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二章

 二章

 

 沙漠はなかった。鬱蒼たるジャングルがあった。

 今日も、先日と同じように居もしない動植物のざわめきが聞こえる。幻聴ではなく、スピーカーから漏れている。このような機能はなかったはずであるが。

 沙漠脳が外部デバイスを操作できるようになったのかもしれない。

 ゆくゆくは、沙漠脳は(ふね)のシステムになるのだから、よい傾向といえた。けれど、深く考えることはしない。

 私は余りそのことに、かまわずに沙漠脳のもとへ行った。

 姿を見るなり、いつもの挨拶。欠かさない日課。「おはよう。沙漠脳」

 やはり、沙漠脳は答えない。答えないけれど、私はもう知っている。

 沙漠脳はきちんと私の話を覚えていた。

 それは、きちんと私の話を聞いていてくれたということ。この三ヶ月に於いて、徒労なんかなかったのだ。上手くいっていた。そうだ、私は優秀だったはずなのだ。ヘマを覆してきたじゃないか。

 私はスティックを挿さずに、沙漠脳へそのままに、語りかけた。

 何のことはない、おしゃべりを。

 私にはこれまで、気軽に取り留めのない話をする相手がいなかった。

 シャルルでさ気の置けない仲ではない。かつてはそうだったかもしれないが、その思いはあくまで、私の独り合点という名の誤認であったことを、今は理解している。

 だからだろうか、一度堰を切ると埒は簡単に瓦解して、私はあれやこれやと語り続けた。

 研究室にもモニタールームにも誰もいなかった。

 実験室に入る前にモニタールームを通ることになるのだが、灯は消えていたし、出勤スケジュールに私以外の名前が記載されてはいなかった。

 シャルルは自分の言を守って、来ていない。本当に来ないつもりなのだろう。

 昨晩もそのように寝台の中で言っていた。彼は自分で決めたことは守るタイプだから、来るはずがない。

 悲しくはあれど、しかし、それは好都合でもある。好きなだけ、好きなように、私は自在に自らの口を開け閉めすることが叶うのだ。

 別個の生き物のように、私の唇は動いた。咽はがらがら鳴った。

 私は話した。

 私のことを話した。

 今まで話せなかったことをたくさん。

 母さんのこと。父のこと。シャルルのこと。私にまつわる物々((ぶつぶつ)を。

 最初は世間話のような話題だったのに、話の方向性は私の暗い部分に流れて行く。夜深まったときの会話みたいだ。

 今日も夜間勤務の所為だろうか? いや、そもそも私に同年代の女子たちのように、どこぞのブティックが、どこぞの俳優が、どこぞの水物(スイーツ)が、といった話題を持たないからだろうと思う。

 私の心の抽斗は乱雑に散れていて、なおかつ、とても乏しいのだ。

 それでも、ほとんど開かずの抽斗の中の記憶たちは、たまの顔見せに歓喜しているのも事実だ。饐えた臭いのする記憶たちも、晴れて活躍の機会を得たわけである。

「――そのとき、来てくれた」

 私は遠い目をした。視界の悪いジャングルは青い空の映像を見せてくれなかったが、十分だった。

 私の前にピンク色の聞き手がいるだけで、満足だった。

 頷きもしない聞き手だけれど、聞いてくれていることが全てだった。

「――私は初めて、必要とされたんだよ。誰かに。――沙漠脳は――」

 私はシャルルに初めて会ったときのことを話していて、はたと沙漠脳の置かれた立場を慮った。

 沙漠脳は私とは違う。最初から求められて造られた。

 何となくのセックスで産まれたわけでもなく、この世に現出したハナからどこにはめ込まれる存在か、判明している。

 敷設されたレールの上を進むということは、奔放な人にはしがらみに過ぎずとも、しがらみは何もレールだけではないのだから、レールはあるに越したことはない。途中下車する駅があればいい。

 レールがないということは、荒野の只中にいるようなもので、その地平には雨宿りするための屋根もありはしないのだ。

 沙漠脳の置かれた境遇が、羨ましいけれど、妬ましい感情は湧かないのが不思議だった。

 なぜかは、解らない。

 親近感――違う。

 不確かなもやもやが胸中に沸き立つ。

「沙漠脳は、いいよね」

 スティックを挿していないので、ディスプレイは展開されておらず、沙漠脳のレスポンスを視覚的に確認できない。勿論、本来ならば。

 しかし、私はもう知っている。沙漠脳の心象風景に浮かぶ機微を知っている。

 きちんと、自分の両目で確認できる。単に、今まで私たちが沙漠脳の想いに気付かなかっただけで、愚かしかったのは私たち白衣の側だったわけだ。

 木を見て森を見ずとはよく言ったモノである。

 私の言葉に、木々がざわめく。揺れる葉の狭間から群青色の空が顔を出す。

 沙漠脳はきちんと反応している。沙漠脳を包むケースに設置されたセンシングデバイスは、きちんと繋がっている。今は、解る。

「羨ましいよ」

 一方的な会話は――会話と呼んでもいいのだろうか? 独り言かもしれない。けれども、私の言葉はやまない。

 自分の本分をとっくに、忘れた。

 たまり溜まったダム(みず)は、決壊したら二度と土嚢ごときじゃ防げない。濁流は、ずんずん流れて行くのみぞ。されど、流されていても泳げればいいのだ。

 沙漠脳は観察対象なのだから第三者的な視座に立たなくちゃならないが、そんなことはどうでもよかった。どうでもいいのだ。忘れて至極。

 

