Hrotsvit_2017
『COLON:SERIES - 異世界への扉と導かれし者達』(https://ncode.syosetu.com/n6593ef/)のスピンオフ作品です。
シャワールームから出る。身体に馴染む熱を、吐息に乗せて吐き出した。彼女の燃えるような赤毛は、その蠱惑的な流線でありながら鍛えられた身体に雫を落とす。
午後9時頃、暦史書管理機構東京支局の地下拠点にて、ロスヴィータ・ブロードは鍛錬後のシャワーを浴びていた。彼女の友人であるセーラが日本支部に顔を効かせて用意したこの拠点、シャワーやキッチン、生活をするのに必要なものは全て揃っていて、その上野外を模したグラウンドめいた空間まである。一体どうしてそんな権限を持っているのか、とロスヴィータは謎多き友人の顔を思い浮かべたが、頭の中で適当なことしか言わないので即座にかき消した。
棚に用意されているタオルを手に取ると、その隣に幾つも積み重ねて置いてあるとある衣服が目についた。件の謎多き友人、セーラが置いたもので、ロスヴィータは身体を拭きながらそれを眺める。なんとも地味な色、地味な形状…彼女の目には、そう見えた。
………
「ノア…貴方、こんな所で何をしてるのかしら」
拠点の入り口の一つになっている機構所有の小さな5階建て雑居ビル。周囲の建物に溶け込んでおり、一見するとなんの変哲もないビルに見える。その屋上へ上がってきたロスヴィータは、上裸で腹筋をするノア・クリストフ・ボナパルトと出くわした。
「なにって、見ての、通りだよ!腹っ、筋、だ!」
腹筋をしながら返事をするノアに、ロスヴィータは隠しもせずに顔をしかめる。ノアは言い終わると同時にその身を床に投げだす(ノアの腹筋する屋上の床にはご丁寧にシートが敷いてあった)。汗で張り付いた金髪をかきあげて、細く息を吐く。
(腹筋って…まさかセーラに言われたことを真に受けているの…!?)
ロスヴィータは今日の昼のことを思い出していた。リリィが連れてきた新入りに対して、セーラが仲間たちを紹介する際に言ったセリフを思い出した。
『りーたんノアくんヴィヴィは適当に腹筋でもしといて』
セーラの連れてきた方の新入りが異端書の捜索担当であり、リリィやノア、ロスヴィータたち戦闘担当は特にすることがないのをからかって言ったものだと理解していたが、このノア・クリストフ・ボナパルトという男は、このセーラの台詞をそのまま文字通り解釈した可能性がなくはない、ということにロスヴィータは気づいてしまった。
ドン引きの顔でロスヴィータは恐る恐る問う。
「もしかして…昼からずっと、ここで腹筋をしてたり…しないわよね?」
「僕を何だと思ってるんだい!?僕はボナパルト家の人間なんだよ、昼間は個人的な諸々のやるべきことを片付けなきゃならないんだ」
ノアは寝そべりながら不服の表情で訴える。
「僕の放つオーラが余裕に満ち溢れているから勘違いするかもしれないけどね、僕は暇人じゃないのさ。だから諸々のことを片付けた後の夜中に個人トレーニングしてるってわけ」
「ふうん。まあ貴方が暇人でもそうでなくても、どちらでも構わないけど…なぜ上裸なのかは、一応聞いておこうかしら。返答次第では貴方を屋上から追い出そうかと思うのだけれど」
というかもう無条件に追い出したい、暑苦し過ぎる。真顔でロスヴィータはそこまで考えていた。
「僕はトレーニングの時は上を脱ぐんだ…そのほうが気を逸らされるものが減るし、何より下手にトレーニングウェアを着るより僕の肉体のほうが美しいからね」
そもそも僕が先にここでトレーニングしていたんだから、ロスヴィータにどうこう言われる筋合いはないよ、と付け加えると、ノアは起き上がって脇に置いてあったタオルを掴む。
「君だってどうしたのさ、ロスヴィータ。いつもだったらあのエレガントな赤のナイトドレスじゃないか」
予想通り、それ以上だったノアの返答に辟易して、階下に戻ろうと屋上のドアに手をかけていたロスヴィータの服装は上下ジャージだった。ファッションの一環で着るようなオシャレジャージではなく、野暮ったい青みががった黒の。
ロスヴィータはゆっくりと振り返り何か言おうと口を開け、閉じる。そうした後、開き直ったようにドアを背にその場で胡座をかくと、垂れてきた赤い前髪一束を息で吹いてどかして、言う。
「…人に会うつもりはなかったのよ。本当に四六時中ドレスという訳にはいかないし、シャワーを浴びたあと、セーラが用意してくれたこれが目に入って…」
着心地は良いわよ、と半ば投げやりな返事に、ノアはなにやら可笑しかったのか、くつくつと笑っている。じろりとロスヴィータは睨んだ。
「僕も君もおんなじようなことをしてるんじゃないか。結局、気を抜きたくて、地下から出たかったんだ」
そう言ってノアは身体を伸ばす。よくよく見れば、その身体には傷が多い。ほぼほぼ治っているものばかりだが、下手をすれば身体を動かすのに支障が出そうなほどであった。
