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踊る妖精

作者: 白銀美月

 ベンチに腰を下ろして足を投げ出し、五辻公孝いつつじ きみたかは、空を見上げていた。

髪の毛をかき上げてため息をつく姿は、それなりに絵にはなっていた。

「くそっ、誰が氷の姫君だ、言うに事欠いて、姫だと、この俺を」

五辻にとって幸いなことに、この言葉は回り一帯には聞こえていないという事だった。


少し長めの髪も、彫りの深い顔立ちも、長身も逆三角の体型にしても、非の打ち所がない外見だった。

五辻の家はそこそこ有名な家柄らしく、この今いる大学にしても、並大抵の頭脳では入れない。

外見も頭脳も運動能力も家柄も揃ってはいるが、五辻にはその態度に少々問題があった。

その結果、こうして夕方一人でベンチでぼんやりしている原因ともなっていた。


 高校生の頃は進学校だったのもあって、適当にあしらっていたが、大学生になると早速、五辻目当ての女の子が大量に声をかけてくるようになった。

黙っていれば絵になるし、成績も優秀だとわかると、声をかけてくる女子は後を絶たない。

五辻の性格は基本的にまめな方ではない。

ましてや愛想よくちやほやとするタイプでもなければ、楽しく話題を振りまくタイプでもない。

はっきり言えば、ぶっきらぼうで、無愛想だし、全く気が利かないというタイプだった。

でも授業やプレゼンテーションなどでは、分かりやすく適切な言葉を選んで発表はできる。

礼儀正しいが、見知らぬ人との会話に対してとなるとまったく態度が違うのが問題だった。


今日もデートに誘われて承知したものの、相手の女の子からは、デート中まるっきり上の空だったと、泣き喚かれ、今まで延々と文句を言われて、ようやく解放されたところだった。


