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足枷  作者: 紗為水
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第三章

 

 二日後、吉田城下、

「兄様!速い!速い!兄様!」

「黙ってないと、舌を噛むぞ。それに兄上だ!」

 激しく上下する馬上、満足げにその速さを兄に報告する弟がいた。信康も於義丸を喜ばせようと馬の限界速度まで出している。しかも吉田城の厩に居た一番の名馬を連れてきていた。今までで自分も体験したことのない風が耳元を吹き抜ける。辺りに舞う紅葉と銀杏がまるで虹のようだった。

「兄様、すこしこわい!」

「そうか、わしも少々怖い。」

「兄様にもこわいものがあるの?」

「ん、ああ、あるぞ、人は怖さを知っているから人なんじゃ」

「じゃあ、例えば?」

「ん~・・・お、そうじゃ、徳の顔は怖い」

「え~、なんでとくさまが怖いの?」

「それはあれの先に、神を見るからじゃ」

「かみ?」

「ああ、鬼でも、魔王でも、物の怪でもいいぞ」

「とくさま、きれいなのに…兄様、ひどい…きらい!」

「ははは、ぬしもそのうち分かるさ」

「わかんないもん!」

 ぷいっと不機嫌そうな顔で、兄の胸板に顔をうずめる。信康には、徳姫から信長という、人間に似つかぬ化物の顔が浮かぶからそういったのだが、弟にはまだわからないだろう。あの相対した恐怖は体験せねば分からない。

 しばらくすると、寝息が聞こえ始めた。信康はそのままゆっくり速度を落としながら、物見遊山に興じていた。様々に色づいた木々が美しい。いつまでも、弟と一緒に愛でていたい。己も家康に愛されずに育った。理由はよくわからないが、記憶にあるのはいつも家康の背中ばかりだ。数正に依れば、自分が生まれたときの父のはしゃぎようは、今までで見たことが無いほどだったらしく、一日の終わりには必ず顔を見に来ていたそうだ。しかし、自分の記憶には家康の背中ばかりである。どちらかと言えば、傅役の数正の方が親らしかった。父は初陣の時も、手短な会話で、目を合わせなかったのを覚えている。そんな徒然な思いを頭に浮かべながら、闊歩していくと、開けた平地に出た。もう少し馬で歩みを進めれば、そこには、遠江(浜名湖)が目の前に現れる。いつみても大きな湖と思う。いつぞや、淡海(琵琶湖)を見たときは、もはや海だと思ったが、遠江はまだ湖であることが対岸を見ればわかる。ここで今日は於義丸の水練をすることになっているのだ。

「於義丸、着いたぞ。」

「ん・・・」

 於義丸は目をこすりながら、目の前の景色を理解した。

「わぁぁぁぁぁああ、海ぃ!?ってあれ?むこうがある。わん?」

「そうじゃ、よくわかったな。偉いぞ、これは遠江、ぬしの生まれた場所もこの近くだ。」

「へぇぇえ。こんなとこでそれがしは生まれたの?」

「本多のじいが言っているから間違いない。どうだ?なんか感じるか?」

「うーん。わかんない・・・」

 信康の生まれは岡崎城である。遠出することはあったが、基本は岡崎で育った。自分には逃げた先で生まれる弟の心は分からなかった。でも、なにか不快に感じるなら、それを自分にも分けてほしい。できるだけ、その痛みがなくなるように、一緒に居てやりたかった。でも、そんなことも杞憂であったようだ。とびきりの笑顔でこちらを向いた弟は、自分に叫ぶ。

