三章
三章
私と沙漠脳のコンタクトは続いていた。
一人で実験するようになってから、すでに二ヶ月近くが経過している。その間、私は一度もスティックを挿すことはなかった。
「おはよう。今日も水をあげるから」
私は持参した折り畳み椅子を展開して、沙漠脳のケースの横に設置した。
そして、腰を据えた。最近は毎日、持ってきている。ついでに、弁当も用意している。一緒に――とはいっても私しか食物を必要としないのだが――食事をする為だ。
この方が、落ち着いて話もできるし、腰の負担も減るし、シンパセティックな気分になれるからだ。
一番の理由として何より、沙漠脳と同じ目線に立てることも大きい。
「今日は、何を話そうか――」
額をさすりながら、思案した。
話すこともネタが切れていたので、結構長く考えた。
「そうだ――」
私が彼に話しかけようとしたとき、不意に地面が揺れた。折り畳み椅子の脚がかくかくと音を出す。
「何?」
勿論、誰も答えてはくれない。
靴底から鋭敏に伝わる震えは、収まらない。振動はそこまで大きくはないが、舟が揺れること自体があってはならないことだ。
私は膝に置いていたランチボックスを落とした。ボックスは、ジャングルの草の中を転がる。映像の木々をすり抜けて、結構な遠方まで跳ねて行った。
沙漠脳の心象風景が揺らいだ。
彼も何かを感じているらしい。
『――警報……』
研究室のスピーカーが告げる。続いて、耳をつんざく電子音。きぃんと耳朶がハウリングするような感覚に囚われた。
「警報?」
隕石と衝突でもしたのだろうか? 何処ぞの恒星の引力に囚われたのか?
私は色々な可能性を吟味した。音声がはっきりしない所為で、聴き取りにくい。スピーカーに傾注する。詳細を得る為に。
『敵襲――』
はっきりしない、ぶつぎりの音声が継がれた。
「敵? 何それ!」
敵って何だ? エイリアンでもやってきたのだろうか? それとも、ミリティアが遂に反旗を翻したか。
耳を澄ますも、それ以上スピーカーは何も言わなかった。
「沙漠脳!」私は、叫んだ。
逃げなくちゃならない。何処へ? 沙漠脳も持ち出さなくては。
私は沙漠脳をケースから外そうとして、踏みとどまった。持ち出してしまって、それは正しい判断といえるのかどうか。
沙漠脳は敵から、どのような存在として認識されるか。排除対象、攻撃対象になる可能性は私より低いはずだ。
ここに置いて行った方が安全だと結論して、私はケーブルジャックにかけた手を離した。
ケースの天辺を軽く叩いた。
「ちょっと、行ってくるね」
それだけ言って、実験室を後にする。
実験室を出ると、廊下に予想外の人物――シャルルが立っていた。
私は吃驚した。彼はここには二度とこないと言ったはずなのだ。くるはずがないと、目をこすり、それでも彼は私の前に確かに存在した。
彼は近年見たことのない、爽やかな笑顔をたたえていた。
「どうしたんですか……シャルル……」
言ってしまってから、悔いた。また、どやされる。身構えた。名前を間違えた。
しかし、待てど暮らせど、彼は何もしてはこなかった。それどころか、彼は右手を差し出して、微笑んだ。
「行こう」とシャルルは言った。
「何処へです?」
「ついてきて」
彼は私の手首を握って、引いた。私はなすがままにされた。
研究所の廊下を二人で走った。
廊下に、さきほどの警報で恐慌を来たしてしまった研究員たちが、青い顔で右往左往しているのが目に入る。
口々に、何かをわめいているが、あまりに人々の利己が錯綜していて、聞き取れない。警報もやまず、間断なくビービー鳴っている。
恐慌が過大で、動くこともままならなくなり、床に伏してしまった人も見受けられる。
彼らの足は尋常ではなく小刻みに振動していて、歩けないのだろうと感じる。恐怖の煽りを食らいすぎたのだ。
泣いている人もいた。
なぜか、怒り狂っている人も。
何だろう。これ。司令部は何を考えているのだろう? これでは逆効果じゃないか。却って、混乱をまねく。
そもそも、敵が何か、何者か、はっきりしていない。私だって、少しは焦っている。幸中にあった人ならば、相当に取り乱すことは明白なはずだ。ちょっと、思案すれば解るはずなのに、司令部は勇み足だと感じた。