 五辻の通っているこの大学には、有名な先輩が寄贈したというモニュメントがある。

『踊る妖精』というタイトルがついている通り、踊っている妖精の姿をした像らしい。

らしいというのは、つまり造形の表現方法によるというものだろう。

それが寄贈されてからどれだけの年月が経っているかはわからないが、一つの噂が伝わっていた。


今、そのモニュメントの前のベンチで、ふて腐れて五辻は座っていた。

大学三年になった五辻は、この大学では、ある意味で有名人の一人だった。

外見やその頭脳に惹かれて寄ってきて付き合った女子大生は数知れず。

同じ大学ではなく、別の大学からも、何人からも誘われた事は多い。

五辻の名誉のためにあえて言い換えれば、付き合わされた女性の数は……としておこう。


「あら、大学一有名と言われるあなたが、こんな場所に、たったお一人で?」

頭の上からつんと澄ましたような声が響いてきた。


 途端に五辻はとても嫌そうな表情を浮かべた。

この声はいつも聞きなれていて、五辻ですら声だけで誰かがわかる相手だった。

もっぱら学生達の噂で、五辻と並べて必ず名前が出てくる女、藤波志津ふじなみ しずだった。

彼女も外見からすれば、非の打ち所のないとされるお嬢様風なのだが、

五辻はこの女とだけは到底気が合いそうもなかった。


「ほう、俺がここに居たら目障りとでも? お嬢さま」

五辻が吐き出すように言うと、藤波は目を細めて、心底嫌そうな表情をした。

この大学に在学しているだけあって、成績はいうまでもない。

噂ではどこかの社長令嬢らしく、いつも有名ブランドの服を着ているという評判だったが、

五辻にとっては全くその方面に興味がないので、実態を知るはずもなかった。


「いいえ、また振られたのだろうと思ったから言ったまでですわ、おや、古傷をえぐったかしら」

そう、この藤波という女はどういうわけか五辻に目のつくところに出没し、神経に障る言葉ばかりをわざと投げつけてくる。

お互い様とばかりに、こちらも精一杯毒舌を返すのだが、堪えているとも思えない。

「ふん、俺に構っているぐらい、お暇だという事は、またあんたも振られた口か」

授業が終わった時間ぐらいどこに居ても構わないとは思うが、どうもこの女にとっては違うらしい。

「まあ、あなたとは違いますもの。言い寄る男性なんて山ほど」

ツンと澄ました顔は、確かに黙っていれば、有名なタレントよりも、よっぽど綺麗だと五辻も思う。

しかしこの口の悪さときたら、五辻も負けてはおれないと思うぐらいだった。

これでモテルというのが疑わしいが、女性は化けるというから、実態はわからない。

どうしてこの藤波が五辻が振られたときばかり現れるのかも知りたいところだった。


 付き合った女性が数知れずというのは、長く続かないというよい例で、つまりそれだけ別れる回数が多い。

決して自慢できる事ではないと、五辻は思っていたが、それを表情に出したりはしない。

友人達からも、何を考えているのかわからないと言われる事もあって、五辻は感情表現も苦手だった。

五辻からすれば、普通に会話しているつもりでも、どうも噛み合っていない。

最近では、すべて面倒くさくなっているから、一方的に聞いているだけで、中身は全然覚えていない。

悪気があるわけでもないが、興味の無いことを延々と話されても困るだけだった。

「じゃあ、そいつらを構い倒してこいよ」

五辻は素っ気なくつぶやいただけで、どうも藤波の逆鱗に触れたらしい。

「わたくしが、この私が、男を構うですって。冗談はやめてほしいわ。構われるのは、こ・の・私よ」

藤波はハイヒールの足を踏ん張って、五辻の行方を塞ぐかのように立ちはだかった。

こういう姿を他の男が見たらどう思われるのか、こいつは考えていないのかと五辻は思ったが、それでも立ち上がって動くには、藤波の立った場所が邪魔だなと思い返した。


「志津ちゃんっ」

どこからか藤波を呼ぶ女の声がした。五辻はこれで藤波がどこかへ行くだろうと、少し安堵していたが、

近くにやってきた女性を見て、また頭を抱えたくなった。

藤波に輪をかけてうるさい女だと認識している相手だった。

「まあ、志津ちゃんったら、こんなところで、五辻くんとデート中?」

いや、この女は別にうるさくはないが、この言葉に問題がある。

「これの、どこがデートですって、いい加減な事言わないでよ」

藤波がこの女性の言葉に反論するかのように叫びだした。

そう、この相手の何気ない言葉は、余計藤波をうるさくさせるだけだった。

天然なのか、わざとなのか、さっぱり理解していないこの女性は、とにかく藤波の気分を逆なでする。

この二人が揃うと、ここから立ち去るにはしばらく時間がかかるのはいつもの事だった。


 藤波が叫んだ言葉も意に介していないのか、少し辺りを見回した後、目をらんらんと輝かせた。

「ちょっと志津ちゃん、この場所って、例の噂の場所でしょ、すごいわね~さすがね~」

噂と聞いて五辻はとっても嫌な予感がしてきた。

「あのね、志津ちゃん、あの踊る妖精を一緒に見た恋人同士は、一生幸せに暮らせるんですって」

藤波がどうも興味を示したらしく、友人に問い詰めはじめた。

「ちょっと、それってどういう意味? まさかあの像をという意味じゃないでしょうね」

本当のところも、五辻は対して興味もないので、生半可に聞いていて噂の真相は知らなかった。

「違うわよ、実物が出るのですって。本物の踊っている妖精が見えるっていう噂なの」


五辻はそこまで聞いて、やはり噂はデマかと思った。

だいたいどこの大学でも、面白おかしくするような噂がつきものだ。

ましてや本物の妖精が見えるなんて馬鹿馬鹿しくて話にもならない。

それに、一生幸せにと言うが、この像が出来てから人が一生を終えるほどの年月は経っていない。

五辻は冷静に分析を終えると、もうこの場所に居る意味はないと判断した。

ゆっくりと立ち上がり、騒いでいる女達には目もくれずに、当たっても構わないつもりで歩き始めた。

その勢いに圧倒されたのか、通り道に立っていた藤波は、あわてて俺から避けるように動いた。

「ちょっと、五辻くん、待ってよ」

何か他に言いたい事があるとも思えないので、五辻はその声を無視してそのまま歩いて行った。

大学を出て、まっすぐに家に帰って自分の部屋でぼんやりとすることにした。


 三年にもなると、そろそろ就職活動をする時期なのだろうが、国家試験を受けるつもりの五辻には、

それほどあせることでもない。

もともと学部内、学年首席を維持している五辻はそれほど心配はしなくてもいいはずだった。

バイトも、自分には向いていないのは自覚していた。

接客業は全く無理だし、せいぜいやり易いはずの家庭教師ですら散々だった結果を思い出していた。

五辻の大学名とその外見から、最初はすごく期待されて、女子高生の家庭教師を指名されるのが多いが、持ち前の短気さと、無愛想さから、怖がられるか、付きまとわれて勉強にならないかのどちらかで、結局は成績向上どころか、下降線をたどりそうに思えて、早々に辞めてしまった。

