Truco o Trato!~恋人たちのカスタニャーダ~
この作品は拙作『太陽と海のカンテ』の後日談です。
少しでもネタバレは嫌だ、と思われる読者様はそちらのほうを先に読んでいただけると嬉しいです^^(宣伝ですみません)
トレスタ王国、北部地方カルラージャ。秋も深まり始めたその日、カルラの街の大通りでは、あちこちから食欲を誘う香ばしい匂いが漂っていた。数日前に登場し始めた焼き栗や焼き芋の屋台からの香りだった。
その良い香りを吸い込んではうっとりし、賑やかな通りの様子に目を輝かせている、一人の少女がいた。豊かに波打つ長い黒髪を背に流し、通りを歩く彼女の名はエスメラルダ――現在全国を順に巡る公演中の舞踏団、『エル・ロサード』の新人バイラオーラである。
バイラオーラというのはトレスタ語で、女性の踊り手を指す名称。踊りとはもちろん、トレスタ発祥の情熱の舞踏『フラメンコ』のこと。今年で十九歳のエスメラルダがこの世界に入ったのは二年前だ。生来の才能と人の何倍もの努力で経験不足を補い、今回の公演人員に選ばれたのだった。今、彼女は総勢十五名のバイラオーラたちの一人として最後列を歩いているのだが――、
「ねえねえ、ラウラ。あのおいしそうなものは何なの? 皆が買って行っているみたいだけれど」
ついに堪えきれなくなったらしく、屋台の一つを指してエスメラルダは隣の少女に訊ねた。同い年であることから親しくなったラウラは、笑いながら答えてくれる。
「いつ聞かれるかと思ってたけど……やっぱり来たわね。見た通り、あれは焼き栗と焼き芋よ。万聖節の時期によく食べられてるの。ルロンサでも売ってるの見なかった?」
トレスタ南部地方――彼女らの舞踏団事務所が存在する場所だ――地元の街の名を挙げられ、エスメラルダは頷いた。
「ええ、見かけたわ。でもその隣のお菓子は初めて。小さくて丸い、可愛らしいお団子みたいな……」
エスメラルダが指差したのは、別の屋台。積み上げられた菓子の山のほうだった。
「ああ、あれのこと。『パナジェッツ』と言って、お芋や栗にアーモンド、チョコレートなんかを混ぜて作った焼き菓子よ。ここカルラージャで今の間よく食べられてるの」
以前にもこの街を訪れたことのあるらしいラウラの説明に、エスメラルダはより一層瞳をきらめかせた。澄んだ緑――まさしくエメラルドのような大きな瞳が切なげにまで瞬くのを見て、ラウラは声を上げて笑う。
「わかったわかった。舞台が終わったら皆で食べましょう」
「本当!? 楽しみだわ、ラウラ!」
「でも今はちゃんと舞台に集中しなきゃだめよ? いくらあなたの大切な恋人が見ていなくてもね」
人差し指を立て、いたずらっぽく釘を刺すラウラ。エスメラルダはまた頷き、今度は別の意味で切ない表情を浮かべた。
ラウラ含む他のバイラオーラたちの浅黒い肌と異なり、エスメラルダの肌は白い。エメラルド色の瞳と合わせて、彼女がここトレスタの出身ではない証拠だ。だが、トレスタ語の『恋人』が『甘い』という意味を持っていることも、もちろんその他の色々な表現も知っている。
トレスタの更に南に存在する異国で生まれ、その特殊な身分から外国語に堪能ではあった。だがそんなエスメラルダがこうしてトレスタに暮らし、彼らの仲間として迎えられたのは、いつもそばにいてくれる恋人――ディオンの存在があったからこそだ。彼は言葉に加え、習慣も細かな文化の違いも、更には舞踏までもを教え、ここまで導いてくれた。
「ミ・カリニョ……」
