Phantom Pain 6
6、
アーシュを抱きあげたまま、ヨキはアスタロトの自室へ向かった。
アスタロトの居た部屋は、いつ戻るともしれない主の為に毎日清掃され、リネンも清潔に整えられていた。
クナーアンの夜は早く、部屋の中は薄暗くひんやりとしていた。
ヨキはアーシュをベッドの上に静かに寝かせて、枕元の小さなランプに火を熾した。
眠り姫のように気持ちよく眠るアーシュの白い顔を、ヨキはしばらく見つめていた。
(髪は短くなられだけれど…全くお変りになっていらっしゃらない。何故こんなことになってしまったのか、私にはアスタロトさまの気持ちはわからないが、アスタロトさまが選ばれた道なら、受け入れる他はない。このお方はクナーアンの守り神なのだから。…本当に、ご無事にお帰りになられて良かった)
ヨキはアーシュにアスタロトの寝衣を着せるため、見慣れない服を脱がせた。
アーシュのジーンズに手を掛けた時、その白く輝く細い脚を見たヨキは思いもかけず欲情した。一瞬驚いたが、ヨキはそれを抑える理性を従えていた。
(神であるあなたに欲情するなど、神官としては失格かもしれませんね。でも昔からあなたはそうだった。無意識とはいえあなたの扇情的な魅力に惑わぬ者はいなかったのですから)
ヨキはアーシュの身体に毛布をはおらせ、ランプの灯を消した。
バルコニーへ続く扉を開け、夜空に輝く二つの三日月を仰ぎ、その遠い地平を見つめた。
「イールさま、聞こえていらっしゃいますか?…アスタロトさまがお戻りになられたのです。あなたの半身、永遠の恋人であるアスタロトさまが…早くお会いになってください」
ヨキがイールの心情を想う時、大それたことだとは思うが、エンパシーを感じることがある。イールの悲しみは自分にそれに似ていると…
ただヨキにはアスタロトを想うだけであり、その恋を叶わせる資格はなかったのだ。
(アスタロトさまとイールさまの幸福を祈ることが、私の務めなのだ)
ヨキは溜息を吐き、扉を少しだけ開けたままにし、寝室を後にした。
ベルとメルはルシファーの案内で、簡素なしつらえの部屋へ通された。
テーブルにはスープとパンとワインだけが用意されたが、どれもベルたちを満足させる味だった。
ルシファーは腹ごしらえをするふたりに、ここへ来てからの自分の体験をできるだけ詳しく二人に話した。
あの日、僕はアーシュの描いた魔方陣によって、時空へ飛ばされた。
薄暗い虹色の中を物凄いスピードで移動していたのはわかっていたが、その後気を失ったらしく、目が覚めた時、僕はベッドで寝ていた。
心配そうに僕を見守る目の前のふたりが、僕の両親だとすぐに理解した。
アーシュと共有した「senso」で、彼らを見ていたからだ。
栗毛で僕と同じ瞳の色をした優しそうな父、プラチナブロンドに青い目を真っ赤に泣き腫らし、僕の名前を呼び続ける母。
「お父さん、お母さん…ただいま」
僕は嬉しかった。
僕が待ち望んでいた場所へ帰ってこられたのだから。
僕は家の裏の小川の河原で倒れていたらしく、僕が4歳の時に居なくなった場所と同じだったらしい。
4歳までの記憶は戻らなかったけれど、両親の喜ぶ姿はこちらも戸惑うほどで、本当にありがたいと思ったんだ。
萌黄色の家も目の前に広がる草原もアーシュと見た光景と同じで、僕は時折変な既視感に囚われてしまう。あたかも隣にアーシュがいるような気がしてならなかった。
「アーシュ、君のおかげで僕は今本物の両親に甘えているよ」
優しい両親の愛を感じる度に、アーシュの事を思った。
アーシュは親を知らない。でもアーシュも自分を産んだ親を知りたいと願っていた。
僕に両親を与えてくれたアーシュ。
今度は僕がアーシュの為に何かをしてあげる番じゃないのか…
僕は旅立つ時にベルからもらった写真入りの封筒を出してみた。ベルの愛猫の写真だけではなく、僕らを写した写真も何枚か添えられていた。
クラスの仲間と一緒に写したものから、三人のもの、アーシュとふたりだけの奴…アーシュがこちらを向いて笑っている写真。
「アーシュ…」
こちらへ来て三か月が過ぎようとしていた。僕はどうやらホームシックに罹ったらしい。
