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3  妖精国の王子とヤーフェンの船  ⑤

 妖精たちの間からすすり泣きがもれ、1年前祖父が亡くなった時のことを思い出し、留衣の目の奥が熱くなった。

 すぐそばにいる人が、ある日突然いなくなるのは哀しく、胸がふさがれる。

 でも妖精たちは永遠の命を持っているはずで、妖精郷にわたれば再び会えるのに、どうして悲しいんだろう。


(会えなくなることが悲しいのではないのです)


 頭の中で声がひびき、留衣ははっとして周囲を見回した。

 ヤーフェンの大船から、エルクがこちらを見ている。


(妖精界で生きることに飽き、妖精郷で新たに出発しようとするならば、見送る者に涙はありません。しかしこのところ、不本意な理由で妖精郷にわたる者が多いのです。病のせい、傷のせいで家族や友人と別れ、かの地にわたらなければならない運命を、皆が悲しんでいるのです)


(あなたは……多くの妖精を見て来られたのなら、アシュタリエンの氷を溶かす方法をご存知なのではありませんか?)


 心の中で問いかけると、エルクは銀のオールを持ち替え、きらめきが雫のように飛び散った。


(残念ながら……)

(もしもまだ時間があるなら、こちらにいらっしゃいませんか。お尋ねしたいことがあるんです。この世界に、初めて『白呪』が現れた時の事情とか……)

(私は、船からおりることを許されていません)


 エルクは不思議な微笑を浮かべたまま留衣に礼をし、視線を妖精たちに向けた。

 オレンジ色の羽を持つ二匹の蝶が、ベッドと荷物を船まで運ぶ。

 岸辺につながれた小舟に旅装束の三人が乗り込み、見送る妖精たちに手を振った。

 

 すすり泣く声が大きくなり、留衣の涙を誘う。

 アシュタリエンが凍りつきさえしなければ――――。

 樹木の病気が人間にうつるなんて想像できないけれど、妖精にはうつるのだろう。

 白呪さえなければ――――。


 エルクが錨を上げると帆が風をはらみ、ヤーフェンの大船は出航した。

 霧にかすむ湖の中央まで進み、船は消えた。


「留衣、泣いてるの?」


 エルメリアが、留衣の顔をのぞき込む。


「あなたこそ」


 エルメリアの赤い目を見やり、留衣は無理して笑おうとした。


「エルクと話をしたんだけど、不思議な雰囲気を持ってるよね。妖精?」

「エルクと話した?! 彼は高位の方々とだって話さないのに! ……ああ、ラエンギルのせいね」


 エルメリアは目をむき、留衣の腰に吊るされた剣をちらっと見る。


「くわしいことは知らないけど、妖精じゃないらしいわ。ヤーフェンの大船を建造した大昔の妖精が連れて来た、元人間だそうよ」

「人間?!」


 留衣が目を丸めると、エルメリアは皮袋から布きれを取り出し、ぬれた目をふいた。


「何でも恋人と死に別れて、その恋人が次に生まれて来る時は妖精になりたいと言い残したらしいの。エルクは船頭をしながら、恋人の生まれ変わりを探してるそうよ」

「人間は、生まれ変わるの?」

「どうかしら。人間のことは、よく分からないわ」


 エルメリアは、素っ気なく肩をすくめる。


「でも、少なくともエルクはそう信じてるみたい。人間界でいうと何千年もたってるんじゃないかしら、彼が船頭をつとめるようになってから」

「何千年……」

「大ざっぱな計算よ。妖精は人間と違って、時間を細かくはかる習慣がないから。……あら?」


 エルメリアが立ち止まり、見るとシェーラの隣に別の王室蝶がいる。

 蝶のそばには、留衣をティリアンのもとへ案内した青年が立っていた。


「王宮にお戻りください。重臣たちが、留衣様にお目にかかりたいと申しております」


 急ぎ王宮に戻ると、ジークリート伯爵が腕組みをして待っていた。


「いっしょに来い」


 きつい口調で言われ、留衣はシェーラから黒アゲハに乗り換えた。


「どこに行くんですか?」

「オークだ」


 伯爵のきびしい表情は、怒っているようにも見える。


(わたしのせい?)


 彼を怒らせるような事をした覚えはないけど。

 無言のまま黒アゲハに乗って庭園の上空を飛ぶと、見わたす限りの薔薇に囲まれそびえ立つ一本の樹が見えた。


 アシュタリエンだ。

 幹全体を白く染めて広がる氷の膜に、レモン色の夕焼けが映っている。

 根もとに降りるなり、伯爵が言った。


「氷を溶かせ」

「どうやって……」 

「私が聞きたい。おまえは、オークに選ばれたのだろう。ならば救ってみせろ。凍りついたアシュタリエンを」

「いきなりですか」


 命令口調で何言ってるのよ。言い返したい気持ちを、けんめいに抑えた。

 わたしだって何とかしたいと思う。

 でもある日とつぜんおまえは選ばれたと言われ、だから働けと詰め寄られるのは納得できない。

 選ばれたかったわけじゃないのに。


「炎を使っても溶けない氷を、どうやって溶かすんですか。想像もつきません」

「おまえは魔術師だと思ったのだが。違うのか」


 魔術師――――。

 祖父から聞いたお伽話を、彼女は思い出した。

 妖精界は魔術の世界で、呪文を歌うと水が天高く吹きのぼり、炎が燃え上がる。


 もしかしたら――――もしかしたら、わたしにも魔術が使えるかも。

 ここは妖精国、魔術の世界なんだから。

 魔術師になれるかも――――。


 期待すると気分がうきうきして、しぶい表情で見下ろす伯爵のことは忘れ、地面にひざをついた。

 両手で氷の膜にふれ、強く念じる。


(溶けろ!)


 何の変化もなかった。

 撫でたりさすったり色々やってみたけれど、氷は氷のまま。

 冷えきった手が痛くなり、両手をこすり合せた。


「こうあって欲しいという場景を思い描け。心中を現実に移す。魔術とは、そういうものだ」


 意外にも伯爵が助言してくれて、留衣は力強い炎が氷を溶かすさまを想像した。

 あるいは、ドリルの先で砕け散る氷。

 真夏の太陽の下、水となってしたたり落ちるようすを。


 何を思い浮かべても氷は凍ったままで、ふと思いついてラエンギルを抜いた。

 剣先を突き立てようとしたが、刺さらない。

 金属なみの硬さで、たたくと金属音がした。


(まさか金属じゃないよね……?)


 ラエンギルの切っ先で削り取ろうとしたけれど、妖精王の剣でさえ、氷に傷一つつけることが出来なかった。


(本当に氷なの?)


 触れるとひやりと冷たく、氷としか思えない。


「無理だよ……」


 つぶやいて振り返ると、彼女を見つめていた伯爵は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。


「もういい。重臣たちが、おまえに話があると言っている」

「重臣? 話って?」

「王子の側近のことだ」


 冷たく背を向ける伯爵の後ろから、留衣は再び黒アゲハに乗った。


(魔術師になれるかも――――なんて淡い期待があったばっかりに)


 がっかり感で、体から力が抜けていく。

 そう簡単に魔術師になれるわけもなく、自分が選ばれたのは間違いなんじゃないかと思えてくる。


 はるかかなたの丘が、レモン色に輝いていた。



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