『愛しい人』とトレスタ語で最初に呼びかけた出会いから、もうすぐ二年。ずっと隣にいてくれた彼と長く離れるのは、今回が初めてだ。まだ二週間でも、本当は辛くて寂しくて仕方がない。けれど、自分を所属させてくれた舞踏団の決定には従わざるを得ない。それに――、
『お前がバイラオーラとしてやっていく上で、絶対にいい経験になるさ』
そう励まし、送り出してくれたディオンのためにも、必ず踊り手として舞台を成功させたい。彼のパートナーとして、少しでも成長して帰りたい。
(私、頑張るから……待っていてね、ディオン)
頼りがいがあって、優しくて、八つ年上の大人な恋人。男性の踊り手『バイラオール』として、双子の兄と共にトレスタ一とも謳われる彼。大切な人に追いつき、並び立てる存在になるためにも、エスメラルダは必死で寂しさに耐えていた。
「ほら、舞台が見えてきたわよ!」
ラウラに肩を叩かれ、顔を上げる。
今日は万聖節。数多くの聖人たちを記念した祝日でもあり、亡くなった先祖のために祈る日でもある。
自分が育った国とは違う神、違う行事だが、トレスタ人として生きる決意をしたエスメラルダにとっても重要な一日だった。
「さあ、踊りましょう(バモス・ア・バイラール)!」
舞踏団選抜のバイラオーラたちに混じって、エスメラルダも笑顔で復唱した。
花飾りで彩られた舞台は、カルラの街の大通り、中央広場に作られていた。フラメンコが最初に踊られたとされる本場ルロンサの舞踏団が公演を行うこともあり、例年の祝祭よりも多くの人が既に集まっている。
踊り手たちは衣装や化粧の準備に、歌い手やギター奏者たちは最後の打ち合わせに忙しい、開演前。舞台の横に作られた天幕に、予想外の訪問者があった。
地元の祝祭担当者たちと談笑していた舞踏団の団長カルロスは、驚きに声を上げる。
「おや、お前さんは……!」
巨体にふさわしいごつい顔に笑みを浮かべ、カルロスは毛むくじゃらの両腕を広げた。意外な訪問者を歓迎したのだ。
「なんでまたいきなり……もうリノ・アルバでの舞台は終わったのかい? 泣く子も黙るドン・――」
大声で言おうとした言葉を、訪問者――黒いつば広の帽子を目深に被った青年が人差し指を立てて遮った。顔はよく見えずとも、肩に垂れた黒い巻き毛や均整の取れた長身の体格、立ち居振る舞いだけでも十分に人目を引く青年である。カルロスと彼は、旧知の仲だった。
「今日はあくまでも単なる観光客、ということでお願いしますよ。祝祭後の付き合いの宴やら何やら、全部体調不良で断ってきたんですから」
声を落とし、彼は囁く。カルロスも訳知り顔でにやついた。
「そうかいそうかい。うんうん、よーくわかるぜお前さんの気持ちは。あんなに若くて可愛くて、なんたって今や大注目の人気バイラオーラの恋人だ。俺だって仕事をほっぽりだしても会いに来るってもんさ!」
はっはっは、と立派な腹をさすって笑うカルロスに、青年は頬をひくつかせる。この巡回公演を決めた張本人が何を言う、と。しかも名前だけ伏せただけで、ほとんど周囲に正体を明かされたも同然だ。幸い、祝祭の騒ぎでまだ誰も気づいていないが。
しかしそれを覚悟で来てしまった自分も同罪である。曖昧に笑いながら、彼はこの事態の元凶たちを思い出していた。
(苦労して送り出したのに、どこぞの不良司祭とエロ師匠がやたらと焚きつけるから悪いんだ)
年齢差と、一応はこの仕事の先輩という立場上、大人の対応をしたところまではよかった。それなのに、周囲の輩がやれ『離れていたら何があるかわかったもんじゃないわよ~? 初・浮気の危機決定ね!』だとか、『いやいや、あの純真な嬢ちゃんに限ってそれはあり得ん……じゃが、純真さを利用して、うまーいこと迫ってくる狼はいくらでもいるじゃろうのう……』だとか両脇から騒ぎ立て、不安を大いに煽るものだから、我慢し切れなくなったのだ。