私はシャルルの背中を見ながら、訊く。「敵って、敵って何ですか!」
彼は振り返らず、答える。「敵はすでに舟に満ちている」
「え?」
「だから、脱出しなくちゃいけない」
「脱出? でも――」
舟の外に出てどうするのだろう。
人間は宇宙空間じゃ生きていけない。新世界、新天地とされる惑星まで、まだ距離があるはずだ。脱出ポッドでは到達できないと思われた。
「いいからっ」
「はい……」
私は黙って、従った。彼に従順な態度を示すのは、パブロフの犬のようなもので、身に染みた反応なのだ。
第四ラボの玄関を抜けると、視界が開け、車道が見えてくる。
道は、これでもかと渋滞していた。何処にこんなにたくさんの電気自動車があったのかと思うほどに、ひしめきあっている。
警笛が空間に鳴り響き、路傍に備え付けのスピーカーから警報が一向にやまずに垂れ、人々の怒号は絶えず、この世の終りとでもいうように、煩い。
しかし、この避難民たちは何処へ行く気なのだろう。
シャルルの言う通りに舟が占拠されているなら、シェルターに逃げても意味がないし、脱出ポッドで逃れ出ても、近くに人間の棲める惑星や人工衛星、コロニアがないと宇宙葬になるに等しい。
「歩いた方が早い」
言うが早いか、彼は車道を突っ切る。車の間隙を縫って、車道の反対側へ至る。
歩道を駆けた。進行方向から推測するに、目的地はこの区画の脱出ポッド置場と思われた。
私は息があがってきた。視界が霞み始める。
運動不足がイヤが応にも感ぜられた。
「休憩させて」と言いたかったが、言えない。逆らうのが恐かった。
すると、シャルルが振り返った。そして、信じられないことに「休もうか」と言った。
私は両眼を白黒させた。きっと、呆けた顔をしていたはずだ。
変だ。今日のシャルルはおかしい。まるで、最初に会った頃に戻ったみたいなのだ。まるで、シャルルではないみたいだ。彼の本性ははたして、こっちなのか、あっちなのか、迷う。
私の訝りを察してか、彼は難しい顔した。
しかし、何も言いはせず、近くの石塀に背中をあずけ、座り込んだ。
手招きされて、私も彼に続いた。真隣に腰を落とす。石塀はひんやりとしていた。道路も冷えていて、臀部がつーんとした。
目の前を人々が駆けている。
私たちに一瞥をくれてから、去って行く。
彼らの顔には、一様に「何をやってるんだ」と書いてある。確かに、私には生存欲求が不足しているかもしれない。けれども、その分、盲目的になったりはしないと思う。
何十人もの人々が過ぎ去って行くのを、フィルム映像のように見ていた。時間の流れがゆっくりとして感じられた。
突然、頭が飛んだ。赤い飛沫が舞った。
「え?」
赤黒い液体が道を汚す。頭部を失くした身体は、力なく道路に倒れた。
事態に気付いた人は、皆目を大きく見開いて、足を止めた。
「何これ……」
頭を失したのは一目散に脱出ポッドか、シェルターを目指していた人物のものだ。
何が目の前で起こったのか、全く解らない。
人が死んだ、殺されたことは解るけれど、その原因が不明。
私が焦燥している間に、もう一つ首が散った。甲高い悲鳴があがった。
さきほどまで、足を硬直させていた人の多くが、蜘蛛の子を散らすように霧散した。パニックは加速度的に増して行く。
今度は原因が解った。
首なし死体から、百メートルほど離れた場所に緑の軍服を着たミリティアの兵士たちがいて、彼らは銃器を抱えていた。抱えているだけではなく、銃口がこっちを向いていた。
「敵って……」
敵の正体が判明した。私の予測の一つが当たっていた。
敵とは、ミリティアであったのだ。遂に、司令部に吶喊を始めたわけだ、牙をむいたわけだ。その契機となった理由は解らないが。
「あれも敵だ」
シャルルは恬然とした態度で言い、私の肩を叩いた。もう、私は彼から恐怖を覚えなかった。
「あれも……ですか?」
無言で彼は頷く。神妙な面持ちだ。
「いたぞっ!」ミリティアの一人が大声をあげた。一斉に軍服たちの視線が、私たちに注がれた。
撃たれる! と思った。無意識に瞼が閉まった。身体の防衛反応だ。
シャルルが私に覆いかぶさってくるのが、解る。体温を私の表皮が感じた。
震えた。
死を畏れた。恐怖が湧いた。長らく忘れていた本物の恐怖な気がした。