写真を見ている僕に父が近づき、手元の写真を覗き込む。
「ほお~、良くできた絵だね。まるで本物のようだ」
「写真っていうんだよ。実像を映し出す機械なんだ」
クナーアンは僕らが住んでいた世界ほどには文明は進んでいなかった。
だからカメラも写真も無かったんだ。
「みんな僕の友達なの。このふたりは特別な親友でね。…僕の大切な…愛する人なんだ」
「あれ?…この髪の黒い子。…この子どこかで見たような…。なあ、アニス。ちょっと見てくれないか?この少年、どこかの知り合いに居たかな?」
「ルシファーの居た世界に私たちの知り合いがいるはずないじゃありませんか。どれどれ、どの子ですか?」
「ほら、この子だよ」
父は僕とアーシュが写った写真を母に見せた。
「…この子…眼鏡をかけているけれど…アスタロトさまによく似ていらしゃるわ。こちらの絵は…」
母は驚きながらアーシュだけが写った写真を手に取った。その写真のアーシュは眼鏡を掛けてはいなかった。
「こ、これ、間違いないわ。この御姿はアスタロトさまよ」
「…アスタロトさまって…このクナーアンの神さまだよね」
「そうよ。イールさまとアスタロトさま、お二人の神々の恩恵を受けたクナーアンは、豊かな自然と暮らしを約束されている地なのよ」
両親はそれほど信仰深いとも思えなかったが、毎週末、近くの教会へ通っていた。
教会と言っても宗教的な色合いは少なく、土地の豊作を願い、謳い、そして近郊の人々との井戸端会議的なふれあいの場であるようだ。
僕は両親から何度となく、このクナーアンには「イールとアスタロト」のふたりの神が存在するということは聞いていた。アスタロトはアーシュを思いだすが、神話の語源としてはそう別段珍らしいものではない。
だからこの星のアスタロト神がアーシュと関係しているとは、想像もしなかった。
「この子は、僕の友人でアーシュという…人間だよ」
「でも、本当によく似ているわ。アスタロトさまの肖像画もたくさん見てきたけれど、私たちは神殿で本物のアスタロトさまを見たことがあるのよ。本当にこの絵のままなのよ、ねえ、あなた」
「うん、よく見れば…ああ、本当にアスタロトさまだ。髪が短いから若くみえるけれど…でもまさか、ルシファーの住んでいた異次元の地にアスタロトさまが居るはずもないだろうからねえ」
「…」
僕は不思議でならなかった。
確かにアーシュは「アスタロト・レヴィ・クレメント」の真の名を持ち、冗談交じりにでも、誰もが彼を「魔王アスタロト」と呼ぶ。
その名はサマシティだけでなく、世に知られた稀代の魔術師の名前でもある。
彼にふさわしいあだ名ではあるが、このクナーアンとアーシュに何か関係があるのだろうか。
俺は本物のアスタロトの神様をこの目で見たくなった。
幸いなことに神殿へは半日も歩けば行くことができる距離だ。
俺は両親に神殿に行ってみたいと言うと、殊の外喜んだ両親は、よそ行きの服まで用意し、すぐに拝殿するように勧めた。
「私とアニスは、おまえが居なくなった後、何度も神殿にお参りに行ったんだよ。おまえの無事を祈ってね」
「イールさまはわざわざ私たちに力を落とさぬようにと言葉をくださったのよ。その美しさと言ったら…あら?そういえばあの時は、アスタロトさまの御姿は見かけなかったわ。ねえ、あなた」
「そうだったかな~。私にはいつもイールさまとご一緒されているアスタロトさまの御姿しか記憶にないのだが…」
「近頃、アスタロトさまの御姿をあまり観ないって噂があるのよ。もともと好奇心旺盛で冒険好きの神様で、色んな星へも遠出されるって言うから、きっとまたどこかへ出歩いていらっしゃるのだろうって言うんだけど…」
「神さまが、出歩くの?」
「そうよ、ルシファー。イールさまは慈悲と智慧をお与えになり、アスタロトさまは豊穣と戦さの勝利を約束されるの。でもアスタロトさまは人間と同じように、私たちの土地へおいでになっては色々お話になったり、一緒に働いたり、遊ばれたり…とても人間らしい神様として語られているのよ」
「へえ~」
僕らの居た世界の神の概念とは大分違う神の存在。その神様に会えるかもしれないと、僕の胸は高鳴った。