(なんて、俺自身限界だった、ってだけなんだがな)
「だが、来たからにはやっぱりあれだろう? やってくれるんだろう? 俺としちゃあ万々歳だあな。なんたって、『単なる観光客』が舞台に飛び入り参加してくれるってんだから」
にんまりと言われ、青年はため息をついた。要は『無償出演』の合意を迫られているのだ。連絡もなしに来た手前、こうなるだろうことも予想はしていた。
苦笑を意思の力で微笑に変え、彼はカルロスと握手を交わした。
「もちろん、やるからには最高のものをお見せしますよ。今日という日と俺の名にふさわしい、最上の踊りをね」
帽子のつばを軽く上げ、青年は艶やかに笑った。ルロンサ随一の踊り手は、その美貌と強い意思でも他の追随を許さない。『ドン・ディオニシオ』としての自信に満ちた笑みだった。
「お待たせいたしました! ルロンサが誇る舞踏団『エル・ロサード』――その名の通り、美しき薔薇色のバイラオーラたちの登場です!」
舞台は、熱狂のうちに始まった。
まずはアレグリアス、明るい太陽を思わせる曲種からだ。揃いの赤いフラメンコ・ドレス(トラジェ・デ・フェリア)を着た五人が舞台上で踊り出す。舞踏に合わせた歌とギター演奏も盛り上がり、観衆を引き込んでいく。三つ全てがうまくかみ合ってこその芸術、それがトレスタの誇るフラメンコだった。
舞台の脇で出番を待つエスメラルダは、改めて感動し、見入っていた。自分自身が踊る側となってもまだ、フラメンコというものを初めて見た日の感激は忘れられない。だが今の感動は、それの何倍にも何十倍にも膨らんだものだ。感銘を受け、憧れ、たった一度の舞台に全てを捧げて挑んだ。それこそ命をかけて果たした舞台の後、まさか自分がずっと踊り続けられるとは夢にも思っていなかったから――。
(ああ、ディオン……私、やっぱりフラメンコが大好きだわ……!)
胸に噛み締める想いを、今はいない愛しい人に、応援してくれる優しい人たちに、故郷の両親に伝えたい。この感動と感謝を、自分の舞台を見てくれる全ての人々に届けたい。そのためにできることは、ただ精一杯に踊ることだけなのだ。
音楽は終わり、拍手と歓声が響いている。次はいよいよ自分の番。練習の成果を出して、踊りきろう。そして、帰ったらあの人に――大切な彼に、また見てもらおう。
決意と共に閉じていた瞼を開き、エスメラルダはラウラたちと一緒に舞台へ上がった。
舞台上に登場した数人のバイラオーラたちのうち、白い肌と緑の瞳を持つ異国の少女に観客はざわめいた。だが生来陽気なトレスタの民は、おおむね好意的に見守ることにしたようだった。異国出身のバイラオーラが、果たしてどんな踊りを見せてくれるのか、と。そしてそんな好奇と期待は、少し遠巻きに見つめていた青年――ディオンの予想通り、驚愕と歓声に変わった。
「ムイ・ビエン(すばらしい)!」等の通常のハレオ(合いの手)に紛れ、「ボニータ(可愛い)!」という声まで飛び、ディオンは多少複雑な気分になる。
(やっぱり、来てよかったかな)
単なる観客の域を超えて騒ぎ出す男たちをひと睨みし、出番に備えて歩き出す。自分の出演はエスメラルダはもちろん、他の踊り手たちにも知らされていない。知っているのはカルロス――かつて双子の兄の身代わりをしていた時代に世話になっていた元雇い主、それに歌い手とギター奏者だけ。