――。いつまで経っても、私は殺されなかった。弾も私たちの方向へは飛んでこなかった。
恐る恐る瞼をあげると、戦場があった。
憲兵隊とミリティアが撃ち合っていた。
青い制服の憲兵が、嶮しい顔で緑の軍服を撃つ。他方、ミリティアも負けじと撃ち返している。
機関銃の音色がシンフォニーになって、主旋律は人のわめき声。
蜂の巣死体がいくつも生まれている。巻き添えをくらった市民もいれば、兵士も憲兵もいる。
私は冷静に、火を噴く銃口を見た。断続的に火花が散っている。口から立つ硝煙が、周辺一帯へと充満する。瞬く間に、空気が汚れて行った。
いまだ、私に被さったままのシャルルが私を覗き込みつつ、言った。「今のうちに行こう」
私は頷き、彼の手を握った。今まで覚えたことのないレベルの、頼り甲斐を感じた。
私たちは、戦闘を避けて脱出ポッドを目指した。兆弾に気を配りつつ、他人を盾にもした。
背に腹は代えられないのだとシャルルはモノローグのように、何度も告げた。私は首肯して、従った。
脱出ポッドが近づくにつれ、益々人の勢が増えてきた。
皆、目指す場所は一緒らしい。ただし、シェルターに入ろうとする人間が少ないのが気になった。
途中、シェルターを通り過ぎたとき、わけを知った。
シェルターは意味をなしていなかった。
完膚なきまでに破壊されてしまい、機能を失っている。強化建材でできた枠組みも全く耐えることもなく、瓦礫の山になっているのだ。
ミリティアがやったのだろうか?
しかし、彼らにそこまでの力があるとは思えなかった。舟には大量殺戮兵器は、ほとんどないのだ。そして、舟が難破しても耐え得るようにと設計されたシェルターが、そう簡単に壊れてしまう道理はない。
もしも、そんなことが可能なものが存在したなたら、即時内紛が起こる。人は暴力に魅了されてしまうし、力を持ったら、使ってしまう宿命にある。
実際問題、今、膚で感じられる領域で内乱が起こっていることは確かだけれど。
「ちょっと寄り道するから」
言うとシャルルは脇道へ入った。私もついて行く。
脇道の終点にあるのは、シェルターのそばにあるBC兵器用の兵装が備蓄されている場所だった。
頑丈な金属製の扉があった。シャルルはそれについた開閉輪を回した。鈍重な音を立てて、扉は開いた。
備蓄部屋に入るなり、彼はひったくるように壁に吊るされていたガスマスクを取って、私に被せた。
いきなりだったので、髪の毛が絡まり、引っ張られ、痛かった。「痛い」と言ったら、やり直してくれた。
部屋には、私たち二人以外はいなかった。
近隣の住民および勤務人には、もしもに備えるように通達がなされているはずなのに、私たち以外誰もいないのは、やはり、司令部の早合点の所為に違いない。皆、冷静な判断ができない状態になっているんだろう。
「これは……」ガスマスクについて訊く。ガスマスク越しの音声は、くぐもっていて、自分の耳朶に届く音声も、いつものそれと異なって聞こえる。
「早く」と、急かされて、ガスマスクのバンドを締めて、固定した。外気が直接入らないよう、念入りに締める。
「シャルルは、被らないのですか?」
「俺はいいんだ」
私は首を傾げた。彼は、ただ笑うだけだった。
彼は部屋の扉を閉めた。きちんと、内部ロックをかけて、私の方に向き直った。
「しばらく、ここにいよう」
「解りました」
私たちは、部屋の中央にある備品の詰まった鉄箱の上に腰を据えた。
何とはなしに肩を寄せ合った。雰囲気からではなく、疲れの占める割合が、私の場合は多かった。
ひとたび、一息ついてしまうと、唐突な警報に驚き走ったり、戦闘を目撃したりした所為か、疲労感が津波のように訪れた。
この場所ならば、安心という側面もあったのかもしれない。
私は眠ってしまった。
起こされるまで、自分が眠りに落ちたことにすら気付かなかった。泥のように睡眠の淵へいざなわれた。
最初の話。最初の物語。
人間は誰もいなかった。
獣も、鳥も、蟹も、魚も、木も、石も、洞も、谷も、草も、一切がなかった。唯一、空だけがあった。
地表さえ、定かではなかった。区切りが不明瞭だった。
静かな海と、やはり、際限のなく亘る空だけがあった。
