Phantom Pain 10
10、
ルシファーが月に一度、自宅から神殿に通うようになって半年が過ぎた。
イールと語らい始めると時間を忘れることも多く、いつの間にか日が傾いている。片道半日の道のりとは言え、帰宅は夜中になる。だから、度々泊りになる事も多い。
神殿の近くには参拝に来た人の為の宿泊所もあり、不便はない。翌日になり、家に帰り着くと両親は嬉しそうにルシファーを迎え入れる。
両親にとってルシファーが神殿へ通うことは、何よりも喜ばしいらしく、突然異次元から帰ってきた息子の戸惑いを、クナーアンの神への信仰が救ってくれるのだと信じている。
勿論ルシファーはイールとの対面やアーシュについてなど一切親には話さなかった。
親を信じていないというより、これから起きるであろういざこざに彼らを巻き込みたくないという気持ちが強かった。
ルシファーは何故自分がアーシュに呼ばれ、このクナーアンから連れ去られたのかを考えてみることがある。結局、ルシファーの魔力はクナーアンの世界には不似合いだったからではないだろうか…。
この世界で魔力を持つ人間がルシファーだけだとは限らないが、ここで生きていく限り、つまりイールとアスタロトの神々により守られている限り、魔力などは不必要なのではないだろうか。
(だが今やクナーアンの神はイールただひとりだ。もうひとりの神、アーシュは、いつかはこの世界に帰ってくるだろう。その時、この世界が今のように平穏なままでいられるのだろうか。
それとも…自分の力はこの世界ではなく、サマシティの為に使う為のものなのだろうか…)
ルシファーは悩んだ。
傍らで自分を見守る両親の為にも、魔力やアーシュに関することは決して口にすまいと誓った。
彼らにはクナーアンの民として穏やかな日常を過ごして欲しかったのだ。
「イールさまは、アーシュをこのクナーアンに戻らせることを望まれませんか?」
クナーアンに戻って一年ほど経った頃、ルシファーはイールに尋ねたかったことを打ち明けた。
アーシュはルシファーが心の底から自分を求めれば(魔力を使って)、必ず迎えに来ると誓ってくれた。
アーシュと離れて一年経ったルシファーの恋しさもあるが、何よりアーシュへの想いを募らすイールにルシファーは同情した。
ルシファーは心からイールの為に何かをしてやりたいと願っていた。
それまでのルシファーの「神」への概念は、見る事も手に触れる事もない想像上のモノでしかありえなかった。だが、彼と共に生きた恋人のアーシュはクナーアンの「神」だったのだ。
そして目の前のイールはアーシュと一千年以上も共に寄り添い、このクナーアンを支えてきた神である。その事実を変えることなどできない。
まだ15年しか生きていない少年ルシファーには、まばゆく輝く神は崇拝せずにはいられない対象であった。
イールの神秘的な美しさや気高い御姿は存分にルシファーを惹きつけたし、接する回数が増すごとに、イールの抒情的な穏やかさや人を想う繊細な心配り、そして時折見せる透明なガラス細工のような儚さを持った表情に、たとえ神であり、恋のライバルであろうと、イールを支えてやらなければならないと心から思った。
それ故、もしイールがアーシュを望めば、サマシティから彼を呼び寄せ、自分が身を引いてイールが幸せになるのならそれも致し方ないとさえ自身に言い聞かせてきた。
「アーシュが戻れば、イールさまも安心なさるでしょう?」
「それはルシファーの願いだね」
「いえ…」
イールの言葉にルシファーはあわてて俯いた。時折イールは意地悪なことを言ってルシファーをからかう。なんだかそれがアーシュの言い草にも似て、ルシファーは妙に快い。
「アーシュに会いに行こうと思えば、私にもそのアースと言う惑星に行く力はあるのだよ。場所もルシファーが示してくれたのだからね。でもね…それを私はしたくないのだ」
「何故でしょうか?」
「アーシュが選んだことだからだよ」
「…」
「アースへ行ってしまったことも、記憶を失い人間として生まれ変わったのも、今15歳の少年として生きていることも、全部アーシュが望んだものだ…と、私には思えるのだ。それを私の勝手でクナーアンに連れ帰るわけにはいかない」
「イールさま」
「会うだけでもと思ったこともあるが…記憶を失ったアーシュに私の想いを責めたてても…可哀想だからね…」
そう呟くイールが誰よりも悲愴に暮れ、今にも泣きそうな顔をしているのだと、自覚しているのだろうか…
だが、この高貴な神は人間の同情など望んではいないだろうと、ルシファーは感じていた。
二年後、ルシファーは神殿で働くことを希望した。
彼の学力と知識はクナーアンの学校のレベルとは比較にならず、今更同学年と机を並べる必要はなかった。ルシファーは両親の許可をもらい、神殿での神官見習いとしてイールに仕えることになった。