 父は私の記憶の中では、いつも酒びたりでどうしようもないクズだった。絵に描いたような駄目人間。

 されど、駄目な人間にも二種類あって、利用価値のあるナマゴミのようなものと、リサイクルもできないもの。彼は後者だった。

 人間、挫折すると酒に奔り、耽溺してしまうのは古今東西のお約束のようなものなのか、物心ついたときから、父はマトモではなかった。

 父が挫折したというのは、母の弁によるものだけれど、最初からアルコール依存の人間はいないだろうから、嘘ではなかったと思う。

 四六時中赤ら顔で、罵詈雑言を母と私に浴びせるのが彼の日課だった。

 その言葉が彼の本心から出ていたものであるのは、確かであると私は感じていたが、他方、母さんはアルコールが悪いのだ、というような蒙昧なことを言っていた。それは、発端と結果の因果関係が逆だと幼心に思ったものだ。

 アルコールは少量なれば百薬の長、大量に含めば害悪。この場合、悪以外の何様でもなかった。

 知的さが盲目な母さんは、アルコールが悪いと何度も何度も繰言のように言った。しかし、私はそのアイデアを否み続けた。とてもじゃないが、承服できなかった。

 アルコールが外すのは心の枷だけだ。その人の人格そのものを歪めることはない。依存性を持っていても麻薬じゃない。

 結局、心の澱を垂れ流す栓が緩むだけのこと。根っからの善人は飲酒したところで、醜悪になったりはしない。

 ハナから醜悪な心持を身の内に宿す人が、それを韜晦する理性的なベールを失って、全開になったアクセルで踏み込んで、自らの悪しところを露見させるに過ぎない。

 私は、母さんにそのように反駁した。

 すると、彼女はまた言い訳するのである。

「あの人はハメられたのよ」と。

 父は舟の艦長だった。私が嬰児のころまでそうだったのだと言う。

 私の記憶にはない。古い古い話なのだ。私の人生の長さに比べれば。私はまだ、二十二年しか生を全うしていない。

 箪笥の上のアルバム立てにはまった父の写真は、艦長の制服制帽を被り、華々しい笑みを浮かべている姿ではあった。

 けれど、それは虚構か幻想か悪い冗談にしか思えず、私にとっては愚劣な父親が全てだった。

 そして、私は知っていた。

 周囲の人間が、父を何と呼んでいるのか。父の失脚をどう捉えているのか。

 隣人たちは、父をロクデナシのゴミ野郎と称し、父の失脚も自業自得だと言い、その彼の娘だというだけの些末な関係性で私を殴った。

 女に手をあげるあげないの倫理を超えた感情が、拳を振るわせていることが薄々解った。

 誰も止めはしなかった。

 憲兵さえも、見て見知らぬふりをしていた。

 その顔はいつも、できるなら暴行に参加したくてうずうずしているように見えた。職業柄、できないのだといわんばかりで。さすがに、免職しないだけの理性はあったらしい。

 だから、イヤでも解ったのだ。理解できた。

 父は失脚すべくして、失脚したのだ。父は最初から首尾一貫したゴミ野郎だったのだ。人は無意味に恨まれたりしない。

 火のないところに煙はたたない。たとえ、小さな寝煙草が家屋を全焼させても、原因は小さな火の粉なのだから。真空中では、絶対物は燃えない。

 具体的に父が何をしでかしたのかは、私は詳しくは知らないし今でも知らないが、大方の想像はついた。

 十年前の舟の管理システムは、艦長の自在になる設計になっていた。

 父に代替わりするまでの艦長たちは、さぞや聖人君子だったのだろう。

 その手に担わされた絶対権限を悪用することはなく、舟は運用されていたはずだ。だから、システムはそのままで維持されたのだ。

 しかし、父はこの性善説的設定に悪意で臨んだ、艦長の絶対権限を用いて、舟の経済、個人のプライバシー、そのほか諸々を自分の思うまま、欲望の趣くままにしたに違いない。

 ゆえに、恨まれた。クーデターを起こされて、失脚した。

 そのとき結成された組織であるミリティアは、いまだにそこそこの権力を持っている。

 反権力が当該権力を転覆したあとに、そっくり権力になってしまう革命の構図そのままで、当該権力が大きくあればあるほどに、反権力は増大してしまう。

 殺されなかっただけマシだと思う。

 暴君は最後には断頭台に送られるのが常なのに。

 そこで思う、母さんが父を擁護していたことの背景には、父から湧き出る甘い汁を吸っていた経緯があるのだろう。

 私にとって、父も母も味方ではなく、私に降りかかる火の粉を焚きつけたクソ虫に他ならなかった。

 それでも、母さんが死んだとき、私は泪したのだ。

 理由は簡単だ。私には味方何処にもおらず、母さんだけが少なくとも頼りだったのだから。味方にあらずとも、必要ではあった。彼女の立ち位置は中立(ニュートラル)だったから。

 平静から、私は勉強ばかりする子供だった。父の暴虐に身を硬くしつつ、机に向かっていた。

 どうして、勉学に(いそ)しんだかといえば、優秀な存在と知らしめることができたなら、私を必要とする誰かが私を助けてくれると思ったからだ。深い鬱々な森にやってくる白馬の  騎士を待っていたのかもしれない。

 猛勉強は功を奏して、私は中等学校を出たとき、パトロンを得た。

 彼は私を高等学校に進学させ、私生活の援助もしてくれた。

 順風満帆ではないが、並の生活に私は近づき、二年生のとき父が死に、三年生のときに母が死んだ。

 父の死体は何処かへ運び去られ、母の遺体は空に流された。

 高等学校の生活も、また、侘しく辛くはあったけれど、私はさっさか飛び級して大学へ進んで、二十歳のときに博士号を得た。脳科学分野で。

 私は人間の認識に興味があった。

 脳が閉じた世界で存在できたなら、そこはユーフォリアに思えた。脳人間(インゲニオースス)は私の理想だった。脳味噌だけの存在であれば、自由な外在世界を想定し、内在世界を再構成し、自由自在にできると考えた。