音もなかった。寄り集まり、物音を立てる存在がなかった。空にも、揺れるものもなく、騒ぎ立てる存在がなかった。
立つものはおらず、水は淀んでいた。海は安らかだった。
生を授かることはなかった。
暗黒と夜は同義にて、不動と静寂だけが支配した。
六柱の神が、水のなかに輝いた。彼らは碧の羽に包まれていた。そして、みっつの精神の重なりである『天の心』があった。
ここに来て、初めて言葉が生まれた。神テペウと神グクマッツが語らったからだ。
彼らはそこで、人類を創造すべきだと感じられた為に、夜の間に、天の心の一体であるフラカンは創造の手筈を整えた。
天の心と共に、テペウとグクマッツは光と生命について議論した。
どうしたら、光が満ち、生命が生まれ、穂が実るだろうかと考えた。
「――かくあれ」
「空間よ、充ちよ」
「水よ、去れ」
「大地をその姿を見せ、固まれ」
「明るくなれ」
「天と地に曙よ、来たれ」
口々に神々は叫んだ。
「人の世が来るまで、我らの創世には、栄光は与えられないだろう」二柱の神が言った。
大地は霞のように、海面からせり出て、山となった。同時に谷が生まれ、松林や杉林がその表層を覆って行った。
グクマッツは喜んで、言った。「天の心、クルハー=フラカン、チピ=カクルハー、ラハ=カクルハー! あなたは偉大だ!」
しかし、「私のすべきは、終わった」と天の心は答えた。
その後、テペウとグクマッツの二柱の神は、念入りに世界を創って行った。
工夫を凝らすごとに、世界は複雑になって行った。
こうして、世界は『天の心』と『地の心』とで担われた。
「それじゃ、行こう」
背中を叩かれて、目を醒ました。
一瞬だけ、自分がいる場所が解らなかったが、すぐに目覚めた。私はシャルルの顔をみあげた。
再び、手を引かれて、部屋を出た。
密閉扉が開かれた瞬間、舟の中とは思えないほどの緑の臭気がした。草臭く、木の汁臭い。
目前に拡がる景色は最早、舟の中ではなかった。
ジャングルだった。それ以外の何だといえばいいのだろうか。そう、ジャングルだったのだ。
そして、私は眼前の風景に見覚えがあった。毎日、毎日、目にしていたものと似ている。 沙漠脳の心象風景が、舟全体を侵食しているのかと思った。
「森?」
私は、シャルルへ視線を向けた。
問いは、半分自分にかけたものだ。自らに確認する為に――。
「そうだよ」
やや事態に対し慌てている私に反して、彼は泰然としている。まるで、最初からこうなることが解っていたみたいだ。
その落ち着きぶりは、包容力にも似ていた。
鬱蒼としたジャングルの中に、人影は一つもなかった。
今まで、たち込めていた喧騒もそっくり消えている。鳥のさえずりばかりが聞こえて、夢でも見ているみたいだった。
まだ、夢中かもしれない。私はまだ、備蓄部屋で寝入っている? いや、初めから夢だったのかもしれない。だって、シャルルが別人のようなのだから。
夢たれば、それはそれで、構わない。私はこのままを受け入れた。
顔面に手を当てると、ガスマスクが消えていた。振り返ると、備品部屋の出入り口が綺麗さっぱりなくなっている。
皆、何処へ消えてしまったのかと、私は目でシャルルに問うた。
彼は首を横に振った。この行為の意味するところは汲めなかった。
私たちは、無人の森を歩いた。もう、シャルルは走ることはなったから、私も楽だった。敵はいなくなった。だから、走る必要もない。
太い丸太のような蔦をくぐった。
小さな河を飛び越えた。
大きな勾配を昇った。
シャルルが何処を目指しているのか、皆目検討もつかなかった。それでも、悪い場所へ向かっているとは考えられなかった。
だから、私はついていった。これは、恐らく夢の中なのだ。私はまだ、眠っている。そう、思った。
ときに、彼は私を介助した。
ときに、私も彼の後を押した。
そうこうしているうちに、木々の数が減り、低木ばかりになっていることに気付いた。しばらく進むと、低木もなくなった。人に整備されたとしか思えないフラットな土地が拡がった。
私たちは、ピラミッドの上に立っていた。
土に埋もれた、その天辺に立っていた。長年の歳月が、ピラミッドを覆い隠し、私は登りきるまで気付かなかったのだ。
天辺からは、緑の地平が見渡せた。壮観だった。
見渡す限りが緑だ。
