Phantom Pain 3
3.
トゥエ・イェタルはアーシュを聖堂の中へ招き入れた。
「俺がここにくることをトゥエは知っていたの?」
「キリハラから連絡をもらいました」
「キリハラ先生?」
「そうだよ。ベルの叔父上からキリハラ先生に電話があったんだ。それで君がアルネマール伯爵の亡霊に出会い、レヴィ・アスタロトの話を聞いたらしいから、後は頼む…と、キリハラが受け、私に連絡が来たのだよ」
キリハラカヲルは、「天の王」学園の司書教諭だ。
エドワード共々この学園の卒業生で、学生時代はふたりは愛人関係にあったと本人たちの口から聞いていた。
今も続けているかどうかは、アーシュは知らない。が、この様子では、何もないとは到底言えまい。
それをトゥエに伝えるキリハラも、大概様々な関係を持っていることは疑う余地もないことだった。
「俺の周りの大人たちは揃いも揃って心配性だ」
「心配される身を喜びとするべきだよ、アーシュ」
「…はい。そうですね。…そうだと思います」
「私としては電話と言う文明に感謝しているんだよ。前もって心積もりができるだろう?君のことだから、帰ってきたら真っ先に私を責めたてるだろうと思ったからね」
「別に…学長を責めたいわけじゃない」
「わかっているよ」
トゥエ・イェタルは穏やかな笑みをアーシュに向けた。
アーシュは少々不愉快になりつつ、聖堂の中央に向かって歩いていく。
自分の行動が周りの大人たちに全て読まれていたことや、未だに自分を子供扱いされることが、アーシュの癇に障るのだ。
(俺だってもうすぐ18になるのにさ)
「ここだよ。アーシュ。君に最初に出会ったのは…この場所だった…」
ふたりは直径三メートルほどの中央の黄玉の円の外側に立った。
「…18年前の冬、私は、この場所で君を…魔王アスタロトを召喚したのだ…」
トゥエは自身の正しい記憶をひとつひとつ確かめるように、魔王アスタロトとの間にあった全てをゆっくりとアーシュに話し聞かせた。
何のために召喚したのか。
若かった自分の夢をアスタロトに諭されたこと。
アスタロトはこのソーラレイとは違った次元の星の統治者であること。
自分がアスタロトの友人に似ていることで、信頼を得たこと。
アスタロトが長年人間になりたがっていたこと。
自らに魔法を掛け、赤子に生まれ変わらせてしまったこと…
「君がオラフィスの古城で伯爵から聞いたレヴィ・アスタロトと、私が召喚した魔王アスタロトは、その外見からも聞き及んだ話の内容からも同じ者だったと証明できよう。そしてアスタロトは…アーシュ、君自身なのだよ」
「…そう…なんだ。…いや、真の名をもらった時から『アスタロト』の名は馴染んでいたから、俺が本物のアスタロトって言われたら、そうかも…って…納得するけれど…さ…」
気づかないうちに涙が頬を伝っていくことにアーシュは驚き、眼鏡を外して手の甲で拭いた。
悲しいわけでも嬉しいわけでも、恐ろしいわけでも無かった。
それは感傷の涙だった。
アスタロトの願い、トゥエの願い、そしてふたりの想いがアーシュの魂に流れ落ちたのだ。
「トゥエは嘘つきだよね。俺を学園の門で拾ったとか、雪の女王が連れてきたとか、魔法使いに頼まれたとか、いつも適当なことばっか言ってさ。俺が金髪で魔法で誤魔化したとか…初めから黒髪じゃないか…嘘つき…」
涙するアーシュの肩を、トゥエ・イェタルは優しく抱き寄せた。
「悪かったよ、アーシュ。君に本当のことを言わなきゃならないといつも自身に言い聞かせるんだが…いざとなると私は弱虫なんだ。…君を失うのが怖かった」
「怖い?」
「学園に捨てられた孤児は少なくないし、どの子も我が子と思って育てているつもりだよ。でも君は私にとって特別な子供になってしまった。…アムネマール伯の気持ちがわかるよ。君が愛おしい。そして、君を守りたい。その輝きをいつまでも見つめていたい。私にとっても君は光だった…」
「…だったなんて言うなよ、親父殿。俺はいつまでもあんたの子供だよ。…どこにいたって。トゥエが育ててくれたんだ。トゥエが俺を見守ってくれていたから、俺は…普通の人間でいられた。そうだろ?」
「私だけではないけれどね」
「うん、学園のみんなに感謝しているよ。それもトゥエが俺を拾ってくれたおかげだ。俺は忘れたりしないよ」
「そうだね」
「でも…」
「なんだい?」
