1 現世
生きる気力をなくした『幸』と云う名の者がいた。
今では一日中、自室に閉じこもり、その上ネットの世界にこもっている。
あれは中学の頃だったろうか。人間が嫌いになり、学校も嫌いになり、間もなく不登校になった。そのまま家に引きこもりがちな生活が十年以上続いている。
働きもせず、学びもしない。段々と暗い気持ちに沈んで行った。現実から逃れるために、幸はネットとゲームの世界に入り浸った。
けれども、まだその時は良い方だった。更に数年後、幸の身体は変調を来す。以前よりも気分の落ち込みは激しく、なおかつ吐き気の悪化。全身のいたる所から謎の痛みと不快感が四六時中続いた。何度か病院へ行くも、さっぱり原因は分からない様子であり、処方された薬も効果はなかった。
そういう状態が長く続いてしまうと、病を治す気力も失う。次第に幸は、この苦しみから逃れるために死を考えるようになった。
近所のホームセンターでロープを買った。丁度良い太さの柔かなロープだ。
幸は死を望むが、苦痛は拒絶する。苦しい死に方は嫌だった。
自殺方法をネットで調べた。「飛び降り」、「凍死」、「餓死」、「首吊り」などが候補に上がった。
「飛び降り」ではなく「飛び込み」すなわち、自動車および列車への飛び込みは、迷惑な度合いが大きいので止めた。
「飛び降り」。十分な高さがあれば即死出来そうで、候補に上がったものの、良い感じの高所が近所にはなかった。半端な高さだったり、地面が柔らかかったりだと、死にきれずに半死半生を苦しむことになる。
「凍死」および「餓死」。今は寒い季節ではなかったこともある。が、それ以上に、寒さと腹減りに耐え続けるだけの精神力は残っていなかった。
「首吊り」。調べてみれば、気道を絞める窒息死とは違うことを知った。血流を止める方法での首吊りならば、苦痛はむしろ少ないらしい。
そういう訳で、幸は手頃なロープを買った。そうして、ただ自殺方法が準備できたというだけでも、安心感の増したことに気付いた。
帰宅したとき、幸の手にあるのはロープ単品だった。母が気づいて真剣な面持ちで用途を尋ねてくる。幸は重い口を開いた。
「この頃、苦しくて。最近は、自殺の事ばかり、頭に浮かぶ」
と、母へ伝えた。
伝えた理由は、突然の自殺よりも、予告のあった方が、多少なりとも与えるショックを和らげられるかもしれないという考えからだった。
母は泣いて幸を抱きしめた。死なれるのは嫌だ、と云った。幸も、長年我慢してきた感情が流れるかのように、涙を流していた。
そのことを切っ掛けに、両親が他界するまでは、我慢して生きていようと、幸はそのときは確かに思った。
*
しかし、日ごとに生きることそのものの苦しみを再認識させられるばかりだった。それに抗うように、頭の中は前向きにポジティブに考えるよう努めた。悲観的な思念を振り払うことに懸命だった。心・精神を扱う病院にも行った。にもかかわらず、その全てが芳しい効果を上げることはなかった。
健全な人間ならば、わずかな苦痛としか感じない肉体的・精神的な苦しみが、それすら耐えられないほど、幸の精神は弱体化していた。
――幸の心は、折れに折れていた。
「
もう辛い。もう無理だ。
私は、この世界に生まれてくる存在ではなかった気がする。生きる人間としての土台から損なわれている。
私は『元気』が、『生気』が、『生きようとする意欲』が欲しかった。
それがあってこそ、人生で努力することが出来る。しかし――、『生力』そのものが尽きたか、或は元より持ち合わせていない私には、心身が機能停止してゆくのを感じ苦しみ続ける日常しかない。
もう……いい。もう楽に死なせてください、神様。消してください。楽にさせてください。楽に・・・。
」
最後に残された手段は、ただひたすらに神頼みしかなかった。
テクノロジーが現代ほど進歩したと云っても、本当に困った人間を救えるには、まだ至っていなかった。人間の肉体を新品に取り換えたり、人間の精神を自在に作り変えたりする文明にまで至っていれば、幸も救われた。
人の周囲を直せても、人そのものを直すには力不足だった。
それから間もなく、幸は自室で首を吊って死んだ。
残されたノートには、「楽にさせて下さい」という文が、無数に書き殴られていた。