神殿は歴史で習った古代遺跡のような大理石で作られた美しい建造物だった。
毎日決まった時間に神殿の扉は開けられ、参拝する人が押しかける。
ふたりの神様の住むこの神殿に参拝する人の並びは、途絶えることがないという。
僕が神殿に入った時も、多くの人々が長い時間をかけて祈りを捧げていた。
中央に陣取った十二の階段を登った拝殿に飾られた壮麗な二つの黄金の椅子が、イールとアスタロトの玉座だ。
その日、ふたりの神の姿は無かった。
ふたりの神を拝見する日は季節ごとに決められている。
僕は別棟の二人の神々の色々な絵姿が飾られている部屋へ向かった。
クナーアンの大勢の絵師たちが描いたイールとアスタロトの絵画を見て、僕は驚いた。
確かにアスタロトの絵姿は、アーシュそのものだったからだ。
イールとアスタロトの神話が、彼らの年代順に飾られていた。
勿論写真ではないから、大部分は絵師の想像画なのだろうが、ふたり仲よく遊ぶ子供の頃から、神々しく着飾った姿など、呆れるぐらいの膨大な数の絵画だった。そのどれもが描き手の神々への畏敬の念や温かさ、優しさ、喜びに溢れ、見ているとこちらまで満ち足りた気持ちに心が晴れ晴れとする。
しかし、僕が一番気になったのは、アスタロトの特に子供の頃の姿だった。
その姿はどうみても僕と一緒に育ったアーシュと同じ姿だった。
そして、その脇に子供の頃に彼らを見守っていた世話人たちの肖像画も飾られていた。そのひとつの彼らの家庭教師であったセラノの顔は、「天の王」学園の学園長トゥエ・イェタルに瓜二つだった。
また、イールとアスタロトに長年可愛がられていたという狼にも似た神獣の名は「セキレイ」と言った。
僕は次第に事の真相に迫っているのではないかという考えに、胸のざわめきをかき消すことはできなかった。
アーシュはこのクナーアンの神であるアスタロトと、何か密接な関係にあるのではないか。
彼が僕を「セキレイ」と呼ぶのも、この神獣と無関係ではないのではないか。
随分な時間、僕は少年時代のふたりの絵画の前に留まっていたのだろう。神殿の若い神官が僕に話しかけてきた。
その神官の名前はヨキと言った。
「若い方なのに随分熱心に見つめられているのですね。そんなにこの絵が気に入られましたか?」
「…はい、とても、気になります。すみませんが、このアスタロト…さまに会うことができますか?」
「拝謁の日は決まっているので、残念ながら今日は無理でしょう」
「…いつだったなら会えるのでしょうか?」
「拝謁の吉日は十日後になります。その時にまたおいでなさい」
「本当に?…アスタロト、さまは本当にいらっしゃるの?彼はもしかしてこの神殿には居ないのではないの?」
「そ、れは…そんなことはありませんよ。アスタロトさまは…いらっしゃいます」
僕は隙を見て、その神官、ヨキの手を掴み、揺らいだ瞳を凝視した。
魔力を使い、彼の思考を読んだのだ。
思考の透視はその人が明確に考えていることをキャッチし、それが発端となり、心の奥へ奥へと掘り下げていく。これは相手が単純であるほど読みやすかった。
単純というのは失礼かもしれない。
その人の心が純粋に美しいほど、透視もまた見通しやすいというわけだ。
僕は両親や近所の人たちと接しているうちに、このクナーアンの人々のほとんどが魔力を持たず、また純粋な精神の持ち主であることを知った。
こちらが心の中を読みたくなくても、両親が僕に触れる度に、彼らの僕に対する真の愛情を感じてしまう。この惑星の住民たちは極めて単純で純粋な人種なのかもしれない。
僕の見識はサマシティの学園内に限られているが、あの構内に単純な人間など皆無だった。
魔力のないイルトでさえ、自分の思考を読まれないだけの精神力があった。
アルトとなるともっと大変だ。
魔法能力というのはそれだけで人に思考を読まれる危険性があるから、常に何重にも思考を重ね、読まれないようにガードの魔力で覆っている。
それは僕たちに無意識に備わってしまったものでもあり、あの場所で生き抜くための、当たり前の防御だった。
僕は神官ヨキの思考を一瞬のうちに体現した。
