Phantom Pain 13
13、
イールの肖像画を見つめ涙するアーシュを、周りの誰ひとり声を掛けることもできずに、見守っていた。いや、誰もがアーシュの心を虜にしているイールに妬いていたのかもしれない。
アーシュの際立った白い横顔に零れ落ちる涙の粒の美しさや、赤く熟した珊瑚樹の実のような口唇が僅かに震えるさま、濡れ羽色の黒い睫に涙が溜まり、瞬きをした瞬間散る玉粒の光…すべてに魅了されたとして、誰が咎められるのだろう。
「イールはどこにいるの?この神殿にいるの?」
「イールさまは…」
着物の裾で涙を拭くアーシュに見つめられたにヨキは、一瞬自分を見失っていた。
「イールさまはこの神殿にはいらっしゃいません」
「じゃあ、どこにいるの?」
「こちらへいらしてください」
ヨキは画廊からバルコニーへアーシュを連れ、遠くに霞む峰を指差した。
「あの峰の崖にイールさまとアスタロトさまのお住まいがあります。人間の足では到底かなわぬ場所です。おふたりは暇を見つけてはあの場所のお館でふたりきりで過ごされていました」
「ふ~ん、ふたりだけの愛の巣。誰も入り込めない場所で愛を紡ぎ合う…か。神さまの特権だね」
「…そういうことになりますかね」
さっきまであれだけ素直に泣いていたアーシュが、鋭い目つきで露骨な皮肉を言い放つことにもヨキは驚きを隠しきれないでいた。
(この少年の見せる様々な豊かな表情は、神と人間との融合だからだろうか…なんにしてもこれだけ魅せられる資質があれば、クナーアンの神として、全く問題はないではないか。きっと…イールさまの支えになってくださるだろう)
「じゃあ、今、イールはあの霞んだ崖の辺りにいるんだね」
「そうです。三日ほど前にしばらく籠るからとおっしゃっていましたけれど…アーシュさまが戻られたことをまだご存じ無いのかもしれません」
「…」
昨晩、アーシュの眠る寝台の傍に立つ者がイールだとアーシュは確信していたが、誰にも言わずにいた。
(イールは俺がこのクナーアンに来たことを手放しで喜んではいない。それは昨晩のイールが何も言わずに立ち去ったことでわかっている)
その理由もアーシュには薄々感じとれてはいたが、弁解も言うにもイールの本当の気持ちも聞くにも本人に会わなければ何も始まりはしない。
「わかった。じゃあ、今から行ってくるよ」
「ええっ?い、今からですか?」
「うん、そうだよ」
「…はあ」
ヨキは不審に思いながらも、アーシュの言葉を信じた。
「では、何か羽織るものを持ってまいりますので、少々お待ちになられてください。ここと違ってお館は高い場所にあるので、きっと寒いでしょうから」
「大丈夫だよ」
「神さまが風邪を召されることはないと思いますけど…心配なんです。すぐに戻ります」
そう言い残してヨキは、走り去って行く。
ヨキを見送りながら、アーシュは遠くで見守っている三人を手で招きよせた。
「イールさまに会いにいくことにしたの?」
「うん、とりあえず…会わなきゃ何も始まらないしね」
「…そうだね」
「それより、ヨキって本当にいい奴だなあ~。ああいう誠実で親切な人間はサマシティにはなかなかいないよねえ」
「好きになった?」
「は?」
「アーシュは昔から誰もかれも簡単に好きになるんだ。そして相手を夢中にして陥落させる」
「そうか?そうでもない奴もたくさんいたけど…」
「ルゥの言い分はもっともだね。君に関わった輩は、みんな君を愛してしまうんだ。…イシュハもジョシュアも…依然のイルミナティ・バビロンの連中だって結局最後は皆、君に敬服していた。望むとの望まざると、君は生まれついての王なんだよ」少し重い口調でメルが言う。
