Phantom Pain 21
21、
ふたつの満月の間をゆく飛竜を、地上の民は仰ぎ見る。
背に乗るふたつの影は凭れるように重なって見える。
ああ、なんという幽玄な様であろう。
夢や幻ではない。
あれがクナーアンの真なる姿なのだ。
翌日も、祭りに伴う民衆の神への謁見は続けられた。
十二階段を上がった高台の玉座には勿論、得も言われぬほどの眩しい二神の姿がある。
アーシュは昨日よりも落ち着いた優雅な所作で玉座に座り、うっとりと見惚れる民衆たちに軽い笑みを返しながら、ゆったりと構えていた。
その様子を一通り眺めてイールは、ようやく安堵した。
昨夜、あれだけ落ち込み、泣きじゃくっていたアーシュの様子を考えると、今日の謁見が心配でもあったのだ。
慣れた風情で平静なアーシュから、民が集まった大広間へ目を移すとイールは妙な違和感を覚えた。
嫌な感じではなく、逆だ。
変わらずに騒然としながらも、人々の雰囲気や表情が今までとは違うのだ。
民衆たちの様子が昨日までと一変したのは、明らかだった。
昨日の一件が、その座に居合わせた人々の口伝で瞬く間に広まり、初日だった昨日にも増して今日は神々の姿を垣間見るための参拝客が後を絶たなかった。
しかも、彼らは利己の傲慢な願いや、適う筈もない途方もない祈りは求めなくなっていた。
つつがない毎日の日々とクナーアンの神への感謝を静かに唱え、和やかな笑みを浮かべて、玉座に座るふたりの神に手を合わせる姿が長々と続くのであった。
イールとアスタロトが魔力で彼らの思考を探っても、口にする言葉道理の志だったこともあり、この日は平穏な一日が過ぎていった。
ゆるやかな楽の音と、人々の穏やかなオーラと、苛立たせないざわめき。
空は高く、澄み渡った空気と二神の気配に惹かれ、見慣れない鳥たちが欄干に陣取って、祝福を奏でるように鳴いている。
アーシュとイールは顔を見合わせ、この一画が長閑な空間に仕上がったことに喜びを覚えた。
(昨日のことが予想外に良い方向に向かったね)
(ああ、アーシュの手柄だな)
(でも…緊張感がなさ過ぎてさ…眠くなってくる…)
(…だからって居眠りなんかするなよ、アーシュ。民衆は皆、美しき憧れの神であるおまえの姿を見ているんだぞ)
(…うん…わかった…)
イールに注意されても、あまりにも変わらぬ穏やかな景色に、アーシュは襲ってくる眠気を避ける気概を持てなかった。もともと学園の授業中でもしょっちゅう居眠りをして先生に叱られていたタチである。
多くの人の目にも、玉座に慣れてしまったアーシュは何度もあくびを繰り返し、ウトウトとうたた寝を始めた。
(おい、本気でこの民衆の目の前で昼寝でもするつもりなのか?さすがにあのアーシュでも、謁見の儀では寝たことはなかったぞ。しかも、おまえは昨日あれほど落ち込んでいたではないか…ったく、無類の能天気ぶりはアーシュ以上だな)
懸命にアーシュを目覚めさせようとするイールのテレパシーなど、どこ吹く風のアーシュの身体は段々と力が抜け、コクリコクリと頭が下がる。
(ああ、とうとう寝た。しかも…熟睡しきっている…)
隣のイールは夢の中に行ってしまったアーシュを、困った様子で見つめていた。
疲れているのか寝息さえ聞こえそうな眠りである。
しかもその疲労の要因の一つが、朝方までセックスを楽しんでいた所為でもあろうから、イールも強く咎める事もできない。
(私が気を付けねばならないのに…アーシュが人間の持つ体力しかないことを、つい忘れ、夢中になってしまう…)
アーシュと交りあった感触はまだイールをときめかせていた。
どれだけ求め、与えられてもアーシュの身体に飽きることはない。
イールの本能は、アーシュしか求めないからだ。
それは宿命とも言える。
「天の皇尊」が、イールをそういう形に創りあげたのなら仕方のないことだ。
それを受け入れるか、恨み続けるかはイール次第である。
確かに…
アスタロトを失った十八年間、イールはアスタロトへの愛のしがらみに傷つき、恨みもした。
だが、イールは自分の宿命がアスタロトであったことを後悔したことはなかった。
追想は甘い。そして未来は美しく咲かせたい。
イールはしみじみとアーシュが還ってくれたことに感謝した。
(実際…寸前のところで間に合ったのだ。神々の精神状態がクナーアンに与える影響は少なくない。もし、あのままアーシュが戻ってこなければ…私の心が崩壊するだけでは済まなかっただろう。このような穏やかな祭りなどありえなかった)
