Phantom Pain 17
17、
乾いた肌は砂漠と似ている。
ただ潤う水を欲しがる。
だが、過ぎたるは及ばざる…だ。
砂の下の生き物は溺れ、死に絶える。
くれぐれもご注意を。
アーシュがイールに会いに行くと神殿から去って七日になる。
神殿に残されたベルは、戻る気配のないアーシュをひたすら待ちわびていた。
アーシュが決めたことをとやかく言うつもりはない。黙って彼を見守ると誓ったはずだった。だが、故郷を離れ、見も知らぬ異界での慣れない生活に、ベルの不安が募るのは必定だ。
同行していたメルは、奥の院にある図書室を自分の居場所にして、毎日クナーアンの歴史書を興味深く熟読しながら過ごしている。
もともとメルは時空を渡るツーリストでもある。未知の世界の楽しみ方は慣れているのだろう。
ベルはそういうメルが羨ましくもある。
メルほどにアーシュとの距離があるなら、ベルももう少し楽にいられたかもしれなかった。
だが、ベルはメルほどには遠くなく、ルシファーのような関係にはなれずにいる。
まさにそのルシファーがアーシュの恋人であるが故に、苦渋を強いられているのを傍らで見ているから、ベルも自分の些細な不満など言えるはずもない。
「三日後は収穫祭の儀式があるから、イールさまは必ず神殿に戻られるはずだよ。その時にはきっとアーシュも一緒だろうから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」と、無理に明るく振る舞うルシファーが痛ましく思える。
果たして、アーシュを快く送り出しだのは、誰の為だったのだろう…。
恋人だったアーシュを、生まれ故郷の為だとは言え、昔(転生する以前)の恋人に譲らなければならない苦しみ。
神と言う存在の前では、太刀打ちできない悲しき我が身を、ルシファーはどんな思いで自身に納得させているのだろうか…
ベルはルシファーの気持ちを考えると同情を禁じ得ない。
(アーシュは一体今の自分の有様をどう考えているのだろう…人間として生きてきた今までの18年よりも、クナーアンの神としての生き方を選ぶつもりなのだろうか…)
だが、恋敵ともいえるクナーアンの神、イールを察すると、ベルの敵対心が若干薄れてしまうのも事実だ。
何の前触れもなく、理由もわからずにアスタロトを失ってアーシュが戻るまでの18年間のイールの苦しみは如何ばかりだったろうか…
心を閉ざしていてもそれさえ、アスタロトへの愛故のものであるなら、アーシュが本気でイールを求めた時、抗う術などイールにはなかろう。
そしてアーシュも、今やイールを真のパートナーと認めたのではないだろうか。
(嫉妬だな。何重にも重なった感情の螺旋が俺の身体に巣食っている。解ける隙間もないほど。俺は妙な満足すら感じながらそれを眺めているんだ。まるでアーシュへの愛をひとつひとつ確認するみたいに…)
ベルは雲の彼方にうっすらと浮かぶ峰を眺め、どうにもならない自分の想いを宥めた。
ベルは夕食の後、毎晩二時間ほど自室で勉強をするのが日課になっていた。
「天の王学園」では常にトップクラスのベルは、学習は苦痛ではない。むしろベルは勤勉であることを自身の誇りとしていた。
ちょうど良い塩梅にルシファーもいる。
あまり気乗りしなさそうなルシファーを促して、物理や数学などを教えている。
ベルはルシファーと向かい合わせに座ったテーブルに問題集を広げた。
大学入試の為の問題集は、本来はアーシュがサマシティから旅立つ時に、「天の王」のことを忘れないようにと、餞別にするつもりでベルが見送りに持っていたものだった。
成り行きでベル自身も同行することになり、こうして異界で過ごしていても、ベルがどう変わったわけでもない。今でもベルもアーシュも「天の王」学園の生徒なのだから、学生の本分たる勉強を怠るものでもない。と、表向きにはルシファーに諭していたが、本音を言えば、ベルはアーシュに対しては親友という立場でい続けたかっただけだ。
