Phantom Pain 7
7
食事の皿はとうに片付けられていた。メルは空になったティーカップに何度目かのお茶を注ぎ込み、ベルはルシファーをただ黙って見守っている。
ルシファーは一息付き、冷たくなった手前のお茶を一気に飲み干した。
「それから、僕は何度となくイールさまとお会いするようになり、神殿へ行く回数も増えて、神官やお世話をする方々と仲よくなってね。それで僕もここで働きたいって願い出て、今は修行中の見習い神官なんだ」
ルシファーはベルに気まずそうに笑いかけた。
「天の王」学園の生徒であり、三人で共に卒業しようと誓った日々を忘れていたわけではなかった。ルシファーは今の自分の姿をベルに責められている気がしたのだ。
ベルはルシファーの気持ちを察したのだろう。そのことには触れず、トゥエ・イェタルから聞いたアスタロトがアーシュとして生まれ変わった経緯を説明した。
ルシファーはベルの話を聞いても驚かなかった。
「やはりイールさまのおっしゃられたとおりだ。アーシュは…アスタロトさま自身の魔法によってアーシュとして転生したのだろうと言っておられたから…」
「それで?」
それまで黙って話を聞いていたメルが、テーブルの向こうから口を開いた。
「それで君は、神様であられるイールさまに、君自身がアーシュの恋人だとちゃんと話したの?」
「…」
「イール神はアスタロト神の…アーシュの恋人ってことだろ?ルゥは言うなれば恋敵になるんだよね。キスもセックスも数えきれないほどアーシュとしたって言えた?ルゥだけじゃない。僕もベルも…愛人と親友と恋人、それぞれ立場は違っても、アーシュと愛しあったし、肉体関係もある。イールが僕たちを歓迎する立場ではないだろう。それとも神様は嫉妬みたいな俗な感情なんて持たないのかな~」
ルシファーにとって最も触れられたくない部分を、よりにもよって嫌いなメルから責められるのは、不本意だった。
「イールさまは…僕が直接言わなくてもすべて知っておられるよ。だけど口にはなさらない。決して自分の感情で人間を不愉快にはされない御方だ。…僕はイールさまに申し訳なく感じている。イールさまの大事な恋人を奪ってしまったことを…」
「じゃあ、ルゥはアーシュをイール神に譲るってことだね」
「そ、んな簡単に決められるはずもないだろっ!僕だって…アーシュを愛している」
「だけどイールには勝てないってことだろ?」
「メル、それ以上ルゥを傷つけるのはよせ。ルゥはひとりで見知らぬ土地で誰にも相談できずに苦しんでいたんだ」
ベルの言葉にメルは両手を軽く上げて、そっぽを向く。彼は自分がアウトサイダーであることを認識している。これ以上、彼らの複雑な感情に踏み込む気などないのだ。
「じゃあ、そろそろ休ませてくれないか?アーシュじゃないけど、僕も…ベルも殊の外魔力を使ったんでね、疲れてるんだ」
「わかった。客室はこちらだよ」
三人は立ち上がり、ルシファーの案内でそれぞれの部屋に向かった。
灯りのない廊下を出ると、外壁をぐるりと囲む回廊に出る。
そこから見渡す夜景は、サマシティでは見たこともない幻想的な光景だった。
小高い山に茂る闇色の森の形と、群青の空に天から落ちるように流れる銀河の星屑。天上には見事なまでの二つの三日月が湾曲した銀ナイフのように輝いている。
カンテラを持ったルシファーが声をかけるまで ベルとメルは立ち止まって、その光景にしばらく見惚れていた。
最初にメルを部屋に案内したルシファーは、着替えや手元用の灯りを説明し、ゆっくり休むように言い残し、部屋を去った。
その隣の部屋に案内されたベルは少し話の続きをしたいからと、ルシファーを椅子に座らせ、自分はベッドへ腰かけた。
「ルゥ…さっきの話だけど…言いにくいのはわかるよ。でも大事なことだから聞いておきたい。君は…アーシュがこれからここで生きていくことに賛成するのか?」
「…」