舞台上では、ディオンのものと似た黒い帽子を被り、黒に白の水玉模様の衣装を着たエスメラルダが踊っている。裾で揺れる赤地のフリルも、まとめ髪に挿した赤い薔薇の花飾り(フローレス)さえも皆と同じだ。それなのに目を引かれるのは、日に日に磨かれていく技量のせいだけではない。彼女から発される気の強さと、まさに咲きたての薔薇の花のような、瑞々しい美と艶に瞳を奪われるからだ。
観客同様、いやそれ以上に魅了されてしまう前に、ディオンは舞台裏に入った。
急遽準備してもらった黒の衣装に着替え、髪を束ね、先ほどの帽子を被り直す。今度は浅く、視界が確保される程度にした。この、コルドベスと呼ばれる帽子こそが、エスメラルダたちが今踊り、これから自分も踊る曲種の大事な小道具なのだ。
踊りが終わったのを見計らい、ディオンは背後から舞台に上がった。打ち合わせ済みのギター奏者がまた最初の一音をかき鳴らす。歌い手たちまで歌を再開するのを見て、驚くバイラオーラたち。エスメラルダも振り返った。
「……ディオン!?」
息を呑む彼女にいつもの笑みを送り、ゆったりと足でリズムを刻み始める。ただそれだけで、ざわついていた観客は静まり返った。そう、瞬時にしてディオンは、彼らを自分の世界に引き込んだのだ。
先ほどまでと同じ曲種、同じ歌と伴奏だ。それなのに正確無比な足さばき(サパティアード)が違う。優美で流麗な腕の動きが、手首や指先の使い方、全身にまとう気迫が違う。圧倒的な踊りで魅せる彼の姿に、観客が再びざわめき出した。
「ねえ、彼……もしかして!」
「そうよ、あの有名な踊り手よ! 間違いないわ!」
「女神も魅了する――ううん、女神も恋する完璧な色男、『ドン・ディオニシオ』! まさか彼に会えるなんて……きゃあああ、こっち向いてええ!」
確信した途端、特に女性たちから黄色い声が飛ぶ。兄の身代わり時代にも慣れてはいたが、やはり本名を呼ばれるのはまだ妙な気がする。
けれど、ディオンの集中は途切れなかった。より優れた踊りを見せていくことで、いつしか声を上げることすら忘れさせてしまう。
ディオンが踊る、この曲種――ガロティンは、ここ北部地方に伝わる民謡が元になってできたものだ。明るく、品が良く、帽子使いが特徴的な楽しい踊りだが、合わせられる歌は実は口説き歌。それも情熱的な歌詞だった。
『僕の帽子に聞いてみてごらん、僕がどれだけ君を想っているのかを。帽子が全て話してくれる。教えてくれるだろう。僕の愛の深さを。君への狂おしい情熱を』
何度も繰り返される愛の告白の後には、同じ歌詞が続く。
『ガロティン、ガロティン、ああこの美しい夜、聖女カルラの祝福の下に』
ここカルラの街を守護するとされる、愛の聖女に恋路の祝福を請う。ディオンのガロティンも、お決まりの歌詞の文句で終了した。締め(シエレ)をしたディオンは、笑顔で頭を下げる。
広場全体に大歓声が鳴り響き、とても一曲の飛び入り参加でやめられる空気ではなかった。拍手に応えながら、ディオンは背後に視線をやる。手を差し伸べ、彼が呼ぶのはエメラルドの名を持つ少女。大切な恋人、兼、パートナーのエスメラルダだ。
バイラオーラ仲間に突かれ、からかわれながらも、頬を染めた彼女が前へ出た。こうして腕に迎え入れたパートナーと、ディオンは再びガロティンを踊り出した。
そしてやってきた夜、エスメラルダはディオンが予約した部屋にいた。カルラの最高級ホテルの、中でも最上級の一室だった。
「ディオンったら、どうして先に教えてくれなかったの? いきなり舞台に現れるんだもの。本当に驚いたわ」