メルを毛嫌いしていても、彼の言葉がいつも核心を突くことはベルもルシファーも認めている。
「確かに…クナーアンの神、アスタロトでもあるのだから『王』という表現でも間違いではないだろうけれど…アーシュが何であっても、俺の一番の親友であることが俺にとっては重要で、後はなんだっていいんだ。アーシュが望むことをやればいいし、幸せになって欲しいと思う。困った時は、何が何でも精一杯助ける。それだけのことだ」
装飾のないベルの言葉は、いつもアーシュを勇気づけた。
そういうベルの姿勢をルシファーは尊敬する。自分がベルの立場であったら、ベルのように何の見返りも求めず、ただ無心にアーシュの為に尽くすことができるだろうか…
「僕は…さっきメルが言ったことを考えてみたよ。僕にだってアーシュへの独占欲はある。僕一人を愛し続けて欲しいと思うこともある。けれど、僕が君を縛ることで君が望むものを諦めたら、僕にはもう君を愛す資格はないんだよ。…僕は自由な君が好きだ。僕の愛は君に束縛されてはいるけれど、君の重荷になる気はないよ。男だしね」
「セキレイ。俺がイールを愛したとしても、君への愛が薄らぐわけではないよ。…これって俺の勝手な言い草になるのかな?」
ルシファーは頭を振って否定した。
「…イールさまはずっと君を待ち続けられたんだ。イールさまには君しかいない。アーシュにしかイールさまを助けることはできないんだ。…僕には僕を愛してくれる両親、『天の王』とクナーアンの友人たちと沢山の仲間がいる。だから君が居なくても大丈夫だ」
「…」
「君と別れて一番辛かった時、僕を救ってくれたのはイールさまだった。イールさまの慈悲の愛が僕の心をあたためてくれた。…僕は心からイールさまと君の幸せを願っているよ」
「…わかったよ、セキレイ。でも正直に言えばあまり自信はないんだ。18年もほったらかしにしていたことをイールはきっと怒っているだろうからね…生まれ変わった新しいアスタロトをイールが受け入れてくれるかどうかはわからないけれど…精一杯尽くしたいと思っている」
「うん。きっと…大丈夫だよ、アーシュなら」
ルシファーはアーシュを心配させまいと、精一杯の笑顔を見せた。
アーシュはそんなルシファーをどうしようもなく愛おしくなってしまう。
「セキレイ…キスさせてくれる?再会して一度も君の口唇に触れていないんだけど…」
「え?…今ここで?」
「ベルもメルも他人じゃないさ、ねえ?」
「どうぞ、好きにしたら」と、メル。
「後ろを向いているよ」と、ベル。
アーシュとルシファーは顔を見合わせ、お互いの身体を抱きしめた。
4年ぶりの懐かしさと、昔よりは遥かに成長したお互いの身体の線を確かめながら、口唇を合わせた。少しだけ舌を絡ませ、味わい、そしてゆっくりと離した。
「セキレイ、愛している。四歳の誕生日に君と出会い、片時も離れずに過ごしてきたからこそ君への愛が特別なのだろう。時は…年月は愛の色や形を変えてしまうのだろうか…今の君と、4年前に別れたあの時の君への気持ちは同じだろうか…きっと違う筈だ。それでも…君が愛おしいよ。これからもずっと一緒にいられたら…と、思っている。だけど忘れないでくれ。君が俺の幸せを祈るように、俺も君が幸せじゃないと絶対に嫌だ。でも…大丈夫だと思うよ。…君は独りじゃないから」
アーシュの黒い眼に銀河の星が瞬いて見えた。
彼は未来をみているのではないか…と、ルシファーは思った。
「アーシュ…君は…」
「大丈夫、俺を信じて。俺が戻るまで、ベルとメルを頼むよ」
「アーシュ…」
「ほら、ヨキが来たよ。あんなに息を切らしてさ。急がなくてもいいのに…ホントに良い男だねえ~」