その結果、五辻は丁寧に人に教える事は、自分には向いていないと早々と自覚した。

それでも一人の高校生男子ぐらいは、何とか持ったものだが、相手の性格が良かったのが大きかった。

その一人の家庭教師経験だけで五辻のバイト経験はおしまいとなった。


特別不自由をしていることもないし、いろいろと余計な詮索をされるのも好まないので、あまり本人も

気にしていないというのが大きい。

よく出来た兄は難なく大手企業といわれる会社に就職しているし、両親は仲がよいし別に不満もない。

ただものすごく察しのいい兄のお陰で、五辻自身は自分の考えている事をあまり説明する機会が無かった。

しいていえばそれが1番問題だったともいえる。

ぶっきらぼうで無愛想で口数が少なくても両親は兄と分け隔てなく接してくれていたし、いつか大人になるでしょうと黙って見守ってくれているのを知っていた。


わざわざバイトをしなくてもお金に困ることも無いし、金遣いが荒いわけでもない。

服装にしてもこだわりはないし、特別な趣味もない。

母や兄が選んだ服がたまたまセンスが良くて、派手めの外見にものすごく似合っているだけで、本人はあるから着ているというだけの事だった。

手入れをしなくても見られる髪形と、兄に誘われてするスポーツの相手で鍛えられているだけで、自分から何かを好んでしているわけでもない。

だがスポーツは嫌いではなかったし、誰かに誘われれば一緒にすることも多い。

スポーツも何でも器用にそれなりにこなせる性質が災いしたともいう。

だから友人ならばいないわけではなく、恋人として付き合うには難がありすぎという程度だった。


他の人が事実を知ったら頭を抱えたくなるような事でも、五辻は全然気にした事がなかった。

それでも他人と深くかかわるのは苦手で、見た目と正反対の性格が分かってはもらえない。

五辻が思ったままを素直に言える相手は、藤波だけだった。

彼女の前では格好をつける気にもならないし、感情をむき出しにして相手をしているからだった。


五辻の取っている授業が終わると、またモニュメントの前のベンチに座っていた。

このあたりは奥まっていてそれほど人が通らないので、他の場所よりは静かだった。

それが気に入ってここに座っているだけだったが。

天気が良かったし、少し疲れも出てきたからだったと思いたい。

どうも気づかない間に眠ってしまったらしい。


ハッと気が付いて目を開けると傍に誰かが座っているのに気が付いた。

静かに顔を動かして隣を見ると、めずらしく深刻な顔をした藤波が地面を見つめていた。

その表情はいつもよく見るツンと澄ました表情ではなく、どこか泣きそうな感じがしていた。

そのまま動かないでじっとしていると、どこからかにぎやかな音楽が聞こえてきた。

どこかの部活の練習なのか、テンポの良い音楽だが、たまに音が外れている。


こんなところでしなくてもと思った途端に不思議な事が起こった。

目の前の像が動いたような気がしたのは目の錯覚だと信じたかった。

筋肉隆々のギリシャ彫刻を思わせるようなどこの国の人だろうと思った男性が現れ、音楽に合わせて、とても直視できない踊りを踊り始めたからだった。

「ちょっと……嘘よね、あれ……」

隣から呆然とした声が聞こえてきた。


ダンスを踊っているのかと思ったけれど、あの腰つきと手まねはどうみてもどじょうすくいにしか思えない。

いや、演奏が下手なのは分かるが、あれは洋楽のつもりで決して音頭ものではないと思いたい。

少しして曲が変わると、今度は踊りも変わったが、どうみてもフォークダンスぐらいにしか思えなかった。


五辻は夢でも見ているのかと思ったが、つねった頬は痛かった。

「何だ、まさかあれが踊り? どうしてあんな?」

下手なと思いっきり口に出して言いたかったが何かが五辻を押しとどめた。

「待て、下手だと思っていただろう、お前達」

突然踊っていた日本人とは思えない外見の人が正確な日本語で言葉を発した。

「えっと……」

元から口下手な五辻にとって弁解もうまい言い逃れも出来るはずがない。

「私が下手なんじゃない、この辺で踊った人間達が下手なんだ。まともな踊りを見せてくれないし、見よう見まねでしかできないんだから、まともに踊れるわけがないだろう、まったく……」