膨れて言うと、髪を解いたディオンが振り返る。先ほど身に着けていた衣装は脱ぎ、今は白いブラウスと黒のズボンというくつろいだ姿だった。
「だから驚かせたかったんだ。さっき言っただろう?」
「でも、せめて踊り始める前に声をかけてくれたって」
まだ言い募るのは、ただ驚いたからじゃない。なんとなく、悔しいからだ。
彼の思惑通りに驚愕したこともあるけれど、今までに何度も見てきた彼の踊りに、彼自身にも、また魅せられてしまったから。
(どうして、こんなに素敵なのかしら)
まったく、どれほど自分をどきどきさせれば気が済むのか。そんなことを思っていたエスメラルダは、突然腕を引かれてよろめいた。ディオンの胸に打ちつけてしまった顔を上げる。が、文句を言うことはできなかった。至近距離で見つめられ、鼓動が跳ねる。
「なんと声をかければよかったんだ? お前に会いたくて、我慢ができずにやってきたと? トレスタ一と称えられる、『ドン・ディオニシオ』ともあろう男が、八つも年下の恋人に夢中で、大事な付き合いも全部放り出して後を追ったんだと? そう俺の口から言ってほしいのか?」
微笑を消し、半ば睨むようにしながら、ディオンは立て続けに問う。真っ赤になったエスメラルダの額を指で小突き、彼は静かに苦笑した。
「……まあ、事実だから仕方ないが」
「ディオン……本当に?」
「俺が嘘を言うとでも?」
「でも……だって」
いつも大人で素敵な彼が、あのディオンが、自分と同じ気持ちだったなんて。
胸に広がった感激と喜びは、涙となって頬を伝う。瞳を見開いたディオンが、その滴を指で拭ってくれた。
「泣くことはないだろう」
「ご、ごめんなさい。だって私、嬉しくて……」
正直な気持ちを口にした途端、エスメラルダの体は動いていた。初めて会ったあの夜のように、あふれる想いのままに抱きついていたのだ。
あの時よりも強く、しっかりと受け止めてくれたディオンに、そのまま囁く。
「ありがとう、ここまで会いに来てくれて……本当は私、寂しくて寂しくて死にそうだったの」
そうだ、必死で堪えていたけれど、ずっとずっとこうしたかった。愛しい人の体温を感じて、彼の匂いに包まれて、寄り添いたかった。二年の間、毎日共に過ごしてきたことがどれほどの幸福だったか、改めてわかった。
「私、あなたのことが大好き。初めて会った時と同じように――ううん、もっともっと、毎日気持ちが膨らんでいくの。愛してるわ……私のディオン」
生まれ出る情熱を言葉にしながら、見上げる。なぜか瞬きもせずに見つめ返していたディオンが、ゆっくりと瞼を伏せ、少し傾けた顔を近づけてくる。
それが何を意味する仕草か、さすがに気づくほどは成長していたエスメラルダだが――この時は情熱をもてあまし、察することができなかった。
今にも触れそうだった顔をぱっと離し、ふと思い浮かんだ恐ろしい疑問を口にする。
「ああディオン、これ以上気持ちが大きくなったら、私本当に膨らんじゃうかもしれないわ! どうしましょう、風船みたいに飛んで行ってしまったら――!」
顔色を変え、見つめた先でディオンは、思い切り脱力していた。そばの壁にもたれ、ずるずるとしゃがみこんでしまう。
「ディオン? 聞いてる?」
同じようにしゃがんで覗き込む。と、額に手を当てて黙っていたディオンがおもむろに頭を上げた。
「エスメラルダ」
「はい?」
「人間は風船にはならないし、どこへも飛んで行きはしない。だから大丈夫だ、安心しろ」
「そうよね……よかった、これでほっとしたわ。思う存分、あなたを好きになっても大丈夫ね」