「お待たせしました」
ヨキは手に持った外套をアーシュの肩に羽織らせた。銀朱色のタフタ生地に金糸の刺繍を凝らした上等のローブだ。
「あったかいね」
「アスタロトさまがアースから持ち帰られた生地を使って、イールさまと御揃いにお作りになったのです」
「そう…イールは怒らないかな。勝手に使ってしまって…」
「ご自身の物を身に着けられるのに、後ろめたく思うこともありますまい」
「…」
アーシュは万全の信頼に満ちたヨキの瞳に勇気づけられていた。
「ありがとう、頑張るよ。…じゃあ、行ってくるね」
「「…どうやって?」」
ヨキとルシファーが同時に疑問を投げかけた。
「これだよ」
アーシュは懐に入れた布きれを取り出し、その中身を手の平に置いた。
「まさかアーシュ、携帯魔方陣を使うのか?」
「携帯、魔方陣?」
「そう、セキレイも覚えているだろ?スバルの事」
「ああ、あの東洋系のひきこもりだろ?」
「そのひきこもりが発明した魔術アイテムだよ。元々スバルはずば抜けた才能を持っていたからねえ」
「使うって…アーシュ、一度くらい試したのか?」
「いや、今から試してみる」
「おい、危険じゃないのか?」
「ベル、誰に言ってるんだよ。魔術師アスタロト・レヴィ・クレメントのずば抜けた魔力なら、できないことなどあるものか」
「自信過剰と矜持が売りのアーシュだもの。それに見合う仕事をしてしまうのだもの。感心はしないが信頼しているよ、アーシュ」
「ありがとう、ベル」
「でも心配はさせておくれよ。君を信じている者は皆、同時に君を案じているんだからね」
「了解した。大丈夫、うまくやれるさ。じゃあ…」
アーシュは魔方陣が描かれた円盤を空中に軽く飛ばした。
円盤はアーシュの頭上、二メートル程の上空で止まりアーシュが指で示すと魔方陣が七色の光を帯びて、回り始めた。魔方陣が放つ虹の光がアーシュの全身を包み込んだ。
天と床に向け、広げたアーシュの手の平に次第に光は集まってくる。その光を持ったまま、アーシュはゆっくりと両手を胸の前へ合わせた。
その瞬間、白く光ったアーシュの姿は消え、天井の円盤がクルクルと回り続け、そして円盤もまたふっと姿を消してしまった。
「あ、あれがアーシュさまの魔法?」
「ヨキは初めて魔法を見るのは初めてですか?」
「いえ、何度か…でも、イールさまもアスタロトさまも滅多なことでは人前で魔法を使われたことはありませんから」
「しかし、見事なアーシュの魔術だねえ~。見惚れちゃったよ」
「メルだって次元を旅しているんだろ?魔術師としては高位じゃないか」
「それだって…アーシュが導いてくれたからだよ。…アーシュがいなければ僕は自分の道を見つけることはできなかったんだ。アーシュが僕の人生を救ってくれた…だから、僕はアーシュの為だったら命を捧げることだって厭わないんだ。…まあ、彼は僕の命など欲しいとは思わないだろうけどね」
メルは見えないアーシュの影を追うように、薄くたなびく雲の向こうを目を細めて見つめた。
「では私は仕事に戻りますので、後はゆっくりとお寛ぎください」ヨキは明るい声で言う。
「あ、僕も行きます」
「ルシファーはしばらくはお客様のお相手をお願いします」
「でも、十日後には収穫祭が始まります」
「そうですね~。そろそろ準備を急がないと間に合わなくなりますね。…では今日だけルシファーには休暇を差し上げます。お友だちとゆっくりと過ごして、明日から仕事に励んでください」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ。それでは失礼いたします」
ヨキはベルとメルに丁寧に頭を下げて、本殿の方へ戻っていく。