やはりアスタロトは随分前からこの神殿から姿を消したまま、未だに戻っていない。そして、彼の記憶のアスタロトの姿は僕の知るアーシュと全く変わらなかった。
僕はヨキの手を放し、丁寧に謝った。そして、持っていた写真を見せた。
ヨキは写真を見て、驚愕し、言葉を失っていた。
「こ、れは…一体…どういうことなんだ…まさか…アスタロトさまなのか?そんなはずは…しかし、何故こんな御姿で…」
「僕はこのクナーアンではなく、アースという惑星に長い間住んでいました。これはその時一緒に過ごしていた大切な友人です。…どうかお願いします。イールさまに会わせて頂きませんか?僕も何故ここに僕の友人とそっくりな神がいるのかを知りたいのです」
ヨキは訝るように長い時間、僕を見つめた。
彼も随分と葛藤をしていたのだろう。
長い沈黙の後、ヨキは僕にしばらく待つように言い渡し、神殿の奥へ走り去った。
半刻後、僕はヨキに呼ばれ、長い廊下を歩き、イールとアスタロトの住む奥殿へ入った。
その一室に案内された僕は、とても心細くなっていた。深く考えもせずに、アーシュの写真をみせてしまったけれど、本当にこれが正しい選択なのだろうかと、ひどく後悔し始めていたのだ。
奥の扉が開き、クナーアンの二神のひとりであるイール神がゆっくりと姿を見せた。
僕は神の実像を初めてこの目にしたのだ。
イールは先ほど見た多くの絵画に比べようもないほどに、美しく輝ける存在であった。
細身の長身で、透き通るほどの白皙の見事に整った容貌であり、年の頃は17、8ぐらいだろうか。いや、そう見えたとしてもイールが一千年以上も生き続けている神であることは僕にも理解していた。が、なんという瑞々しさに溢れているのだろう。人間離れした優れた造形と精神の煌きは、この神の創り手と伝えられる「天の皇尊」の恩恵の賜物なのだろう。
歩く度に揺れる豊かな巻き毛の銀髪が、キラキラと窓からの光に輝いていた。
僕を見る瞳は澄み切った空の色であり、露がこぼれた薔薇の花弁のような口唇が、少しだけ僕に微笑んだ気がした。
肩から纏った金の織を施した薄く白いドーガを羽織り、イールは優雅な身のこなしでひとつ高い段に置かれた椅子に座った。
「名は、なんと言う?」
イールの声音は涼風のように僕の耳に心地良かった。
「ル…ルシファーと言います。でもアーシュは僕を『セキレイ』と呼んでいました」
僕の言葉にイールは少しだけ目を伏せ、「そうか…」と、呟いた。
イールは段の下に椅子を設け、僕に座るように命じた。
言われた通りに椅子に腰かけながら、僕は何から話していいのかわからなくなっていた。
アーシュが本当にアスタロトと関係があるのだろうか。そんなことをいきなり聞くのは失礼だろうか。
そもそもアーシュとアスタロトの間に本当に何か関係があるのだろうか…あの写真だけで決定されるものでもない。
「あの写真に写った者は、確かにアスタロトだよ」
「…え?」
イールは僕の思考を一瞬のうちに読んでいた。
神様だから特殊な能力は持っているだろうが、僕だって十分な能力者だ。そのガードをいとも簡単に破り、僕の問いに答えたイール神がとてつもなく恐ろしい存在に思えた。
それに写真…この世界に写真は無いはずだ。
「写真もそれを写すカメラも神殿の宝物庫にはある。アスタロトは次元をさまよい、様々な星を訪れては気に入った珍しいものを持ち帰るのだよ。カメラもそのひとつだ。私は良く被写体にされたものだ」
「そう…ですか…」
完全に白旗を上げるしかない。
この御方は神であり、僕などが対等に話をできる御方ではないのだ。
「イールさま、教えてください。なぜ、アスタロト…さまは僕の知るアーシュなのでしょうか?」
「…何故、君と育った者がアスタロトなのか。すべてはあの男しか知る由もないな。だが…もし君が良ければ…アーシュと共に過ごした日々の話を聞かせてくれないだろうか、ルシファー。私もまた事の真相を知りたいひとりだ」
イールの想いを読み取ることなど、僕にはできなかった。
けれど、イールのアスタロトへの愛と、ここに居ない彼を想う寂しさと悲しみはわかる気がしていた。