Phantom Pain 15
15、
「触れてもいい?」
アーシュの伸ばす手から、イールは思わず身を引いた。アーシュの指に青く光る指輪が見えた。
イールとアスタロトの絆でもあった指輪だ。
「…」
アーシュはイールの様子を見て、宙に浮いた手を残念そうに引き戻した。
嫌ったわけではない。だが、イールにはまだアーシュに触れる覚悟が出来ていなかったのだ。
(気に障っただろうか…)
イールはあわてて取り繕う言葉を探した。
「良く見なさい。手も…足も泥だらけじゃないか。服にも木の枝や葉まで付いているぞ」
「あ、言われてみれば確かにひどい格好だね」
アーシュは自分の前や後ろを確かめながら、手で払おうとするが、泥だらけの手で払うわけにもいかず、身体をゆすり始めた。
「あちらに水場があるだろう。少し冷たいが岩から湧水が流れている。そこで清めてくるといい」
「わかった。じゃあ、ちょっと待っててね、イール」
言われた水場へ走っていくアーシュの背中を見送った。
イールは右手の人差し指に嵌めた赤い指輪を撫でながら、自分の心に問い続けた。
(私はまだアーシュを憎んでいるのか?クナーアンを捨て、神としての役目を捨て、私と生きたすべての記憶を失ったアーシュを…)
イールは一歩ずつ足を進め、マナの木へ歩いていく。
(この18年間、私は傷つき、苦しみ続け、生きる事すら捨ててもいいと何度も思った。私を捨ててどこかで生きるアーシュを殺したいと何度も自分の胸にミセリコルデを突き刺そうとした。…ついさっきあの子がここに来るまで…何の罪もないあの子を、許すことが出来ずにいたのだ…だが、何だ…今の私は…私の心は、軽い)
イールは自分の胸に流れる音を聞いた。
サラ、サラ、サラ…
細かく砕けた美しい結晶が流れる音が聞こえる。
まるで砂時計のくびれた穴を通り落ちるなめらかさで流れていくようだ。
(この音は一体なんだろう…。沈殿し続けた私の苦い想いなのか?…許せなかったもの、恨みや憎しみ、悲しみと苦しみ、狂気と絶望。18年間の私のアーシュへの想いは決して忘れることはできない。だが…もしかしたら…)
サラ、サラ、サラ…
流れる音が心地良い。
(そうだな。思い出に、…美しい思い出にすることができるかもしれない。あの子が…あのアーシュが、そうさせてくれるかもしれない…)
サラ、サラ、サラ…
彩りはさまざまに、形もバラバラに、輝きもそれぞれに、砕けた結晶となって千年をも生きてきた心の底に重なっていく。
イールはマナの木の根元に脱ぎ捨てたアーシュの服を手に取った。
(私の…愛したアーシュが着ていた服だ。…生まれ変わったあの子は、私のアーシュではない。だが、また愛おしい日々を求めてもいいのだろうか。あの子を愛することは、私にとって正しいことなのだろうか…)
「イールっ!お待たせ。ちゃんと綺麗に洗ってきたよ」
水の珠を撒き散らし、乾ききらない顔で、イールの目を直視するアーシュが眩しい。
「…まだ、濡れている。顔も髪も…」
自分の袖を持ち、イールはアーシュの濡れた顔を拭いた。
アーシュの瞳に映る深い闇に煌く星々の輝きに、イールはしばらく見惚れた。
イールの知るアスタロトと少しも変わらぬ輝きで、イールを見つめる少年の不思議さに酩酊した。
イールはアーシュの肩にアスタロトの上着を掛けてやり、アーシュはそれに笑顔で応えた。
「アーシュ…私は…おまえではないアーシュを愛し続けてきた。今もそうだ。私と生きたアーシュはおまえではない。私はおまえの中に消えてしまったアーシュを求め、愛しているのだよ」
「うん、理解できるつもりだよ。俺はアスタロトの生まれ変わりであるだけで、それ以外にはなれないから…。イールが俺をアスタロトの身代わりにしたいのなら、俺はそれを受け入れるよ。俺だって…さっきイールに初めて会ったのに、こんなに惹かれるのは、俺の中のアスタロトの所為なんだと思うもの。俺自身の純粋な恋心ではないよね」
「純粋な想いか…つまりそれは正しい愛し方なのだろうけれど…。私のアーシュならきっと…恋に形式などあるか。そんなものはくだらないだけで、形式などはぐちゃぐちゃに壊すことに意味がある。…と、一笑するのだろう」
「…あ、正にそれ、俺が言おうとしたけど、さすがに言えなかったの。これ以上イールを怒らせたら抱かせてくれないと思って…」
「おまえは私を抱きたいのか?」
「え?え~と、セックスはどっちでもいいよ。でもイールは千年以上生きてるから、年上に敬意を払って、俺は下でいい」
「…お前と言う奴は…」
「え?」
渋い顔で睨むイールに、アーシュはあわてて口を押えた。
「人間になってもデリカシーは覚えなかったらしいな」
イールはアーシュのほっぺたを軽くつねり、スタスタとヴィッラへ歩いていく。
怒らせてしまったとシュンと肩を落としたアーシュは、イールが玄関の扉を開け、中へ入っていく姿を見つめた。
イールは顔だけをアーシュに向け「入らないのか?」と、憮然とした顔で言う。
「は!入る!入らせてもらいますっ!」
懸命にシッポを振る子犬のように、アーシュは一目散とイールの元へ走って行くのだった。
イールは相好を崩して自分の元へ駆け込んでくる少年に満足していた。
アスタロトへの想いとは違うアーシュへの愛しさに戸惑いを覚え、この感情すらアスタロトが企てた予想の範囲内ではないのか…と、疑ってもみた。もし、そうだとしても、アスタロトがそれを望んだとすれば、アスタロトはイールに新しい活力を与えたことになるのではないか?