アーシュを神として崇めるのではなく、同学年の仲間であることが、ベルにとっては最重要であった。
「アーシュは俺たち三人一緒に『天の王』の卒業式に出席することを望んでいるよ。だから卒業までの半年間、ルゥにもしっかり勉強してもらいたいんだ。学園に帰れば卒業試験も待ってるからね」
「今更…『天の王』に戻れるなんて思ってないよ」
「君はもうサマシティに…学園に戻りたくはないのか?」
「僕だって戻りたいと思っているよ。…君たちと『天の王』で暮らしていた頃が最高に…楽しかった。本当の幸せってあの頃だったって…こちらにきてすごく思うようになってしまった。ずっとあのままだったら良かったって…」
「ルゥ、君は『天の王』学園の学生なんだぜ?君が戻ることを学長も望んでいるし、信じている。君の故郷はこのクナーアンからも知れないが、君は俺たちの仲間だろう?確かに状況は変わってしまったし、この先のことだってわからない。けれど、俺はアーシュとルゥと一緒に『天の王』の制服を着て卒業したいと思っている」
「だってベル。アーシュだって今の状況じゃ学園に戻れるかどうかもわからないのに…」
「アーシュは必ず戻るってトゥエに誓ったんだ。俺とメルもそれを聞いていた。アーシュが今までに約束を違えたことがあるか?」
ルシファーはまっすぐに見るベルの視線を真摯に受け止めた。
「…いや、ない」
「だろ?…ルゥ、俺は俺なりに、アーシュと共に生きていける道を探してみようと思う。アーシュが選ぶ道に、俺が一緒に歩けるのかどうかわからないけれど…。後姿でもいい。俺はアーシュを見守っていきたい。だから俺は…今のスタンスを変える気はないよ。これからだって俺はアーシュを理解したいし、親友でいたいんだから」
「ベル、わかったよ。もう一度『天の王』の制服が着られるなら、僕も苦手な物理も頑張ってみるよ」
「大丈夫さ、ルゥは呑み込みが早い。さあ、ここの問題。もう一回復習してみようか」
ふたりが学習時間を終えたちょうどその時、ドアをノックする音とベルを呼ぶメルの声が聞こえた。
滅多な事では部屋に訪ねてくることはないメルに、ベルはあわててドアを開ける。
「どうかしたのか?」
カンテラを片手にしたメルが少し慌てた様子で立っていた。
「アーシュが戻ってきたんだ」
「ホントに?」
「…イールも一緒にね」
メルはベルの後ろに見えたルシファーにちらりと目をやり、「行こうか」と、首を振った。
ふたりは早足で向かうメルの後に、慌てて付いていくのだった。
イールとアーシュは神殿の中心に現れた。
木彫りを媒体とした魔力で飛ぶペガサスでも良かったが、手っ取り早くアーシュが持っていた携帯魔方陣を使ってヴィッラのある崖から神殿にワープしたのだった。
イールはこの魔法に感心し、何度もその魔方陣が描かれた円盤を興味深く眺めていた。
「良く似た魔法文様はあるが、これもまた興味深いものだ。アーシュ、しばらくこれを預かってもよいか?」
「いいよ。イールの魔力だったら俺よりも上手く使えるんじゃないかな」
「そうだといいな」
灯りの無い神殿は暗く、ふたりは月明かりだけの僅かな光の中でお互いを見つめ、微笑み合った。
固く結ばれた信頼に満ちた眼差しには、もはや光さえも必要ではなかったであろう。
どちらからともなくお互いを抱き寄せ、頬を寄せ、口唇に触れ、額を合わせ、また笑った。
「やっと、気がついたみたいだよ」
「らしいな」
遠くから聞こえるざわめきと足音に、ふたりは合わせた身体を離し、少しだけ距離を取った。
神官たちは慌てふためいた様子でそれぞれに持った灯りを方々へかざしながら、ふたりを探している。
「私ならここだ」と、イールは神官たちに呼びかけた。
「ああ、イールさまのお声だ。イールさまが帰ってこられた」
喜びと安堵に満ちた神官たちの声だ。
「お帰りなさいませ、イールさま。そしてアスタロトさま」
