3 妖精国の王子とヤーフェンの船 ④
「ゼウスも来る?」
声をかけると魔獣はふさふさした長い尾をなびかせて立ち上がり、留衣の後からついて来た。
体つきは立派な雄ライオンほどに成長し、翼を器用に折りたたんでいる。
「裏門から出ましょう。兵舎が見えるから」
一階まで降りてアーチ型の門をくぐると、留衣と同じ皮よろいを着込んだ兵士たちが荷車に木杭を積んで運んでいた。
「辺境軍と戦う準備をしてるのよ。兵舎は王宮の地下にあって、最高指揮官はジークリート伯爵。有能な方よ」
ジークリートの冷たい美貌を思い出し、頭は切れそうだなと留衣は思った。
低いへいが王宮を囲み、その外側では白い石を積み上げた家々が円を作って並んでいる。
通りに沿って真っすぐ歩くと右手にマグノリアの林があり、王室蝶の宿舎だとエルメリアが教えてくれた。
マグノリアは遠目にもわかるほど巨大な木で、咲き誇る白やピンクの花を傘にして、王室蝶が羽を休めている。
「ジークリート伯爵が乗っていた黒アゲハが、部隊長なの。戦争が始まったら、わたしのシェーラも王室蝶部隊に配属されるのよね」
エルメリアが悲しげに言い、
「アシュタリエンに付いていた氷のことなんだけど」
留衣は、ずっと考えていたことを投げかけてみた。
「溶かせないの?」
「色々やってみたわよ。火をつかって溶かそうとしたけど、溶けないの。大昔から現在に至るまで様々な魔術を駆使したし、炎も使ったけど、ぜんぜん駄目」
「炎を使っても溶けない氷って――――もしかして氷じゃないとか?」
「氷だと神官たちは言ってたわ。氷以外の何ものでもないって。でも溶けないの。変よね」
確かに氷だったと、留衣はアシュタリエンに触れた時の感触を思い出した。
「ひどい時代になったものよ。『白呪』ははやるし、辺境軍は立ちのきを迫るし……」
「立ちのき……?」
「降伏して、リッシアから出て行けってことよ。ティリアン王子は拒否したけど。病人から先に、民を順番に妖精郷へ送りながら。妖精郷に渡る船は一そうしかないから、一度にすべての民が渡れるわけじゃないの。王子は最後に渡るつもりのようだけど、その頃には辺境軍に占領されて、みんな地下牢に放り込まれるかもしれないわ」
哀しそうに空を見上げるエルメリアの視線の先で、薔薇の花びらが渦を巻いている。
留衣は息を呑み、無数の花びらを目で追った。
色あざやかな花びらが風に乗って空をわたり、舞いながら家々の屋根に降ってくる。
「薔薇風よ。街の外にある薔薇に風が吹きつけると、これから夜になるという印なの。逆の方向から薔薇風が吹くと、朝が近い印ってわけ」
「人間界では、夕焼けが印よ」
「こちらの世界でも夕焼けはあるけど、色が違うかも」
やがて花びらの舞いは止み、空が薄いレモン色に染まる。
人間界に比べ、リッシアの色彩は淡いと留衣は思った。
何もかもが、パステルカラーだ。
通りを抜けた所でエルメリアが草笛を吹き、シェーラが降りて来た。
「ゼウス、飛べる?」
留衣が声をかけると、魔獣は一瞬立ちすくんだように見え、すぐに翼を大きく広げた。
「飛んでみて」
ゼウスは羽をぱたぱたさせて空中に飛び上がり、留衣はエルメリアに手を引かれ、シェーラの背に乗った。
見わたす限りの薔薇の上を純白の蝶が飛び、すぐ隣を危なっかしくゼウスが行く。
初飛行の魔獣をちらちら見やり、留衣は眼下の景色に目を見張った。
デイジーや百合やダリアなど、さまざまな花が花壇に植えられたかのように咲き、それぞれの花畑の中央には城や街並みがある。
