1 女子小学生、妖精国へ行く ①
ひらひらと薄紫の花びらが舞い落ちるなか、一人の少年が立っていた。
青い長衣を宝石のベルトでとめ、黄金のマントをまとい、両手で大剣をささげ持っている。
肩にかかる真っすぐな金髪。
薄紫の瞳。
顔だちは甘く優しいけれど、視線はきびしい。
「助けてほしい。親愛なるアーモンよ」
少年は言いながら、剣を差し出した。
白い手はおぼろな光を受けてかすみ、人のものとは思えない。
幅広の剣は古めかしく、さやは青地に銀の装飾がほどこされ、十字の形をした柄には大きなダイヤモンドがはめ込まれている。
「君の力が必要だ」
ふわりとした気配が伝わり、留衣の両手に剣が乗せられた。
亜門留衣、12歳。
ゆるやかに波打つ黒髪を背に流し、整った顔にはどこか異国のふぜいがある。
古ぼけた麦わら帽子をかぶり、ジーンズをはき、ブルーのTシャツを着ている。
手足が長く、長身の女の子である。
(夢……?)
ぼんやりと一点を見つめたまま目をぱちくりさせ、彼女ははっと視線を上げた。
目の前に広がる庭園。
色とりどりの花の向こうに見えるのは、赤いレンガ造りの二階建て。
亡き祖父が愛した英国風の家だ。
ナラの木にもたれ読書をしているうちに、さわやかな午後の風と花の香りが心地よく、いつの間にか眠ってしまったらしい。
読んでいたのが『不思議の国のアリス』だったから、留衣はクスリと笑った。
アリスになった気分。
(おかしな夢だったな。きれいな男の子だったけど、大昔の人が着るような変な服を着て、人間って感じじゃなかった)
大きく伸びをして何げなく地面を見やり、剣が置かれていることに気がついた。
(えっ……)
青と銀のさや。
柄の中央に大きなダイヤモンド。
持ち手に銀糸が巻かれた幅広の剣だ。
(まさか……)
手に取るとずしりと重く、見れば見るほど夢の剣にそっくり。
(あり得ないよ……)
きっと近所の悪ガキたちが、いたずらで置いて行ったに違いない。
玄関から入ればいいのに、わざわざ石べいをよじ登って毎日虫捕りに来るんだから、あの小学2年生軍団は。
それとも鳥が運んで来たのか。
木に剣の実でも生っているのか――――ますますあり得ないけど。
留衣は本を地面に置き、剣を抱えて立ち上がり、背もたれ代わりにしていた大きな木を見上げた。
品種はヨーロッパ・オーク。和名はナラ。
50年前、彼女の祖父が日本に帰化した時、英国から苗木を持ち込んで植えたものだ。
英国人だった祖父は日本と日本人である祖母を愛し、姓をアーモンから亜門に変えて日本の片田舎に住まいを定めたけれど、故郷を思い出させるオークを大切にしていた。
ふだんは両親と都心に住み、夏休みや冬休みを祖父母の家で過ごした留衣にとっても、オークは祖父との思い出を詰め込んだ宝箱のような木だ。
亜門邸のオークは妖精国「リッシア」への入り口だと、祖父は言っていた。
英明な妖精王が治める妖精国。
美しく壮大な国。
アーモン家に代々伝わる伝説。
幼かった彼女は、祖父が語る夢のようなお伽話が大好きだった。
だが――――。
枝々をつぶさに観察し、ため息を一つもらした。
木は、明らかに弱っている。
夏の今頃は、人の手のひらに似た緑濃い葉をぎっしり広げているはずなのに、目に映るのは弱々しい葉をまばらに抱えた裸木だ。
木が弱るきざしは数年前からあって、祖父は昨年の夏、亡くなる直前までオークを案じてたっけ……。
留衣は肩を落とし、ところどころに空洞のできた幹を見やり、けずられた根っこに目を向けた。
正体不明の白いカビにおおわれた幹を掘り、根をけずったあと――――優しい手つきで作業していた小柄な祖父の姿がよみがえる。
(それで……? この剣は、どこから来たの?)
周囲を見回しても、いたずら好きなチビッ子達の姿はない。
おばあちゃんなら何か知ってるかもと家に向かって歩きかけ、名前を呼ばれたような気がして立ち止まった。
耳を澄ませると、かすかにオークから声が聞こえる。
まさかねと木の幹に触れようとして、留衣の手はごつごつした樹皮に吸い込まれた。
「あっ……」
支えを失った体が前に傾き、一歩前に出て踏みとどまる。
鼻先に木肌がせまり、ぶつかると思った瞬間、彼女はかすみのような薄紫の世界に包まれた。
どちらを見ても、目に入るのは薄紫のかすみだけ。
(何、これ……)
木の中に入り込んだようだけど、そんな事が出来るんだろうか。
くるりと振り返り、急ぎ足で戻ったが、行けども行けども亜門邸の庭園には戻れない。
奇妙な薄紫の世界に、たった一人。
足もとに視線を落とすと道すらなく、宙に浮いているように見える。
(……どうなってるの?)
不安と恐怖がこみ上げ、剣をつかむ両手に力が入った。
さやに紐がついていることに気がつき、肩からななめ掛けにした。
突風が吹き、風にさらわれてひらひら飛ぶ麦わら帽子をつかまえようと足を前に出したとたん、体がかたむく。
「きゃあっ!」
足もとに地面はなく、留衣は真っ逆さまに落ちて行った。
真っ黒い闇の底へ――――。