一章
一章
目の前に拡がっているのは沙漠。
頭上にはひりつく太陽、吹き抜けるは膚を襲う熱風。
私の頭はここは暑いと告げる。けれど、汗は出ない。出るはずがない。ここには、沙漠なんてないのだ。見えてはいても、ない。
沙漠に見える景色はあっても、砂漠はないのだ。
物理的に存在しないのだ。投影されたデータに過ぎない。光が生み出すミラージュで、存在が光を浴びて存在証明しているわけじゃない。
私の脳が錯覚して、暑がっている、眩しがっている。それだけの話だ。
視神経から入る情報が生む誤謬だ。もっとも、私は本物の砂漠を見たことはないから、思い込みに更に思い込みが乗算されているわけだ。
私は砂丘を登る。一段高い砂丘の天辺に躍り出ると、沙漠の全容が見えてくる。
遥か遠くまで、茶色の砂地は続いているように見える。本当は、ほんの数十メートルもこの空間は拡がってはいないのだけれど。
砂丘から見下ろす窪んだ場所に、ピンク色の物体が小さな金属台の上にちょこんと鎮座している。沙漠脳だ。
ぽつねんと、佇んでいるの様子は結構シュールな光景だと思う。
私は丘の緩い勾配――これは丘状の物質があってそこ上に映像が投射されている――を駆け下りて、沙漠脳の傍らに取り付く。
人間の脳とほぼ同じサイズの沙漠脳は超然と据えられ、無味乾燥な沙漠の只中にあって私を迎える。
「おはよう、沙漠脳」
いつものように、私は沙漠脳に優しく語りかける。
私の声がきちんと聞こえているかは、解らない。沙漠脳は文字通り、脳味噌だけの存在で身体性を失している。耳はない。目も口も。
聴覚の代替としてのセンシング装置は備わってはいるのだけれど、沙漠脳との信号回路がきちんとした連絡を持っているという保障もなく、システムと数値情報を超えたクオリアの有無は、当の沙漠脳しか知り得ない。
私が把握できるのは、外部から確認できる部分である沙漠脳の表層意識と、パーセプトロン転写されたニューロン情報だけだ。
沙漠脳は半球状の透明なケースに収納されていて、ケースの下部からは色取り取りのケーブルが延びて、砂の中に消えている。
全てのケーブルは研究室のメイン=フレームに接続されていて、この沙漠――実験室外へと繋がっている。
沙漠脳は体を持たないから、エネルギーの補給を外部から受けなくてはならない。その為のケーブルだ。中には生理食塩や栄養剤が詰まっていて、今も流れている。
そして、私の周囲に拡がる沙漠は、沙漠脳の現在のステイタスを示したものだ。沙漠脳の心象風景としてもいい。少しニュアンスは違うが、似たようなもの。
沙漠脳から、メイン=フレームにフィードバックされた思考情景が、実験室の内壁に設置された有機映紙および、実験室内部の中空に散布されたナノマシンの機能によってヴァーチャル映像に転換されて、実験室内に映し出されて格好だ。
ヴァーチャル映像からの類推では、現在の沙漠脳はほとんど情報を持っていないと思われている。
人間の一歳児程度の情報も持っていないかもしれないと私以外の研究員は語る。
仮に持っていたにせよ、それを知る手段を私たちは持っていない。
だから、沙漠脳は沙漠のような内容しか持っていない脳味噌ということで、沙漠脳とあだ名を与えられた。本来の正式な名称は長々しく、私も覚えてはいない。
どうして不明なのかというと、沙漠脳は幾らこちら側から積極的なインプットを行っても、大したアウトプットを返さないのだ。かれこれ、研究プロジェクトが始まってから三ヶ月経っているにも関わらずに。
本実験は、研究プロジェクトとはいっても、名称に誤解を生む。実際は試験運用に近い為に、長いスパンで取り組むわけにもいかない。期限と期日がある。