イールはアーシュを部屋へ案内した。
居間はそれほど広くなく、カントリー風のこじんまりとした作りに、アーシュは少し驚いていた。
「神殿の住まいに比べたら、なんというか…質素なんだね」
「私とアーシュだけのヴィッラだ。邪魔をする者はいないし、気取る必要もないからな。おいで、寝室はこっちだ」
居間とドアを隔てただけの寝室だ。
寝室は居間よりも広く、萌黄色の柱が円を描き、部屋を囲んだウッドッデッキが外側に見えた。部屋の角には猫脚付きのゆったりとしたバスタブが置かれ、カーテンだけで仕切られている。
アーチ型の天窓には手作りのステンドグラス。その下の開き窓には格子の桟が外の光をベッドのシーツに影を落としていた。
「広いベッドだね」
ふたりで寝るには広すぎるベッドの端に、アーシュはちょこんと座った。
波の折柄に上等な絹を使った水色のシーツが気持ち良くて、手の平と甲で何度も撫でる。
「ベッドは広い方が良いのさ。どんなこともできるしな。それよりさっさと服を脱いだらどうなんだ。おまえは私をセックスをしたいのだろう?」
「急かすんだね。イールの方が欲しがってるの?」
そう強気を吐きたアーシュだったが、己の意志とは関係なく身体が急に火照りだしたことに慌てていた。
「おまえほどじゃないさ」
イールはアーシュの下腹部に視線を移した。下着の上からでもアーシュの昂ぶったものがはっきりと形を成していた。イールは布の上から手で握りしめ「ガチガチだな」と、笑った。
「わ、若いから仕方ないだろっ!」
「そうだな。ではすぐに楽にしてやる」
「なんだよ。すげえ上から目線でさあ…」
顔を赤らめながら上着を脱ぎ始めるアーシュの身体を、イールはベッドに押しやり、アーシュの短ズボンを一気に脱がした。
「ちょ…自分で脱ぐよ。恥ずかしだろ」
「おまえの裸など飽きるほど見てきたし、おまえの身体で私の知らない場所など何もない」
「で、でも俺、生まれ変わったし、アスタロトとはちが…ま、待って…あっ!」
慌てふためいて逃げ腰になるアーシュの両足を捕まえたイールはそのまま、アーシュの勃起したものを躊躇なく咥え込み刺激を与えた。
「う、わ~んっ!」
アーシュとて咥えられるのも、弄られるのも初めてではないが、イールの見目はそんなことを予測させるものではなかった為、さすがに慌てふためいていた。
「あっ……やん…」
思いもよらないイールの熱い舌の動きがアーシュの性感をあっと言う間に限界まで追い込み、そのまま一気に達してしまった。
アーシュから離れたイールは、呆然と天井を見つめるアーシュの様子に、先ほどアーシュが食べたマナの実の媚薬が今頃効き始めたのだろうと思った。
(それにしても…意外と純情なのだな。ルシファーからは、色んな人間と交わっていると聞いていたが、素直で良い身体じゃないか)
アーシュを犯すことへの甘美な興奮を味わっている自身をイールは素直に認めていた。
「う~…ひどいじゃないかっ!」
アーシュは顔を赤らめたまま、イールを詰った。
「何が?」
「まだキスもしてないのに、一方的に悦かされるなんて…そりゃ、あんたから比べたら俺は子供だけどさ…屈辱的」
「こちらも失望した。人間になったおまえが本当に何も覚えていないのだと悟ったよ。だが私の相手をしたいのなら、これからはそのつもりでじっくりと教え込むことにするが…異存はないか?」
「ははは…お手柔らかに頼みます」
抗うアーシュの両手首を掴み、涼しげな顔で頭上に縫いとめたイールは、薄らと笑いつつ、冴えた青い目でアーシュを見下ろした。
アーシュはこれから始まるイールとのセックスが、これまで経験したすべてをかき集めても、とても太刀打ちできるものではないのだろうと、優しげに笑うイールに恐々としていた。
だが、イールが与えるキスも、身体中を撫でる愛撫も思いのほか優しかった。
触れ合う感触が心地良くアーシュはイールの手を取り、自分の頬に重ねた。
「気持ちいい…」
「アーシュは甘えたがりなのだな」
「うん、好きな人の肌に触れていると安心する。俺、親がいないと思ってたからかな…ぬくもりに餓えていたのかもしれない…。イールもそうだった?…俺が居ない間、寂しかった?」
「…ああ、とても…」
(何度も死を望むほどに…おまえに恋い焦がれていたのだ、アーシュ)
嬉しそうに目を閉じるアーシュの瞼にキスを落とし、それからイールはアーシュを存分に味わった。
サラ、サラ、サラ…
イールの胸に響き続ける音。
心に降り積もった18年間のアスタロトへの結晶を愛しいと思える自分を、イールは許そうと思った。
「もう…イールを、寂しくさせたりしない。誓うよ」
涙を溜め、息を切らし、とぎれとぎれの欠片を吐くアーシュがいじらしい。
「アーシュ…」
アーシュの言葉を鵜呑みにできるほど、イールは純情でもない。が、何よりも愛おしいさが募る。
「愛しいアーシュ、おまえは私だけのものだ…」
信じてはいなかったが、そう言わずにはいられなかった。
イールは逸楽に震えるアーシュの中に己を穿った。
新しく生まれ変わったアーシュの身体は、イールの愛したアスタロトのそれと、少しも変わらなかった。