 水槽の中の脳と揶揄されても、私には実現したいことだった。

 私は独りで創造主であり、住人であり、世の中になりたかった。自家中毒的なクオリアとレアリアの連鎖も吝かではなかった。

 だけれど、私は弱かった。

 結局、私は必要とされることを望み、シャルルのなすがままに、博士課程を終えてから、第三ラボに就職した。

 それでも、歯車になれたことに感謝した。

 少なくとも、人間的神(デウスフーマーヌス)の領分に至れずとも、汎人的な地平に私は立てたのだから。

 

「ただいま」

 私はコナプトの廊下を走った所為で切れてしまった息を整えながら、玄関先から言った。

 居間の方から、母さんの「おかえり」が聞こえる。

 私は鞄を玄関に投げて、「お菓子」と言った。

 ソファーから立ち上がった母さんは、やれやれと困り顔で私の頭をなでながら、戸棚からクッキーを出してくれた。

 アルミ缶に入ったクッキーを早速、摘もうと手を伸ばす。

 すると、母さんの手が缶と私の間隙に分け入った。私の手はクッキーを掴み損ねた。

「手、洗いなさい」

 私は反抗の目を向けてみた。しかし、母さんは動じもしない。

 しかたないので、私は手を洗った。

 私の手は泥だらけだったのだ。洗面所の洗面台(コンテナ)がすぐさま泥べっちゃになった。石鹸も茶色になってしまった。

 適当に手水(てあらい)を済ませて、クッキーを頬張りたかったけれど、半端では母さんは納得しない。だから、念入りにつめの先に詰まった土塊まで取り除いた。

 綺麗さっぱりになってから、居間に戻った。

 (こま)切れチョコの入ったクッキーはおいしかった。

 さくさくするクッキー本体に混じるチョコチップは常温保存の所為で、やや溶けていて、緩急のついた食感がたまらない。

 二個目、三個目とパクついていると、母さんがアルミ缶に蓋をした。

 私は眇目をして彼女を見上げる。抗議の眼差しをこれでもか、と注いだ。

 しかし、私の言外の非難と要求は、彼女の完全無欠の微笑みによって却下された。

 口の中で残った破片をもぐもぐしながら、仕方ないので諦めた。

 クッキーのある菓子棚は私の身長には余り、届かないのだ。盗み食いをすると、後が恐いのでできない。

「夕食、食べれないでしょう」

 人差し指を立てて、母さんは言った。

「何? メニュー」

「何でしょうね」意地の悪い笑みだ。母さんはイジワルだ。

 私はお腹が空いていた。今日もたくさん遊んだ。疲れた。成長期だから、多くのカロリーが要るんだ。

「何? 何?」

 母さんは困った顔をした。私は母さんを困らせてばかりだ。けれど、それも今しかできないそんな気がしたから、続ける。

「何? 何? なにぃぃ!」

「解った。解ったから」

 根負けして、母さんは「シチューよ」と答えてくれた。

「手抜きだ」私は頬を膨らませた。

 先週のカリード=ライスと同じように、男の手料理のようなブツ切り野菜が煮込まれている深鍋が食卓にでんと置かれる様が、ありありと浮かんだ。

「全く――。シチューだってちゃんと作ると手間暇かかるんですからね」

 母さんは私の頭の天辺をもう一度、なでた。今度は髪の毛をもみくっしゃにした。癖っ毛気味の頭髪はすぐにボンバーヘッドになってしまった。

 ひとしきり、娘をなでくり回して充たされたのか母さんは「風呂、入りなさい」と言った。

「はぁい」

 泥にまみれていたのは何も手だけじゃなかった。全身が汚れていた。

 確かに、今の私は入浴すべき状態であった。

 脱衣所で、乾いた泥を落としながら、脱いだ服を洗濯機に突っ込んで――。

(くさ)い……」

 異臭がした。

 泥や木の汁の臭いじゃない。もっと醜悪なものだ。腐臭と呼ぶのがふさわしい感じがする。

 私はきょろきょろと辺りを見回した。

 視覚で嗅覚的な化学物質の出所が解る由などないのだが、そうしてしまう自分がいて、何だか滑稽に思えた。

「おかえりなさい」

 玄関の方で、母さんの声がした。彼女の声はどこかしら、浮き足立った色を帯びている。

 父が帰ってきたらしい。

「ただいま」父の声だ。間違いない。

 ただ、何かが違う。穏やかだ。両親のやり取りが、普通じゃない。変だ。和気藹々(わきあいあい)と喋っている。

 普通であるべきなのに、変だ。

 変の正体は何だろう? 解らない。

 解らないにも関わらず、いやな予感が脳内を駆け抜けて行く。

 予感だけが予測を生んで、勝手な予見を造成して行く。解答は得られない。

 私は何だか恐くなって、風呂場に飛び込んだ。

 家から飛び出てしまいたかったのが本番だったけれど、玄関先で話しているオシドリ夫婦が邪魔だったので、洗い場に駆け入る以外の逃避口がなかった。

 勢い余ってしまい、水で摩擦係数のさがったタイルに滑り、更に不幸にも風呂椅子を蹴って、コカした。私自身もバランスを失って、倒れた。

 風呂場の壁面で後頭部を打った。――我に返った。

 

「今日は何もなし……と」

 洗濯し直したシーツは気持ちよい状態にあった。

 柑橘系の芳香剤の混じった洗剤を使った所為で、みかん臭い。みかんの臭いは嫌いじゃない。しかしながら、ちょっと分量を間違えてしまったようだ。

 見渡す室内にも、誰かが侵入した様子はなく、安心した。

 昨日の今日では芸もないと彼らも解っているのだろうか。

 できるなら、もう飽きてもいいのじゃないか? と思い、ベッドの縁に腰掛ける。スプリングがバカになりかけた安手のベッドは、ぎぃと唸った。潰れたマットレスは、私の体重に大した反発も返さなかった。

