天使の楽園、悪魔の詩 5
5、
学長との話が終わった俺は、ルゥとアーシュが待っている部屋へ戻ろうと立ち上がった。
部屋を出る際、学長はアーシュ達の分のキャンディーを忘れなかった。
キャンディーを受け取りながら、俺はもうひとつだけ学長に問いかけた。
「先生、『官能』の力とはどういうものなんでしょうか?エドワードはセックスを知ることが力を得ることになると言ったんです」
「そうですか…」
学長は明らかに困った顔で俺を見つめた。
「君がその意味を知るのはまだ早いと思います。…ベルにとっては間抜けな言葉でしょうが、子供は子供らしく生きなさい。どうせ近い将来そのことを知る日が来ます。その時を待つ子供の時間は無駄じゃない。それだけです」
「…わかりました」
はぐらかされた…
「官能」について、これ以上学長から聞き出すのはどうやら無理らしい。
子供は子供らしくか…一刻も早く大人になりたい俺にはホントに間抜けな気休めだ。
仕方ない。別な手段を考えよう。
俺の思惑を学長に悟られぬよう、気にもしていないフリをしてお礼を言い、俺は学長室へ戻った。
ドアを開けた途端、ソファに座っていたふたりが飛び跳ねるように立ち上がって、俺に走り寄る。
「ベルっ!どうだった?」
「トゥエはちゃんと叔父さんに話してくれるって?」
「もう、ベルに酷い事したりしないって約束できるの?」
俺の腕を取り、ルゥとアーシュは必死に俺の様子を伺う。
…本気で心配をしてくれていたんた。
今にも号泣しそうな顔で俺を見つめるふたりを見て、こっちの方が泣きそうだ。
「アーシュ、ルゥ…大丈夫、大丈夫なんだよ」
「本当に?」
「もう叔父さんのところに帰らなくてもいいって?」
真っ直ぐに俺の心に飛び込んでくるふたりの純粋無垢な精神の力。
凄まじい濁流が俺の心の染みをすべて洗い流していく。
後に残るのは眩い清いせせらぎだ。
…なんと言う感情をくれるんだろう。軽蔑や同情でもない、ただひたすらに俺を憂うだけの想う心。
俺は…その想いにどうやって応えればいい。
「…うん、もうね、なにがあったって僕は傷つかないんだ」
俺は零れる涙を拭いて、明るく笑った。
「…ホント?」
「うん、ホントだよ。全部ルゥとアーシュのおかげだ。ありがとう」
ありったけの心を込めてそう伝えた。
その言葉を聞いたふたりは俺に飛びつき、そして泣き出した。
「良かった、良かった」と、叫びながらふたりは泣いた。
その涙が、その感情こそが、俺を支える「力」になり得るのではないか…
ふたりを失いたくない。
ふたりの信頼に値する人間になりたい。
ふたりを守るためなら、どんなことだって…
今日から俺はもう泣くだけの子供ではいまい。
それから俺は休日になっても家には帰らなくなった。
この守られた空間で自分を鍛えることが必要だと思ったからだ。
学長が言うように、まだ子供の俺はあいつらを打ち負かす(または言い負かす)術はない。力と知識を得る時間が必要だった。
暇があれば図書館へ通った。
図書館は「天の王」学園の中心である聖堂と隣接している。
西の中等科からでも北の高等科からでも同じ距離で通える。
冊数はこの街最大だと言われ、公にできない秘蔵書も多いと聞く。
簡単には貸し出しは出来ないけれど、この図書館に来れば、年長の生徒からも「力」の秘密を聞けると思ったんだ。
だが、そんな簡単には事は運ばない。
俺はまだ初等科だったし、話を聞こうと思っても「せめてその小さなタイがリボンにならなきゃ、理解できないさ」と、軽くあしらわれる。
性体験だったらおまえらに負けないぞ、と息巻いても、彼らはせせら笑うだけだ。
仕方がないから、自分のテリトリーに帰る。
俺の周りに変化はない。
皆あどけなく純粋に子供時代を楽しんでいる。
少しばかりの残虐性はあっても無垢ゆえだと許される時代だった。
「ベル、冒険に行くよ」
アーシュとルゥが俺を呼ぶ。
「うん、わかった」
彼らの傍にいる時は、俺も無垢な子供でいられる気がする。
翌年、初等科の最終学年を迎える夏。俺はスタンリー家の屋敷にひとり旅立った。
広間で待っていたエドワードは、疑心暗鬼の顔で俺を見た。
「まさか、君から来てくれるなんて思わなかったよ、クリストファー」
「だって、あなたが迎えを寄越さないから、ひとりで来るしかなかったんだ」
「嬉々として来てくれるとは思っていないからね」
エドワードはクッションの深いソファに身を投げ出すように座り込んだ。
俺は彼をよく見る為に、彼の座った正面に近づいて立った。
去年に比べてエドワードは随分歳を取ったように見えた。まだ28のはずなのに、四十過ぎの人生を見極めた疲れきった親父殿…だが嗜虐に満ちた引き攣った笑いも、今は口元には浮かんでいなかった。
俺は哀れに思った。
おかしい話だが、どう考えても俺はこの人を嫌いにはなれない。
それにどちみち俺がこのスタンリー家を継がなきゃならないのなら、この叔父の力が必要となるはずだ。
「ねえ、エドワード」
「…何だ?」
「僕ね…学長に『真の名』を貰ったんだ」
「え?」
エドワードの青い瞳に光が戻る。俺はそれを見逃さない。
エドワードは何回も瞬かせ、俺を凝視した。
俺と良く似た面差し、目の色、髪、背格好だって、僕が大人になればエドワードと同じくらいにはなるだろう。ねえ、やっぱり俺達は分かち合うべき関係なんだろう?
