Phantom Pain 8
8、
立ち上がったイールは、アーシュの寝顔をひとしきり見つめた後、袂から鞘の無い短剣をそっと取り出し、窓から差し込む月の光にかざした。
銀色の光沢を帯びた切っ先は、まだ何も傷つけたことのない無垢さに輝いた。
イールはもう何年も前から、不死の命を持つ神が命を絶つことのできる唯一の剣、ミセリコルデ(慈悲の剣)を手に入れていた。
天の皇尊に頼み込んだ結果だったが、即ちそれは天の皇尊がイールの「死」を望んでいるようにも思えて、それを手にした時、イールは多少白ける思いがした。
あれ程まで「慈悲の剣」を欲しがっていたアスタロトはこの場には居ず、「死」を否定していたイール自身がその「死」を請うことになるとは…
約束の日にアスタロトは帰ってこなかった。
今まで数えきれない程に放浪を繰り返したアスタロトだった。だが、どの次元に旅立っても、アスタロトはイールと約束した期日を破ったりはしなかった。
帰ると言った日が翌日になるまで、イールは次元の扉の前でじっと待っていた。翌日もイールは微塵ともせずにただ待ち続けた。
だが、自身の不安を神官たちに気どられることを怖れたイールは、その場を後にして、何もなかったように日常を送ることに心掛けた。
五日、十日と経っても、アスタロトは帰るどころか、その気配すら感じることがなかった。
何故、アスタロトが戻らないのか…
イールには思い当たる節がない。
アスタロトの身を案じようにも、その必要がないことは、イールには重々わかっていた。
アスタロトがヘマをして、どこかの悪人に拘束されたり、酷い拷問を受けようが、あのアスタロトがそれを楽しむことはあっても、イールとの約束を違えてまでも彼らに同調する必要はないし、逆にどんな贅沢な接待や魅惑的な宝物を授けられようとも、アスタロトにとってイールの信頼ほど大切な宝物は無いはずだった。
イールはアスタロトを絶対的に信頼していた。
だが、アスタロトが帰らない事実だけが、イールを不安にさせた。
もし、ありえぬことだったが…もし、何か事があり、アスタロトの命に危険を及ぼすものであるなら、その半身であり、どちらかが命を落としたら死ぬことになるはずのもう一方のイールに身に何かの予知があってもいいはずである。
だが、イールの身体には違和感を感じるものは何一つ察知できなかったのだ。
(アーシュは無事だ。だが、戻らないとは一体どういうことだろう。退っ引きならない事態に囚われているとしか考えられないのだが…)
ひと月経つとさすがに神殿に勤める者たちも何があったのだろうと不安な顔を見せ始めた。
イールは彼らの不安をひとつずつ魔法で取り除かなければならなかった。
「アスタロトはいつもの放浪癖で色々と出回っているんだ。私が彼の代わりを務めることにするよ」
神の仕事はすべてイールが担うことになった。
季節ごとに行われる人々の拝謁には、アスタロトのホログラムを使い、アスタロトの不在を気づけないようにした。疑うことを知らぬクナーアンの人々は、ホログラムのアスタロトを有難く拝み続けている。
拝殿の下でふたりの神を崇め、祈りと感謝の言葉を綴り、喜ぶクナーアンの住民たちをイールは複雑な思いで見つめていた。
この惑星の住民たちに神の存在意義を変えることができるのだろうか。ただの概念としての神としてあり続けることが、この民衆の望んだものなのだろうか…
(確かにアーシュの言うとおり、クナーアンを組み立てる大まかな構築は済み、人々の生きる土壌は出来上がっている。神として何かを導く術は終わり、またそれを管理をする時期でもない。だが、概念のしての神が必要なら、その存在もまた価値があるものではないのだろうか。アーシュが言う別次元の世界が国の長を必要としているように、この国に住む者たちが、私たちを必要としているのなら…)
イールは自分の考えが不毛に思えた。
(こんな風に考えているとしたらアーシュはきっとがっかりするだろうな…)
今や神としての役目に飽いたアスタロトに、どう論じても説得はできないような気がしていた。
クナーアンの住民にとって実在する神は必要だが、クナーアンに飽きた神(我々)は死ぬことを許されるべきだ。
(つまりは、そういうことなのだろう。…天の皇尊も酷なことをしてくれたものだ。いっそ感情などない神を産みだせば良かったものに…)
イールは隣に座る温かみのないアスタロトのホログラムを睨んだ。
(アーシュ、一体どこに行ってしまったんだ。私を置いて、私をひとりにして…)
季節が移り変わっても、アスタロトの姿はクナーアンには無かった。
…終わりのない未来を恋しいと思うかい?
