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腹の中はともかく、それまでの華やかなざわめきが乾いた音によってシン、と静まった。
夜会に集まった貴族たちのみならず、給仕達の視線を集めているのは今回の夜会の主催の息子であり、ある意味主役でもあるこの国の王子とその婚約者であった。
王子の横にはしかし、婚約者の姿はない。
ではどこにあるのかと言えば、王子の前にみっともなく膝をつき、頬を抑えていた。
他でもない、王子に打たれたのである。
そして、転んだのだ。
その王子の横には、まるで人形のような美しさをもつ少女が立っている。
クスクスと、王子にはわからないように、王子の婚約者である少女を見て嘲笑していた。
さて、その婚約者である少女だが。
人間種族ばかりのこの場において、彼女は外見からして浮いていた。
頭には魔族の証である黒いヤギの角が生えている。
肌の色は褐色だ。
髪は銀色で、瞳は血のように紅い。
しかし、顔立ちはそこらの貴族の姫よりも美しく、整っている。
「これだから魔族は信用出来ないんだ」
憎々しげに、王子が吐き捨てる。
それから隣にたち、腕をからませている少女へ言葉をかけた。
「もう大丈夫だ。僕がついてる。
君のことは僕が守るよ」
とても優しい声で、言葉で、王子は少女へそう言った。
そして、また婚約者の少女へ。
今しがたとても王族とは思えない態度を取った相手へ、言葉を投げつける。
「国のためと我慢していたが、彼女への度重なる暴力、そして先日の殺害未遂には堪忍袋の緒が切れた。
お前との婚約は破棄する!」
王子の言葉に、彼の婚約者であり、留学の名目でこちらの国に友好の証としてやってきた少女の目が見開いた。
そして、悲しそうに歪む。
それを見て、王子は満足そうに笑みを浮かべるとさらに言葉を続けようとする。
しかし、そこに割って入る人物が居た。
この夜会の警備をしていた兵士だった。
黒髪に黒目が、その人物が平民であることを物語っていたが、誰もそれに意見しない。
唐突のことで、誰も状況に頭が追いついていないのだろう。
青年というにはまだ幼く、線も細い警備兵だった。
その警備兵は、魔族の少女と王子の間に立つと、彼を睨みつけ、怒鳴りつけた。
「仮にも、父上――陛下が招いた国賓になにをなさっているのですか!!
そもそも、か弱い女性に手を上げるなんていかなる事情があろうと、王族がすることですか!!??
この色ボケバカ王子!!」
声変わりもしていない、少女のような声で身分なんて気にせずに王族へそんな罵詈雑言を放つ。
歳は、魔族の姫君や王子と同じくらいの十代半ばくらいだ。
「なんだ、貴様は!?
無礼にも程がある!」
警備兵の言葉に頭が血が登り、顔を真っ赤にした王子が殴りかかってくる。
警備兵の後ろで、魔族の少女が思わず目を閉じるがいつまでたっても警備兵が王子に殴り飛ばされる音が聞こえてこない。
恐る恐る目を開くと、そこには余裕綽々で殴ってきた王子の腕を掴んで握りしめている警備兵の姿があった。
「っ!?
誰か、この者をつまみ出せ!!