嬉しくて笑いかけたら、ディオンは大きなため息を吐きだした。
「お前は……俺を怒らせたいのか、喜ばせてもっと夢中にさせたいのか、本当に判断しかねる」
「何を言っているの? ああ、そうね疲れているのよね。わざわざここまで来てくれたんですもの。ごめんなさい、気づかなくて。もう寝たほうがいいわ。夜は少し冷えるし、あたたかくしてね。じゃあおやすみなさい、ディオン」
公演直後にかけつけてくれただけでも疲れるだろうに、自分のためにガロティンを何度も踊り、公演最後のセビジャーナスにまで付き合ってくれたのだ。ゆっくり寝かせてあげようと部屋を出ようとしたエスメラルダの手首を、ディオンががしっと掴む。
「おい、どこへ行く」
「どこって、皆のところよ? 公演後に一緒にお菓子を食べようって、ラウラと約束したの」
エスメラルダの笑顔とは裏腹に、ディオンの眉間にはくっきりと皺が刻まれた。何か言おうとしたらしいがあきらめたように首を振り、テーブルの上を顎で示す。
「菓子ならそこにあるぞ。さっき、ラウラとやらが届けてくれたそうだ。俺と一緒に食べられるように、とさ」
「まあ、そうなの? じゃあ一緒に食べましょうよ」
布がかけられた籠を発見し、エスメラルダは両手を合わせて喜んだ。言われてみればほのかに香ばしい香りがしていたのだ。
一緒に喜んでくれるはずのディオンは、渋い顔をしている。眉間の皺は先ほどよりも深くなっていた。
「あの……ディオン? 何か怒ってる?」
気づかない間に、自分はまた変な言動をしてしまったのだろうか。よく指摘されるのだが、なかなか直すのは難しい。
本当に困って聞いているのがわかったからか、ディオンは掴んでいた手首を離してくれた。が、彼が許してくれたわけではないと即座に気づく。
いきなり抱き上げて運ばれ、寝台に下ろされたのだ。驚く間もなく、ディオンがお菓子の籠を持ってきて、枕元に置く。
「ああ、そうだ。今日は万聖節――ここカルラージャでは『カスタニャーダ』と呼ばれる日だ。『栗を食べる日』という意味の通り、この栗入りの焼き菓子を食う日だったな。うん、ちょうどいい具合に定番のムスカテルも冷えている。お前と俺とで、二人きりの祝祭と行こうじゃないか」
白ワインの瓶までどかりと寝台の横に置かれ、エスメラルダはおろおろするしかなかった。言っていることはおかしくないのに、どうにもディオンの目が据わっている。
「ディオン、やっぱり怒ってるのね?」
「いいや、全くもって俺は普通だ。むしろ機嫌は最高だ。だからこういう時にトレスタでは何と言うのか、教えてやる」
まるで棒読みで答えると、ディオンは口元だけで微笑んだ。いつもの、彼らしい笑い方に、今夜は何倍もの凄みが増しているような気がするのはなぜだろう。
「Truco O Trato!」
横たわるエスメラルダに顔を寄せ、ディオンは低く囁いた。声音は甘い艶を帯びて続く。
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ――って意味だ、この天然たらし娘」
「天然、たら……なあに?」
見つめ合うこと数秒。ぶっと先に吹き出したのはディオンだった。あきらめたように寝台に腰掛け、エスメラルダの手を引き起こしてくれる。
「ほら、一緒に食べるんだろう?」
お菓子を示され、ほっと安心した。理由はよくわからないけれど、機嫌を直してくれたらしい。
でも、「はい」と差し出した丸い焼き菓子を、ディオンは受け取ってくれなかった。
「この菓子を恋人と食べる時は、手渡ししちゃいけないと決まってるんだ」
「まあ、そうなの?」