 床に転がったリモコンを拾った。テレビの電源を入れる。

 映ったチャンネルは、司令部の官営チャンネルだった。

 右上に、司令部通信の表示があるから間違いない。

 左上には、緊急放送と書いてある。

「調査部の報告によると――」

 角ばった顎のキャスターが神妙な面持ちの中に歓喜の色を隠しながら、原稿を読んでいる。が、ほとんど、原稿に目を落とさないところを見ると、思いの向くままに口を継いでいるのかもしれない。

「そっか……見付かったんだ」

 私は他人事のようにぼやく。ただし、半分、画面に語りかけていた。

 けれど、私の意見などテレビは聞かない。一方的に情報をこっちに流してくる。だから、キャスターは興奮のままに、続ける。

「移民可能であるとの報告が――」

 感極まったようにキャスターは、目尻を擦った。嘘なきすらしていない、彼の両眼は乾ききっているではないか。寒い演出だと思った。背筋がゾクっとした。

「現在の速度で航行を続けた場合、約半年後に――」

 半年。短い。

 長い旅路は終わるようだ。

 人類の、宇宙の虜囚という不遇の生活も、洋々ピリオドが打たれるわけだ。

 この一大ニュースを第一世代が聞いたなら、さぞや狂乱しただろう。

 しかし、私は第六世代にあたる。

 私の両親もそのまた両親も、そのまた両親も舟が出帆した当初のことなど歴史のテキストとフィルムでしか知らない。喜べと演出されても、困るのが本音だ。

 偽書かどうかを判断するには、原典にあたる以外に方法はなく、印字されたり、写本されたものでは、それの真偽は解らない。

 映像編集技術が極まった二十一世紀中葉以降、フィルム媒体もかつての書物と同じ嫌疑をかけられるようになった。

 フィルムが真実であると見抜くには、最初に収録された物理媒体の年代測定を調べなくちゃならない。

 デジタルデータは劣化知らずだから、厄介だ。考古学的な調査、裏づけは意味があるが、舟の中ではできるはずがない。

 だから、手放しで他人(ひと)の言を信じる人とは違って、私は歴史的資料をあまり信用しておらず、船出に際し、郷愁に染まる第一世代たちの映像を見ても、そこに感動や感化や感激、感慨を覚えることはなかった。

 それでも、新天地が拓かれるのは私にとっても、悪い話じゃない。

 狭い世界が一気に広がる見込みが生まれたのだから。

 私はテレビの電源を切ろうとして、チャンネルを変えた。音量をあげた覚えはないのに、スピーカーががなり立てた。音量を落とす。

 画面ではミリティアのアジテーターか叫ぶように演説をしている。ミリティアの広報チャンネルだった。

 軍服のような厚手の生地でできた格好に、軍人調の角ばった喋り方。舟には軍隊は存在せず――そもそも敵対する国家、もとい、国家という枠組みがないのだから、兵士は必要ない――数百人の憲兵がいるだけである。にも関わらず、あたかも、自分らが不在の軍人の代わりをしているといわんばかりだ。

 聴衆も一様に、彼と同じような格好をしている。

 一つ違うのは、アジテーターは着帽していないが、オーディエンスは帽子を被っている点だ。

「――我らは新世界に踏み出す!」

 歓声なのか怒号なのか、判然としない喧騒がスピーカーから生み出された。

 聴衆が右手を掲げた。斜め四十五度にして、演者を仰ぐ。

 その反応に勢いを得て、更に一段高まった声でマイクに咆哮し始めた。低く、恫喝せんばかりの声だ。私は好感を感じない。

「新世界にはあらたな秩序が希求される。狭く苦しい箱舟の時代は、終わった。我らはディアスポラの民ではない。遥々大海原に漕ぎ出した選民なのである。いつか、乾いた大地に種をまき、落穂を摘むことを願ってだ。

 つまり、これは使命である。しかるに、我らはこの狭小な世界を新世界に持ち出すことをよしとしない! インド神話に於いて、主神シヴァは、破壊の神であると同時に創造神である。なぜか!」

 聴衆に問いかけるように、両手を羽のように胸の前に差し出す。鷹揚な動作だが、際限なき自信が滲み出している。

 アジテーターが、さっと両の掌を返す。

 瞬間、ざわめく聞き手たちは、「それが秩序だ!」と異口同音に、それも計ったような正確さで唱和した。

「そうだ。それが秩序である。人は資源から原料を、原料から資材を、資材から家を造る。果たして、これは秩序か、混沌か!」

 再び、さきほどと同じ動作。

「混沌だ!」唱和する聴衆。雁首を演者に向ける。

「そうだ。混沌である! エントロピーは日々、肥大化しているのだ。目に見える秩序は虚構なのである。なぜなら、選択肢はエントロピーの増幅によって、狭まり、普遍していた確率は偏重して行くからだ。

 ゆえに、我らは現在の虚構の秩序を打破し、リセットしなければならない。これも、また使命である。

 真の秩序とは、愚昧なやからが混沌と称する概念なのである。我らの言う秩序と、彼らが誤認している秩序は同じ言葉で語られようとも、全く違うモノである。解らず屋に貸す耳は要らぬ。さぁ、革命しようではないか」

 スピーチの〆(しめ)に演者は差し出した手を平ではなく、拳にして、高々と天空に掲げた。視線もそれに倣わせる。

 ヒートアップしたオーディエンスたちが、口々に快哉を叫ぶ。

 圧倒的な熱気が、画面の先に充満しているのが解った。何に熱中しているのかも解っている。しかし、遠い世界の住人のように感じた。

 本当は、彼らの構成員だって私の住まうコナプトに住んでいるかもしれないだろうに。聴衆の中には、顔を合わせたことのある人もいるだろう。

 商店の売り子かもしれないし、あの意地汚い清掃係かもしれない。けれども、帽子と軍服にまみれた彼らの中に、個人を特定できる何かは見当たらなかった。

 私はテレビを消そうとして、またチャンネルだけ変えた。

 どうも、消す気にならなかったからだ。暇なんだといえば、それまでの話なのだけれども。

 どのチャンネルも、「新世界」の話題で持ちきりだ。

 本来、ドキュメントをやっているはずの番組も放送予定を変えて、緊急ニュースを流している始末だ。

 これでは、ロクに暇潰しできず、ぴこぴことリモコンのスイッチを押し続け、チャンネルが結局一巡してしまい、司令部の官報に戻ったところで、最終的に電源を落とした。

 することを失くした私は、ベッドに四肢を投げ出して、明るいままじゃ眠れないからと、灯を消そうとし――そういえば、帰宅してから電灯を点していなかった事実に、今更気付く。