あの最後の夜、涙を浮かべたアスタロトの言葉は、例えようもないほどに悲しく、絶望に喘いでいた。
イールにはアーシュの望みを叶える力はなく、ただアスタロトの身体を抱きしめるしかできなかった。
生き続けることの絶望など、誰がわかるものか。
イールにさえ、アスタロトの本心を見通すことなどできなかったのに。
(私にはアーシュの本当の望みを与えることができなかった。もっとアーシュを癒す力があったなら、もっと彼を救う力があったなら。死を希うこともなかったかもしれないのに。私には一緒に死ぬことしか考えつかなかった。ああ、だが、こんなことになるのなら、あの時、アーシュと一緒に死んでしまえば良かったのだ…)
神としての役目を終えたイールとアスタロトには、安らかな墓場が必要だったのかもしれない。
時が経つほどに、イールの悲しみは深くなった。
帰ってこないアスタロトを、何度も探しに行こうと思ったが、それは果たされなかった。
イールは望めば、次元への航法も適わぬはずはなかったのだが、イールの無意識がそれをできないものにした。
イールは怖かったのだ。アスタロトの意志が。
この状況で、アスタロトが死んだのではないのなら、アスタロトが故意にこれを望んだのであれば、アスタロトにとって、イールは必要ではなくなった…ことにならないだろうか。
イールはぞっとした。アスタロトあってのイール自身だと信じていた。
アスタロトがいなければ、イールは息をする意味などわからない。
この身体すべては、アスタロトを抱き、愛撫し、彼と悦楽を分かち合う為のもの。
この心はアスタロトを愛し、その苦しみを癒し、そして未来永劫共に生きる為のもの。
それがひとりよがりの下らぬ夢だったとは、思いたくはなかった。
アスタロトは帰ってこない。
だがクナーアンの地上は豊かに実り続ける。
すべてはアスタロトが旅立つ前に、大地に与えた豊穣の魔力によるものであった。
恵みは永遠のものではない。だが、アスタロトは己のできうる力で豊穣の神としての役目を果たしきったのだ。
それがまたイールを辛くさせた。
アスタロトは初めから…決めてしまっていたのではないだろうかという疑念が浮かんだ。
イールにさえ心を打ち明けず、神としての役割を果たし、アスタロトは自由への未来を選択したのではないだろうか。
その未来にイールの姿など、アスタロトには映っていなかったのではないのか…
秋の実りはイールを一層惨めにさせた。
山間の色鮮やかさはアスタロトの豊かさの恩寵だ。人々の実りを祝う歓声も、神への感謝の声もイールの胸を抉るようだった。
イールは自分の未熟さと、アスタロトへの憎悪を持つ自身を憎んだ。どうにもならぬ感情を誰にも見られぬよう、イールは自分の姿を隠すことに必死になった。
そして、その後に来る冬が愛おしく思えた。
人々の声は寒さに縮こまり、動物たちも温かい穴倉に眠る。
イールは天上のヴィッラでひとり憂う日々が多くなった。
時が過ぎていく中、イールのアスタロトへの想いは変わらぬものと変わったものの形を作っていく。
即ち、アスタロトへの不変の愛と信頼、疑念と憎しみ…。
独り寝の寂しさはイールを孤独以上の耐え難い渇望を与えた。
恋しいあまりにアスタロトを想いながら、自分を慰める。
イールは「senso」の魔力を使い、ふたりがたびたび辿ったあの空間へ向かった。
あり得ないとはいえ、もしかしたら、アスタロトを見つけ出すことができるかもしれないという儚い一縷の望みを持っていたのは確かだった。
深淵の空間に漂うふたりの楽園は、ただ独りで立つにはあまりにも静か過ぎた。
青々と茂る薄荷草の草原も、イールの花だと名づけてくれた桜の木も枯渇した有様を晒し、アスタロトとイールの愛を欲しがる様に悲愴に喘いでいた。
勿論、アスタロトの影など見当たりはしない。
イールは昏く静かな宇宙の岸辺に有る孤独の意味を問うた。
果てしなく広がる銀河、その向こうに見える煌く星屑の渦には、それぞれの文明や生きる者たちが数え切れぬほどに有るだろう。それは希望であり、未来の煌きだった。
だが、イールにはその光も未来も見えなかった。
イールを生かせるものは、たったひとつ…アスタロトの愛でしかなかった。
神殿に戻ったイールは、拝殿に登り、天の皇尊に奏上した。
アスタロトがいなくなった事の仔細を打ち明け、ひとりでは生きていけないと訴えた。
そして「死」が欲しいと願った。
天の皇尊は姿こそ見せなかったが、イールの目の前に銀の短剣、ミセリコルデを置いた。