「どうしてアスタロトは、自分の記憶を捨てたりしたんだろう。それまで生きてきた記憶は俺には全く受け継がれていないなんて…それとも封印されていて、年齢が来ればそれが解けたりするシステムなんだろうか」
「生まれたばかりの赤子は真っ白で生まれるものだから、記憶がないのは当然だとしても…私は君が記憶を取り戻し、強大な魔力をもった魔王になってしまう日を怖れたよ…」
「恐怖の大王だね」
「まあね」
ふたりは顔を合わせて笑いあった。
「だからかあ~。眼鏡に抑制魔力を掛けていたんだね」
「幼い君の魔力がどこへ向けられるかわからなかったから、仕方なくそうして力を抑えることにした。でもそれも無駄だと知ったよ。君がルゥを連れてきた時にね」
「ルゥ…セキレイはやっぱり俺の所為なんだ…幼かったにしろ、俺の勝手で彼を親元から離してしまったのなら俺の罪は重いね」
「何故?ルゥは君を責めたりしたかね?君と一緒に暮らして不幸だと嘆いたかね?…もちろん突然息子を失った親の嘆きには同情するよ。しかし事実、ルゥはここで幸せに暮らしていた。君と言う恋人を得て…。君がやったことを責める権利を持つ者はルゥだけだよ。君が自分に罪があるか否かはルゥに聞くべきことだ」
「…わかりました」
「私はルシファー・レーゼ・シメオンは必ず君の元へ帰ってくると予感している。安心しなさい、アーシュ」
「うん…でも…もう俺は、ここでセキレイを待って過ごすわけにはいかなくなったんだ」
「…」
「俺が失った記憶…色んな大切なものまですべて忘れてしまっているってことでしょ?俺はどこかの星の統治者だったと伯爵もトゥエも言う。じゃあ、俺の居ないその星は今、どうなっているの?…俺が残した大切なものは…もし、今でも俺を待っているのなら、必要としているのなら…俺が今しなきゃならないことは、その星へ行くことなんじゃないのか?…本当に記憶を失うことをわかっていて魔王アスタロトは俺に生まれ変わったのだろうか。関わった全てを捨ててしまいたいと望んだとは考え難い。だって、俺ならそんなことは絶対にしない」
「そうだろうね。今のアーシュなら大切なものを残したまま記憶を捨てるようなことはしないだろう。だが魔王アスタロトは長い年月を生きてきた。私たち人間に考えも及ばない程に長い時間を…それは楽しいばかりではなかったはずだ…。私たちは人生を有意義に過ごそうと思いつつ、限られた時間を生きていく。だがアスタロトには限られた時間はなかった。無限に生きていく…それは絶望にも似てしまうのではないか…と、私は考えたりもするのだよ。…魔王アスタロトが自分の生きた過去を白紙に戻してしまいたいと願ったとしても、罪だとは…私には思えない」
「…」
トゥエ・イェタルの魔王アスタロトの選択の肯定は、アーシュには理解しがたい感情であった。
だが、そもそもたった17年間しか生きていない若者に、不死者の嘆きなど判るはずもない。
「トゥエ。俺は…己の道を選択してもいい?それが間違いだったとしても…」
「ああ、…ああ、勿論だよ、アーシュ。君の望む道を行きなさい。間違いだと思ったら、引き返せば良いのだよ。私はこの『天の王』に居る。それを忘れずに、いて欲しい。私が君に望むことは…それだけだよ」
「ありがとうございます。…お父さん」
「君の父親代わりで居られる役目を与えてくれた魔王アスタロトに、私はこれまで何度感謝したことだろう…お礼を言うのは私の方だ。ありがとう、アーシュ…感謝いたします。アスタロトさま…」
陽が落ちた聖堂の中は暗く、黄玉の円が、 アーシュを待ちわびているかのように仄かに光を発していた。
アーシュは取りも敢えず魔方陣を描き、そのままアスタロトの故郷へ向かおうとした。
トゥエは焦るアーシュを宥めた。行先もわからぬ魔方陣の応用には、アーシュの魔力を持ってしても十分な注意が必要だった。
周到な用意を施して行うべきだと諭し、明日の日没後に時間を決め、この場所でアーシュを送り出すことを約束し、アーシュを学生寮へ帰らようと説得する。
「アーシュ、もし本当にここを旅立つ決断をするのなら、君の大切な友人たちとの別れを済ませなさい。必ず戻ってくるとは思うけれど、一週間や十日で戻れる保証はないのだからね」
「…はい、わかりました」
トゥエの真剣な眼差しに、アーシュは自分が考えるよりも随分大変なことが待ち構えているのだろうなあと、漠然と受け止めた。
そして改めて、友人たちのことを思い、取り分けて、ベルを思うと心苦しくなった。