 テレビの消えた室内は、ブラインドの狭間を抜けてきた外の青白い明かりだけに照らされ、薄暗く、目を閉じれば、すぐさま睡魔が降臨した。

 意識はあっという間に、混濁した。

 現れた睡魔は、私に夢を見せた。

 ぼやけた空から、不意に白鯨が私の頭上から降ってきて、その大きな口から生えたヒゲで私を大海に(さら)った。鯨のヒゲはイメージに反して、硬く、ごつごつしていた。

 群青色の海面を白鯨は私を咥えたまま、低空飛行して、白く照りつける太陽に目がくらくらした。

 海は――フィルムで見たままの場所だった。確かに、ソルティーな臭いがした。磯臭い、と呼ぶ香。

 海の先の地平に砂浜が見え始める。

 とても早く、空中を滑る白鯨はあっという間に浜辺に到着し、私を投げた。

 砂は私をやんわりと受け止めた。その代わり、海砂まみれになった。

 御器喰(クカラチャ)のような蟲が、岩の側面を触覚をひくつかせつつ、這っていた。

 舟蟲(シーローチ)という蟲だろう。ローチというだけあって、御器喰にそっくりだ。

 ゴロタ石の翳にたくさん、姿が見えた。わっさわっさと、動き、足は独立した生物のようで、気色悪かった。怖気がした。

 浜には、色々なものが漂着している。

 何処から流れてきたのか、乾木や軽石が、半切れの入れ子ラインを描いている。

 腐った魚があった。蛆のような蟲が内臓(はらわた)を食っている。硬骨が顔を出している。

 残存した表皮から察すると、熱帯魚のようだ。黒とイエローの縞々があるし、尖った背ビレがある。

 打ち付ける波は、白い泡を生み、寄せては返す。

 遠い海面に空き缶が浮かんでいた。錆に彩られ、ゆらゆら揺れる。

 私は、遠い場所のはずなのに、その空き缶に手を伸ばした。当然、届かないと思った。しかし、きちんと届いた。

 私の手は空き缶を握り締めていた。

 妙チクリンな夢だと思った。

 べったべったにぬたくった金メッキのような、夢だった。寝覚めは勿論、悪かったのは言うまでもない。

 

 世間はどこか浮き足立っている。

 井戸端会議をする人も、アベック同士の会話にも、新世界の話題が混ざり込み、飽きもせずに人々は繰り返す。テレビもそうだ。連日、特番を垂れ流す。

 お陰で、私は早く寝るようになってしまった。無論、シャルルに呼ばれた場合と、嫌がらせを受けた場合は除くのだけれど。

 だって、世間のこの好事は、私にとって全く関係のない話だ。

 いや、本当は関係があることを理解してはいても、そう思わなければならない事情が私にはある。

 私が仮に、移民先の惑星の詳細を識ってしまったなら、最近口の緩んでしまった不甲斐ない私は、何かの拍子につい漏らしてしまいかねないし、そうしてしまえば、苦しませるかもしれないのだ。彼を。

 身を隠すようにしながら、研究室へ向かう日々を過ごす。

 何も変わりはしない。変わるのは周囲ばかりだ。勝手に激流がやってきて、雨は雨乞い知らずに降る。

 いや、それは違った。私の間近の存在で、日夜変わって行くものがある。沙漠脳だ。違う。沙漠脳も、やっぱり、私の周囲のはずだ。けれども、関係ないで割り切れそうもなかった。

 沙漠脳の映し出す心象風景は、日を追うごとに煩雑になって行った。

 ジャングルの蔦は増え、複雑な形状をするようになり、最近ではホログラムで描かれた動物までもが飛び出すようになってきた。

 実験室の開閉扉を開けて、いきなり猿が奇声をえがながら、飛び込んできたときは焦った。

 頬に作らされた青タンに当てたガーゼが、私の飛びすさった反動で剥がれたほどだ。

 もっとも、擬似的なものであるので、物理的なバックボーンを持たない映像の猿は私の身体を難なく透過して、扉の框――映像限界点を踏み越えてしまい、消えた。

 映像の猿は、外の廊下まで踏み出すことはできないのだ。

 沙漠脳の世界は、充実していても、やっぱり狭小である。

「おはよう、沙漠脳」

 先週からスケジュール変更が行われ、昼間勤務になったが、もともと夜間でもおはようとあいさつしてきたから、今日もおはようだ。特定の業界筋ではおはようが常時のあいさつであるそうだ。

 あいかわらず、沙漠脳は答えてはくれないが、何もリンギスティックなものが全てではないし、いいのだ。この場合。

 近日は、あらかた沙漠脳に話せるだけの抽斗の中身を開陳してしまい、愚痴みたいなことが増えている。

 考えずに言をほいほいと垂れ流すのは、気分のいいことではないが、垂れ流している最中は何処か安心する。

 沙漠脳を(てい)のいい語りかけ人形(ぬいぐるみ)と思っているわけじゃない。ただ、私には彼しかいないのだ。

 私は訊いた。「ねぇ、都合のいい女ってどんな人だと思う?」

 訊ねておいて、あれだが、人生経験でいえばはるかに私の方が積んでいるのだが、訊いてみたいことだったのだ。

 沙漠脳に性別はない。

 身体がないのだから、解剖学的なものや生理学的なものではなく、心理学的なものになれば、あるかもしれないのだが、ディスプレイを挟んだ折衝がよく性別の誤認を引きこすように、身体不在の場合、判断つきかねるものである。