断頭台に送れ!!」
癇癪を起こしてそう叫ぶ王子に、警備兵がニッコリ笑って腕を締め上げ、組み伏せる。
そして、言った。
「なら、つまみ出される前に、この首が刎ねられる前に、貴方様の両腕と両足を折らなければ、そうそう、異国の姫を貶めたその口も潰しておかないとですね。
この国の王子の挙動、言動とはとても思えませんので」
静かに、そう、とても静かに警備兵が言う。
その言葉には圧があった。
王子の口から情けない、ひっ、という声が漏れた。
そして、そのまま王子は気絶してしまった。
警備兵はチラッと、王子の横に先程まで侍り、異国の姫君に対して嘲笑をむけていた、少女を見た。
この少女のことは、警備兵も知っていた。
情けなく気絶している王子の恋人として有名な少女だ。
恋人、と書けば聞こえはいいが、とどのつまり愛人である。
二号さんというやつだ。
魔族の姫が現時点で未来のこの国の王妃予定となっている以上、それ以外は側室や、妾、愛人という位置になる。
王子の恋人である彼女が貴族なら、側室予定という認識であったことだろう。
しかし、警備兵の知る限り彼女も元は少し裕福な家の生まれというだけで身分は庶民だ。
だから、愛人という認識を警備兵はもっていた。
想定外の所から現れた、異国の姫君を庇った存在と目が合うと、こちらも恐怖に怯えたようにカタカタと震え出した。
顔も青ざめている。
しかし、すぐに警備兵は興味なさげに視線をその少女から外す。
ついでに組み伏せていた王子からも手を離す。
誰もがその場から動けずにいる中、その警備兵だけは打たれて倒れたままの魔族の姫君へと振り返り、言葉をかけた。
「大丈夫ですか?
あぁ、腫れてますね。
足も、痛めてますね。赤くなってる。
転んだ時に捻ったようですね。
姫様、触れるご無礼をおゆるしください」
そう言ったかと思うと、警備兵は軽々と魔族の姫君を抱き上げた。
「わっ」
抱き上げられた魔族の少女からそんな声がもれた。
パーティーが行われていた広間から、通路に出る。
パタンと、広間の扉が閉じる。
それと同時に扉越しでもわかるくらい、広間の中が騒がしくなった。
「今から医務室へ行きます。
それまでは、これで我慢してください」
そう言って、警備兵は口笛を吹く。
それだけ、たったそれだけのことだった。
次の瞬間には、魔族の少女の手にはとても冷たい布が握られていた。
この警備兵は、とても優秀な魔法使いなのだろう。
「あ、ありがとうございます」
先程、婚約者によって叩かれて腫れてしまった頬を、その布で冷やす。
ひんやりとして気持ちいい。
「この場で発言することをお許しください。姫様。
どうか、我が国の御無礼をお許しください。
いいえ、許せと言われて許せるようなことではないですね。
申し訳ありません。
ですが信じて欲しいのです。
先程のあれは、貴方様への無礼は、あのバカ王子が暴走しただけのことです。
けっして、陛下のご意志ではありません」
「え、えぇ、もちろんです。
陛下は素晴らしい方です。
私の父もかの賢王とは、学生時代からの友人でよく話を聞いていましたから」
そう言って魔族の姫君は、じぃっと警備兵のことを見つめた。
やがて、恥じらうように警備兵へ声をかける。
「その、助けていただきありがとうございました。
貴方様のお名前は?」
「ただの警備兵ですよ。
それに、あなた方に危機が及ばないようにするのが仕事ですから。
とは言っても、陛下の大切な客人である姫様に怪我をさせてしまいました。説得力、ないですよね。
本当に申し訳ありません。
そんな愚鈍な私の名前を姫様にお教えするなんて恐れ多いです」
そう言って警備兵が微笑む。
おとぎ話に出てくる、王子様を彷彿させる笑顔だ。
その笑顔に魔族の少女が見蕩れている間に、医務室へたどり着いた。
待機していた医者にことの事情を報告すると、すぐにその警備兵の同僚が駆け込んできて、陛下になにが起こったのか説明しろとまくし立てられ、連れていかれてしまった。
その時に、軽く笑いながら、
「首飛ぶかもなぁ、物理的に」
なんて言って、同僚に小突かれていた。
あっという間の出来ごとだった。
ただ、医者に処置をされている間、彼女の頭の中は警備兵のことで一杯になった。
身分のことも気にせず、王子の前に立ちはだかり、断頭台に送るぞと脅されても屈しなかった。
それどころか負けじと言い返してしまった。
そして、なによりも、婚約者と違って魔族だからと蔑むこともなく扱ってくれた。
まるで、絵本の中の、おとぎ話に出てくる王子様のように。
警備兵のその姿に、魔族の姫君の心は満たされてしまった。
「……すてき」
ほぅ、と小さく、本当に小さく呟かれた言葉は、誰に受け取られることも無く消えた。