「エドワードは…『ユーリ』って呼ばれていたんだね。僕ね、色んなことを、学長から沢山聞いたんだ」
「生徒の詳細を漏らすなんて情報漏えいだ。それともモウロクしたのかな、トゥエ学長も」
「僕は聞いて良かったと思っている。だって、エドワードの事をすごく好きになれたのだもの」
「…簡単に騙されるなよ。学校は自分らの好みにコントロールするところだ。それでいて何の責任も負わない。まさに理想だけを押し付ける」
「理想がなければ、人は前を向いて歩けないよ。僕にとって理想は学校で学び、あなたの理想を僕に導いて欲しいと思っているんだけどな」
「簡単に良く言う。…俺が…失敗したことを嗤っているのか?クリストファー」
「笑わないよ。だって、あなたは充分苦しんだ。今だってそう…だけど僕がいる。ひとりじゃないって思えれば苦しみも分けられるでしょ?僕の親友はそう言ってくれた。だから…僕は前を向いて歩けるんだ」
「…」
「エドワード、僕があなたに与えるものは信頼と愛だ」
「信じられない。俺はおまえに…」
エドワードは口ごもり、そして頭を抱えた。
その時、気がついたんだ。彼は俺を弄んだことを、ずっと後悔していたのだと。
俺はなんだか可笑しくなった。
彼は貴族のやり方を俺に教えただけであり、それは彼らの中では当たり前であったのだから、普通の貴族であるなら、気にも留めることもない。
真面目で純粋なエドワード。トゥエの話す「ユーリ」の頃と少しも変わっていない。
「エドワード、あなたを愛している。信じて。僕は何ひとつ傷ついていない。だからふたりで描いた理想を実現しようよ。その方が自堕落の生活よりも、極めて刺激的な『力』を発揮できるとは思わない?」
「クリス…おまえ、革命家にでもなるのか?」
「僕の真の名は『ベルゼビュート・フランソワ・インファンテ』って言うんだ。…ね、負ける気がしないでしょ?ユーリ」
「…素晴らしいね」
エドワードは両手を広げて俺を抱き寄せた。
俺達は誓いのキスをした。決して失望させないとお互いに誓った。
俺の顔を撫でながら、本当に良く似てると優しく笑う。
「母に似ていた方が良かった?」と、言うと黙ったまま微笑んでいる。
「ひとつ聞いていいかい?」
「何?」
「なぜ、私を許す気になったんだ?」
「僕が生まれたことを、あなたが喜んでくれたから…それだけで充分だった」
「喜ぶのは当たり前だったよ。ナタリーの血が流れている赤子を、私は愛さずにはいられなかった…」
その夜、寝室に誘ったのは俺の方だった。
一年前と違って、エドワードは俺の身体のひとつひとつを丁寧に愛してくれた。
「少年の成長とはとてつもないね」と、笑う。
「心?それとも身体?」
「いや、追求する欲と技だ」
やわらかな微笑みをたたえながら俺の胸を愛撫するエドワードに、もう暗い退廃した影は見えない。
エドワードとの「官能」を楽しみながら、俺はひとつの戦いに勝ったのだと思った。