 チャットツールによるロールプレイに似ているといえばいいのだろうか。現実世界も多分にロールプレイライクな部分があるとはいえ――。

 それに、どうでもいいことだ。沙漠脳の性別など。

 性別が枷になることなど、男女間に於ける友情の有無論争を見れば一目瞭然であるし、同性愛者がいかな正当性ある主張をしようとも、身体的な性は消えはしない。

 膣形成も、豊胸手術も欺瞞だ。身体は邪魔、そんな流行歌の一節を思い出す。

 むしろ、陰陽的性(インターセクシャル)超越的性別(スーパーセックス)を持っている方が、私の今の問いにニュートラルな答えを返してくれることだろう。陽か、陰かと問われたなら、翳であり光であると答えようぞ。

 

 校門前に人影。

 とてもよく知っている人物だ。背は結構高い方。仕事帰りらしく、電気自動車をバックにして、白衣姿のまま立っている。その白衣は、すすけたように灰色で、洗濯していないのがよく解った。

 彼は笑顔が眩しく、私の姿を見留(みと)めると、爽やかにはにかんだ。

 電気ショックを受けたように、私は彼のもとへ駆け寄った。

 体力はない方なので、少し、息が切れた。ぎっしり教材の詰まった鞄が重かった所為もあるかもしれない。

 下校中のほかの生徒が、訝しむ目線を寄越してくる。

 少量の気恥ずかしさを感じながら、シャルルに言った。「別によかったのに……」

「いやぁ、心配だったんだよ」

「その……恥ずかしいから」

 私は下を向いた。そしたら、頭をぽんと叩かれた。

 叩かれた瞬間、どきっとした。私の頭には大きな傷がある。外科手術のあとで、そこを触られると痛い。しかし、いくら、ぽんぽんされてもちっとも痛くない。

 自分で触った。手術跡はなかった。

「バカだなぁ」

 私の挙動がおかしかったからだろう。シャルルは笑った。バカにした笑いではなく、しょうもないヤツだなぁといった風で。

「バカって何よ。バカって」

 たまらなくなって、私は彼の胸板をこんこん叩く。

 されど、ちっとも、動きやしない。そもそも、胸筋が硬かった。さすがに、一端の成人男性だと思った。研究者が貧弱なんてのは、世間様の偏見に過ぎないのだ。

「まあ、帰ろうか」

 シャルルは、車の助手席のドアを開けた。どうぞと、掌で示す。

 鞄を後部座席に放ってから乗った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 私が乗り込んだのを確認してから、シャルルはドライバーシートに座った。

 前ボタンをはだけさせている白衣が邪魔らしく、乗る前に彼は白衣の真中(まんなか)のボタンだけを閉めた。

「今日はちょっと行くところがあるんだ」モーターを起動させながら、彼は言った。

「何処?」

「秘密」冗談めかし、彼はおどけた。

「教えてよ」

「秘密」

「イジワルだ」

 私はぷいと彼から視線を外した。車窓から、外景(そとかげ)を見やる。

 既に走り始めた為、加速に従って風景が伸びて行く。

 学院区は殆ど中等教育機関で占められている。初頭教育は、自宅でやる場合が多いからだ。

 どの校舎もそこそこ背位(せい)が高く、広い校庭を併設し、その敷地を周壁(しゅうへき)が囲う。灰色の周壁を私は眺め続けた。

 私が不機嫌になったから、シャルルは少々気落ちした声音で言った。「おいおい、拗ねるなよ」

 私はシャルルが謝るまで、無視しようと決めた。だから、答えない。無視(シカト)だ。無視。

「なぁ」

 声が少し萎んでいる。本当に、解り易い人だ。心持がダダ漏れで、私より十歳も年長者(エルダーマン)には到底思えない。顔も童顔と言えるし、二十歳でも通用するかもしれない。さすがにティーネイジャーは無理として。