ヨキと三人の神官たちが、ふたりに灯りを差し出すように跪く。
「しばらく留守をしてすまなかったね。祝祭の用意は進んでいるのか?」
「はい。それは万全でございます」
「そう、良かった。明日からは私も励むことにするよ。アスタロトも帰ったことだし、今年の祭りは賑わうことだろう」
「ではアスタロトさまも玉座に座られるのですね?」
「勿論だよ。みんな、わからないことがあったら教えてね」と、アーシュは神官たちに愛想よく笑いかけた。
「は、はい。承知いたしました…」
アーシュに見惚れた神官たちは、慌てて低頭する。
その様子を楽しげに見つめた後、イールはヨキに命じた。
「ヨキ、悪いがアーシュに何か栄養がつくものを食べさせてくれないか。向こうでは十分な食事ができなかったからね」
「承知いたしました」
「俺なら大丈夫だよ」
「アーシュ、おまえは私とは身体の作りが違うのだ。育ちざかりのおまえには人間と同じ栄養が必要だ。栄養失調の神の姿では、民衆の期待には応えられないぞ」
「うん…」
「では、よろしく頼む」
「はい、イールさま」
アーシュを置いて先に歩き出すイールに、アーシュは思わず声を出してイールの名を呼んだ。
「イール、どこへ行くの?」
振り向いたイールは「大丈夫だよ、アーシュ。私は部屋にいるから」と、優しく微笑み返す。
後姿を見送ったアーシュは、さっきまで触れていたイールの肌が無くなった不自然さと喪失感に唖然とした。
(まるで自分の身体のどこかが、寒さで震えているみたいじゃないか…今まで生きてきて、これほど誰かに依存したことがあっただろうか…いや、なかった気がする。なんだ?…俺、どうしちゃったんだろう…)
「アーシュさま」
「なに?」
「すぐに食事の用意をさせますから、食堂へ参りませんか?」
「うん、…そう言えば、確かに腹が減って…一歩も歩けないや」
「それでは、またお抱きしいたしましょうか?アーシュさまがここに来られた時のように…」
「いやなこと思い出させないでくれよ。空腹で気を失って倒れたなんてさ…学園の連中が聞いたら、どれだけネタにされることか。俺はこれでも学園じゃ、誰もが畏れ敬う魔王アスタロトなんだよ」
「恐れ入ります。魔王さま」
「ちぇっ、ヨキってば、俺を子ども扱いしてるよね」
「いいえ、アーシュさま。私は心からあなたに感謝いたします。…あなたはイールさまに光を取り戻してくださった…」
深々と頭を垂れるヨキに、アーシュはバツの悪さを感じた。
強がって見せたのも、単に自分を奮い立たせる言い訳だし、イールのことも、今では自分の方がより必要としているのではないだろうかと疑っているのだ。
アーシュは自分の弱さを恥じた。
(一体どうしてしまったんだろう…)
アーシュは初めて、恋の恐ろしさを知った。
己の感情を抑制できない恋心の波に溺れかけている自分が見える。
(こうしていてもイールが欲しくて仕方ないや…イールを思うだけで身体が火照ってしまうんだから呆れるばかりだな。全くもってやっかいな話だ。だけど…こうなったらとことん溺れてみるのも一興かな…)
食堂でヨキの給仕で食事を摂っていると、ベルたちがアーシュの様子を伺いにやってきた。
アーシュは三人との再会を喜び、心配させたことを詫びた。
だが三人はアーシュの中に、七日前とは明らかに違ったものを感じていた。
もともとアーシュはその容姿と傲慢で高貴な性格をもったカリスマの塊ではあるが、より以上に人間離れした超然としたオーラと、それとは逆の…重たげに伏せる瞼の影や、髪を掻きあげる指の動かし方、口元の微妙な開け方…ひとつひとつの動作にけだるさとぞっとするような艶がある。
それはすべてイールの所為だということも、理解した。
三人は沈痛と困惑の混ざったお互い顔を気まずそうに見合わせた。
三人が想いを寄せるアーシュは、もう誰のものでもなくなってしまった…と、悟ってしまったのだ。




