07:朝の一時
オルレーヌ王国はイーシュ大陸の中程にある海に面した国で、海運や海産で栄えている。
北をラクシュルス大公国、西をディオアト―ル帝国、東をエイン王国とそれぞれ面しており、南は海が広がっている。このうち北のラクシュルス大公国とは対立関係にあり、幾度となく衝突を繰り返してきた。
ラクシュルス大公国は海に面していないため海に面している国土を欲しており、領土争いの手をオルレーヌ王国へと向けてきた。
オルレーヌ王国とラクシュルス大公国は国土の広さでは同程度だが、兵力では若干オルレーヌ王国の方が勝っているため、これまでの衝突ではオルレーヌ王国がラクシュルス大公国の侵攻を退けることに成功している。
西のディオアト―ル帝国は後継者争いによって内戦が続いており他に目を向ける余裕はないため、互いに不干渉。残る東のエイン王国とは古くから良好な関係を築いている。
王国の国土は王族の直轄領と貴族の領地によって成り立っており。その比率は前者が一に対して後者が九。実に九割程が貴族の領地となっているのだ。もっとも、王家は王国内の重要地を直轄領として握っているため、決して王権が弱いというわけではない。
貴族はそれぞれの領地の経営を行っているが、それは一年中というわけではない。一年のうちおよそ半分程、春と秋には王都に集まり社交を行う慣習となっている。あくまで慣習であって義務ではないのだが、貴族にとって社交というのは重要な仕事であるため、これを疎かにするようなものは殆ど居ない。その間、空白となる領地の経営は代官を置いて代わりとする。
領地持ちの貴族達は領地の本邸とは別に王都にもそれぞれ屋敷を持っており、社交のシーズンにはそこに滞在する。そしてそこを拠点に茶会や狩り、夜会などに参加するのだ。
今は、春の社交の季節。
ジュリウス=ローゼンベルクは、ローゼンベルク伯爵家が王都に持つ屋敷の一室で目を覚ました。
† † †
「うん……朝、か」
カーテンの隙間から射し込む陽の光が顔に当たり、ジュリウスの意識は浮上した。
しばらく、ベッドの上で身を起こさないまま寝返りを打っていたが、やがて完全に目が醒めたのか上半身をベッドから起こす。
すると、まるで彼が起きるのを見計らっていたかのように絶妙のタイミングでノックの音が響いた。
「起きているよ、入ってくれ」
「失礼します」
ジュリウスが扉に向かって声を掛けると、扉を開けて一人の侍女服の女性が入ってきて深々と一礼する。
「おはようございます、ジュリウス様」
「ああ、おはよう。パーラ」
ジュリウスの部屋に入ってきた女性は、ローゼンベルク伯爵家の侍女長を務める中年の女性だ。
濃い茶色の髪を後ろで編んだその姿は、歳相応の落ち着いた様子を見せている。
彼女はジュリウスが生まれた時には既に侍女として働いていた、使用人としては古参に当たる人物である。
また、同時に彼女はジュリウスが男性であることを知っている数少ない者の一人という面も持つ。
ジュリウスの身の回りの世話は、基本的にこのパーラが行うこととなっている。
侍女長という立場を考えれば当主であるローゼンベルク伯爵やその夫人であるエリザベートにつくのが本来あるべき姿のように思うが、他の侍女にジュリウスに関する仕事を任せると彼に夢中になってしまってとても仕事にならないという過去の教訓から、このような配置となっていた。
ローゼンベルク伯爵も頭を押さえながら、その配置に了承していた。
「お着替えをお持ちしました」
「ああ、頼む」
通常、王族や貴族などのある程度身分を持った者は自分の手で着替えるようなことはせず、侍女や従者の手によって着替えを行う。
しかし、ジュリウスはそれをせず、パーラから着替えを受け取ると自分自身で着替え始めた。これは別に今日に限った話でなく、常の行為である。彼は毎日自分自身で着替えるようにしているのだ。
それは、自分の身の回りのことはなるべく自分で行うようにするという信念のため……ではなく、エリザベートの言い付けが原因である。
彼女がそんな言い付けをした裏には、出先で人の手を借りて着替えると男性であることが発覚する恐れがあるためそれを防ぐという狙いがあったのだが、長年そうしてきたため既に習慣となってしまっており、ジュリウスも今更それを変えるつもりはなかった。
「ジュリウス様、本日のご予定ですが」