「なぁ」更に声が力を失くして来ている。

 私は彼が可哀想になって、うっかり彼の方を振り向いてしまいそうになり、慌てて、自分の首筋を両手で掴む。うん。これで動かない。手の甲に顎先が引っかかるから大丈夫。

 すると、今度は身体が振り向こうとし始めた。

 なんて、ままらない身体だろう。自分のものなのに。勝手なヤツだ。

「おいおい、大丈夫か」

 心配そうな声で訊いてくる。でも、無視だ。

 身体がバネのように反発しようとする。必死でこらえた。

「大じょ――」

「大丈夫!」

 溜まり溜まった反発エネルギーが解放された。

 私は身体の要請に逆らえなかった。気持ちも貯蓄されていたようで、声も大きい。まるで、怒鳴っているみたいだった。そんなつもりは毛頭なかったのだけれど。

「ごめん……」

「解れば、よろしい」

 私は居丈高に言って、胸を反らした。

 胸部に違和感があった。何かが引っかかっている感覚がする。

 異物? 自分の胸をまさぐった。

 ブラと素膚(すはだ)の間に異物が確かに、あった。シャツのボタンを上だけ外して、確認すると、胸パットだった。

「え……」

 入れた覚えなんてなかった。そんなものを入れる習慣も意気地も、私にはなかったはずだ。

 自分の胸に劣等感なんてなかった。それなのに、どうしてこんなことをしているのだろう? 答えは一つしかない。

 頬が熱を帯び始め、紅潮していく顔面を感じる。顔から火が出そうとは、まさにこのことなのだと、実感した。

 再び、私は逃げるように外を見た。

「どうしたんだよ……」

 耳も真赤になっているだろうに、シャルルは気付いていないようだ。

「何でもない。何でもないっ!」

 駄々っ子のように繰り返した。本当は、何でもあるのだ。すごく。

 彼の手が私の肩に、優しく触れた。しかも、両肩に。嬉しい半面、はたと浮かぶ危惧。これは――。

 私は振り返った。

 案の定、彼の両手は運転動作から離れている。

「ちょっと、ステアリング! 握ってよ」

「へ?」鳩豆(はとまめ)な顔でシャルルは首を傾げた。シャルルは、この危機的状況を全く理解していなかった。

「ステアリング! 事故るって!」

 私は目と指で操舵輪(ステアリング)を示す。

 やっと気付き、彼は呻いた。「あ……」

 慌てふためいて、彼は操舵輪を握り直す。

 前面硝子(ウインドシールド)から透ける、真正面からこちらへと向かってくる車。シャルルが手離し運転なんかした所為で、対向車線に入ってしまったらしい。警笛(ホーン)が鳴っている。

 ぶつかる寸前、間一髪のところで、車体が傾ぐようなハンドリングがなされて、躱すことに成功した。

 事故らなくてよかったと、ほっと一息つく。

「何処に目つけてんだっ!」

 対向車のドライバーが、擦れ違い様に罵声を浴びせてきた。当然のことだと思う。

「もう。何してるのよ」私は口先を尖らせた。

「ごめん、ごめん」

 シャルルは後頭部を掻く。また、操舵輪から片手が離れている。

 彼はあまり運転が得手ではないから、片手運転だって危なっかしい。気が気じゃなかった。

「手! 手!」

「あ……」

「全く。しょうもないんだから……」私はやれやれと肩をすくめた。

 沈黙が訪れた。

 お互い話の継ぎ方を探っていたのだと思う。気まずくはなかったが、私は弾みが欲しかった。だから、沈黙に耐えられず、口を開いた。

「あのさ。行くところ教えてよ」話題を蒸し返す。

「もうすぐ着くよ」

 彼は、今日一番の笑みを私に向けた。

 車は学院区を抜けて、商業区へ入った。区の変わりを示す銀のプレートが後方へ流れて行った。

 途端に、人の往来が増え、車の行き交いも増す。路面鉄道のレールも本数が増えて、やはり、商業区の活気は一味違うと慨嘆する。

 目の先に、舟の内壁を遠景にして、天嶮に映えるは高層モールだ。

 これは商業区の中央部にあって、てっきり、くだんの中央方面に向かうものだと私は思っていた。

 しかし、シャルルは目抜き通りへ向かわずに、横道へ逸れた。

 急に人気が減った。喧騒が干潮のように引いて行く。

 道は細くなり、まるで――コナプトの枝道のようだと思った。昼間帯なので、暗くはないが、夜間帯になれば結構闇に包まれそうな場所だ。

 しばらく道を直進して、更に細い小路へ折れる。

 車は次第に減速を始めた。

「ここだよ」

 路駐もできないほどの狭い道に車を停め、シャルルは助手席のドアを開けた。

「降りて」

「うん」

 降りてから、スカートをはたいた。

「隠れた名店だってさ。食い意地野郎が教えてくれた」

 大々的に看板を出してないも、雰囲気から察するに飲食店らしきものが目の前にあった。

 やる気がないのか、堅物な職人膚なのか、注意深く探さないと解らないような店名表記はいかがなものか。

 小さなプレートが門柱にかかっているだけで、まるで表札のようなのだ。

「食い意地野郎?」

「ベックだよ。この前、話したじゃないか」

「――そうだっけ?」

 ベックなる人物の名に聞き覚えはなく、話された記憶はなかったけれど、初めてシャルルと外で真当(まっとう)な食事をする。細かいことは胸中にしまい、楽しむべきが最善と思った。

「初めてだね」

「そりゃ、俺だってここに来るのは初めてさ」

 微妙に会話が噛み合っていない気がした。

 しかし、これも些末と割り切った。

「まあ、入ろう」

 立ち話もナンだということで、私はエスコートされて入店する。

 入っていきなり、生簀(いけす)が目に入る。

 中では、一抱えほどのタコがうねうねと(けぶ)るタバコ火のように、泳いでいる。吸盤を壁面にひっつけて、蠢いている。

「タコ……」

「タコだねぇ」

 シャルルは生簀に備わった棒っ切れで、タコをうりうりと突いた。タコは逃げるように潜る。全く、タコも災難である。

「何処で()れるの? これ」

 私もタコを突いてみる。案外、それの反応は面白い。

 タコの目はヤギに似て、嗜虐心を喚起する横一文字なのも原因かもしれない。

「さぁ。舟は意外と広いからね」

「ふぅん」

 私たちはカウンター席にかけた。ほかに客はいないが、閑散としている感じはない。そもそも座席数が少ない所為だ。

 カウンターの中から、板前らしい浅黒い膚の男が、「いらっしゃい」と適当に言った。一分(いちぶん)の誠意もこもっていない。サービス業ってものが解ってないんじゃないかと思った。

 不安だ。マトモな料理が出てくるのか、が。

 食い意地野郎というのは、単なる大食いで、とりあえず腹を満たせといった風情のドカ盛り料理が出てや、こないか? 私は食が細いので、そういう類のおすすめは遠慮したい。

「何、食べる?」

 ここは「タコ」と答えるべきだろう。

 自信満々に、そう答えると、シャルルは変な顔をした。「タコ?」と確認するように、私に訊く。

「そう、タコ」ここは譲らない。

「タコを……」

 シャルルは何だか気に入らない様子だ。

 イービルフィッシュがそんなに食べたくないのだろうか? 食わず嫌いはあまり、褒められるものじゃないと思うのだけれど。

「それで、ここって何屋なの?」

「寿司屋らしいよ」

「らしいって……、はっきりしてよね」

「はは……」頼りない顔を彼はした。

「はい、お待ち」

 ゲタに乗った寿司が、眼前に置かれた。でかかった。一掴み大のサイズだ。

 寿司とは、こんなに巨大だっただろうか? 一貫が、四貫分くらいの米量(こめかさ)を持ち、且つその上にタコの足ではなく、ボイルされて赤みを増したタコの、頭じみた腹部の切れが乗っかっているのだ。