「ああ、手渡しすれば二人は別れてしまうという言い伝えがある」
「そんな……! じゃあどうやって食べればいいのかしら」
本気で悩んでいるエスメラルダに微笑み、ディオンは菓子を一つ自分の口にくわえる。そして、そのままエスメラルダの口元に近づけたのだ。無言で受け取れと促され、これ以上ないほどに赤くなったエスメラルダは、従うしかなかった。遠慮気味に食べたお菓子は、予想以上に甘くて美味だったが。
「今度はお前の番だぞ。言っておくが、受け取ったら相手にも食わせてやらないと、どちらかの気持ちが離れてしまうとか」
「わっ、わかったわ!」
そんなことがあっては大変と、エスメラルダは慌てて実行する。もう何度も近くで見て、触れさえもしている恋人の顔なのに、こんな風に近づけるのは初めてで緊張してしまう。なんとか口で渡すことに成功し、胸を撫で下ろしたのも束の間、ディオンは意地悪く微笑んだ。
「うん、たまには甘い菓子も悪くないな。もう一つ食べてみよう」などとせがまれ、また緊張しながら二度目を渡す。そうすればお返しとディオンが、次にはまた自分が、と延々返礼を繰り返さなければいけないことに、エスメラルダはようやく気づいた。
「あの……これ、いつまで続ければいいの?」
いいかげん頬が熱くて、恥ずかしさを抑え切れない。困りきった問いかけに、ディオンはお腹を抱えて笑い出した。
「お前……素直なのもいいが、そろそろ何でも鵜呑みにするのは考えものだぞ?」
「――ディオン!」
騙されたことにやっと思い至り、叫んだ。けれどその瞬間に有無を言わせず押し倒されてしまった。抵抗しようと身をよじっても、相手を喜ばせるだけで――、
「だが、可愛いから許してやる。その代わり、俺以外の男の話は絶対に信用するなよ。騙したお詫びに、本当の『カスタニャーダ』の過ごし方を教えてやろう」
「本当の……?」
「そうだ。死者を弔う日だから、昔は一晩中鐘をついて祈った。そのための体力補給に、栗や芋を焼いて食べていた習慣から、こういう菓子が生まれた」
「まあ、そうだったの。本来は厳粛な夜のためのものだったのね」
感心するエスメラルダに、ディオンは頷く。いつのまにか、またすぐ近くで見つめられていた。
「もちろん厳粛な祈りは忘れてはいけない。だが、それと同じくらい恋人たちの静かな夜も大切なものだ。そう思わないか? 俺のエスメラルダ……愛しい恋人」
『ミ・カリニョ』と甘い声で耳元に囁かれてしまっては、これ以上何も言えるわけがない。結局赤い頬を余計に赤くして、瞳を閉じるしかないのだから。
次第に熱を増す口づけに、エスメラルダの胸も高鳴り、頭も思考も痺れていく。ドレスをずらされ、素肌にまで唇を落とされながら、エスメラルダは思い出していた。
『ガロティン、ガロティン。ああこの美しい夜。聖女カルラの祝福の下に。恋人たちがもう二度と、離れずに済むように。愛し合う二人が、永遠に共にあるために』
今日、二人で新たに踊った曲種、繰り返された歌詞の内容。それはそのまま、エスメラルダの願いと同じだった。
恥じらいもためらいも、全て力強い腕の中で溶かされていく。いつしかまたあふれ出した幸せの涙を、優しい口づけが拭って。
二人、ルロンサの聖堂で初めて口づけたあの日のように、何度も互いの愛を誓い合う。甘く熱い恋人たちの夜は、まだ始まったばかりだった。
(了)
読んでくださり、ありがとうございました!
本編同様にフラメンコを題材にしていますが、若干の創作要素を加えてあることをご理解いただけると幸いです。
ご感想等、お待ちしております^^