イールはそれを手に取り、胸の前に切っ先を向けた。
「お待ちなさい、イール」
控えていた天の皇尊の使いであるミグリが言葉を掛けなければ、イールは感情に任せ、躊躇なくミセリコルデを己の胸に突き刺していたかもしれない。
「おまえの死は、アスタロトの死でもあるということを忘れたのではなかろうな」
「それを承知しているからこそ、この運命にケジメをつけたいのです」
「おまえひとりの運命ではあるまい。どこかで生きているアスタロトの運命をも、イールは背負っているのか?」
「…」
「ひとりで待つ身の辛さを耐えかねるのもわかる。神は孤独だ。だからこそ、天の皇尊はひとつの惑星に番いの神をお与えになったのだからな」
「アーシュは…クナーアンを捨てたのです。クナーアンの神では無くなってしまったのです」
「では、新しい神を与えてもらうか?イール。おまえが欲しがれば、天の皇尊はおまえにふさわしい半身を産んで下さるかもしれない」
「…」
ミグリの提案にイールは一笑し、首を振った。
「アーシュの代わりなどいらない。我が半身はアーシュだけだ。私の愛はアーシュだけのものだ」
「そうか…ならば待つしかないではないか、イール。…そうであろう?おまえの愛したアーシュなれば、必ずおまえの元へ戻ってこよう。それを信じることこそ、おまえの選ぶ運命ではないのか?」
「…私には、死を選ぶ権利はないのか?」
「いや、今がその時ではないということだけだ。いつかは…その時がくる。それは幸福な死でなくてはならぬ。おまえの為にも。おまえたちを創ったクナーアンの為にも…」
「クナーアンの…」
「そうだ。おまえたちはクナーアンの神なのだぞ。努々(ゆめゆめ)決して忘れるな」
時が経つにつれ、神殿に勤める者たちも、アスタロトの不在に気づき始めた。イールはもう偽ることを止め、アスタロトが戻れない理由がわからぬこと、どこかに生きているということなどを説明し、戻ってくるその日を皆で待ち続けようと神官たちに話した。
十分な説明ではなかったにしろ、イールを問い詰める神官はいなかった。誰の目からもイールの衰弱がわかるからだ。
神官たちはひとり残されたイールの身を案じた。
ひとりで生きる神など、ハーラル系には存在しない。
イールの心細さと裏腹に、神官たちを気遣い、懸命に神としての役割を果たそうとする姿は、傍に仕える誰もが感銘を受けた。
いつか帰るであろうアスタロトの留守を、イールと共に守らなければならないという一体感も生まれつつあった。
イールの傍近く仕えていたヨキは、イールが唯一弱音を吐く相手だった。彼の苦しみを一番理解していたひとりであろう。
他の者には言えぬアスタロトへの苦言を冗談交じりにふたりで分かち合うこともあった。大らかで、また細やかな心遣いが利くヨキの性格がイールにはありがたかった。
だが、そうやって楽しんだ後に襲ってくる孤独は、イールを崖から突き落とすほどに残酷であった。
その度に、あのミセリコルデをキャビネットから取り出す。
(慈悲の剣とは良く言ったものだ。この剣の存在が私の拠り所になろうとは…)
イールは短剣をそっと抱きしめた。
鋼の無機物な冷たさは、イールの血を欲しがっているような気がした。
(そうだ。その気になれば私はいつでも死ねる。アーシュの命は私のものなのだ…)
その捻じれた想いだけがイールの生きる気力であった事実は、誰も知らなかった。
アスタロトが居なくなって14年が過ぎた頃、時は動き始めた。
自室で休んでいるイールに、血相を変えたヨキが飛び込んできたのだ。
「どうしたんだい?ヨキ。また神殿に集まった民衆が争いでもしたのか?」
「ち、違います。イールさま。これを、これを見てください」
目の前に出された紙切れが、アスタロトが次元から持ち帰った実物を写す機械、カメラを現像した写真であることはすぐに理解した。
クナーアンには写真は存在しない。と、いうことはこの写真は別の世界からのものだ。
さて、何が写っているのだろうか…と、イールはヨキから受け取った写真を目に映した。
「これは…」
イールは息を呑んだ。
「アスタロトさま…ですよね。アスタロトさまの御姿ですよね、イールさま」
興奮したヨキがアスタロトの名を何度も口にする。
(これが?…まさか、本当にアーシュなのか?)
写真の中のアスタロトに似た眼鏡を掛けたまだ幼い少年がアスタロトであることを、イールはすぐには認めたくない思いで見つめていた。