「エイダ。反応は?」
天空からノイズ混じりの声が振って来る。天井に設置されたスピーカーからのものだ。
実験室外とのやり取りは基本的に、実験室の内壁に設置されたスピーカーとマイクで行われることになっている。
声の主は、私の上司にあたる人物だ。いや、正確さを規すなら、私は彼の子飼いのようなものかもしれない。私はそうは思いたくないのだけれど。
「ちょっと、待ってください」
私は薄汚れた白衣から親指大のスティックを取り出して、沙漠脳の収まったケースの下部に開いた開口部にインサートする。開口部からジャックが飛び出し、私の手からスティックを奪い、取り込む。
すると、下部からキーボードと音声指導用のマイク、ディスプレイが飛び出す。
マイクは丁度私の胸の辺りに、ディスプレイは沙漠脳のケースの横っちょ左右に一個づつ。
スティックは所謂、カードキーに相当する。スティックを持っているのは私だけで、必然的に沙漠脳の教師役や観察役は私だけのお役目と言える。
このプロジェクトの責任者ではないけれど、ほとんど私が一手に請け負っているも同然だ。
ペーペーの新米たる私だが、このような状況にあるのには理由がある。あまり、言いたくない理由が。
私はキーを叩いた。
「おはよう、沙漠脳」
今度は音声ではなく、電子情報として語りかける。
ディスプレイにレスポンスはない。きちんと、データは沙漠脳へ届いたと、ケースに付帯したデバイスは主張しているのだが。もっとも、いつもの話なので残念でも何でなく――。
私は頭上に向かって「反応ありません」と告げた。
沙漠脳は基本的な自然言語処理の適正は持っていると、第三ラボからは知らされている。
高度に抽象化された概念は理解できないだろうが、自分の名前や挨拶程度は理解可能なはずであり、そうなると、反応がないのはラボのお墨付きが間違っているか、沙漠脳自身が拒否しているかの二択である。
欠陥品であった場合、第三ラボに乗り込んで文句の一つも言わなくちゃいけない。しかし、私はこの三ヶ月で多少なりとも沙漠脳に対して露ほどの愛着が湧いている。
できれば、瑕疵のないことを望む。いずれ、沙漠脳が舟の制御機構に組み込まれるにせよ。
酪農家が牛に愛情を持ってしまう心理に似ているかもしれない。ドナドナは売られていく奴隷の暗喩だけれど、そんな気分だ。
「ったく」
降り注ぐ声は何処か不機嫌だ。
それもそのはず、三ヶ月間成果があがっていないのだから。
きっと司令部からの実験結果の催促があるのだろう。研究者と一口に言っても、上層部になれば司令部などの政治屋と折衝する必要性が生じてしまう。
司令部は、民間組織のミリティアから古いシステムの刷新を要求されてしまい、上手い躱しができず、新しい制御機構の設置に躍起なのである。
「ごめんなさい。シャルル」
私は謝った。謝罪以外に私には何もできない。
「その名前で呼ぶなと言っただろうが」
怒鳴られた。私の背筋がぴんと張る。
何度どやされたか解らないが、何度やられても私は慣れない。
どうしても、父のことを思い出し、想起したくもないのに脳裏に父の翳がちらつく。口から唾をこれでもかと溢れさせながら、当り散らす醜い男の面影が。
おぞましい過去がずんずん鎌首を擡げそうになり、私は慌てて被りを振った。肩甲骨まで伸びた髪がざんばらに散る。長い前髪が視界を遮る。沙漠の景色に縞が奔った。
「ごめんなさい。チャールズ」条件反射のように、私の口は早く捲くした。
「解ればいいんだ。くそが」
あからさまな舌打ちが臆面もなく、私に降る。スピーカーから出た音が再度マイクに入力され、まるで残響めいて舌打ちは何度も降った。途端、悲しくなる。