「俺はイールっていう神様のことはよく知らない。そもそも今のアーシュにとって…アスタロトの過去なんて、関係があるのか?…アーシュは記憶にないイールよりは君のことを愛しているよ。今でも君のことを思い出さない日はないくらいに…」
「僕だって…でもね、ベル。僕はもう君とは違う世界に生きている。ね、この世界ってね、電気がないわけじゃないんだよ。でも僕らの世界みたいに自然を破壊して便利な文明を得る方法を選んでいない。各家が太陽光発電や風力発電だったり、火山の近い場所は地熱を使ってさ。それも僅かなもんさ。過度の文明は人を堕落させるんだって。それを選択し、人間に広めているのはイールとアスタロトなんだよ。アースと同じ大きさの惑星に、三億の人類が暮らしている。イールとアスタロトが作り始めた一千年という年月からすれば、順調なんだろうね。とにかく、僕らの考える神の概念が、全く違うんだ。どちらかというと専制君主的な王様業なんだろうけれど、彼らは特別な力を持っている。僕たちよりも遥かに強大な魔力だ。そしてアスタロトはこのハーラル系12の惑星の神々で一番強大な魔力を持つ神様なんだよ」
「…アーシュが?」
「そうだよ。まさにアーシュが…だよ。彼にできないことはないんだ。そのアスタロトが居なくなったこの星を、もう一人の半身であるイールさまが、この17年間支えている。僕はね…責任を感じてしまう。アーシュの恋人であったこと、独り占めをしていたこと。何も知らずアーシュにずっと甘えていたこと…」
「ルゥの責任じゃない。誰も君を責めるものか」
「…一千年以上…どれくらいの長い時間をふたりは共有し過ごしたんだろう…愛し合ってきたのだろう。それを思うと、僕はやりきれないよ。自分のアーシュへの想いなど、ちっぽけなものじゃなかったのかって…感じてしまうんだ」
「ルゥ…」
「クナーアンは、この星はイールとアスタロトのおかげで、平和に保たれている。彼らの存在がこの星の安定なんだよ。僕の故郷はこのクナーアンだ。もう自分だけの幸せを考えるなんてできないよ…。イールさまにはアスタロトさまが必要なんだ。僕はイールさまの幸せを祈らずにはいられない。だって…だって、アスタロトが自分を生まれ変わらせなければ、イールさまはひとりにならずに済んだんだから」
「そして、アーシュは生まれなかったわけだね」
「…」
この矛盾はどうあがいても解決できようもなかった。アスタロトの気まぐれがなかったら、アーシュは存在していない。アーシュが存在しなかったらベルもルゥも出会うことなどなかったのだ。
それを幸福と呼ぶのか、否かは簡単だった。
「俺はアーシュが存在してくれて良かったと思う。俺にとって大事なのは17歳、いや、もうすぐ18だったね。高慢で情にもろくてカリスマに満ちた俺たちの幼馴染みのアーシュだからね。俺は魔術師としての自分の未熟さを知っている。だけどアーシュに必要なのは魔力ではなく、彼を想う心だってことも知っているんだ。アーシュが俺たちと一緒に『天の王』に帰ることだけを…俺は信じている。それに…もしそれが適えられなかったとしても、俺はアーシュを、運命を恨んだりはしないよ」
「…君は…」
ルシファーはベルを見た。
この友人はなんと歪まない志を持ち続けているのだろう。
三人の中で、一番早く大人になり、家庭の様々な問題を克服してきた。
ベルが長年にわたり、密かな恋心をアーシュに持ち続けていることは、成長するにつれてルシファーも気づいていた。だがベルは己の想いなどおくびにも出さず、自分の恋心を隠して、ルシファーとアーシュの為に心を砕いてきたのだ。
「僕は自分が恥ずかしいよ。自分の利潤ばかりを考えている。…イールさまはね、忘れていた4歳までの僕の記憶を、魔力を使って取り戻してくれたんだ。4歳までの記憶なんて大した量じゃない。でも…イールさまは両親に愛された記憶は大事だとおっしゃって…それなのに、僕は自分だけが幸せに生きていることにちっとも感謝していない。僕は…アーシュがイールさまと会わなければいいとさえ…」