「兄様!すいれんでしょ!今日もそれがしのおよぎをみせてあげる!」

 一瞬面喰ってしまったが、すぐに気を取り直し、あやす笑顔で、手を引きながら兄は言う。

「そうか、そうか。今日は千里(4000km)泳ごうな。」

「それはむり!」

 どこまでも仲の良い兄弟に、絶望は程遠かった。



 太陽が傾いできた。秋の斜陽はどこまでも吸い込まれそうで、その紅を水平線まで印象づけている。雲行きは、照らされているにしては随分な暗さで、独特の陰気を訴えていた。信康の指導により、於義丸はもう、一里(4km)は自分で泳げるようになった。戦国泳法独特の立ち泳ぎ、浮き泳ぎなども次々に習得し、その勇将への片鱗を窺わせている。優秀な弟を持つと、ここまで嬉しいものなのだろうか。今日も帰ったら、いっぱい誉めてやろう。数正の前で誉める方が、於義丸は喜ぶのだ。

「於義丸、そろそろ、日が暮れてしまう。」

「それでは・・っぷ・・かえりましょう!」

 足のつかないところで器用に会話をした兄弟は、すぐに岸を目指し、方向を変えた。なんでもない、岸への帰還、それは、いままでのどの水練よりも簡単だった、はずだった。

 ぱしゃんっ!

 信康の耳元を、黒いものが通り抜けた。信康はとっさのことだが、過ぎたものを確認する。

(弓矢?)

 即時、岸を向けば、そこには苦無を手に構える夕焼けに紛れる赤い装束。周りの忍びが、弓を弾いている。後ろを泳ぐ、於義丸の方に反転した信康は、背中に矢を浴びた。

「がはっ。」

「兄様!?」

 於義丸も異変を察知した。すぐに兄の手を引っ張り、自身も反転する。信康は射抜かれながらも目測で、岸までの距離を測っていた。一丁半(150m)ほど。弓は相当な腕でないと当たらない。明らかに忍びの錯誤である。もう少し引き付ければ、確実に討ち取れていたはずだ。若しくは、早めに射り対岸で待ち伏せし、岸にたどり着かせず、溺死させる気か…いずれにせよ、弓の射程は二丁ほど。急げば、そして潜りつづければ、とりあえず、逃げおおせる。相手に先回りさせないためには、この鷲津湾から出なくてはならない。そうでなくんばどこに逃げても、先回りされる。つまり、泳ぐ先は対岸、庄内半島だ。そこまでいけば、湖族、中村正吉の使う、小さな漁港がある。於義丸の生まれた領主の家だ。邪険にはしないだろう。

 そのように勝算を弾き出した信康の前に、足枷が現れた。於義丸その人である。庄内半島まではどうみても一里近くある。既に一里近く泳いでいる於義丸には無理な距離だ。つまり・・・

「於義丸・・・」

「兄様、はなし・・・っぷ・かけないで。」

「おぬし、疲れたらわしの胸にのるんじゃ。よいか、もう二度と言わぬぞ。」

「は・・・はい・・っぷ・・」

 於義丸は何が何だかわからなかったが、兄よりもとにかく先を泳いだ。もう、弓は飛んでこなかったが、目の前に希望を失わせる光景が広がる。兄の指し示す方向には恐ろしく小さな陸地しか見えない。足がつかない恐怖心もさらにそれを増幅させる。

「大丈夫、わしを信じろ」

 兄の声がした。そうだ、信じなきゃ。その一心で於義丸は半里泳いだ。が、ついに力尽きる。信康はその重い弟を引っ張りながら、さらに半里泳ぎ切ったが、足の痙攣から溺れてしまう。偶然にも漁に来ていた中村正吉の船に保護されたのは奇跡であった。まさか、徳川の御曹司が背中に矢を立たせたまま、小さな子供を抱きながら溺れているとは中村も思わず、終始、驚嘆の表情を隠せなかった。信康は意識が戻ると、於義丸を乗せ、回復もしていない体に鞭をうって吉田城に馬を走らせた。その時、既に二日経過していた。


お疲れ様です。

拙い小説をお読みいただきありがとうございます。

続きは制作中ですが、お読みになりたいと思われる方がお一人でもおられましたら、投稿しようと思います。


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