役立たずで不甲斐ない自分と、罵倒される自分と、優しくない彼に。
前はもっと、優しい人だったのにと思うと、余計に辛い。下唇が痛くなる。無意識に噛んでいた。
唇に指先を這わせると、わずかに赤みが付着した。舌で下唇を舐めると、唾液が染みて、ひりっとする。
私は前髪をかきあげた。早くしないと、また怒られてしまうことを畏れて。
ディスプレイを覗き込む。
「あ」助かった。そう、思った。口をついたのは、安堵と驚きがない交ぜになった感情流。
「どうした?」
ディスプレイに反応があったのだ。
三日ぶりのレスポンスだ。嬉しくなった。これで、シャルルにぶつくさ言われなくて済むと思うと、一気に心が晴れた。沙漠が一瞬、お花畑に見えてしまうほどに。
「反応ありました」自分でもびっくりするくらいの嬉々とした声が口腔から出て行く。
私の声に反するようにシャルルは冷静な調子で答えた。「何と言っている?」
「非言語反応です。感情色は赤です」
ディスプレイ上に並ぶパラメーター表示のエモーション欄にREDのサイン。他のパラメーターはNONのまま。
沙漠脳が言語反応を返さないのは問題だけれど、何もないよりはずっとマシだ。なしのつぶてほど悲しいこともないから。
「赤ぁ? 詳細は? 不満か憎悪か、苦しみか?」
私は再び、キーを叩く。気分が乗った所為か、タイピングスピードが二割り増し。
詳細情報を紐解く為に、付帯デバイスの記憶野からソフトウェアを呼び出す。
沙漠脳内部のニューロン反応に、電子情報走査をかける。
すぐさま、半球状のカバーが明滅し、磁気共鳴によるスキャニングと陽電子放出による脳の断層撮影が始まって、画面にプログレッシヴバーが表示された。
研究用にインターフェースを簡素化されたコンピューターのディスプレイは基本的に三色表示で、黒地に緑の文字が躍り、重要情報のみ赤で表示される。
緑のみで構成されたプログレッシヴバーは何処か、切なさを漂わせる。無味乾燥としているのだ。この、沙漠のように。
バーの進みは遅い。念の為に脳内の全領域を走査した所為だろう。
私は早く進めと心中で急く。思わず、意味もないのにキーボードのエンターを連打していた。
バーは中々、進行しない。まだ、十五%。
五分は優にかかるかもしれない。それじゃ、遅い。また、怒鳴られる。私はシャルルの怒号に供えて、身を固くした。こんなことなら、全領域を走査しなければよかったと悔やんでも、後の祭りで、私は後顧を憂うしかない。
案の定、バーが三十%に達したとき、天の声が振った。
「まだか?」刺々しさがありありと解った。
「はい……」
「あ?」
私の声は拾われなかったようだった。一段、声量をあげて、もう一度「はい」と言う。
スピーカーは溜息を発した。
「もういい」
「え?」
「もういい。勝手にしろ」
突き放すような物言いに私は危機感を覚えて、天井を振り仰ぐ。
「そんな!」私は叫んだ。声は裏返って、妙に甲高い。
我ながらかなりヒステリックだと、私の中の冷静な部分が分析した。
「うるさいなぁ。別におまえとの関係を清算するとか言ってるんじゃない。このプロジェクトも中止にはしない。ただ、失望したってことだ。明日から来ない。てか、今から俺は帰る。明日からは第七棟に行くわ」
「それは、どういうことですか!」
「そのままの意味だ。おまえには期待してたんだけどなぁ。所詮、勉強しかできないバカだったってことか。そんなんなら、学者になんかならずに春売りにでもなりゃよかったんだよ。見てくれはいいんだからなぁ。ま、帰るわ」
がさがさと身支度をする音が聞こえる。
「待って!」