いきなり怒鳴るように言った相手に五辻も隣にいた藤波も呆然と立ちすくむしかなかった。


「志津ちゃーんっ」

またうるさい相手が来たと思った瞬間、目の前のどこの国の人か分からない謎の人物にもやがかかった。

「えっ」

声を出すまもなく、先ほどまで下手な踊りを踊っていた相手は突然、台の上によじ登った。

「うそ……よね?」

隣で藤波が少し震えているのが分かった。


「志津ちゃん、どうしたの? あっ、また五辻くんとデート中だった?」

無邪気な顔で聞いてくる相手を見ても、五辻は先ほどまであった光景にショックを受けて動けなかった。

「あれっ? このモニュメントってこんな格好していたっけ?」

能天気な声で女性がモニュメントを見て首をかしげていた。

「まさか、あれって……」

藤波が恐る恐る五辻の方を巳ながら声を出すと、二人同時に次の言葉がでた。


「「踊る妖精?!」」


 妖精のイメージからはかけ離れた姿だったが、あのモニュメントの手や足の位置が変わっていたとしたら、

先ほどまでのが夢だったとは思いにくい。それに二人揃って同じ夢を見るはずもない。

「志津ちゃん、それに五辻くんもどうしたの? 何かお化けでも見た感じだよ」

いつもの藤波の友達がそう声をかけた途端に、藤波が声をあげて五辻にしがみついてきた。

「きゃー、嘘だと言って、お願い。あれは夢だと言ってよ、ねえ」

耳元で騒がれてうるさいと思わない気がしないわけではないが、五辻も出来るならば同じように

叫びたい気持ちなのには変わりは無い。

藤波の背中に腕を回しながら、なだめるようにゆっくりと背中をさすっていた。

「大丈夫だ、落ち着け。いいから騒ぐな」


こんな時に兄だったらもっと適切ないい言葉が浮かぶだろうと頭をかすめたが、

今の五辻にはこれがかけられる精一杯の言葉だった。

藤波はどう思ったのか、真剣に抱きついてくる。いつもの強い香水の香りはせずに、

ほのかに髪からシャンプーだろうか、良い香りが漂うのに気が付いた。

「怖い、私……怖いよ、五辻くん、助けてよ、嘘でしょ、あれって、嘘よね」

藤波のこんなに頼りない言葉を聞いたのは、五辻にとっても初めてだった。

しばらくなだめるように軽く藤波を抱きしめていたが、耳に入った言葉でわれに返った。


「えっと、私、お邪魔だったみたいね、ごめんねー、志津ちゃん、五辻くん、仲良くね」


五辻は腕の中の藤波をじっと見つめていた。

いつもの様子とは違い、腕の中の藤波はわずかに震えてしがみついて離れそうもない。

そんな藤波がどういうわけか、かわいいと感じる自分に気が付いた。

「嘘だと言いたいのは山々だけれど。まあ今はもう動いていないから大丈夫だよ」

五辻はずっと藤波のしたいようにさせていた。


ようやく自分のしていた事に気が付いたのか、藤波が飛んで逃げるように五辻から離れた。

「えっと、あの……」

そのまま藤波は何も言わずにその場から逃げるように走り去っていった。

五辻はため息をついて、ゆっくりと反対方向に歩いてその場を離れていった。

さっきのは何だったんだと思っても、腕の中のぬくもりは残っているし、今でも震える声が耳に残っている。

それ以上気にしても仕方が無いと思った五辻は早く忘れる事にした。


 いつもどおりの日々が戻ってきたと思いたかったが、最近あえてモニュメントのあたりは避けていた。

女の子達はいつもどおりに五辻を誘いにきたが、どういうわけかその誘いに乗る気もしなかった。

「えーどうしてよ、付き合い悪~い」