(それでも、俺は行かなきゃならないんだ)
「そうだね、しばらくの間、学長の命で実技補習にでも行くって、皆には伝えておくよ。明日一日ゆっくり皆とお別れすることにする」
「それがいい」
「あ、そうだった。ベルと一緒に夕食を摂るって約束してたんだ。やべ~、一時間も過ぎてる。ベルのことだから、きっと俺を待ってるだろうな。急いで帰らなきゃ。じゃあ、学長、明日ね」
「ああ、今晩はゆっくりおやすみ、アーシュ」
アーシュの背中を見送りながら、トゥエは呟いた。
「どの選択をしようが、あの子の歩く道は平坦ではない。が、奇妙なことに、私にはどんな暗い道もあの子の灯火が先を見通してくれる気がするのだ。それが、『魔王アスタロト』という者の資質なのだろうか…」
思ったとおり、ベルは誰もいない学食でアーシュを待ち続けていた。
「ゴメン、ベル。待たせたね」
「いや、きっと時間がかかると思っていたんだ…。学長と話をしたのだろう?」
「うん。すべてを聞かせてもらったよ」
話しながらアーシュは悟った。この親友は自分の出生の秘密について、以前から知っていたのだろうと。それを責めるつもりなどアーシュには毛頭無い。
それよりも自分が魔王アスタロトの生まれ変わりだと知っても、何も変わらない友情と愛とくれたことが何よりも嬉しかった。
「それで…どうするんだ?」
「明日、出立する」
「明日?早いな」
「…うん、とにかく動かなきゃ始まらないし、一刻も早くアスタロトの居た場所に行ってみたいんだ」
アーシュはアスタロトの恋人の存在をベルにもエドワードにもトゥエにも話さなかった。
「イール」…心に呟くだけで胸が痛い。もしこの痛みがアスタロトの痛みであるのなら、できるだけ急がなければならないと、アーシュは感じていた。
「じゃあ、俺も一緒に行くよ」
「え?」
「いつだってアーシュの傍を離れないって誓っただろ?まったくもってドキワクの冒険じゃないか。魔法使い冥利に尽きる」
「ちょっと待てよ。今回は遊びじゃないし、目的の場所がどこにあるのかもわからんのだよ。ベルを連れて行くわけにはいかない」
「何故?」
「何故って…君はアルトと言ってもつまるところ普通の人間だし、何よりも将来がある。エドワードも親父もいるし、継がなきゃならない爵位も会社もあるじゃないか。それだけでも相当な重荷なのにさ、俺まで君の荷物になる気はない」
「じゃあ、すべての未来を捨てても、君を選ぶよ。これが俺の本心だ」
「…」
ベルの本心をありがたいと思うが、到底受け入れられるものでもなかった。
アーシュは切り札を出すことにした。
「悪いけれど…俺はひとりで行くよ。俺の魔力に及ぶ者などここには居ないし、俺は自分のことだけを考えればいいんだからね」
「…俺が邪魔ってこと?」
「本音を言えば、そういう事だ」
こうでも言わなければ、ベルは承知しないだろう。
ベルがアーシュを思うように、アーシュもまたベルには自分の輝く未来に向かって歩いて欲しいと望んでいた。
恋人よりも、未来を称賛しあえる親友はより得難いものではないだろうか。
どんなに離れていてもアーシュにとってベルは心の支えとなるはずだ。
しばらくの沈黙の後、ベルは、「わかったよ」と、残念そうに返事をした。
「俺はね、ベル。アスタロトみたいに大事なことを忘れたりしないよ。君と愛しあったことは俺の大事な宝物だ。宝物というものは大体において、いつまでも輝き続けるものだろ?それ自体がどんなに古臭く、輝きを失ったとしても、持ち主にとって、それの本質は変わらない。君は俺の宝物だよ。忘れるな」
「アーシュ」
「今夜は君の部屋へ伺っても宜しいか?沢山の結晶を俺の心に埋めてくれ」
「君の欲しいままに、俺は与えるだけだよ。アーシュ、愛しい人…君が俺との別れを後悔するほどに、君を愛してやるからな」
「すでに後悔はしているよ、ベル。俺の行く道は相当に険しい。だから今晩ぐらいは何も考えずに快楽に浸りたい。奥の奥まで感じさせてくれ」
ふたりは一晩中、お互いの身体と魂を貪り尽くすことに没頭した。
アーシュはルゥやイールや、自分が魔王アスタロトであったこともすべて心の隅に追いやり、この最も信頼を寄せる親友にすべてを与えようと心掛けた
ベルの力強いセックスを身体の隅々まで味わいながら、アーシュはアーシュ自身が、自由でいられる時間はもしかしたら残り少ないのかもしれないと、感じていた。