残響が沙漠に満ちた。シャルルの返事がない。身支度する音も消えない。こちらの声は聞こえているはずなのに、無視される辛さに身が拉がれる。
私は何度も天井目掛けて声を張った。全部、空しい響きにしかならず、本当にシャルルは研究室を辞してしまったようだった。完全に、スピーカーは沈黙している。
臍を噛んだ。
さっきと同じように唇を噛みそうになり、慌てて上下の歯列の間に人差し指を挟みこむ。私の意識に反した顎は私の指を強く噛んだ。痛かった。
「きみなら、やれる。そう言ってくれたのは誰だったのよ……」
膝ががくがくした。私はシャルルにも見捨てられてしまったのだろうか? どうしたらいいのか、解らなくなった。
視界が真っ暗になりそうだ。燦々と照る嘘の太陽が恨めしく思えた。
私は腰砕けた。沙漠の砂が舞い上がった。ヴァーチャル映像の砂は私の肩口をかけて行く。映像投影限界まで砂粒は飛んで行って、消えた。
早く自室へ帰ってしまいたい気分になった。
私は立ち上がろうとした。そのとき、目の端でプログラッシヴバーが百%になっていることに気付く。
確認してから、帰ろうと思った。
ディスプレイの情報は私を幻滅させた。
『不明』
馬鹿みたいだなぁと感じる。これでは、役立たずと思われてもしょうがない。全領域をスキャンしても意味はなかったのだ。自ら墓穴を掘っただけ。
いつもそう。私は下手ばかり打つ。馬鹿なんだ、そう思われて、罵られても、仕方ない。事実なんだから。
「さようなら、沙漠脳」
シャルルは明日も沙漠脳の相手をするように言ったけれど、私にはもうできそうもない。今晩、辞表を書いてしまおう。
色んなことからさようならだ。また、私は孤独な世界に放り出されて、ただ毎日泣くのだ。
自分にもできることがあるんだと、とんだ思い違いをした結果がこれだ。身の程を知るべきだったんだろう。
踵を返して、実験室から出ようと映像投影限界に触れた。
映像投影限界はようするに実験室の壁にあたる。そこには、中空に浮かぶ不自然な物体――タッチパネルがあって、開閉のボタンを叩けば、扉が現れて開く。
私は開閉スイッチを押そうとした。瞬間、砂漠が揺らいだ。
陽炎が一斉に生まれて、私を包んだ。
燦々たる沙漠の陽光が翳った。映像の情報量が一気に増大し、砂と青空だけだった景色が変わる。渦潮に巻き込まれしまったような浮遊感と眩暈がした。
「何、これ?」
予想外の事態だった。
沙漠は一瞬にして蔦生い茂るジャングルに様変わりしたのだ。
古いフィルムで見る中米の風景に似ている。音のなかった景色に、動物の鳴き声が混じり、微風に靡き、こすれ合う葉の音色が私の耳朶に届く。
鳥や猿の嘶きも聞こえてきそうだった。
「あ、そうか」
私は振り返った。砂丘だった場所は小高い土山になっていた。その先にある沙漠脳の姿は見えない。
「覚えていてくれたんだ」
プロジェクトが始まった初期、私が沙漠脳に話したことを思い出した。
マヤの世界観の話だ。
私はマヤの話が好きだ。ユーラシア文明と何処か違う神秘さではなく、現行の全ての人類文明はメソポタミアの沙漠から始まったのに対し、全く違う環境で生まれた人類のシヴィライゼーションに興味をそそられるからだ。
マヤの世界観では世界は再生と終焉を繰り返すという。
私たちの世界は五番目の世界だという話。
本当は二千十三年に終わるはずだったけれど、未だに終わってはいない。いや、もしかすると、程度問題で世界は既に六番目なのかもしれない。
それに二千十三年という解釈はキリシタン思想にまみれた結果だから、本当の終りは死んでしまったマーヤンのプリーストしか識らない。
宇宙を見ていたマーヤンは、きっと誰よりも空を識っていたと私は思う。