耳元でいろいろと騒がれても、愛想笑いの一つもせずに、聞こえないかのように五辻は考え込んでいた。

「ねえ、五辻くんってば……聞いてるの?」

腕をとられても気にせず回りの女の子を振り向きもしない五辻を見て、女の子達が首をかしげたのもまったく気が付いていなかった。

そういう日々が続くと、話題の中心人物だっただけあって、いろいろな噂が飛び交いだした。


 ぼんやりと歩いていると、突然目の前に立ちはだかるように塞がった足が見えた。

その足にはどこか見覚えがあると思った瞬間、きつい声が聞こえていた。

「本命が決まったとか、何とか聞いたけれど、それ本当なの?」

顔を上げて目の前を見ると藤波がじっと睨むように見ているのに気が付いた。

黙ったままその目を見つめていると、どこか赤く泣いたようにも見て取れた。

いつものようにそれがお前にどういう関係があると言い換えそうとしたのに、口から出た言葉は違っていた。

「……本当だ」

五辻の言葉を理解したのか、藤波は突然踵を返して、顔を背けた。

今でもどうしてそんな事をしたのかわからない。

その場から立ち去ろうとした藤波の腕をつかんで引き寄せた。

「お前の本当に言いたい事はそんな事じゃないだろう? いつもみたいに本音を言えよ」

藤波の肩が震えて腕を振りほどこうとしていたが、じっとつかんでいる手は動かさなかった。

そのまま引きずるように歩いて、使っていない教室へと引き込んだ。

「ほら、ここなら誰にも聞かれないから言えよ」


何か言おうと必死で考えているような藤波の姿を見ながら頭に浮かんだ疑問が一つ。

もしかして彼女も……自分と似たようなタイプだとしたら。

負けず嫌いの性格が災いして、思ったように素直に言葉がでない。

つっけんどんに話すのは出来ても、自分の感情を素直に表す事が出来ない。

「じゃあどうしてあの時……」

藤波の言いたかったあの時がどれを指すのかは聞き返さなくても五辻には分かった。

「あんな風に……私を……」

振り向いた顔は五辻を睨んでいたがその目はどうしても泣きそうな目に思えてならなかった。


五辻はぐいっと握っていた腕を引き寄せ、胸の中へと抱き込んだ。

「俺、靴だけ見ても、足音だけ聞いても、お前だけは分かるから」

もっと暴れるかと思った藤波は不思議と腕の中で静かにしていた。

「覚えるのって苦手でさ、服とか、いろいろ着ていてもほとんど印象に残っていないんだ。

でも俺、藤波がこの前着ていたワンピースの色は薄い緑色だったって事は覚えている」

藤波の肩がゆれて胸に頬がつけられるのが分かった。

「お前しか覚えていないから。それで分かるか?」

五辻は腕を身体に回して抱きしめても、少しの間、藤波は何も言わなかった。

「はっきり言ってくれなきゃ、私には分からないわ」

五辻が腕を離して藤波の顔を胸から離そうと少し動くと、藤波の表情がかげるのが分かった。

「嫌なら逃げろ」

五辻は手を伸ばして藤波の顎を支えて上に向けた。

びっくりしたように見開かれた目はじっと五辻の顔を見つめている。

顔を近づけても逃げようとしなかった藤波の唇は、やわらかく温かく感じた。

軽くくっつけてまた離すと、藤波の目に本当に涙が浮かぶのが見えた。

「俺からキスしたの、お前だけだから」

藤波の口がわずかに嘘と動いて、五辻の胸元に抱きついてきた。


あの踊る妖精の噂は本当かも知れないと五辻は少しだけ考えた。 

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