かれば、老婆はその腕を取って回り込み慣性を利用して投げ飛ばさんとする。倒されたか、と思うと兄はしかし自分から回転力を早め技から脱する。直後、互いがぱっと跳び退り構え、荒い呼吸を整える。その姿をよく見れば、双方汚れと打ち身と擦り傷だらけである。
愕然と、妹は叫んだ。
「何なのこれ!?兄さ…」
「うるさい黙ってろ!」
空気が震えた。
一度も聞いたことのない兄の怒鳴り声。知らず、涙が滲む。
「まあそねぇ言わんで、説明してやりぃ」
窘めたのは、意外にも老婆だった。顔はぴたりと対手に据えたまま、口元だけが笑んでいる。
それでも兄は黙っていた。妹は困惑するばかりである。
やれやれとばかりに、老婆が喋り出した。
「小娘。儂が魔女やら山姥の類じゃ思ようたんか?喰う言うてほんまに食べるやこありゃあせんわ」
「え」
すると兄も不機嫌に口を開く。
「薄々分かってたがな…このババアは只の喧嘩オタクだ。そこらの野郎をとっ捕まえちゃムキムキにして最後に殴り合いさ」
妹は、呆れかえってぽかんと口を開けた。それから短い溜息をつく。
「ねぇ下らない…」
が、
「分かったら消えてろ」
「邪魔じゃ」
一蹴。
正に一蹴、言葉を失う妹を余所に、兄は一跳びで相手との距離を縮めた。が、老婆とてそれを察せぬではない、素早く屈むと視界から消える。
(――足元ッ)
気付いた時には既に鮮やかな足払い、つんのめったその先に壁。
部屋が狭すぎるのだ。
咄嗟に頭を庇い、丸まって壁につっこむ。と、老婆がその躯をさらに壁に向かって投げ飛ばした。
煉瓦にしたたか打ち付けられた少年だが、すぐさま跳ね起きた。額が切れ、血が滴る。
「…ババア、目がどうしたって? どこが盲目だ」
少年が眉を寄せニヤリと笑ってみせると、老婆は大袈裟な身振りで、
「おお、近頃の若いモンは疑い深うていけん。ほれこの通り、きっちり盲じゃろう」
突然、かっとばかりに目玉を剥く。妹が部屋の隅で息を呑んだ。
飛び出さんばかりの眼球、黒目の部分は曇り、瞳は判別できない。それで唇を引いて笑うのだから不気味この上ない表情であったが、少年は些かも動揺を見せなかった。
「ち…この狭さも計算の内か」
目明きの自分よりも、空間を完全に感覚で把握し、固定した戦略を持っている老婆の方がこの場では有利になる。
「はて、何のことじゃろ」
本人はといえば、とぼけて小首を傾げている。愛嬌があると言えなくもない。尤も少年の表情は苦いばかりだ。
「ババア…」
「…さあて、そろそろ年寄りは疲れてきたわいや」
老婆は呟いて、身を揺らした。
すう、と目を細めると空気に沈み込むような深い呼吸。上体を真っ直ぐに立てたまま、じわり、と腰を深く落とす。白い瞳が、静かに据えられた。
弾かれたように、少年が構え直す。額に新たな汗が浮いた。
予感。興奮にか恐怖にか、鳥肌の立つような予感である。
何分か。
或いは何時間か。
双方動かないまま、少しずつではあるが、確実に室内の気温は上がっている。呼吸音ばかりが、微かにくすぶる。
余りに長い、耐え難い沈黙であった。――。
とうとう妹が、苦しさに半歩程度よろめいた。
同時。
瞬時に、
距離を詰める、天を突くようなアッパーの軌道に流れるように枯れ木に似た手足が絡みつく。
「お…」
老婆の全身を使った関節技、振り抜けば右腕は粉々になる。
だが。
「おおおおおらぁッ!」
だん、と踏み抜かんばかりに床を蹴ると少年は打撃を加速させていた。
幾つかの破壊音、息遣い、飛び散る滴。
そしてそれきり静かになる。妹は目を覆ったまま震えていたが、周囲の埃が収まった頃、何かが崩れ落ちる音を聞いてようやく指に隙間を開けた。
「――それで、どうなったんだい、グレーテル?」
父親が興奮も露わに尋ねる。そこで妹は、自慢げに答えてやった。
「勿論、兄さんが勝ったに決まってるじゃない!だってほら、ここに無事でいるのよ」
そう言う彼女の横には、全身痣と傷だらけ、極めつけに右腕を包帯で巻きに巻いて吊るしている兄の姿がある。父は、興奮と心配の混ざった表情で彼の方を見た。
「本当なのかい、ヘンゼル」
「…まあね…疲れたから、寝かせて貰うよ」
どこか上の空で部屋に向かう少年に、父が今度は心底身を案じる視線を向けた。
「大丈夫よ」
妹が囁く。
「あれは遊び疲れただけなのよ。だって兄さん、戦ってるときとても楽しそうだったもの。今回のことも、修行だと思って感謝するって」
子を捨てたことを指摘され、父はぎくりと愛想笑いする。妹が、にんまりと笑い返した。
(あれは勝ちじゃない)
部屋への廊下を歩きながら、少年は一人思った。
(確かにババアを振り飛ばして、骨の五本や十本折ってやった。だが…)
骨折に鋭い痛みが走る。眉をしかめ、それから溜息をついて呟いた。
「痛て…」
複雑骨折だ。完全に回復するのはいつになるだろう。
無事な左腕を壁に叩きつけたい衝動をやっとのことで堪える。震え出しそうな瞼を、一度きつく閉じた。
治ったら、またあの家へ行こう。きっとあの老婆が、美味しく味付けされて待っている。
少年は目を開くと、唇を結んで歩き出した。