沙漠の民は太陽を憎み、マーヤンは太陽を愛した。
人類は、政治的な理由だったとはいえ、遂に宇宙に飛んだ。ガガーリンが宇宙に昇って数世紀、人類は宇宙をかける旅人になった。
五番目の世界は、何によって滅ぶのだろう。いや、滅んだのだろう? 人が宇宙に出たときが五番目の世界の終りだったのかもしれない。
一番目の世界は、ジャガーの大洋の世界で人は獣性を帯びて生きていた。最後はジャガーに食われて滅んだ。
二番目の世界は、風の太陽の世界で風に耐える足を神は人に与えた。けれど、嵐には抗えず、滅んだ。
三番目の世界は、火の雨の太陽の世界。溶岩によって世界は滅び、人は飛躍する翼を得た。
四番目の世界は、水の太陽の世界。洪水によって世界は終焉を向かえ、人は海を渡る力を神から授かった。
五番目の世界は、動く太陽の世界。
動く太陽とは、太陽を中心とした太陽系という狭い世界の視座から抜け出て、銀河という観点で太陽を見た結果ではないか? なら、終わったのだ。多分。
「ありがとう、沙漠脳」
私は壁に設えた自動扉を開けて、実験室を出た。
何故だか、泪が出た。泣いたのは何年ぶりだろう。母さんが死んだとき以来かもしれなかった。
戸を開けると、消毒液の臭いがした。またかと思いつつも、自室に入る。
むわっとした生暖かい臭気が私を襲う。
入ってすぐの操作パネルで部屋の灯をつける。
部屋に荒らされたようなあとは一切ないが、案の定、私のベッドシーツはべとべとしていた。シーツを撫でた指先が油っこくなる。過剰な消毒液が気化せずに、染みてしまっているのだ。また、洗わなきゃいけない。面倒な話だ。
私はシーツを引っ張り、小さく丸めて、浴室にある洗濯機に向かって放った。しかし、コントロールは悪く、外れた。
シーツが床に落ち、解けて拡がる。
「……はぁ」
仕方なく、私はシーツを丸めなおして、洗濯層に入れようとして、また、頭を抱えた。
全く悪趣味で性懲りもないと思う。
「はぁ……」まやもや、肺から出るか細い空気。
抱えているシーツを一旦床に置く。
洗濯層に手を突っ込んで、中にあるものを取り出す。
むみゅっとした感触と、膚に障る毛並み。
洗濯層に入っていたのは、斑柄のハムスターだった。
何処かの実験用なのだろう、タグが括られていたらしく、小さな耳には穴が空いている。目に生気はなく、小さな身体は潰れたせんべいのようになってしまって、哀愁を醸す。
「また、埋めなくちゃ……」
とりあえず、ビニール袋にハムスターの死骸を入れる。
臭いはきつい。消毒液の臭気の所為で解らなかったが、洗濯層に鼻をつけるとかなり臭った。腐っているようだ。手の込んだことをするものである。
こうなっては、洗濯層を洗浄しなくてはいけない。
潔癖症の人はまるごと買い換えるのかもしれないけれど、私はそんなにお金はなく、一々そのようなことをしていてはキリがないことも熟知している。今回が初めてではないのだから。
洗濯機を洗濯層洗浄モードに入れた。
きっとこの分だと、他にも何かやらかされていることだろう。
私は洗濯機のある洗面室から続く風呂場を覗いた。
危惧は当たらなかった。浴槽も洗い場も綺麗だった。血の一滴も落ちてはいない。少し、安堵した。
綺麗ではあったけれど、その代わり、洗い場には紙切れが一枚落ちていた。小さなメモ用紙で、適当に破られて端はささくれている。
紙にはでかでかと「僭主の娘(フィーリア=プレービコレイ)、死ね」と書いてあった。
また、嘆息した。どっと疲れた。津波のような疲労感が全身を駆け巡った。
余計な手間ばかりが増える。
彼らは何を楽しんでいるか解らない。いや、私がこんな思いをするのを趣味にしているのだろう。義務だろうか?