階下では、まんじりともせずに見上げる多くの民が、居眠りを始めたアーシュを驚愕の眼差しで見つめていた。大声を上げないまでも、階下の前列の者のざわめきが波のように広間全体に広がっていく。
イールはアーシュを見上げる者たちに、人差し指を口唇に立て、静かにするように、と訴えた。
それを受け止めた民衆は、次々と後ろに静かにするようにとイールと同じように伝え、ざわめきは瞬く間に消え、楽隊の音楽も静かなものに変わっていく。
大広間は、アーシュの睡眠を邪魔せぬように誰もが気を遣い、またそれを楽しむ雰囲気に包まれていた。
謁見は続けられ、足音を響かせぬように忍び足で階下まで辿りつくと、玉座の二神を仰ぎ見る。
ひとりは気持ちよさ気に頭をわずかに傾けながら居眠り興じるアスタロト。そして、隣でそれを愛おしそうに見守るもうひとりの神イール。
人々たちは、神の日常を垣間見た気がした。
崇高で手の届かぬ存在でありながらも、自分たちと変わらぬ風景に安堵し、親しみを持った。
ふたりの姿を拝見した者たちは、より以上に神への憧憬が、ますます膨らんでいくことを快く感じていた。
イールは段々と頭と傾いていくアーシュを見て、いつか、椅子からずれ落ち、階段を転げ落ちるのではないかと心配した。
もとよりイールは過剰なほど、我が半身に対しては心配性であったが、このような場面で人の目などよりもアーシュの事が先に来る。
「…うわあ~…ああ、眠かった…」
眠りから覚めたアーシュは頭を起こし、身体を伸ばした。
「あ、俺、居眠りしちゃったね。どれくらい寝てた?」
「…半刻ほど」
「ちょうどいい頃合いだ」
アーシュの目覚めでイールの心配は杞憂に終わった。
緊張が解けたイールを後目に、アーシュは玉座から立ち上がり、身体を動かし始めた。
「…何をしている?」
イールは不思議な動きをするアーシュに問いかけた。
「目を覚ますために身体を動かしてるの。『天の王』学園体操。体育の授業の前に身体を慣らすためにのストレッチだよ」
「…そうなの?」
だがイールがどう見ても、それは変な動きをしているとしか見えない。
民衆たちもアーシュが起きたことでざわめきが戻り、階段の高台で妙な動きをしているアーシュを、呆気に取られながら見つめている。
何にしても生まれ変わったアーシュは、クナーアンに新しい息吹を吹き込んでしまうのだ。
イールもまた玉座から立ち上がり、体操を続けるアーシュに手を差し出した。
「なに?」
「一応おまえは神なのだから、振る舞いも優雅にお願いしたいものだな」
「え?」
「ダンスだよ。クナーアンにも色々な舞踊があるんだ。それを教えよう」
「ええ?今?ここで?」
「そんな変な動きをされるよりはマシ。ほどよく輪舞曲が流れている。さあ、私の手を取りなさい。一から教えてあげるから」
「う、うん」
アーシュは誘われるままに身体をイールに合わせていく。ゆるいモデラードに合わせイールのリードに必死で付いていくアーシュをイールは褒めた。
「上手いぞ。そうだな…もう三回ほど繰り返したら、見れるようにはなる」
「見れるようにって…もう、みんなから観られているよお~」
「でも、ほら…皆も楽しそうじゃないか」
「え?」
自分の足元に必死で周りが見えていなかったアーシュは、やっと階下の大広間の様子を眺めた。
大広間に集まった人々は、アーシュとイールに倣い、大小の円を描きながら、楽しそうに踊っていた。
心待ちにした年に一度のお祭りを、イールとアスタロトと共有できるという偶然に誰もが驚喜しその感情を隠せずにいた。
「見なさい、アーシュ。民衆の喜びに沸き立つ姿を…彼らは、クナーアンの民は私たちに感化されるのだ。私は…私とアスタロトが導こうとした神の概念となる未来が本当に正しいのか…わからなくなる」
「…そうだね。これは俺とイールだけの問題ではないのだものね」
「だが今は…彼らの為に幸せな気分でいたいものだな、アーシュ」
「勿論、俺は幸せだよ。イールが俺を愛してくれているもの」
そう言って、場所もわきまえず、イールに飛びつくアーシュを、愛おしく思わないはずもない。
(ここにいる誰よりも、私の心は喜びに満ち溢れている。これからどんな冬が来ようとも、私の心が凍えることはないのだ…)
抱き寄せたをアーシュの温もりを決して忘れないように、イールは積み上げた記憶の層にまた重ねていく。
限が無いと思えたそれは、アーシュの限られた命で頂が見えるはずだ。
命と記憶のある場所が違うものなら、イールにも重なった層の景色を楽しめるかもしれない…と、思った。