それを横目で見つつ、ロスヴィータはしぶしぶと言った感じで認める。
「そうね。基本的な生活が地下なんですもの、息抜きくらいしたくなるわよ」
「僕もさ。それに、僕ほどの男がこんなに長い期間日本の地下に居たら、フランスの治安が心配になってくるよ」
「あらそ」
ロスヴィータはジャージの前を首元の最大限まで閉め、三角座りに体勢を変えて半ば顔を襟に埋めるようにする。
「そうだ、彼──ヨミヒトだったかな?彼と手合わせしたんだろう?どうだった」
「貴方がフランスの治安を維持しているのなら、彼はユーラシア大陸の犯罪をゼロにできるでしょうね」
「…やっぱりそうか」
ノアは腕で身体を支えて夜空を見上げながら呟く。ロスヴィータは続けて言った。
「身のこなし、体術、有栖川の血筋、そういったもの以前に…能力者として、たぶんあの子は格が違う」
それぞれの異能を持ち、その越権を振りかざして戦う者の視点から見て、その力量というのはある程度までは測られ得る。それにつけても、ひと目見ただけでわかる彼の力量は異常であった。
「彼を見たとき、ちょっとこれは勝てないな、と思ったよ。単純に出力が僕以上だし、なによりロスヴィータと手合わせした後なのに満足に動けていたからね」
それは貴方が弱いだけよ、というロスヴィータの呟きをノアは聞かなかったことにしつつ、続ける。
「でもそれ以上に、彼はなんというか──」
「──危なっかしい」
ロスヴィータが言葉を継ぐ。ノアはロスヴィータを見ると、片眉を上げて言う。
「心配かい?」
「…そうね。ああいうタイプ、心当たりがあるもの。自分自身にも」
「僕もだ」
ビルの面する道路は車の往来も稀で、彼らの声以外は押し黙ったような夜だった。
しばしの沈黙の後、ノアが口を開く。
「もう一人の新入りは…どう見る?」
「…シード・ディ・ラジウム・レオナルド、第四分家のご令嬢…セーラの人選だから問題ないとは思う…のだけれど」
「レオナルド家自体にはあまり信用がない…まあ、疑ってかかっても仕方ないし、僕は君たちのことを信用しているから」
「貴方の信用が何のお墨付きになるのかしら?」
「互いの信用がお墨付きになるのさ。僕は君からの信用をようやく今日確認して安心してるんだ、君はいつも身を守る赤を纏っていたからね」
よく口が回るわね、と口調は呆れながらも、ルージュの塗られていないロスヴィータの口元は笑っていた。ノアもまたニヤリと笑い、そしてジャージの彼女に問いかける。
「それに君だってセーラの人選だろう?君は何故セーラに協力を?」
「友達だからよ。ドイツ支部で会って、それから彼女以上の友人はいない…それくらい、彼女とは仲が良いつもりよ。いっつも変なことばかり言うけれど…」
ロスヴィータはジャージの胸に目を落とす。そこには『ヴィヴィ』という刺繍が白字で施されていた。人数分を発注したであろうセーラの様子を想像して、呆れたような、可笑しくなったような表情をする。
それから彼女は反対にノアにも問いかけた。
「貴方はどうして?貴方の叔父さんが大変なことをしたからかしら」
「それも含めて、僕の血の責務だからさ」
そう言った彼の肩には、傷跡と共に大きな何かがのしかかっているようだった。ロスヴィータはノアの目を見た。ノアはその視線から逃げるようにおもむろに立ち上がると、床に敷いていたシートを片付け始める。
「上に立つ者として、救える者は全て救わなければならない。…具体的には、金が要るんだ」
「…金?貴方が金銭に困る様子は少しも浮かばないのだけれど」
「ほうぼうの孤児院や何やらに資金援助をしていたら、すっからかんになってしまってね。貴族だからといってお金は無尽蔵じゃないことは知ってるだろう?」
ふうん、という相槌を背に、ノアはシートを畳んで立ち上がる。ロスヴィータはその背中にこう投げかけた。
「別に、堂々と言えばいいじゃないの。『子供たちを救うため』…って。何を恥ずかしがっているのだか」
ノアは苦笑いで振り向いて、何か言おうとして口を閉じる。そうしてまたロスヴィータに背を向けて、観念したように言う。
「…なんだか、僕が言うようなセリフじゃない気がしてね」
「…アホらしい。そんなんだから、セーラにすら適当にあしらわれるのよ」
ようやく本音の本音を喋ったわね、とニヤリとするロスヴィータ。ノアは降参といった様子で肩を竦めた。
次第に夜は更けていた。夏の月は彼らを柔らかな光で照らしている。
ロスヴィータが立ち上がり伸び、気の抜けた様子であくびをする。一方ノアは両二の腕を両手で擦って身震いしたかと思うと、最終的にはくしゃみまでした。
「…流石に上裸じゃ寒くなってきたな」
「貸さないわよ」
ロスヴィータはジャージを守るように自らの身体を抱く。
「さっさと下に行って着替えてきなさい。きっと貴方の分のジャージも、用意してあるんだろうから」