何処まで行っても、青々しい。空は清澄にして、静寂であった。
「見えるかい?」
シャルルが訊いたので、私は彼を見上げ、「うん」と答えようとした――。
「見るなっ!」
シャルルが怒鳴った。
首筋がびくっとわなないた。私は、シャルルを凝視した。
おかしいと思った。なぜなら、彼の口は動いていなかった。怒鳴った様子もなかった。私の態度がおかしくなったので、不安の色が浮かんでいるだけだ。
「見るなっ!」
また怒鳴られた。そして、やっぱり、目の前の彼の唇は微動だにしていない。今回は、ずっと彼の顔を見ていたから、間違いない。
変だ。
何かがおかしい。いや、すでに周りで起こっていることはおかしいことばかりだし、これは夢だとすれば、支離滅裂なのはしょうがない。けれど、私にはとても現状が虚構には感じられなかった。
「何処ですか?」私は訊いた。大き目の声で、シャルルを捜した。私の傍らにいるシャルルではなく、私を怒鳴りつけているシャルルを捜した。
「どうしたの?」シャルルが困惑気味に言った。
「声、声がする……」
「声?」
「耳を貸すなっ!」
「うわぁっ!」咆哮した。二人のシャルルの声が錯綜する。耐えられない。
私は、耳を塞いだ。指先を突っ込んで、蓋をした。
それなのに、判然と聞こえる。「見るな、聞くな」と声がする。声は止むどころか、ずんずん声量を増大させて、私に迫る。
声は全方位から、舞い込んで来る。まるで――脳の中に響くような――。
目を閉じて、かぶりを振った。頭中から、声を追い出したい。だから、がんがんに首を回す。けれど、声は去らない。
肩を抱かれた。
抱き寄せられた。
「大丈夫?」シャルルが優しく訊ねてきた。
「あ……ぅ」
再燃した。恐怖が。絶叫して、彼を突き放した。
彼はたたらを踏んで、こけた。私も反発で、後につんのめった。
「だから――」
「来ないで……来ないで、ください……」
私は顔面を伏して、目を閉じて、走った。がむしゃらに走った。
ピラミッドを下り、ジャングルの中を進んだ。不思議なことに、何の感覚もしない。葉が自分に触れる感覚も、何もかも。
感覚が喪失したような気分に囚われながらも、走る足をとめなかった。木の根も、蔦も私を妨害せず、触れる感覚もなく、ただ風を切る触覚だけを覚えた。ぴゅうぴゅうと風切音だけが、耳に入る不思議な感じ。
突然、何かにぶつかった。したたかに、頭を打った。木の幹で打った感覚ではなかった。頭蓋が割れるかと思うほどのレベルの痛みだ。
私は、反発に後方に転んでしまった。腰の辺りも強く打った。これまた、硬いコンクリのようなものに打ち付けたような痛みがした。
痛みが漸次引いてから、瞳を開けて、周囲を確認すれば、案の定、樹木はなく、目先には高くそびえる壁があった。灰色の壁がだった。
自身の背丈の何倍もある天井を持ち、サッカー球場よりも広い面積を有する部屋に、私はいた。
木々など一本もない。地面もなく、人工物であることが明白な床がある。
私がいる場所は、脱出ポッドの格納庫と思われた。
だとすれば、壁と床から上方へ伸びたハンガーには、卵型の白いポッドが満載され、並んでいるはず――だった。しかし、有視のうちには、一機も残っておらず、部屋はがらんとしている。
ポッドを欠いて、からっぽになったハンガーが虚無的な感情を喚起させた。
人っ子一人いない。既に、皆脱出してしまった後なのだろう。
ここにきて、疑問が湧く。私は、なぜ? ここにいるのだろう? 私はさっきまでシャルルと夢じみた景色の中を歩いていたのではなかったか? 自分は夢遊病者にでもなったのだろうか?
答えは出そうもなく――。
唐突に、私は頬がひりつくのを感じた。
何だろうと思って、手を当てると、こつんと何かに指先が当たる。ガスマスクだ。
私は、ガスマスクを外した。毒ガスでも充満していたら、死ぬかもしれなかったが、完全に外してしまっても、死はやってこなかった。
指先で触れた頬には、乾いた泪の粉があった。ぱさぱさしていて、結構前に流れた泪のようだ。
泪のわけは、何だろう。頭がぼやけて、考えが巡らせられなかった。
ただ、少なくとも、脱出できなかったことが悔しかったわけじゃない。それだけは確かだった。
私は、呆然と閑散たる大部屋を見続けた。