「ああ」
「昼食の時間までの間は鍛錬をなさるご予定となっております。
その後、ヴェルジュ子爵家の茶会に出席されるご予定です」
「そうか、もうそんな日か」
着替えを続けるジュリウスに、パーラが彼の本日の予定を読み上げて聞かせる。その中に挙げられた一つの予定に、ジュリウスは思い出したように呟いた。
先日の舞踏会の時にエミリーヌと約束した茶会だが、その後に正式にヴェルジュ子爵家から招待状が送られてきた。その日付がまさに今日だったのだ。
場所はヴェルジュ子爵家が同じように王都に持っている屋敷だ。
「鍛錬の後に軽く湯を浴びたい。
それと、余所行きの服を出しておいてくれ」
「かしこまりました。準備致します」
着替えながら告げるジュリウスに、パーラは頷く。
「それと、頼んでたものは準備出来ているか?」
「はい、届いております。出立される際にお渡ししますね」
「分かった、それでいい」
話しているうちにジュリウスが着替え終わり、パーラは手早く彼が脱いだ寝巻を畳んで腕に載せる。そして、ジュリウスを先導するように部屋の扉を開けた。
「それでは、朝食の準備が整っておりますので、食堂にどうぞ」
「ああ、ありがとう」
部屋の前に控えていた別の侍女に持っていたジュリウスの寝巻を渡し、パーラはジュリウスの後ろに従って食堂へと足を運んだ。
……その背後で、寝巻を渡された侍女が頬擦りしているところは、見なかったことにした。
† † †
「おはようございます、父上、母上。」
「ああ」
「おはよう、ジュリウス」
食堂に着くと、そこには既に二人の人物が食卓に着いて朝食を摂っていた。
ジュリウスはその二人に軽く挨拶をすると、空いている席に着く。すると、ウェイターが彼の前に朝食を手早く並べていった。
彼の右側に座っているのは、ローゼンベルク伯爵ことエルネスト=ローゼンベルク。ローゼンベルク伯爵家の現当主だ。
ジュリウスよりも少し薄い金色の髪を短く刈り揃えた、壮年の男性だ。
ジュリウスの父親であるだけあり彼もかなり整った顔立ちをしているが、同時に歳相応の貫録も醸し出している。その姿は、伯爵家の当主に相応しいものだった。
ローゼンベルク伯爵の向かいに座っているのは、当然彼の妻でありジュリウスの母親でもあるエリザベート=ローゼンベルクだ。
やんわりとした金髪をしたその姿は相も変わらず二十近い息子を産んだとはとは思えない程に若々しく、向かいに座るローゼンベルク伯爵と歳はそう離れていない筈なのに、仮に夫婦ではなく親子と言っても信じる者が居ても不思議ではない程だ。
実は彼女の容姿のせいでローゼンベルク伯爵は周囲から小児性愛の性癖があると疑われているのだが、そんな事実はない。
「今日は、ヴェルジュ子爵家の茶会に呼ばれているのだったな」
「はい、父上」
「もしも子爵に会ったら、よろしく伝えておいてくれ」
「分かりました」
朝食を摂りながら、ローゼンベルク伯爵がジュリウスに対して話し掛けてきた。その内容はジュリウスが本日参加を予定しているエミリーヌのお茶会についてだ。
ヴェルジュ子爵家はローゼンベルク伯爵家と良好な関係にあり、それぞれの当主も互いに友人同士の間柄である。
「エミリーヌさんにも、よろしくと伝えてね」
「はい、母上」
ローゼンベルク伯爵の言葉に、エリザベートも乗っかってきた。
彼女は、自分にとって未来の義理の娘となる予定のエミリーヌのことをいたく気に入っており、何かにつけて気を回している。
「他には誰が来るのだ?」
「マクシアンとセーヴラン男爵令嬢が来ると聞いております」
「そうなのね。リリーシアさんにも久し振りに会いたいわ」
「茶会に参加するのはそなたではなくジュリウスだろう、エリザベート」
「あら、そうでしたね。残念」
「ふふっ」
少々変わった所のある両親──特に母親──だが、ジュリウスは二人のことを尊敬しているし心から愛している。
エリザベートの趣味のせいでおかしな育て方をされてしまったことについては閉口しているものの、それでも恨みに思う程ではない。若干の呆れと諦念が入っている部分は否定出来ないが。
社交の季節は両親も何かと忙しいため、交流を持てるのは朝のこの一時くらいとなる。
その後も両親と談笑しながら食事を終えたジュリウスは、鍛錬のために屋敷の裏手にある広場へと足を運ぶのだった。