ルシファーは今まで誰にも言えなかった胸の内を、誰かに吐き出してしまいたかった。それがベルであって良かったと心から思っていた。
ルシファーの思いはクナーアンに住む者には許されないものであろう。イールとアスタロトが居てこそのクナーアンの未来なのだから。だが、ルシファーは心の底のどこかでアーシュをイールに渡したくないと…自分だけの恋人であって欲しいと願ってしまう。
「僕は悪党なんだ。良い子のふりをした下劣な人間さ。きっとイールはそんな僕を知っているよ。だけどイールはあざ笑ったりしない。同情はしてもね……僕はきっと彼には勝てないよ」
「ルゥ、俺も君を責めないし笑わない。誰だって自分が欲しいものを簡単に譲れるもんか。相手が神様でもアーシュを付き合った年数はこちらが長いんだからね。早々負けないさ」
「ベルは随分とポジティブになったね。能天気なアーシュに感化され過ぎだ」
「そうかもね。じゃないとあいつとは付き合いきれない」
ふたりはやっと笑いあった。
「おやすみ」の挨拶は、昔どおりに手を重ね軽いキスをした。そしてルシファーが部屋から出ていくと、ベルは重い身体をベッドに伸ばした。
ルシファーを庇う為に、ああは言ったが、ベルはアーシュがここに来た目的がアスタロトとしての役目を果たす為だと知っている。それを適える為なら、アーシュはこのクナーアンとイールを選ぶに違いないと思った。
(アーシュの気性からすれば、彼は神としての役目を果たそうとするだろう。問題はイールがそれを許すかどうかだが…アーシュへの愛がいかほどか、見届けなければならないんだろうけれど…どっちにしてもルゥは辛い立場だなあ…)
「バカか、俺は」
ベルは思わず吐き出した。
(ルゥに同情してる場合か。一番哀れなのは、この俺だ…)
開け放った扉からそよぐ乾いた夜風が、銀の髪を撫でた。
ベッドの端に立ったイールは、深い眠りを貪るアーシュの白い顔をじっと見つめていた。
17年と十か月ぶりの再会だった。
いや、再会ではない。目の前の彼はもうイールの知るアスタロトではない。
イールの半身、永遠の恋人であったアスタロトが望んだ姿になった者だ。
アスタロトは人間になることを望んだ。だが、この眠っている者が人間であるならば、その半身であるイールが何故死なない。
惑星を統治する二人の神は一心同体であり、そのどちらかが死ねば、残りのひとりも必ず死ななければならないのだから。
ならば、この者は神なのか?
それもまた否だと言わなければならない。
神は人間と交わることはない。
この者は、人間の世界で多くの人間を愛し、幾多の人間と交りあったのだ。
(随分な苦渋を舐めさせてくれたものだ)
イールにとって嫉妬は珍しいものではない。イールは常にアスタロトの心を揺さぶるすべてのものに嫉妬していたのだから。
では、この横たわるアスタロトそのものの身体を持つ者は一体なんなのだ…
イールでさえ、その答えを導かせずにいた。
跪いたイールは眠ったままのアーシュの右手を手に取った。人差し指には青く輝く指輪がある。
イールには紅玉の銀の指輪。アスタロトには青玉の金の指輪。
十二歳の時に天の皇尊から頂いた祝福の贈り物だ。
間違いなくこの者は、アスタロトなのだ。
イールはその青い宝石にそっと口づけた。
すべての記憶を思い出し、昔のように愛してくれと、願ったのだ
「アーシュ…アーシュ…私を、覚えて、いるか?」
アーシュの唇に触れ、イールは呟く。
重たげな瞼が僅かに揺れ、アーシュはゆっくりと目を開けた。
二つの三日月の僅かな灯りだけでも、アーシュの瞳の中に、闇に輝く星の瞬きがイールには見えた。
「アーシュ…」
「…君は…だれ?」
それだけを言うと、アーシュは息を吐き、瞼を閉じ、再び安らかな寝息を続けた。
(絶望的だな…)
目を覚ます気がないアーシュを見て、イールは自分を嗤おうと口角を上げた。が、それも上手くいかず、胸を刺す鋭い痛みに息を止めるのだった。
(あの男が自らの魔力によって自分の記憶を捨てたのなら、私にその魔法を解けるはずもないのだ…)




