暗闇のフレグランス
<プロフィール>
商業では粟生慧で執筆しています。
おもに電子書籍ではBL中心です。
商業の内容はほぼエロです。
九階の会議室に向かおうと、北村はエレバーターに乗り込んだ。先客がいた。同じ課だったか、とにかく目立たない感じの人間だった気がする。北村と目が合うと、男は俯いた。感じが悪いと、北村は思った。
エレベーターの表示板が三階から六階を指したとき、いきなり停止して、電源が落ちた。今まで煌々と照らされていた箱の中が、一瞬にして闇に包まれた。
「な、なんだ?」
いつもは冷静な北村もさすがに動揺した。もう一人の男がどうなっているか、とっさに考え、声をかけた。
男のいる方向から荒い息づかいが聞こえる。風のようなか細い、それでいて途切れない音に、過呼吸だと確信し、手探りで男の傍に寄ると、頭を引き寄せて胸に抱き締め、口を押さえた。とにかく呼気を一時止めるか、二酸化炭素でなんとか過呼吸を治めないと、という思いでいっぱいになった。
しばらく抱き締め、口を押さえていると、男の荒い息づかいも次第に収まってきた。か細い声が、聞こえた。
「あ、ありがとうございます」
幼い感じすらする声だった。第一印象は新入社員に見えた。だから見覚えはあっても名前が思い出せなかったのだろうか。
「あ、あの……、もう落ち着きましたから……」
そういう男の体から、良い匂いが漂い、北村の鼻をくすぐった。特徴のあるコロンだった。
「コロン。良い匂いだな」
落ち着かせようと思い、会話を試みた。男も同じ思いだったのか答えてくれた。
「ええ、姉が調香師で……、使用品のハーブを使ったコロンをくれたんです」
「……それで」
香ったことのない匂いだ……。センスが良いと思った。
「エレベーター故障でしょうか?」
男が言った。
「非常ボタンを押そうか」
北村が立ち上がった。
突然、がくんとエレベーターが傾いた。
「うわっ」
「ひゃっ」
二人は同時に叫び、転んだ北村は再び、男と抱き合う羽目になった。
エレベータの上部から、不穏な音が聞こえる。
「とにかくブザーを鳴らそう」
「はい」
男の肩を抱くと、あまりの細さに驚いた。きっと体重も軽そうだ。北村は思いきって男に頼んだ。
「君、多分私より体重が軽いだろうから、ブザーを押せないか?」
「は、はい」
男の声は震えていたが、北村の腕をすり抜け、立ち上がった。北村の腕の中から消えた感触に、なぜか寂しさが沸き上がってくる。冷静を保とうとしているが、所詮人間だ。北村は自分で思っている以上におびえているのだろう。だとしたら、北村の命令に従った男も同様だ。命令されたとはいえ、立ち上がってブザーを押しにいった男の勇気に北村は感服した。なぜ、この男を知らないんだろう。それが不思議だった。
「押しました」
そう言って、男が戻ってきた。近くに座り込む気配がある。
「あの……、傍に寄って良いですか?」
男が唐突に言った。心細いのだろう。男同士でも、近くにいた方が何かと慰めにはなる。
「ああ……」
傍に寄った男の手が北村の手を握った。ふるふると震えていた。
「このエレベーター、落ちるんでしょうか?」
不安の混じった声。北村は元気づけようと、男の手を握り替えした。
「なんか、こういう状況になると、変な勇気が出てきますね……」
「勇気?」
北村は首をかしげた。もちろん北村は救助がすぐに来ると思っている。
「僕たち、死ぬかもしれないんですよね?」
男はすでに死を覚悟している様子だった。いくら何でもまだ早すぎる。救助は遅くとも十分以内に来るだろう。しかし、その考えを裏切るようにまたビンッという弾ける音ともに、エレベーターが傾いた。
男が北村の胸に飛び込んできた。
「し、死んでしまう前に、告白してれば良かった……!」
男の言葉に思わず北村は笑った。こんな状況でいきなり告白すればなどと思いつく男が、あまりに純情でかわいいと思えた。
「ぼ、僕好きな人がいるんです」
「同じ課の? 相沢さんかな?」
思いついた女性の名前をいう。課で一番可愛い女性だ。
「ち、違います」
いくらか憤慨した声が返ってきた。
「あの、僕、お、男の人が好きなんです」
一瞬、北村はきょとんとした。あこがれ、という意味だろうか。そういおうとしたら、男が制していった。
「上司なんです。すごくかっこいいし、当たり前だけど、仕事も出来るし……。傍にいるだけで緊張して顔も見られないくらい好きなんです」
男は驚くほど一気にまくし立てた。
「彼の傍で働けて幸せだと思えたし、それに、もし、僕がもっと有能なら、彼の力になってずっとサポートしていきたかった」
過去形になってるのが哀れだった。
「まだ、死ぬと決まったわけじゃない」
「ただ、彼の傍にいたかった。そう願い続けてた! でも、こんな風になるなんて思ってなかったんです。こんな風に一緒に――」
そこまで男がいったとき、エレベーターの扉が開いた。半分落ちかけていたようで、エレベーターの上部に階上の隙間が見え、そこから眩しい光が差し込んだ。
「大丈夫ですか!? 今、命綱投げますから、体に巻き付けてください。引っ張り上げます」
整備士がそういってロープを投げ入れた。
北村は先に男の腰にロープをくくりつけ、次に自分の腰を縛り付けた。
最後に見た男の顔は真っ赤だった。
北村の耳に男の言葉が焼き付いて離れなかった。
――こんな風に一緒に……。
フロアに出ると、男は何も言わずに走り去ってしまった。結局確かめることは出来なかった。
あれから一週間。慌ただしい日常が過ぎていく。北村はあの男を気がつくと探していた。しかし、見つからなかった。もしかすると違う課だったのかもしれない。たまたまあのとき偶然に乗り合わせただけなのかも。
「あー、こりゃだめだわ」
目の前の席に座る部下が嘆息した。
「どうした?」
「部長、パソコンがいかれたみたいで、フリーズしたまま、にっちもさっちもいかないんですよ。どうしたもんだか……」
「ネットワークの管理者に連絡しなさい」
「そうですね……、それしかないかぁ……」
そういう部下から北村は視線を外し、あの手が握った、自分の右手を見つめた。
――こんな風に一緒に……。
聞き間違いでなければ、あの男がいってたのは、自分のことなのだろうか……。北村がここ一週間反芻してきた思いをまた繰り返す。
不意に、懐かしい香りがした。あの男が付けていた匂いだった。顔を上げるとあの男がいた。後ろ向きに中腰になり、部下のパソコンを見ている。
「でさ、データ消えないように出来るか?」
「出来ますよ。でも電源落とさないと。ハードディスクから抽出すれば良いですから」
「良かった……」
気がつくと北村は立ち上がっていた。声もかけずに、男の肩をつかんで、振り向かせた。
大きく見開いた目がすっと逸らされる。顔が赤い。
「だから気づかなかったのか……」
ネットワーク管理者はたいてい別室にいる。同じ課内だとしても顔を合わすことはほとんどない。名前は知っている。
「柳瀬……。あとで、あのときの言葉、もう一度聞かせてくれ」
北村が聞きたかった言葉を今度こそ、本人の口から言わせてみせる。この一週間、北村を落着かなくさせたあの言葉の続きを。
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