「大きくないですか?」

 私は板前に訪ねてみた。

 板前は、むすっとした表情でぶっきらぼうに「江戸前だからですよ」と答えた。イマイチ、意味が解らなかった。

 とりあえず、ゲタには二貫乗っていたので、一個シャルルの受け皿に渡した。シャルルはやっぱり、変な顔をした。

 私は自分の分を、醤油にひたすことなく頬張った。当然のように一口では食えず、その上、タコはうにうにして軟硬(やわかた)く、噛み切るのに手間取った。

 タコなる生き物を初めて食べた。

 ケミカルな味がした。不味いではなく、ケミカルとしか表しようがないのだ。私の味蕾(みらい)がバカでないなら、それでいいはずだ。

 こういうのもありかもしれないと思った。意外とおいしかったわけで、つい、がっついたのが運の尽きだった。

 私は咽にシャリを詰まらせた。息が止まる。焦った。空気が吸えない感覚というのは、ものすごく焦燥感を煽りたてる。

 前かがみになって、けほけほと咳き込む。気道に入ってしまった米粒が、吹きだした。

「おいおい、落ち着きなよ」

 シャルルが私の背中をなでた――。

 唐突に、嘔吐感が込みあがった。胃が収縮するのが解った。

 何だろう。この感覚。ケミカルな味。違う、あれは本当の意味でケミカルな味だった。だって、薬品だったのだから。

 私は米にまみれたタコを吐いた。唇と吐瀉物の合間に唾の糸が光った。

 歯型のついたタコの切れっ端は、確かにイービルフィッシュに違いなかった。おぞましさがやってきた。

 私は、視線をシャルルに向けて――畏怖に駆られた。彼は哂っていた。チャールズの笑みで。鉄面皮のような下卑た微笑が、彼の顔面に張り付いていた。

 

 頭が痛い。じんじんする。

 私は偏頭痛持ちではない。生理の日だって、体調を崩しにくい。体力はなくても、病気には強い。対抗力のある身体なのだろう。

 この頭痛の理由は何だろうかと考えた。

 思い浮かぶ節は多かった。たとえ、対抗力があるにせよ、限界がきたのかもしれないと思った。

 動悸が高まっていく、背中を伝う脂汗。

 息が濃密に感じられるようになり、座っているのも億劫になって、私は実験室の床に横たわった。

 私が仰臥した所為で、ジャングルの草葉が揺れた。

 木の枝と葉の狭間から、雲の流れが見えた。ゆっくると、雲は動いている。安らかな流動だと思った。 

 口中から抜け出る、吐息がやけに湿っていた。

 唇が湿気た。

 

 気がつくと、自宅のベッドに寝ていた。柑橘系の臭いが鼻を突いて、覚醒した。

 目がちかちかすると思ったら、電気が点いていた。

 私は電灯を点けっぱなしでは、眠れない性分なので、普段は消している。だから、慣れないことをされて、瞼の中の眼球が苦悶の()をあげたんだろう。

「あれ……おかしいな」呟く。

 まだ意識が、ぼうっとする。

 最後の記憶では、実験室で倒れたはずだ。どうして、家にいるのだろう。

 普通なら、誰かが運んでくれたのだと思うところだが、あいにくと私はそうは考えない。だって、私のことを気遣う人間がいるはずがない。

 では、誰が? だから、誰も運ばない。

 私は手がかりを探そうと上体を起こして、自室を見回した。答えはすぐに見付かった。

 部屋の隅っこに、介助マシンがいたのだ。

 丸を基調としたデザインに淡いブルーの塗装を施された介助マシンは、私の覚醒に気付き、ベッドへと迫ってきた。キャタピラ式の移動機構が床を擦って、きゅるきゅると音がする。

 マシンは私に相対すると、メカらしい挙動で一礼した。

「シャルルさまの命です」

 マシンはそう告げた。我が耳を疑った。

「へ?」相当マヌケな声が漏れる。

「そう言うように仰せつかっております」

 妙な言い回しだった。引っかかる。

 私と向かい合う介助マシンは公共のものではなく、個人所有のものだ。

 その証拠に額のあたりに、所有者のイニシャルが入っている。A・F。シャルルでは、当然ない。

命令人(インペラティヴ)は誰?」

「いません」マシンは即答する。

「どういうこと?」

「いません」

 舟の中のあらゆる電子式のマシンは人間の統制下で動き、自律はしない。だから、命令人がいるはずなのだ。いないのはおかしい。

「そんなはずはないでしょう?」

「私は命令を受けました」

 要領を得ない。話が噛み合っていない。

「じゃあ、メモリーを見せてくれない?」

「プライバシーです」

 マシンは腕を差し出して、これの胸のパネルを外そうとする私を制止させた。

「見せなさい」

 マシーナリーに語気を荒げても意味はないのだが、私は強い調子で言った。

 当然のように、何ら揺るぎない音声でマシンは答える。「あなたに命令権はありません」

 こう言われては、どうにもならない。

 無理やりに、これからメモリーを引き抜くこともできない。マシンの力に、私が抗し適う道理があろうはずもなく――。

 私はシコリを残しながらも、引き下がった。

「じゃあ、出てって」

 そんざいに手を振った。

 介助マシンは再び一礼すると、滑るようにして私の部屋から出て行った。

 自動扉が閉まるのを確認して、私は電気を消した。扉に鍵はかけなかった。どうせ、意味がないのだから。

 もっとも、()のマシンの命令者が嘘をついている理由は解ってはいるのだ。

 私を助けることが、どういうことか? 皆、知っている。


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