しかし、いつになったら止むのだろう。かれこれ、十年以上続く悪意の籠った行為。私が僭主の娘だったのは、もう過去のはずなのに、だ。
最初はこのようないやがらせに傷つきもした。しかし、人間は慣れる。
何度も何度も、壊れたはと時計のように繰り返されては、何の感慨も覚えなくなってしまう。
私は、彼らの期待するような落胆はしない。落胆すると、更に疲れる。気落ちすることが徒労に思えてくるのだ。
なにせ、今日はとてつもなく気が滅入ることがあったのだから。沙漠脳は励ましてくれたのかもしれないけれども、それくらいで贖われることもない。
この部屋ともおさらばかもしれない。
最悪のケースとしては、私の居場所がなくなる。この世界から。
死ね。ということか。いやだ。私は死にたくはない。死ぬのが恐いんじゃなくて、悪徒の所為で死ぬことが赦せない。だって、殺されることと同じだから。
私はメモ用紙をくっしゃくっしゃにして、トラッシュキャンにぶち込んだ。
放物線を描いて飛んだ紙球がかこんと金属製のゴミ箱にあたる音が、少しだけ安らぎを喚起した。
しばらく、ほとんど空っぽのトラッシュキャンを眺めていた。
相も変わらず、消毒液と死臭は私の鼻腔を打つ。嗅覚を感じる鼻の受容体がこのままではバカになってしまいそうだった。
私は部屋を出た。ハムスターを埋葬する為だ。
どの道、洗濯層の洗浄が完了しなくてはシーツを洗えないのだから、自室にいても致し方ないのだ。
ハムスターを詰めた袋に加え、掌サイズのスコップを携えて。
このスコップも、この目的の為だけに購入した。私に菜園の趣味も、観葉植物を部屋に飾る嗜好もないから、使用は限定されているわけだ。
先週は、このスコップで蛇を埋めた。
隠すように懐にビニール袋を抱えて、隠れるようにアーチ状の天井と側壁を持つコナプトの廊下を進む。
誰にも会いたくはない。耳を澄まして、近接する音に気を配る。
足音はしない。自分の靴が作る音色だけがエコーを刻む。
私の住んでいる西の居住区画は、ほとんど住人がおらず他の居住者と鉢合わせする機会はあまりないのだが、万が一がある。
自分の足音もできる限り殺して、普段研究室へ向かう為の細い廊下を目指す。
今、歩んでいる大廊下は、木に例えるなら幹で、そのまま直進すれば西の居住区画に立つこのコナプトを出て、商業区に至ることができる。
ハムスターを埋める予定の場所は保養区の公園街で、保養区は商業区を突っ切った方が早い。しかし、商業区はこの時間人が多いし、それだけに億劫だ。
だから、幹から伸びる枝へ分け入って、コナプトの正門ではなく非常口から外に出るのが最良だ。
商業区の外縁を回り込んで、保養区を目指す道順。商業区の外縁は工業区なので人の行き交いは少ない。
工業区には人を運ぶベルトやカーゴが走っていないので、尚更時間を必要とするけれども、試験区や学院区へ向かう際もベルトに乗らないのだから、慣れている。
コナプトの枝道に入ると急に廊下は狭くなり、足元を照らす灯以外ない薄暗い階段を降りて行く。
三階から一階まで下って、くすみひび割れたガラス張りの非常口を開けて、街灯もない通りに出る。
車も通らず、人影もない。
暗がりの外へ向けて非常口を示すサインだけが物悲しい光源となっている。
私は身を僅かに屈めながら、逃げるように居住区画を後にした。申し訳程度に植わった街路の生垣に沿いながら。幸いなことに、誰にも会わなかった。
工業区一体に、ライトアップされた無骨な輪郭が暗がりに浮かんでいる。