イール神近くに仕える神官見習いになったルシファーに対し、神官たちの多くは良い顔をしなかった。ルシファーがアスタロトの友人だと知る上位神官たちは猶更だった。
神に直接仕える者は、神官の中でもほんの一握りであったし、誰もが望んでやまない職位だったからだ。
ルシファーは、神官たちの嫉妬や羨望の目に晒されながらも、決して奢ることなく、真摯に務めることを旨とした。
そして時が経つに連れ、灰汁のない素直な、誰が見ても好感のもてるルシファーは、いつの間にか神官たちの信頼を勝ち得ていたのだった。
神殿で働きたいというルシファーの意思を、イールはヨキから聞いた。
毎月のように対面しているにも関わらず、ルシファーはイールを充てにはせず、正規のルートで応募したのだ。
ヨキから聞いた時、イールはルシファーの慎ましい行動に好感を持った。そして彼を自分の傍で仕えるように命じた。
多くの難しい感情をルシファーに感じてはいても、彼はイールの思いと共有できる貴重な人間であろう。そして、彼が傍にいれば、アーシュの出現も早いかもしれない…と、イールは考えたのだった。
この打算的な考えをイールは神らしからぬものだと自身を嗤ったが、今までもアーシュに関しては神の役目などどうでも良くなるほどに感情的であり、またアーシュへの欲望に忠実であったため、イールに戸惑いはなかった。
ルシファーと言えば、イールの傍近く仕える使命によほど感銘を受けたのか、懸命にイールの為に精魂を尽くした。
「ルシファーはいい子ですね」
寝衣の着替えを手伝うヨキが言う。
「彼は…ヨキに似ているところがあるね」
「私はあんなに素直で良い子じゃありませんでしたから」
「そうだったね。…幼い頃はなかなか心を開かず、アーシュもどうしたものかと頭を抱えていたよ。ヨキには決して見せなかったがね」
「神様を困らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「アーシュは神としてではなく、愛する者として君を守りたかっただけだ。…私も同じだよ、ヨキ。頼りになる神官になってくれて本当にうれしいよ」
「…私の願いは、一生涯イールさまとアスタロトさまにお仕えすることです」
感極まり涙を浮かべながら低頭するヨキに、イールはふと質問したくなった。
君は自分とアーシュとどちらにより心から仕えるのかと。
ヨキは「同じだけの心を砕いてイールさまとアスタロトさまにお仕えいたします」と、答えるだろう。
だがヨキの本心は違う。
彼のいちばん深い心には、常にアスタロトへの深い想いがある。彼は無意識にアスタロトを愛しているのだ。それは「欲望」とも呼ぶ。
だが、ヨキがいくらアスタロトに恋し、欲望を抱いても、人間である限り彼はその想いを果たすことなどできないのだ。
(アーシュは私だけのもの。どれほどの人間がアーシュに恋い焦がれようと、あらゆる恋心も絶対に適わぬ。アーシュの身体も心もすべて私にしか繋がることはない…)
それはクナーアンの神である恋人たちの真実の姿だった。
だが、今、このベッドに横たわるアーシュは、もうイールだけのものではなくなっていた。
生まれ変わったアーシュは、イール以外の者たちと恋をし、身体を繋げ、それを楽しんで生きてきたのだ。それを笑って許せるほどアーシュへの愛が緩んでいたなら、イールにも救いがある。だが、イールには耐えられなかった。
イールの存在も知らぬまま、このクナーアンに舞い戻った半身を許せるはずもなかった。
このアーシュの現実の姿に、今まで耐えていたイールの矜りは悉く打ち砕かれたのだ。
イールは銀に輝く月にかざした短剣の切っ先を、眠るアーシュの胸の上に立てた。
「アーシュ、これが、おまえが心から欲しがっていたミセリコルデ(慈悲の剣)だ。おまえがあれほど望んだ『死』がこの短剣で適うのだよ…私はもうとっくにおまえと死ぬ覚悟はできている。さあ、ふたり一緒に消えてしまおうか…」
ミセリコルデを両手で握りしめ、アーシュの胸を貫こうとイールは振りかぶった。
そのまま力いっぱい両手を下せば、アーシュとイールの身体は忽ちに砕け散り、この寝室の空中に金砂となって舞い上がるだろう。
悔いはない。
イールだけのアーシュをこれ以上誰にも触れさせることはなくなるのだから…
イールの両手は振りかぶったまま、じっと動かなかった。
下ろそうとした瞬間、イールは眠るアーシュの顔を見てしまったのだ。
安らかに眠るアーシュを…
イールは涙した。
(…初めからわかっていた。私にアーシュを傷つけることなど…できるはずもない。私にできるのは、ただおまえを愛することだけなのだ…)