(永遠とはそれのことではないのだろうか…)
イールは消え去ったアーシュを、懐かしんだ。
アーシュはイールの意識を読み、少しだけ妬いた。
自身がアスタロトであることを忘れて。
祭りの三日目は謁見の最終日でもある。
祭りはまだ続くが、イールとアスタロトの姿を間近でみられるのは今日を於いてない。
民衆は前日以上に神殿に集まった。
今年の二神が今までとは何かが違い、それは光が鮮やかに増したものだと、人々は興奮しながら繰り返すのだ。
確かに神殿に足を踏み入れた時点で、何かが違っていた。
精神が浄化され、身体ごと浮き上がるような幸福感と、人と寄り添う事の充実感。知らぬ者同士が手を取り、踊りの輪に入り輪舞曲に合わせて踊り続ける風景など、今までのクナーアンの祭りにはなかった。
夕刻、ふたりの神は玉座から離れ、階段を降り、緩やかに踊る民衆の輪に入った。
イールとアスタロトにとっては、決して珍しいことではなかった。
昔、ふたりは地上のどこかしこで、一晩中でも民と共に踊り謳っていたのだから。
だが、この時代のクナーアンの民は、そんな神の姿を知るはずもなく、隣で踊る神さまの姿に恐れおののき、そして夢の世界を彷徨い、覚めやらぬままに、神殿を後にするのだった。
謁見が終わった翌日から、アーシュは約束通りに豊穣の恵みを与えるために、クナーアンの各地を回ると決めていた。
イールや神官たちはもう少し休むように進言したが、アーシュの好奇心を止められるものはいない。
イールはアーシュを寝所の奥の部屋へ案内した。
そこはアスタロトが異次元から持ち帰った珍しい土産で溢れかえっていた。
アーシュは多様な置物や細工、宝石や着物、何に使うか想像できない道具類に思わず声を上げた。
「こりゃガラクタ市場じゃないか」
「アーシュはおまえに劣らず、好奇心旺盛だったからね。それでいて、自分で持ち帰った後、何に使うのか皆目わからんと笑い転げていたよ」
「で、これをどうするの?」
「これを見なさい」
イールが示したのは膝ぐらいの高さの様々な置物だ。木彫りや真鍮、ブロンズや石を掘って作ったもの。どれもが変わった動物の形をしている。
「色々な星の神話や伝説の生き物らしい。私たちはこの存在しないモノを魔力で形にし、これに乗って移動する」
「形にするの?」
「見ててごらん」
イールは羽を広げたドラゴンの置物を持ち上げ、バルコニーの床へ置いた。
その置物にイールが息を吹き込むと、ドラゴンの形をした置物はガタガタと動き始め、瞬く間にイールとアーシュの背を軽く超えた大きさになり、黒い翼をバサバサと羽ばたかせた。
黒いドラゴンは牙を剥きだし、ハアハアと息を荒げながら、金色の虹彩をアーシュへぎょろりと向けた。
「い、生きてるの?」
「生きているわけがない。あの置物は木彫りに色を付けただけだ」
「じゃあ、イールの魔法で生きているみたいに見せてるわけ?」
「そういうことだ」
「これで飛ぶの?」
「そう、私とアーシュの魔力で、これに乗って飛ぶんだよ」
「…自信ねえよ。それに何でこんなの使うんだよ。自分で飛べるじゃないか」
「…何にも乗らずに、すいすい浮いてたら、神の姿としてはかっこ悪いから…と、昔アーシュが言っていた。なるほど、何事も形式は大切だと、私も同意した。無駄だと承知していてもな」
「…まあ、前のアスタロトが自尊心が高いってことはわかったよ」
「おまえにそっくりだ。さあ、乗って」
「ちぇっ…」
軽々とドラゴンの背に飛び乗ったイールが差し出す手を掴み、アーシュも背に捕まった。
ザラザラしたドラゴンの皮の感触がリアルすぎて、どうしてもあの木彫りの置物とは思えない。
意志を持たないドラゴンが、イールの魔力で翼を広げ、バルコニーから飛び立つ。
「うわあ!」
余りの衝撃にアーシュはバランスを崩し、慌ててイールにしがみつく。
眼下のバルコニーも神殿も、瞬く間に小さな景色となる。
「うわあ~、すげええ!」
「アーシュ、そんなに身を乗り出すな。落ちても私は助けないからな。自分の魔力で飛ぶんだぞ」
「俺にそんな魔力はないよ」
「使い方を学んでないだけだ。すぐに覚えるさ」
「ホント?」
「私のアーシュなら、訳もない」
「…」
(イールの呼ぶアーシュは一体どちらのアーシュなんだろう)
アーシュは不本意な顔つきで、イールを睨んだ。
雲一つない晴れた空に、黒い神獣が風のように飛ぶ。
見上げる人は、イールとアスタロトの巡幸だと知る。
誰もが願う幸福の道標だと…