ヨキの後姿をちらりと横目で流し、メルは両腕を上げ、大きく伸びをした。
「収穫祭って?」
「ああ、神々の降誕日と大地の収穫を祝って、クナーアンの人々が神殿に集まるんだ。年に一度のお祭りだよ」
「へえ~、そりゃ、大変そうだ」
「イールさまとアスタロトさまを許可なしに拝見できるから、人々の歓声で埋め尽くされるよ」
「え?でも…アスタロトは居ないんじゃ…」
「イールさまが魔術を使って、アスタロトのホログラムを作り出していたんだ。大抵の民衆はそれをアスタロト本人だと信じている」
「なんだ、イールも大層な詐欺師じゃないか」
「神さまを詐欺師とか言うな!」
「褒めているんだよ。まあ、何にしてもアーシュが戻るまではここで待つしかないわけだね。僕はこの星の文化や歴史の研究やら色々とやりがいがありそうだから飽きないと思うけれど…」
「…ルゥ、大丈夫かい?」
ベルは俯き加減に暗い顔を見せるルシファーを案じた。
「うん…なんだか、アーシュが最後に言った言葉が気になるんだ」
「何が?」
「『君は独りじゃない』って…。あんな言い方…まるでアーシュがたった独りでいるみたいじゃないか…」
「そんなに重い言葉でもないと思うけど…」
「バカだな、君たち。アーシュは独りだよ。アーシュはいつだって独りで戦ってきた。それも自分の為じゃない。好きな人たちを守るために、幸せにするために、彼は自分の魔力を惜しげもなく使うんだ。それがアーシュの性分なんだから、仕方ないことさ。そうさ、古今頂点に立つ者は、際立った力を持つ者は、王者は、いつだって孤高であり、輝ける陽の元であり、そして、誰の力も必要としないんだから」
「…」
ベルもルシファーもメルの言葉にある種の戦慄を覚えた。
ああ、それは確信だったのだ。
いつだってアーシュは…誰かの為に、自らの魔力と頭脳で、たったひとりで戦ってきたではないか。
誰の力も借りずに…
「…アーシュは見返りなんか求めない。昔も今もこれからだってアーシュはひとりきりで戦って…そして、死んでいくんだ」
「メル、不吉なことを言うなよ」
「何故?誰だって死ぬんだぜ?アーシュだけじゃない。僕たちだって死んでいく。それが自然の摂理だ。…そして摂理に逆らっている不死の神、イールもまたアーシュの死によって、その不死の命の鎖から解き放たれるんだ…」
「どういう…ことだ?」
「昨晩、奥の院の学習室から本を持ち出して一晩中読んだのさ。秘蔵書ってやつだな。…このハーラル系の惑星のそれぞれのふたりの神は不死ではあるが、どちらかのひとりが死ねば、残りのひとりも同時に死ぬ…と、記述があった」
「そんなこと…僕は、聞いてない」
「この惑星の住民には口外できないだろう」
「だけどアーシュは本当に神なのか?…それとも人間なのか?もしアーシュが普通の人間と同じ寿命だとしたら、イールって神はアーシュが死ぬ時に一緒に死ぬことになるよな。そしたらこのクナーアンに神さまは…」
「存在しなくなる」
「…」
「やめてくれ。クナーアンにとってイールとアスタロトのふたりは至上の存在だ。神はこのクナーアンの光なんだぞっ!」
「落ち着けよ、ルゥ。真実かどうかはわからないことだし、どっちにしろ、死ぬことなんてまだ先のことだよ」
「う…うん」
慰めようと肩を抱くベルとルシファーは遥か遠い、霞む峰を見つめた。
今頃、アーシュはあの崖の上に立ち、未来を切り開く道を探し、歩き始めようとするはずだ。
彼の揺るがない精神は、きっと傷ついたイールを救い上げてくれるだろう。
そうでなければならない。
願わくばイールの愛が、アーシュの孤独を埋めてくれることを…
ルシファーもベルもそう祈らずにはいられなかった。