やがて花畑はブナの森に変わり、エルメリアが口を尖らせ、つぶやいた。
「ここが、わたしの故郷よ」
「そうなの?」
上空からは、枝を伸ばし葉を生い茂らせたブナしか見えない。
「ブナの木の下に、タンポポが咲いてるの」
「この距離だと、よく見えないよ」
「どの距離でも見えないわよ、ブナの下だなんて。日あたりは悪いし、偉そうなブナに上から見下ろされて、暮しにくいったらないの。引っ越したいんだけど、タンポポ族は貴族じゃないから土地をもらえないのよ」
「あの蛮族の兵士に会った草原は? すごく広いし、草原にタンポポが咲くのは普通だよ」
グリンの顔を思い出し、戦争になったら彼と真剣に闘うことになるのかなと、ちらっと考えた。
「あそこは雑草男爵の領地よ。あんな所に引っ越したら、タンポポは雑草の仲間にされてしまうわ。最も理想的なのは、紅薔薇公爵と白薔薇侯爵の領地の間にある小高い丘よ。日あたりも広さも最高。今は、ぎっしり薔薇が咲いてるけど」
つまり、薔薇を追い払ってタンポポの領地にしようというわけか。
「そのためにはわたしが大貴族になって、領地改革をおし進めなければならないのよ」
薔薇にとっては、改悪だろうな。
「だからわたし、頑張ってるというわけ」
「アシュタリエンについた氷。あれを溶かすことができれば、大手柄になると思うよ」
やる気たっぷりのエルメリアの顔を横目で見ながら、留衣は言った。
「そうなのよ! わたしって運がいいわ。こうして大手柄を立てそうな方の付き人になれたんだもの! 剣を磨いたり、お着替えのお手伝いをしたり、お世話させていただきますわ」
「あのね……」
お世話はありがたいけど、こっちは命がかかってるんですけど。
留衣のきつい目に気づくことなく、エルメリアは前方を指さした。
「あれが妖精郷にわたる港よ。周囲にあるのは桜の木。湖は桜の木に囲まれていて、蝶の子供に食事をさせるために、ここにはよく来るのよ」
桜林の上空は、この世界の夕焼け色――――薄いレモン色に染められ、空は海のような深い蒼に変わっている。
前方に岸辺が見え、一そうの帆船がとまっていた。
「湖の向こう岸が、妖精郷なの?」
「いいえ、向こう岸は桜林よ。歩いても行けるし、小舟でも渡れるわ。でもヤーフェンの大船に乗ると、向こう岸には行かなくて、妖精郷に行くの。見ていると、船が湖の中央で突然消えるのがわかるわよ。乗客と荷物は妖精郷の湾付近でヤーフェンの小舟に移されて、大船だけがこちらに戻って来る。道は往路のみ。妖精郷からこちらには誰もわたれないし、手紙も物も運べない」
「不思議な船ね。船乗りはいるの?」
「船頭が一人だけ。名前は、エルク。降りるわよ」
シェーラはゆっくりと旋回しながら湖の岸辺に着地し、ゼウスがぎこちなく翼をはためかせながら降りて来る。
翼の調整が難しいのだろう。黒い顔が、真剣味を帯びている。
満開の桜の下に柵のあるベッドが置かれ、真っ白な顔の妖精が横たわっていた。
周囲を数十人もの妖精が取り囲み、家族らしい旅装束の妖精にエルメリアが歩み寄ってあいさつする様子を、留衣は離れた場所からながめた。
ヤーフェンの大船に髪の長い青年が現れ、静かに首をめぐらせて留衣に目を留める。
蒼い髪と瞳はリッシアの夜空の色に似て、純白の長衣が星のようにきらめき、手に長い銀のオールを持っている。
彼が船頭のエルクだろうかと軽くおじぎすると、幻のような微笑を彼は彼女に向けた。
青年に見えるけれど老成した目を持ち、若々しいけれど生きているとは思えない神秘的なしぐさで、彼は船べりから水面に向け梯子をおろした。