ブギーポップの時代性
本来なら小説で語られるべきだろう。だが私は文章論が嫌いだ。文章はとても小説にとって大事だが、根幹はもっと広い物語論にすべきだ。大半の創作論を語るものは分かってない。何故か?具体に鋭く突っ込むなら文章はテクニカルな話がしやすいからだ。だがそんなものは小手先の技術に過ぎない。
よってアニメを見て広く大きな物語論で突っ込む。ブギーポップを見ていて、一つの物語に縛られない大事な事に気がついた。見て分かるが、大流行したこの作品全く話題になってない。時代じゃないからってのは1つの正しい答えだろう。だがもっとそれを鋭く突っ込める事に気がついた。
もちろん時代の重要性もある。これに似たFATEの方が明らかに受け手の数を相手にするには優秀だからだ。だからこそ逆にFATEじゃ駄目なんだ。私らしい逆説的な物言いだと思う。FATEはその先に進化洗練と言う形で行ってしまってるので、ブギーポップがもってる原型ゆえの荒削りな部分が分かりにくい。
時代とは違う普遍的な気がついたもので、マニア向けと大衆向けは相反するものを抱えてるんじゃないか?と言う点。ブギーポップには大衆向けで見た場合無駄が多すぎる。大衆向け娯楽ハリウッドなんかも代表の一つで、ジャンプなんかもその1つだろう。形としては歪だがなろうもその1つだと思う。
大衆向けとは大衆に向けた最大公約数の刺激に向って映像作品の場合単位時間あたりの刺激において、無駄を排除していくのが理想の創作論だと思う。それが何故相反するか?と言うと偏ってばらける集団の中で個人にとって無駄と排除される部分こそにキーがあるケースが多いからだ。敢えて言うとマニアな個人においては大衆向け出の無駄余白を創る事が大事なんだ。
それは互いの存在にとって矛盾であり、かつ刺激の利害が相反している。私達は知らず知らずにこの重要項目を無視して、その両者の交差点に最高点を見出そうとしてしまう。大ヒットするマニア向けである。宮崎駿のジブリと新海誠の君の名はになる。だがそれは超例外に過ぎない。結果論的奇跡よりも必然の法則をもっと知るべきだ。
その必然の法則からはこの2タイプは矛盾した存在で、両者は分けて考えるべきだ。そうなると見えてくるのは、ネットはもっと閉じたコンテンツ”も”創らないと駄目になる。多くの人が感じてるテンプレ批判の奥底にある違和感。私はテンプレ批判を強く批判する。何故か?言及者が馬鹿だからだ。1つの価値観に向って統一的な価値で批判するならテンプレ批判者はゴミだ。
だが分けて住み分けを考えるなら、テンプレ批判には一理ある。矛盾した存在である互いコンテンツはテンプレ的大衆向けの合理的な最大公約数にとっての無駄を省くつくりによって価値として非合理な大衆の刺激にとって最大公約数の刺激に無駄が多いマニア向けは駆逐されるからだ。
そういった価値観から隔離されて守られなければならない。それは逆に言えばテンプレをなくしてマニア向けの個性重視の価値観に統一する事ではない。この2つは分けるベキなんだ。それに対する必然をブギーポップを見ていて気がついた。今の時代からすると妙に異質な作品だ。過去の遺産ですむ問題か?違う、この系統の後継者たるFATEが大ヒットしてる事実は無視できない。
それは多分文学臭に近い。所詮ラノベだろう?と言っていつも切り捨てられる。そうだろうか?究極的な形を見ると、ブギーポップは一部十分文学に近い。そこが大衆向けへの合理的な作りに対しては雑味になってる。その雑味成分以外の大衆向け合理的刺激がブギーポップは著しく弱い。
ブギーポップは他にもいろいろ時代性はあるが、普遍的にこの部分の弱さが目立つ。これじゃ今受けるわけが無い。時代性の中で、受け手の感覚がそもそも過去と違っていたんだ。この時代性はちと違う。その時代特有ではない。創作の普遍的な分類として、当時の受け手がマニア向け的な物語好きの感覚が強かったとなる。
じゃブギーポップの時代性は何なのか?2つある。思春期と創作史になる。創作史は簡単だ、FATEやシャナのような後継作品によってより洗練されて大衆向けの刺激が強くなった作品に上書きされてしまうからだ。誰が見ても数の暴力で塗りつぶされるのが目に見えてる。なおかつここが、私の書いた上の普遍性にも繋がる。
繰り返されるのか?はまた別の話しだが、参加者の構成が変わっただけじゃない。参加者の感覚がこういった作品の受け手として今の時代は大衆向け刺激の重視に変化してしまったからだ。一番簡単なのは、元はいなかった大衆集団の流入だろう。もう1つは上と絡む思春期的刺激を得た子供達は大人になってそれが刺激にならなくなって、大衆向け刺激だけに特化して変化してしまうからだ。
思春期的なものも時代性じゃなく普遍的ではないか?私は違うと思う。多分ブギーポップは当時の中2病だ。だが現代それは多分そぎ落とされて、これさえも大衆的な最大公約数での中2病になってしまってると見てる。今の中2と過去の中2は多分違う。その流れはエヴァが強く創ったと思う。もちろんエヴァがそういった流れのアニメの集大成なのは間違いないが、それをテーマにしてしまったのはエヴァぐらいかと思うから。
この流れはおそらく過ぎ去ったもので、繰り返される思春期特有の現象にならないと見ている。それは意図的に天然痘を復活させるような慎重な人工的なコントロールが無い限りならない。だからこれは時代性だとして普遍的なものではないとしている。
詳細や具体、文章などで厳密さを問えばブギーポップは文学ではない。だが、大衆向けなどと相反する位置付けと言うポジションだけ取ると、普遍的な文学のもつ受け手と創作の関係って点で文学などと同じ種類のものに分類できる。こういった部分が現代の大半の受け手に全く刺激になってないから、ブギーポップは何が面白いのか?多分大半の人は言語的には分からない。
こういったものは大衆向けの刺激の最大公約数を求めるような入れ物に一緒に入れたらまず育たない。常に私は対極にある大衆向け刺激や漫画物語の刺激について分かって無い馬鹿が多すぎると批判してきた。だが同時にテンプレ批判の根底に眠る価値を無駄とは思ってないどころか、それらが大衆刺激によって駆逐されるに明確な危惧を覚えている。
交わらない形で閉じないと駄目なんだ。それは大衆向けの最大公約数の刺激を求めるような合理的批判からも隔離されなくてはいけないんだ。その事は裏を変えればテンプレもマニアから守られるベキなんだ。
新海や宮崎はこの手の事で害悪だ。奇跡や結果論の運任せより必然の論理によってもっと数多くのクリエイターを生かすべきだ。大ヒットの持つ多大な報酬に目がくらんで、そういったものを統一した価値として1つの価値に押し込めようとするのはかなり問題だとずっと書いてきてる。
ただシンプルな面白いと言う言葉で語る創作論から一歩踏み出る事はもう創作論じゃない。私は改善案としてこれを述べたい。