異動
あるところに男がいました。
…訂正します。
おじさんがいました。
男と言うには疲れすぎているようでした。
彼はこの世界の人間ではありません。
彼はこことは別の世界で、“会社”という組織で
“係長”という地位にありました。
ですが組織の中では特に目立った活躍もなく、
また彼自身もそれほど情熱的ではないため影の薄い存在でありました。
そんな彼がある日忽然と姿を消しました。
…こちらの世界に連れ去られたのです。
突如自分の知らない世界に放り込まれたおじさんは困惑します。
その事態を理解するのにはしばらく時間がかかりそうでした。
と、呆然と立ち尽くす彼の前に(私ほどではありませんが)美しい女が現れました。
彼女は“ナビ”。その名の通り、異世界に来た彼をナビゲートするために遣わされた天使です。
(天使とは、天界に住む住人の事で、殆ど人間の姿をしています。
雑に違いを言えば背中に鳥の様な翼が生えている事くらいです。)
天使はおじさんに語りかけます。
彼女は天界で一番、異国語(つまりおじさんの国の言葉)を話すのに長けています。
「アナタ ハ ユーシャ デス」
天界一のおじさん語を聞いたおじさんは上着から財布を取り出し、
異国のお金、“お札”を何枚か渡そうとしました。
何と勘違いしたのでしょうか。ナビもまた困惑します。
とにかく言いたいことが伝わっていないのは確かなようです。
(…後で考えたのですが、おじさんは娼館か何かと勘違いしたのかもしれません)
ナビは彼女の語彙力の限りを尽くしておじさんを説得します。
沢山話していたのですが要約すると
天使と悪魔の戦争が終わらない。
業を煮やした議会は異世界の力を借りる奇策を発表した。
が、泥沼化しているのに予算は出せない。
とりあえずお試しでということになりアナタが選ばれた。
と、言う事だそうです。
話を聞いたおじさんは財布からお札をもう一枚出していました。
しっかり伝わった…とは言い難い状況でした。
早速、計画が頓挫しそうです。
二人はしばらくの間、放心状態でしたがそれを吹き飛ばす事件が起こります。
「オウ!」
野太く、荒っぽい声がしました。
二人が声の出所に体を向けると森の中から強面の男たちが出てきました…盗賊です。
男達は笑顔でしたが悪意に満ちていました。穏便に済まされない事は想像に難くありません。
「*****!」
賊の一人が金目のものと女を寄こせと言っているのですがおじさんには分かりません。
ナビがおじさんに説明します。
「カネ オンナ クレ」
おじさんは盗賊とナビを交互に見て、そして状況を理解したようでした。
勇者に訪れた最初の困難。おじさんは…
「ツツモタセー!ツツモタセー!」
謎の言葉を発し、何故かナビを恨めしそうに睨みながらありったけのお札を取り出しました。
「ワタシ テキ チガウ」
「ツツモタセー!ツツモタセー!」
必死の弁解をするナビですがおじさんは聞く耳を持たずお札を握らせようとします。
やはり理解してくれないのです。
それどころかナビと盗賊はグルであると考えているようです。
…状況はどんどん悪くなっていきます。
「オウ!!」
無視されたことに憤りを覚えたのでしょう、
二人は盗賊に取り囲まれてしまいました。
「*****!!」
賊は脅しの言葉を吐きかけます。が、今度はナビは通訳しません。…余計に混乱すると考えたためでしょう。
その代わり泣き叫ぶ勇者に武器を渡します。
それは黄金に輝く剣でした。
刀身の割に羽根のように軽く、刃はカミソリのような切れ味を持つ…
が、キャッチコピーの天界家庭に一本はあるという日用品でした。
国から支給された唯一の武器です。ナビは不況を嘆きました。
「ユウシャ コレヲ!」
ナビは日用刀をおじさんに渡しますが、
「ヤクビダァ!ブツメツダァ!!」
やはりおじさんは呪いの言葉を放つだけで聞く耳を持ちません。
「ブツメツダァ!アアー!!」
尚も呪いを吐き続けるおじさんにナビは限界が来てしまいました。
「サッサトモテ! バカヤロウ!!」
勇者であるおじさんに異国の暴言を吐き、無理矢理日用刀を握らせたのです。
(ちなみに“バカヤロウ”とはナビが最初に覚えた罵りの言葉です。)
「アアアア!ブツメツ!ブツメツゥ―!!」
…剣が勇者の手元にあったのは一瞬でした。
錯乱した勇者は剣を手にした瞬間、それを拒否するかのように投げてしまいました。
まだそれが盗賊たちのいずれかに目掛けて飛んでいけば良かったのかもしれません。
ですが放り投げられた剣は盗賊とはまるで見当違いの方角へ飛んで行ってしまいました。
「オワタ …バカヤロゥ」
ナビは力なくそう言うとその場にヘナヘナと座り込んでしまいます。
未だ泣き叫ぶおじさん、へたり込むナビ、迫る盗賊…
勇者の物語はここで終わりを迎えようとしているようでしたが、その時。
「グオオオオオオオ!!」
突然、大きな咆哮が響きました。
それはそこにいる者全ての時間を数秒間止めるような凄まじいものでした。
時が戻った者達は自然と声がした方向に首が向きます。
そこは木々が生い茂る森の入り口。
ただただ緑色と暗闇が広がっているだけでした。
…しかしそれは声がして数秒の事だったのです。
木々が倒れるような音とともに見上げるほどの大きさのクマが姿を現し…そのまま地面に倒れました。
クマは絶命していました。…頭には黄金の日用刀が刺さっています。なんという偶然でしょうか。
しかし奇跡はこれだけにとどまりませんでした。
「…ハ!?ワァァァァ!!ブツメツー!!」
盗賊たちはその異常事態に恐れをなして逃げていったのです。
(よほど恐ろしかったのでしょうか“ブツメツ”と何度も何度も叫んでいました。)
一つの偶然が二つの脅威を退ける形となったのです。
こうして後に勇者ブツメツとよばれる英雄譚が始まりました。
…訂正します。
始まってしまったのです…。
(後で調べたのですが、“ブツメツ”とは異国の言葉で“厄災の日”を表す不吉な言葉だそうです)