その中で、丸いガスプラントの半面のみが白くぼやけ、恒星の反射を受ける惑星や衛星の昼間部を思わせる。
連なるガスプラントは連星のようでいて、遠方の処理施設まで続く。球体やキューブというのは自然発生的には生まれにくい形状で、ここが人工の園であることを嫌が応にも再確認してしまう。
私はガスプラントの下を進んだ。段々、工場がまばらになり、建設物の合間から保養区の木々の葉と幹が見えてくる。
一気に緑の成分が増え、生臭い木々の香が大気に乗って漂う。
工場区と保養区の間に走る幹線道路を横切った。
綺麗に整備され、均等に頭を刈り揃えられた芝生を踏みつけ、保養区のほぼ中央に位置する人工の小山へと足を向ける。見上げても、三百メートルもない小さな山だ。
けれども、自然環境の少ないこの場所では重宝されていて、幼稚園や小学校の遠足地としてよく使われている。
保養区に幾つもある公園には、時間帯の所為か、アベックがちらほらと愛し合っているのが目に入り、居心地が悪かった。
彼らはベンチを二人で占有し、抱き合い、囁き合う。まるで、そうすることが天命だ、とでもいわんばかりで。
居心地悪さの根底にあるのは、嫉妬なのだろう。
異性への愛情や恋慕ではなく、愛なる感情そのものへの度し難い憎しみの裏返し。贋作ばかりを掴まされたプライドだけ高い古美術商の思いに似る感情流。
アベックらが往来の人であったなら、私は彼らを回避して、またまた遠まわしをして、小山を目指しただろう。
しかし、彼らは彼ら二人の世界に耽溺していて、私の存在に気付きはしない。
仮に私の存在を捉えているにせよ、彼らは無視を決め込む。二人の世界に私はいらないのだ。背景として彼らの世界に私は混じる。
なので、堂々と彼らの面前を進んでも、何の問題もない。
この場合、闖入者は私なのだから。邪魔なことに変わりなくても、当事者が真逆なのだ。この状況を嬉しむべきか、否かは、知らない。
三つの公園と、四つの噴水と十七のベンチを過ぎて、常緑樹の生い茂る街灯の届きにくくなった森へと分け入った。ここまで来れば、誰も居はしない。日中帯ならいざ知らず、 今は夜間帯なのだ。
多くの人は二十四時間したいことが、ある程度できる時代になっても、本来の人類のスケジューリングを守って暮らしている。体内時計を狂わせない為に擬似太陽も、嘘の日中時間も必要なのだ。
やや、歩き疲れた膝に手を宛がいながら、小山を登り始めた。
近い時間に水が撒かれたらしく、土は湿って柔らかく、私のブーツのかかとを執拗に食い込ませた。余計な体力を浪費した。
そうこうするうちに、木々が減って行く。
小山の天辺は平らになっていて、森林浴のできる麓とは異なり、さまざまなリクリエーション用途の為に樹木の植わる数を減らしてある。
頂上の近辺に、掘り返された後を見つけた。ひと際大きな広葉樹の根元。
卒塔婆のような形の木板が、そのむき出しの土に刺さっている。目印にと、資材置き場から失敬してきたものだ。私は、やおら卒塔婆を抜く。
抜いた板を脇に追いやって、スコップを土肌の隣に突き刺し、掘る。十センチも穿れば十分だ。
ハムスターの詰まったビニールを小さく縮めて、穴にぎゅうぎゅうに詰めて押し込み、その上に土塊を被せ直す。掌で土の表層を押し固める。
最後に卒塔婆を差し直し、一回合掌して私は踵を返した。
近いうちに、また来ることになるだろうから、そのとき、再び宜しくと胸中に囁く。何を宜しくしているのかと一抹の自嘲を共にして。
なすべきは済んだので、小山を下ろうとした。すると、携帯端末が鳴った。
驚いた。肩が跳ね上がって、女々しい悲鳴が出た。
