十円玉
彼女が相変わらず話そうとしないので、私は「肯定の時は頷く」「否定の時は首を横に振る」というジェスチャーを覚えさせて、彼女と会話した。
まず、帰る家があるのかどうかを確認した。彼女は気まずそうに首を横に振る。……やっぱりあなたは貧乏神なの? とはさすがに訊けないので、その質問は飛ばして、「私の家に一緒に住む?」と訊いてみた。すると、さきほどまで無表情だった彼女が、眼を見開いた。
「外、寒いでしょ? ここでお姉ちゃんと一緒に住む?」
彼女は何かを言おうと口を開いて、けれども何も言わずに下を向いた。手に持っているロリポップをくるくると回している。私はその様子を見ながら、昔の自分を思い出していた。
多分私は、目の前の彼女に、昔の自分を重ねて見ている。
だから、放っておけないんだ。
「……遠慮しなくていいんだよ。お姉ちゃんといるのが嫌になったら、お外に行ってくれてもいいし。お姉ちゃん、ここで一人で暮らしてるんだ。一緒にいてくれたら、寂しくなくていいなって思ったんだけど」
彼女はロリポップを回していた手を止めると、私の顔を遠慮がちに覗き込んできた。きゅっと結んだ口がへの字になっていて、泣きそうなのだと分かる。私はそれに気付かないふりをして、笑った。
「一緒にいてくれる?」
私が尋ねると、彼女はお辞儀するみたいに頭を深く下げて、頷いた。
彼女には、名前がなかった。さすがに「オレンジ色の貧乏神」とは呼べないので、私は彼女のことを「みかん」と呼ぶことにした。食べ物の名前をつけるのもどうかと思ったが、彼女はその名前を聞いて満足そうに頷いた。
声を出さないみかんに名前を呼ばれることはないだろうと思いつつ、私は「都子」という自分の名前も教えておいた。
神様は食べる必要も寝る必要もない。なんとなくそう思い込んでいたけれど、みかんはお菓子が大好きだったし、夜はぐっすり眠っていた。
替えの服がないのが気になって彼女に尋ねてみたけれど、みかんは外に出たくないと首を振った。私は彼女の好きな色を聞いて、一人で子供用の服を買いに行った。彼女が好きなのはやっぱりというかオレンジ色で、私はオレンジ色の秋服と冬服をディスカウントストアで購入した。ついでに、ロリポップも買い込む。みかんが特に好きなのが、このロリポップだったからだ。
日曜の夜、私はみかんに、オレンジ色の紐のついた合い鍵を渡した。
「お姉ちゃん、明日からお仕事に行くけど、お外に出たくなった時は、ちゃんと鍵をかけて行ってね。鍵はなくさないように、首から下げておくんだよー」
私は合い鍵を彼女の首にかけた。彼女は相変わらず表情をあまり変えないけれど、どことなく嬉しそうに、その鍵を握りしめていた。
私の生活が劇的に変わりだしたのは、それから二日後のことだった。
まず、仕事を解雇された。それも唐突にだ。大した貯金もなく、いきなりニートになった私は慌てて就職活動をした。けれど、不景気のせいもあってどこも受け入れてくれない。やっとのことで清掃員のバイトに就けたものの、労働時間は短いうえに時給も安くて、生活はたちまち逼迫した。食品は見切り品ばかり買うようになったし、お菓子なんて買えないくらいに余裕がなくなった。食卓には、もやし料理が頻繁に並ぶようになった。ただ、みかんの好きな飴だけは、買うようにしていたけれど。
オレンジ色の貧乏神、と言う言葉が頭をよぎる。けれど私は首を振った。みかんのせいかどうかは分からないし、彼女のせいにしたくない。
人間を酷く怖がっている彼女を追い出したくなかった。
そして、一人ぼっちになるのは、寂しかった。
働く時間が減った分、私はみかんと家で遊ぶことが多くなった。高価なおもちゃを買ってあげることはできないので、百円均一の店で買った安っぽいおもちゃで仲良く遊んだ。彼女は相変わらず話さないし、外に出るのもこわがるけれど、少しだけ笑うようになった。もう、それだけでよかった。彼女が少しでも笑ってくれれば、それで。
ところがある日、私が仕事から帰ってみると、みかんは泥だらけで玄関に座り込んでいた。彼女のその姿を一目見ただけで、外に出たのだと分かった。
「みかん? どうしたの」
私が声をかけると、彼女は私に右手を差し出してきた。小さくて柔らかそうな手のひらに、十円玉が一枚だけ乗っている。私はそれを見て、首をかしげた。
「拾ったの?」
尋ねると、彼女は無言でうなずいた。私の方に十円玉を差し出したまま動かないみかんを見て、私は苦笑した。もしかして、
「……これ、くれるの?」
無言で頷くみかんには、焦燥感というか、悲壮感というか、そういうものがあった。
私は膝をついてみかんと同じ目の高さになると、そのまま彼女を抱きしめた。
「――ありがとうね」
私の腕の中で、彼女のか身体がこわばるのが、分かった。
みかんは私が仕事に行っている間、外出するようになった。いつも泥だらけで、十円玉や五円玉を握りしめて帰ってくる。痣だらけで帰ってくることもあって、私は酷く不安になった。
「目に見える貧乏神」なんて、いじめの標的になりかねない。もしかしたら外で、酷い目にあっているのではないか。
けれどみかんは、外に出るのをやめなかった。「私も一緒に行こうか」と提案したものの、彼女は嫌がった。
その日も泥だらけで帰ってきたみかんは、何故か酷く緊張しているように見えた。こわばった顔のまま、握りしめている十円玉をいつものように差し出してくる。私がお礼を言ってそれを受け取ると、彼女は私の手をきゅっと握りしめてきた。
みかんが私に触れようとするのはこれが初めてだったので、驚いた。
しっとりしていて妙に熱い彼女の手は、少しだけ震えていて。
「……ん?」
私が笑いかけると、彼女は思いつめた表情のまま、ゆっくりと口を開いた。
少し鼻の詰まったような、けれど聞き取りやすい高い声。
みかんはわたしの方を見ながら、はっきりとこう言った。
「みゃーこちゃんは、しゃーわせになるの」