突如の敵襲に怯える新兵のように私は左右をきょろきょろ見た。意味もないのに、バカみたいだ。これでは、シェルショックの患者じゃないか。
普段は鳴らない電話が鳴った。それだけの話なのに。
平時、目覚ましと腕時計の代用品に感じているだけに、予想外でびっくりして、ポケットに慌てて手を突っ込み、掴み損ねて取り落とす。
端末のサブディスプレイが青白く明滅している。着信を告げている。芝の上で震えている。鮮魚のようにのたうちまわり――。
ちょっと恐いと思った。
自分の端末なのに、少しの恐怖を覚えつつ拾い、メインディスプレイを開いた。
火の点ったディスプレイには、連絡をして来た相手の名前――シャルルが表示されている。私は躊躇した。睨めっこするように、画面を凝視した。
かなうなら、シャルルが諦めてくれることを思った。けれど、コールは止まない。私が受信するまで鳴らす気だろうか。たぶん、その通り。彼はそういう男だ。
私は腹を決めて、受信した。
「もしもし……」
「あー、俺だ」
「シャ――、チャールズ。どうしんたですか?」
できる限り、平静を保つように努めた。口から出せない荒い息を鼻から変わりに捻り出す。
「おまえ、勝手に帰っただろう」
「……ごめんなさい」
「今日は夜間の作業と決まってただろう?」
司令部の個人就業帯の取り決めでそうなっていた。私はシャルルに背いたばかりでなく、司令部にもケツをまくったのだ。
「……ごめんなさい」
謝る以外の方策が私にはない。語尾が震えた。「今日も、謝ってばかりだなぁ。情けないヤツめ」と、脳内の、クールなもうひとりの私が管を巻く。
シャルルはしばらく黙っていた。その沈黙に私は怯えた。
受話器からは、彼の呼吸音だけがクリアに漏れてくる。
「まあいい。これから、来れるか?」
少しバツの悪そうな彼の声。
「えっと……何処にでしょう?」
解っているのに、訊き返した。
「俺の家」
「その……」言いよどんだ。心中のアイデアを確認するのが恐ろしかった。しかし、シャルルは私の想いを察したようで、口を開いた。
「だから、おまえに沙漠脳の試験を止めろとは言ってないだろうがよ。今夜の、相手してくれないか? と言ってるんだ」
恥ずかしそうに彼は言った。
ああ、そうか。私は捨てられてはいなかったのか。合点した。そして、安心した。ハムスターを埋めたことがとっくの昔のことに思えてきた。
彼はいつもそうだったじゃないか。
本当に私を突き放すことなんてないのだ。最後には、ちゃんと私を求めてくれるのだ。
私に彼が必要なように、彼にも私が必要なんだ。こんな簡単なことをどうして、忘れていたのだろう。やっぱり、私はバカな子だ。
嬉しさが満ちて、私は「すぐ行きます」とだけ告げて、電話を切った。
私は保養区から直接住宅区へ向かった。路面鉄道を使った。最早、人の目は大して億劫にならなかった。
注がれる侮蔑の視線も今の私にはダメージを与えられない。今の私には守護がかかっている。
私は哂った。愚かな人々を。
彼は、住宅区の大きな一戸建てに住んでいる。居住区に並び立つコナプトには、入居していない。なぜなら、一級の金持ちだからだ。
私が、豪奢な装飾が彩る玄関のノッカーをコツコツ鳴らすと、すぐさま彼は顔を出した。
私はすぐに迎え入れられ、夕食を食べさせられ、寝かされた。
彼の相手はとても疲れた。どちらかと言えば肉体的に。それでも、しかし、満足ではあった。その時は。
後悔するのは、いつも終わってからと決まっているのだから。
翌日の朝は嘔吐と下痢で始まった。